第32話 喜劇
宗教は神聖だ。
痩せ細った者たちが一斉に目を閉じ、同じ偶像へ祈りを捧ぐ。
あの特別哀れな光景を想うと、迷える子羊などとはよく言ったもので、虚ろな目で群れる彼らは、まるで犬に追われる家畜の様である。
最近になって私が移り住んできたリープ村の協会は、貧相だが歴史のある建造物。
今は礼拝の時間を除き、稀に人が訪れるだけの暇な場所だが、戦時中は、普段無宗教な戦士すらも、先人によって輝かしく脚色された聖書に縋り、涙ながらに助けを乞う姿がよく目撃されたという。
結果、アシュガルド軍は戦況を盛り返し、痛み分けで戦争を終える事ができたため、当時祈っていた者は、神を有り難がって疑わない。
そんな敬虔な信者たちは、このボロボロの建物を、神と一番近い場所だとして大事にしている。
確かに、ご自慢の壁や家具は、蓄えた細かな傷を年輪代わりにしていたが、それは単に古さの証明。
決して神の存在を保証するものではない。
歴史がそんなに大切ならば、そのあたりの墓を掘り起こして、白骨でも崇めていれば良いのではないだろうか。
数ある中から当たりを引けば、汚れた椅子よりも様々な経験を積み重ねている上に、余程古臭いはずだ。
「こんにちは、シスター!」
「…ロビン、また来て下さったのですね」
関連した何もかもにケチを付けて暇を潰しているところに、干乾びかけた建物とは対照的な、瑞々しい命が。
ひょこっと顔を覗かせているのは、きめ細かい純白の肌をした、金髪の青年。
彼はここ最近、頻繁に教会に足を運んでおり、会う度に可愛く挨拶をしてくれる。
ただこのような年頃になれば、かっこいいと言われた方が嬉しいのだろうから、私から敢えてそれを伝える事はしない。
「うん、最近は家に居ても落ち着かなくて…」
「そうですか…。大丈夫、神と私はいつでも貴方を受け入れますよ」
表情を曇らせたロビンに対し、両手を広げて歓迎の意を示すと、他人からの好意に慣れない彼は照れて俯く。
その機を見逃さなかった私は、すかさずロビンの側へと歩み寄り、彼の両手をシルクの手袋の奥に握った。
「でも、どうして貴方はそんなに寂しそうな目をしているのですか?」
白状すれば、赤の他人の表情の細かな差異など分からないが、本当に違いがあるかどうかが重要な訳では無い。
幼く脆いロビンの心が、今どういう状況にあるはずなのか。
その予測に自信を持つ事が大事なのだ。
自信さえあれば、自らのすべき行動が明確になり、足踏みする無駄な時間が減る。
間違ったら取り返しが付かない選択以外は、数を撃った方が良いというのが、持論だ。
そんな効率的な考え方を神が評価したのか、当てずっぽうは見事に的中。
完璧に見抜かれたと勘違いしたロビンは、ぽろぽろと心中を吐露し始めた。
「また今日も村で陰口を言われたんだ。誰もが僕の事を余所者だ、化け物だなんて言って、距離を取る。僕はみんなと仲良くしたいのに…」
「それは辛かったですね…。でも、貴方にはオーランドさんがいるでしょう?彼なら救いの手を差し伸べてくれるはずです」
何も知らないふりをした私は、ロビンの心の中でゆらゆらと不安定に揺れている炎に、薪をくべた。
すると、すぐに握った両手が震え出す。
悲しみや孤独といった感情が、膨張していく。
彼は今にも泣き出してしまいそうだったが、どうにか心のダムが決壊しないよう、ギリギリの所で堪えていた。
「僕が何をされても、オーランドは何も言い返してくれないんだ。…本当は、僕と居ることが恥ずかしいのかも知れない。オーランドにまで嫌われてたら、僕は…!」
「貴方が壊れてしまう前に…全て壊してしまえば良いのです」
「僕が…壊す?」
囁かれた甘美な誘いに目を見開いたロビンは、もう此方側まで到達する寸前。
