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ChapterⅡ

第1話 始まり


 十二月、夕暮れ。岡山県北部の山中。

 陽はすでに尾根の向こうへ沈み、森は色を失いかけていた。


 池に落ちた水滴が、鈍い音を立てて波紋を広げる。

 浪野悠はその様子を、感情を削ぎ落とした目で眺めていた。


 木々は密集し、冬の空気は骨まで冷える。

 だが雪はない。氷も張っていない。

 それが救いなのかどうか、悠には判断がつかなかった。


 折りたたみ椅子に腰を預け、釣り糸を垂らす。

 水面は沈黙したまま、何も応えない。


 五分。

 それだけで、十分だった。


 悠は舌打ちをひとつ落とし、糸を巻き取った。

 成果はゼロ。期待も最初からなかった。


 テントに戻り、ランタンを点ける。

 白い光が布地に滲み、狭い空間を切り取った。


 寝袋に体を投げ出し、手に取ったのは一冊の文庫本。

 羊たちの沈黙。

 何度も読み返したはずのページだった。


 だが、文字は頭に入ってこない。


 悠は本を閉じた。

 苛立ちが、内臓の奥に溜まっていく。


 ――雪。


 名前を思い浮かべただけで、胸の奥が軋んだ。

 怒りでも悲しみでもない。

 もっと粘ついた、腐りかけの感情だ。


 リュックのファスナーを開ける。

 金属の感触。

 リボルバーを取り出し、無言で弾倉を確認する。


 不足はない。

 迷いもない。


 悠は銃を握り、座ったまま構えた。

 誰に向けるでもなく、ただ引き金の重さを確かめる。


 低い声が、テントの中に落ちた。


 全員、殺す。


 誓いでも宣言でもない。

 ただの事実確認だった。


 やがて銃を下ろし、寝袋に体を戻す。

 ランタンの灯りを消すと、闇が一気に流れ込んできた。


 外では風が木々を揺らしている。

 その音は、まるで遠くで誰かが息絶える音のようだった。


 悠は目を閉じた。

 眠りはすぐそこまで来ていたが、安らぎはなかった。


 ――戦いは、終わっていない。

 むしろ、ここからだ。


========================================


第2話 逆襲の海賊


 深夜。

 ケッカイ島。


 アルタイル王国から切り離された、地図にも正確に載らない孤島。

 潮風は生臭く、砂浜は血と油の匂いを吸い込んで黒ずんでいる。


 浜の奥には密林が口を開けていた。

 魔獣の咆哮が低く重なり、まるで島そのものが呼吸しているようだった。


 さらに奥。

 たいまつの炎に照らされた、歪な木造の城がそびえている。

 ここがティード海賊団の巣だ。


 沖合には、黒く鈍い光を放つ海賊船。

 錨は落ち、甲板では出航準備が進められていた。


 砂浜で怒鳴り散らしているのは、ガーゴンとガウスだった。


「はぁ……はぁ……」


 息を切らしながら荷を運ぶ奴隷に、ガーゴンは無言で近づく。

 次の瞬間、ワインの瓶を傾けた。


 赤黒い液体が頭から浴びせられ、布と皮膚に冷たく貼り付く。

 奴隷は声を出さなかった。出せなかった。


「止まるな。死ぬまで働け」


 命令というより、処理指示だった。


「貴様らに人権はない」

 ガウスが淡々と言う。

「道具だ。壊れたら捨てる。それだけだ」


 直後、ひとりが膝を折った。

 そのまま、前のめりに砂へ倒れる。


「……あーあ」


 ガーゴンが肩をすくめる。


「使えねぇな」


「森へ放り込め」

 ガウスが続ける。

「魔獣の腹の足しにでもしろ」


 残された奴隷たちは、無言で仲間の身体を担ぎ上げた。

 骨と皮だけの体は、異様なほど軽かった。


「魔獣も腹壊すぞ、こんなんじゃ」

 ガウスが笑う。


 その笑い声は、波音と混ざってすぐに消えた。


     *


 海賊船・船長室。


 巨大な玉座に、ティードはだらしなく体を沈めていた。

 酒と薬の残り香に包まれ、浅い眠りに落ちている。


 ――ドンッ。


 乾いた銃声。


 ティードは反射的に跳ね起き、天井へ向けて引き金を引いた。

 意味はない。ただの癖だ。


「……クライスは俺の弟だ」


 呟きは、独り言というより呪詛だった。


「俺が……終わらせる」


 ふらつく足で窓へ歩き、乱暴に開け放つ。


「来い、ドラゴ」


 甲高い鳴き声。

 小竜が闇の中から現れ、羽ばたきで室内の空気を切り裂いた。


「連れていけ」

「奴のところへだ」


 ドラゴは命令を理解している。

 ティードの右腕を掴むと、そのまま夜空へ飛び出した。


     *


 アルタイル城・医務室。

 小窓。


「……透明化、解除」


 空気が歪み、ティードの輪郭が浮かび上がる。

 足音は殺している。

 だが焦りだけは消せない。


 扉は半開き。

 中にいるのは――弟。


「今度こそだ」


 剣を握る手に力がこもる。


「さらばだ、クライス」

「忌まわしい記憶もろとも――」


