【ひとりの会話】
フィリオとフィリアがドアを開け、館に悲鳴を上げさせたその時、他の部屋でその異変を感じていたやつがいた。
アナトール。
カゾットを連れて(館の腹)へやってきた、最後の時を待つ男。
これはフィリオとフィリアには知ることのできなかった事実なんだが、(館の腹)はそれほど部屋の揺れは大きくなかった。
そうさね……感覚としては自分がめまいでも起こしてるのか地面が揺れてるのか、どっちだろうかと思う時くらいの感覚に近い。
そのくらいの小さな揺れさ。
ただ、悲鳴はなかなかのもんだったよ。
閉じたドアから漏れ響いてくるように、大音量の耳障りな声のようなものが(館の腹)全体を包み込んだからね。
部屋そのものの揺れより、その音による振動のほうが大きかったくらいさ。
もう動かなくなったカゾットを抱いたまま、床に座り込んでたアナトールが異変に気付いた時、その意味を理解するのには不思議と時間がかからなかった。
実を言えば、アナトールはすべて分かってたんだよ。
フィリアはうまく隠しおおせたと思ってたろうが、どうにも重大なことを忘れてた。
館に入ってそれほど経たない時、アナトールはふたりに言ったろ?
(ドアを開けるときは自分を呼べ)って。
筒抜けなんだよ。誰の行動もほとんどね。
これも館がもたらした変化のひとつだが、アナトールは黒い獣に近づくのと同時に、感覚が館と同化し始めてる。
だからどこで誰が声を上げても聞き取って駆け付けられた。
少し考えれば分かることなんだが、まあ仕方ないか。
やはりどこまで行っても子供だよ。フィリオとフィリア。
でもさ、これは別に意地悪してたんじゃない。
試してたんだ。
ふたりが本当に館の真実を知りたいと心から願っているか。
自分の力でその真実に到達できるか。
三つ目の選択肢を本気で隠そうと思ってたなら、アナトールは日記そのものを焼いちまえば済むことだったし、それがさすがに行き過ぎだと思うなら、もっと分かりづらい内容に書き換えたものをどこかに隠せばよかっただけのこと。
だがそれをしなかった。
理由は簡単すぎて話すのも馬鹿らしい。
試験のようなものさ。
果たして三つ目の選択肢を知るに足る子かどうか。
果たして三つ目の選択肢を行うに足る子かどうか。
館に残った年長者は、自然と役割を持つ。
親や教師の代役。
当人の望むと望まざるは関係無しにね。
カゾットはいい例さ。
フィリオに、お父さん役とお母さん役までさせられた。
結果的には道半ばで倒れた形になったが、まあ及第点だ。
あれだけ慕われたなら、代役冥利にも尽きるだろうよ。
アナトールは……気の毒と言えば気の毒さ。
自身が押し潰されそうな状態にありながら、最後の最後まで道を示す者として嫌われ役に徹した。
最終的にフィリアはアナトールの予想を超えて真実を求めた。
結果には満足してたよ。
アナトールはね。
ただ……自分とカゾットの置かれた今の状況はさすがに満足とは言えなかったが。
しかし、それも過ぎたこと。
終わりよければすべてよし。
……まあ、アナトールとカゾットには、いい終わりなんてものは絶対にありえないってのは皮肉だが、これもまたそういう流れだったってだけのこと。
そう、覚悟はとうの昔にしていた。
だから待つのは別に苦じゃない。
特にこうして静かに待つのはね。
緩い部屋の振動と、やかましいドアからの悲鳴を聞きながら、アナトールは懐に手を入れると、小さな鍵を取り出した。
これがアナトールにとっては一番、フィリアが秘密を探る過程を認めた要因でもある。
行動を知りながら、笑ってたんだよ。アナトールは。
予想してなかったわけでもないが、鍵無しで日記をこじ開けたのには、本気で感心した。
ああ、この子は本気だって。
小さな好奇心や、下らない理屈からじゃない。