同類の匂いが蔓延し、清らかな空間が闇に包まれる。
さあ、最後の一手を打ち、彼を深い闇へと引き摺り下ろそうとしたその瞬間。
ゴーンという大きな低い音が、邪魔をした。
タイミングを見計らったかのように、教会の古びた鐘が鳴ったのだ。
それはとても神々しく、耳障りな音だった。
「も、もうこんな時間か!買い物をして帰らないと。…今日は変な事を言ってごめんなさい。疲れてるせいか、ちょっと考え過ぎちゃったみたいだ」
神の音の煩さに目を覚ましてしまったロビンは、隠し切れない焦りをそのままに、出入り口の方へと駆け出した。
だが、扉の前で足はストップ。
此方へ振り返った彼の頬は、桃色に染まっていた。
「もし良かったら…シスターさんの名前を教えてくれませんか?」
恥じらう好青年に名を聞かれるという、ロマンチックなシチュエーションだったが、今はそれどころではない。
ときめきなどには目もくれず、激しく苛立ち暴れ出しそうになっている、私のもう一つの人格。
彼女を胸の奥になんとか押し止め、出来る限り淑やかな笑みを作るのに、必死だった。
「アイディーとお呼びください。神の導きがあるように、お祈りしておきますね…ロビン」
「…またね、アイディーさん!」
目的を果たしたロビンは笑顔をパッと咲かせると、教会を飛び出していった。
これでようやく、彼女を外に出してやることができる。
「チッ…寒い事するもんだな、神様ってのは」
「そんな事を言ってはいけませんよ。神は貴方の事も見ています」
ひらひらと鬱陶しいヴェールを脱ぎ捨て悪態を吐いた俺を、もう一人の自分が咎める。
だがしかし、薄い布の奥で、ド派手なピアスと共に閉じ込められていた俺の顔は、快感に蕩けていた。
他人に何を言われようと、反省している暇などない。
今は娑婆の空気と、純朴な青年が漂わせた瘴気を、肺一杯に吸い込む作業に忙しいから。
「あ、そう。…だったら神様、そこで黙って見ていて下さい!食べ頃になったあのガキを、すぐに堕として御覧に入れます!」
下品に卑しく高笑いした俺を私が呆れて見ていたが、知った事か。
俺らしく此処に在り、賢者様の役に立てるのであれば、何の憂もなかった。
◇
「あれ…ロビンは何処に行ったんですか?」
「最近たまに消えちまうんだよ。まあ、家畜の世話はちゃんと終わらせていくし、どうせ晩飯には戻ってくるから問題ないさ。ガールフレンドでもできたのかもな」
「ロビンに限ってあるかなあ、そんな事」
玄関にロビンの靴が無く畜舎にも居なかったため不思議に思った俺は、ベランダでタバコを吸っていたオーランドさんに尋ねたが、行方は知れず。
心配に思った俺は探しに行こうか迷ったが、子供の気まぐれだと笑い飛ばした彼は、すぐに話を切り替えてしまう。
「そうだ、丁度良かった。お前に話があるんだ。…少しいいか?」
呼び止められた俺は、広いベランダに置かれた椅子へ。
甘味処を何軒も回ったため、天井から解放された空はすっかり茜色に染まっていた。
雲が緩やかに動いていく中、オーランドさんが言い出すのを黙って待っていたが、向かいに座った彼は、挙動不審に体勢を変えるだけ。
終いには咥えていた煙草も吸い終えてしまい、二本目の煙草を取り出そうとした彼は、空箱をひっくり返した。
「クソ、そういや今日は買い出しの予定だったな」
「…少し、くらいはもう経ったんじゃないですか?」
「あ、笑いやがったな!」
緊張した様子が余りにも可笑しくて、俺は堪え切れずに噴き出してしまった。
オーランドさんは心外だというポーズを取ってはいるものの、俺を初めて笑わせた事への喜びが半分以上。
こんなにも優しい父親と暮らせる人間が、世の中にどれだけいるだろうか。
そこに血の繋がりが無かろうと、ロビンは幸せ者だ。
