【浴室】
一向に手の進まない夕食を終えてどの程度したころかね。
アナトールがカゾットとの喧嘩のあとにした説明以来、まともに口を開いたよ。
「そういえばふたりとも、昨日はこちらに来たばかりだったから、わざわざ勧めなかったんだが、今日は湯にでも浸かったらどうだい」
ま、あれだ。今朝から続いてた嫌な空気に対するアナトールなりの気遣いなんだろうね。
ただ、さすがにアナトールは年かさだけはあるよ。
気遣いがちゃんと気遣いになってる。
着替えはしたものの、昨日は実質、一日森を歩きっぱなし。
今日は今日で、寝汗という名の冷や汗をたっぷりかいた。
肌はべとつく。髪はぺったんこ。
そりゃあ、湯のひとつも勧めたくなるだろうし、当人たちも、出来れば湯に浸かりたいと思ってたろうね。
それにこれを不幸中の幸いと言うべきかは難しいが、ふたりは昨日と違って腹いっぱいに食い物を詰め込んじゃいない。
風呂に入るにゃ都合がいいのは確かだったよ。
「ありがとうございます。すみません、いろいろとお世話かけて……」
アナトールの申し出には、特にフィリアが喜んだね。
ま、当然だろうさ。
十一と言ったって、もう立派なレディだよ。
身だしなみには気をつけたいのが当たり前さね。
「よし、じゃあまずはフィリア。君の入る部屋から用意しよう。体を拭くタオルと着替えの寝巻をひとつずつ。細々したものはすべて揃ってるが、もし足りないものがあっても自分でドアを開けないように。しつこいが、ちゃんと私を呼んでくれ」
この一言に、フィリアはアナトールがまだ今朝の一件引きずってるのかと思って、ちょいと苦い顔したけどね。
とはいえ、湯に入れるのはうれしい。
これは事実だ。
さて、喜び勇んでアナトールが待つドアの前までフィリアが向かったまさにその時さ。
フィリアは突然自分の上着が後ろに引っ張られるような感覚に襲われた。
なぜか?
フィリアの上着を後ろから突然引っ張ったからだよ。
フィリオがね。
何事かと思って振り返ったフィリアが見たのは、今にも泣きそうな顔してこっち見てるフィリオの顔だった。
なんてこたぁないさ。
怖いんだよ。
ひとりで誰もいない部屋に入る。
それがとてつもなく怖いんだ。
フィリアは今朝の一件でドアの使い方は心得てたけど、フィリオはさっぱりさ。
そりゃ、ひとりになるのは怖いに決まってる。
「ちょ、ちょっとフィリオ。何そんな顔してんのよ。たかがお風呂よ。別にそのくらい、ひとりでも入れるでしょ?」
「いらない……僕、お風呂はいらない……」
「いらないってあんた……」
ふたりの様子を見てたアナトールは、しばらくは黙ってたけどさ、想像以上にフィリオの怖がりようが半端でないのを見て取ったようで、ため息交じりにふたりへ声をかけたよ。
「フィリオ……別に部屋にひとりきりになるといっても、呼べばすぐに私が行く。何も怖がる必要なんてありは……」
そこまで言ったところだったね。
アナトールが背にしてたドアが開くのに反応して、ぱっと身を逸らしたのは。
見ると、ドアが外側から開けられてた。
意外な来客だったよ。
カゾットだ。
小さめのリンゴかじりながら、いかにも不機嫌そうな顔して、ドアの向こうからこっちを見てる……ように見える。
まったく、どうにもここの連中は、どいつもこいつも視線がどこいってんだか分からない奴ばかりで困ったもんだよ。
「どうした? また人をのけ者にしてお楽しみかい?」
耳の痛い嫌味はさておき、アナトールはカゾットがリンゴを食べてる姿に、思わずほっと大きな息ついてたね。
フィリオはひとりで湯に入るのが怖い。
アナトールはカゾットの食欲が失せるのが怖い。
別段、どちらが高尚ってことじゃないよ。
人間、怖いもんは怖いんだ。
それを無理して取り繕うほうがよっぽどおかしいんだよ。
もちろん、抑えるべき時に感情を抑えるための理性は大切さ。
だが、そいつは何のためだい?
周りの人間を不安にさせないため?
無用な心配をさせないため?
悪いがほとんどの場合はそうじゃないだろう。
体面だよ。
自分の体裁を気にしてさ、人に良く見られたいための無駄な理性だ。
泣くのが恥ずかしい?
おびえて震えるのが情けない?
だからどうしたってんだい。
うすっぺらいプライド保とうとしてる奴なんかより、自分の感情に正直な奴のほうが、私はよっぽど人間らしいと思うがね。




