【軋み】
自分の足元で丸まって泣いてるカゾットを見たのが効いたのかね。
程度までは分からないが、どうやらアナトールは正気を取り戻したようだった。
ただそれが曲りなりにも成り立ってたこの館での人間関係が破綻した合図のようなものだとしたらどうだろうね。
少なくとも、素直に喜べることでないことだけは確かだろうさ。
屈み込んで、カタカタ震えながら泣き声漏らすカゾットに、
「すまないカゾット……」
うなだれて一言声をかけると、すいと脇へずれてドアを閉じた。
「迷惑ばかりかけて詫びのしようもないが、どうかふたりを……フィリオとフィリアのことを頼む。私はもう、これ以上他人を支えられる自信が無い。だから……せめて最後にひとつ、実地の知識をひとつ、置き土産にしていこうと思う。結果がどうなるかはよくよく知ってるから改めてやる必要も無いが、フィリオとフィリアにひとつくらい、有益な情報を残していきたいからね……」
と、アナトールは後ろに残してきたフィリオとフィリアに声をかけた。
「フィリオ、フィリア。すまないが、ちょっと手伝ってもらえるかい?」
はい、これで何度目かね。
またもやイエスしか選択肢の無い質問さ。
本音を言えば、この時点でフィリオもフィリアも、アナトールに近づくことさえためらわれたが、困ったことにそうもいかない。
しばらく尻込みしちまったが、結局はフィリアがフィリオの手を引っ張る形で、アナトールとカゾットのところまでやってきたよ。
「悪いんだがフィリオかフィリア、ふたりどちらかに館の外へ通じる部屋……以前に話した(霧の部屋)をイメージして、ドアを開けてもらいたいんだ」
はて、今日はなんとも朝から意外なことのオンパレードさ。
あれだけ自分たちでドアを開けるなと言ってたアナトールが、ドアを開けろと言う。
しかも、細かな話はしていないが、恐らく一番開けちゃいけないだろうと思っていた外へ通じる部屋……(霧の部屋)へ向けてドアを開けろと言う。
ただでさえ朝から連続してイベントだらけだったからね。
そこにもってきて、さっきのアナトールとカゾットのやり取りだ。
正直、フィリオもフィリアも精神的にガタガタさ。
まだ朝食も取ってないことを差し引いても胃が焼けつくみたいに痛むのが分かるくらい。
だが、繰り返すけどこれは選択肢があるように錯覚する一方通行の道だよ。
指定されたこと以外に選べる道なんて元々無い。
そういうもんさ。
だから従ったよ。アナトールの指示に。
当然ながらドアを開ける役はフィリアが担った。
フィリオは経験が無いからね。当たり前といえばそれまでさ。
というわけで、フィリアはアナトールに促されるまま、ドアの前まで来ると、背後で見守るアナトールとフィリオの視線を感じつつ、神経を集中した。
一度は試したことだからね。要領はもう掴んでる。
頭に館の外にある石畳の道を思い浮かべる。
決して真っ黒い霧が渦巻く部屋を思い浮かべるわけじゃない。
すると、ふと集中している神経の脇に、気を散らす要素がちらりと見えたよ。
ずっと丸まって泣いていると思ってたカゾットが、自分がドアを開けようと準備を始めた途端、わずかに体を揺すったのが見えたのさ。
小刻みに震えてるのとは明らか別の動き。
例えるなら驚いたり、はっとした時の動きと同じ手合いのものだね
が、今は気にすべきことはドアを目的の部屋へ通じさせること。その一点に尽きる。
優先順位から言っても、まずはアナトールを落ち着かせるのが最優先と思ったからね。
素直に言うことを聞いて、さっさと正気に戻ってもらいたいってのが、本音なわけさ。
「さて、ドアを開ける前にこの前の説明の復習だ。以前に言った通り、この館にはふたりが入ればひとりしか出られない。そしてひとりが館を出た後は残された片割れ……つまり私やカゾットだが、もう(霧の部屋)への入り口を開くことは出来なくなる。当然ではあるね。もし片割れだけでもドアを通じさせられるなら、同じように外へ出ていくことができる。しかしここでひとつの疑問だ。もし君たちのようにまだふたりともが残っている状態の子に外への道を開けてもらい、それに入っていったならどうなるのか。答えはすでシャミッソーから聞いている。加えていうなら……実際に目にも見た。言葉だけで伝えるのは容易だ。でも直接、目にすることで伝わる真実もある。私から君らへ最後の贈り物だ。どうかようく見ておいてくれ」
フィリオはアナトールの横でそれを聞き、フィリアはドアに集中しながらそれを聞いた。
そして、以前と同じく、はっきりと館の外をイメージできた瞬間、フィリアは思い切りよくドアを開け放った。
「よし、フィリア。そのままドアを開けたまま、少し離れていてくれ」
言ってアナトールは開いたドアに向かう。
フィリアは指示通り、ドアの脇へ身を避けた。
横目で見てもやはり不気味なことこの上ない。
部屋とも形容できない異様な空間に、真っ黒な霧が渦巻くように充満している光景。
これが出口と聞いていても、果たして最後の選択をした時、すなわち、あまり考えたくはないが自分かフィリオがここを通ることになった時、ここへ入れるものだろうか。
今の時点ではまだ余計な心配だが、先々のを考えれば不安はどうしても付きまとう。
しかしね。
すぐに自分のそんな考えが、恐ろしく今の状況では的外れなもんだったってことに、フィリアはすぐ気づくことになるよ。
そう、一言、
「……それじゃあ。フィリオ、フィリア、そしてカゾット……どうか、元気で……」
言い終え、開け放たれたドアの中に、ゆっくりとアナトールが身を入れた瞬間にね。
まあ想像しておくれ。
今まさにドアの先にある部屋へ足を踏み入れ、アナトールの姿が半分ほど見えなくなったその途端、
ドアの先から血しぶきが上がる光景を。