やっと意を決したオーランドさんは、煙草臭い息を吐き、真剣な眼差しに。
傷を負い、もう開くことのなくなった左目も、此方を見据えていた。
「ユータ、この村で一緒に暮らさないか。俺はお前を、息子として迎え入れたい」
「…は!?いきなり過ぎて話が…」
「俺は、ロビンの育て方を間違えた。俺があの時…」
苦い表情をしたオーランドさんの話は、すぐに遮られる。
パリンという、何かが割れる音によって。
俺がリビングを確認すると、落下した花瓶が無残な姿になっていた。
惨状の中心で新品の煙草が一箱、零れた水を吸い、黒くなってしまっているのが勿体ない。
「…何なんだ、一体?」
部屋が物色されているような形跡も無く、だからといって自然現象とは考えにくい状況に、首を傾げる。
後ろからついてきたオーランドさんも、一人寂しく溺れていた手付かずの煙草を、ただぼんやりと眺めるだけだった。
◇
絡み付く雪の重さがまどろこしく、靴を脱ぎ捨て素足になる。
普段は大好きな藁と獣臭の混ざり合った匂いでさえ、今は不快で不快で仕様がなかった。
『ユータ、この村で一緒に暮らさないか。俺はお前を、息子として迎え入れたい』
『俺は、ロビンの育て方を間違えた』
形振り構わず走る僕の頭の中で、盗み聞いた言葉が何度もループする。
オーランドが、遂に僕を拒絶した。
ユータと僕を比べて、彼はユータの方を取ったのだ。
「どうして僕を選んでくれないの、オーランド」
口を突いた独り言は、虚しく夕焼けに溶けていく。
乱暴な走りに足が縺れ、転びかけた身体。
そのまま雪の布団へとダイブしたかったのに、神経中枢から直接流れた情報を元に、優秀な義足が正確に支えてしまった。
やはり僕は、オーランドに人生を補助されながら、今を生きていた。
「クソッ…クソッ、クソッ!」
鉄の義足を、右の手で何度も殴る。
拳面は擦り切れて出血し、夕日に照らされた無傷の義足が、血液を浴びて更に赤く汚れていく。
ストレス解消と、自傷行為の並行だ。
世界から孤立し、魔獣の餌になろうとしていた僕を、拾ってくれた恩人との関係を失い、頼れるものはもう、一つのみ。
「…ホープ!」
相棒の名前を声に出し、ハートに鞭を打つ。
今すぐにあのざらざらとした肌を撫で、これまでに捧げた分の愛を返してもらわなければ、どうにかなってしまいそうだ。
打算的な考えで動物に触れようとしている自らの醜さなど、狭まった僕の視界には映りようがなかった。
栓が壊れた喉から漏れ出す絶望を、垂れ流しながら走り、走り、走る。
僅差ではあるが、濁音が声を枯らすより、畜舎に飛び込む方が先。
しかし、安息の地であるはずの畜舎の中は、違和感に食い散らかされていた。
何故か全ての馬房が開け放たれ、蛻の殻になっていたのである。
雪がこれだけ積もっているというのに、オーランドが放牧するとは考え辛く、嫌な予感がしてならなかったが、それ以上推理を巡らせる余裕も無い。
すぐに馬の足跡が続く放牧地の方へと方向転換し、錠の開いた柵の間を駆け抜けた。
気が急いた僕が加速すれば、急激な負荷に熱を発した義足が、足跡を湿らせる。
爪先が小石を踏めば、乾いた金属音がカンと鳴る。
一歩前に踏み出す毎に、僕という存在が別の何かへと変貌していく。
摩擦によって散った火花が足跡の上を踊ると、いよいよ様相は人間味を失い、非現実的な気配を帯びていた。
「モオオオ!」
放牧地の外に出た所で、野太い叫びが。
これまでに聞いたことも無いようなホープの鳴き声に驚いた僕は、踵を全体重で踏み込んで、ブレーキを掛ける。
目を向ければ、ぎっちりと密集した馬の群れ。
嘶きながら前足を高く持ち上げる、威嚇の動作を繰り返しており、温厚な彼ららしくない。