本心から求めてるってね。
救いの形は様々だ。
手に入れても悩むだろうってことも重々承知。
それでも、
そこへと至るまでの道のりが、フィリオとフィリアが後悔の無い選択をしてくれるだろう期待を抱かせてくれた。
手の中の小さな鍵見て、また笑いがよみがえってきた。
様子からして、もう館を出たふたりを思いつつ、この小さな鍵のなんとも無意味な存在が自分と重なって、馬鹿らしくもおかしく思えたのさ。
自嘲した笑みを浮かべ、アナトールはまたもう何の意味も無くなった鍵を懐にしまった。
意味の無い物に意味の無い行動。
分かっているだけに、理解しているだけに、余計に自分が馬鹿らしく思えて、さらに口元へ笑いが浮かぶ。
と、
『……えらく機嫌のいい顔してるな。何かあったのか?』
急に声が聞こえてきた。
びっくしたさ。
当然さね。
もうこの館には、しゃべれる人間はアナトール自身しか残ってないんだから。
でもすぐ気づいたよ。
声の主にね。
自分が今、床に座って抱いているカゾットだ。
見れば、普段のおどけたようなふざけた顔つきでこっちを向いてた。
だが気づいたってのはそこじゃない。
そのすべてが自分の幻覚だってことにさ。
「はははっ……いよいよだな。私もついに壊れたらしい……」
『おいおい、(私も)ってのは聞こえが悪いぜ。それじゃあ私まで壊れてるって言ってるようなもんじゃないか』
「実際そうだろ?」
『……まあな。でもせめてもう少しやんわりした言い方にしろよ。今じゃ、お互いに気のふれた者同士だ。優しくしてくれてもバチは当たらないだろ?』
「幻に優しく接する方法なんて、私は知らないよ。要望があるなら具体的に言ってくれ」
はたから見たら、さぞかしぞっとする光景だろうね。
銀髪の女性を抱いた獣の目を持つ男が、ひとりでずっと薄暗い空間でしゃべってるんだ。
普通なら卒倒ものだよ。
でも安心。もう館には意思のある人間は彼だけ。
まともかどうかは別として、物事を判断できる人間は彼ひとりきり。
怖がらせる対象もいない。
気兼ねせず、独り言を言い続けられるって寸法さ。
実際、アナトールは救われてたろうよ。
口元に笑みを作るぐらいの余裕は出てたからね。
まあ、そのために失ったものはひどく大きいが、前も言った通り、救いとは失うことだ。
おめでとうは言っておいたほうがいいのかい?
さておき、アナトールとカゾットの幻覚との会話はその後も続いたよ。
「なあ、カゾット……」
『なんだい? 急にしんみりした声を出して』
「もし……私が弟ともっと仲が良かったら、あの子たちと同じ選択をしたと思うかい?」
『……ふふっ』
幻覚のカゾットが、アナトールの質問を鼻で笑った。
正確には、そうアナトールが感じただけだが、もはや現実と虚構の間には意味は無い。
問題はアナトールが何を感じ、何を見、何を聞いてるか。
それだけさ。
『下らない考えだよアナトール。それを言うなら、私も妹ともっと仲が良ければ、あの子たちと同じことをしたろうさ。でも』
幻覚のカゾットが一息置く。
『実際はそうじゃなかった。私も君も、あの子たちほど兄弟仲が良くなかった。過ぎたことさ。少なくとも今となっては、私たちにはまったく関係ないことだよ』
そう言って微笑む。
実際には目を閉じて眠っている顔に重なった、アナトールの幻視と幻聴の産物が。
「そうだな……」
そして、アナトールもそれを自覚しながら、自分自身が生み出した幻覚に言葉を返す。
「我ながら馬鹿な質問だったよ。そう、もう過ぎたことだ。今はただ、あの子たちの選択が正しかったことを、心から祈ろう」
その言葉に、カゾットの幻覚がゆっくりとうなずく。
それが最後。
再び沈黙が館の腹を満たす。
静寂の中、終わりの時を静かに待つ壊れたふたりを包むように、薄闇が彼らを抱く。