「皆、どうしちゃったんだよ…?」
僕は、馬群の側へ慎重に歩み寄る。
気が付いた馬の群れは急に大人しくなってくれたが、荒ぶっていた動物が突然ぴくりとも動かなくなる光景は、逆に気味が悪かった。
雰囲気に躊躇いつつも馬体の間を通っていくと、集団の中心に円形の空間。
そこに何かがあると悟った僕は、邪魔な馬を強引に押し退け、そして息を吞んだ。
黒く濡れた冷たい足元に、血塗れのホープがぐったりとしていた。
これはきっと、悪い夢に違いない。
現実を受け入れられずに立ち尽くし、ただそこにある悲惨を凝視する事しかできなかった僕は、木に積もった雪が落下する音で、やっと我に返った。
「ああ…ホープ、しっかりして!」
慌てて駆け寄った。
ホープの小さな耳の側で騒ぎ立て、その体を揺すった。
だが、先の叫びは断末魔だったのだろう、どれだけ声を掛けようと、何の反応もない。
死骸には馬の蹄の痕がびっしりと刻まれている。
僕が来るまでの間に、どれだけ過酷な仕打ちを受けていたのか、想像するだけで、刃で刺したような頭痛に見舞われた。
「結局、特異な存在は受け入れられないのです。一見優しい世界に見えたとしても、陰では弱者の命が散り続けている」
澄んだ声に、肩を叩かれる。
バッと振り返ると、そこには祈るように両手を重ねたアイディー。
教会からの距離は決して短くない上、柵を越えなければ此処には来られないのに、どうして彼女が。
いや、そんな事はどうでも良い。
救いを求めて叫んだホープに、何もしてやれなかった無力さに打ちひしがれ、今や僕の脳は何もかもが嫌になってしまっていた。
亡骸に再び触れても、やはりそこに命の感触は無く、あるのは事実だけだと分かっているのに、ただ声を掛け続けた。
「可哀想に…痛かったよね。辛かったよね」
「今はそれくらいにしませんか、ロビン。貴方には、やるべき事があるでしょう?」
神妙な面持ちのアイディーに促され、考える。
そもそも、悪いのは誰だ。
動物か、人間か。
悪いのは、差別という概念そのものだ。
世界が、間違っているのだ。
「…そうだね。僕がやらなきゃ。世界の掃除を」
神から与えられた使命を自覚した僕は、魔法の光を瞳に宿らせ、ゆっくり体を起こす。
今の今まで押し潰されそうだった心は、全能感に満ち満ちていた。
僕という器の中に生まれた、汚く黒ずんだ奔流が、残っていた些末な理性を押し流していく。
抽象的だった意思が悪魔の瞳と化し、鉄の義足に深い赤色の光を纏えば、もう何も怖くない。
「腐り切ったこの世から、差別という概念を排除してやる」
すらすらと決意を口にした僕は、無意識に笑みを湛えていた。
これから始まる殺戮に、心が躍っていたのである。
身の危険を察知し逃げ出した馬を、全速力で追う。
速度が上昇し、純粋な人であった頃よりも風を切る快感が増している。
ああ、なんと気持ちの良い夜か。
群れに追いつき、追い越した僕は、先頭を走る馬の心臓を、的確に貫く。
鮮血を寒空に向かって噴き上げた馬は倒れ込み、その馬体に躓いた別の馬を、同じ要領で殺した。
「僕の希望を奪っておいて、逃がす訳が無いだろう?」
愛を注いで育ててきた毛並みの良い馬たちの命を、この手で天に帰しても、心に痛みは一切及ばない。
舞い散る赤い液体の中で抱いていたのは、悪魔的な力を得た喜びと、差別を行った生物を粛清した達成感。
そうやって一時的に満たされても、すぐに胸の奥に棲みついた怪物が飢えを訴えるため、おかわりが無くなるまで殺しは続く。
「最ッ高の喜劇だな」
様子を眺めていたアイディーが、何か呟いた。
そんな気がしたのだが、赤い眼から脳へと叩き込まれる、夥しい数の情報に気を取られてしまった僕は、聞き取ることができなかった。