 背後。


 低く、粘ついた笑い声。


「相変わらずだな、船長」


 振り向いた瞬間、視界に入ったのはダグだった。

 槍を肩に担ぎ、口元を歪めている。


「俺の気配も読めねぇか?」


「……酒の飲みすぎか」


 ティードの目が細くなる。


「どけ。槍兵」

「今は忙しい」


 返答を待たず、詠唱。


「――ブラックボックス」


 空間が歪み、黒い箱が出現する。


 同時に、ダグも動いた。


「――ドルフィンズ!!」


 水圧が爆発し、魔力が衝突する。

 轟音が医務室を引き裂き、窓ガラスが砕け散った。


 城の夜が、再び血の色に染まる。


 ――狩りは、まだ終わらない。


========================================


第3話 キャプテンティードのリベンジマッチ


 真夜中のアルタイル城 地下牢


 重い鉄扉が開き、拘束されたティードの身体が闇の中へ投げ込まれた。

 床に転がったその身を、地下牢の湿った空気が包み込む。


 鎧の擦れる音が一つ。

 松明の明かりの縁に、剣士の影が立っていた。


 捕縛に立ち会ったクリスは、気だるげに頭を掻く。


 ひとりの男を生け捕るために、騎士団と兵士を総動員。

 その異常さを、彼は皮肉として受け止めていた。


 眠りを邪魔された不満を隠しもせず、吐き捨てる。


 ティードは伏せていた顔をわずかに上げ、低く問うた。

 なぜ、ここで終わらせない。


 答えは簡潔だった。

 国王が目覚めた後、正式な裁きの場で処刑する。

 それが王国としての決定だと。


 クリスはそれ以上語らず背を向ける。

 陛下の警備を強化する。その言葉に、メントが重々しく頷いた。


 歩兵だけでは心許ない。

 ダグが腕を振り、護衛に回る意思を示す。


 クライスのもとには、すでにカノンがいる。

 それで十分だろうと、彼は軽く言い切った。


 独房の鍵が閉められ、三人は廊下を進む。

 足音が遠ざかる中、ダグがふと思い出したように問いかける。


 なぜ、竹槍なのか。

 答えはいつも通り、軽薄だった。

 スリルを味わいたい。それだけだと。


 その笑みの裏に、一度死にかけた記憶が影のように滲む。

 だが、誰もそれを掘り下げなかった。


アルタイル城上空


 夜空を裂くように、一つの影が旋回していた。

 バードリーは翼を広げ、叫ぶ。


 主を救い出すための空襲。

 羽は刃と化し、城へと降り注ぐ。


 直後、城内の各所で爆炎が立ち上がった。

 石壁が崩れ、火が走る。


 城は一瞬で戦場に変わった。


 異変を察したダグが、刀の柄に手をかける。

 クリスは短く頷いた。


 対応は早かったが、被害はすでに甚大だった。

 城の構造は破壊され、兵士たちは混乱の渦に放り込まれる。


 正門へ突入するバードリーを追い、兵が動く。

 だが護衛の要は別にあった。


 王子と王女。

 その存在に思い至り、二人は踵を返す。


地下牢


 暗闇の中で、ティードが目を細めた。

 救いは、空から来た。


 バードリーが降り立ち、硬化した羽で鉄格子を切断する。

 錠は意味を失い、檻は崩れた。


 次の瞬間、ティードの肉体が変質を始める。

 骨格が軋み、筋肉が盛り上がり、獣の輪郭を形作る。


 彼は咆哮し、己の名を叫んだ。

 海賊団の頭領としての、誇りそのものを。


 兵士たちは構えた剣を下ろせずにいた。

 唸り声一つで、恐怖が理性を上回る。


 退路を失い、逃げ出す者が続出する。


 王子と王女を人質に取る。

 城内を爆撃で混乱させろ。


 命令は短く、明確だった。

 バードリーは歪んだ笑みを浮かべ、再び夜空へ消える。


 ティードは天井を破り、上階へと躍り出た。


子供部屋


 小さな部屋で、サナ王女は震えていた。

 兄のガルルは、必死に妹を庇う。


 二人はクライスとマリアの双子。

 まだ若く、学舎に通う年齢だ。


 その前に、カノンが立つ。

 刃を構え、迷いのない目で扉を睨んでいた。


 壁が崩れ、巨体が現れる。

 ティードだった。


 恐怖の悲鳴が上がる。

 カノンは即座に踏み込み、刃を振るう。


 だが、その一撃は受け止められた。

 獣の手が、刃を掴む。


 この程度で傷がつくはずがない。

 吐き捨てるように言い、カノンの身体を投げ捨てた。


 彼女は窓の外へ消え、湖へ落ちていく。


 ティードは二人の腕を掴み、迷いなく飛び出した。

 夜空でドラゴが呼応し、彼らを支える。


 ガルルの叫びは、風に掻き消される。

 バードリーが並び、嘲るように一喝した。


 これは取引だ。

 探偵との交換。


 自分を痛めつけた相手に、同じ地獄を見せるための――。


========================================


第4話 ビギニング


二十年前 アルタイル城 王宮


 初夏の朝、王宮の大広間を涼風が抜けていった。

 石畳を踏みしめながら、若きクライス王子は前へ進む。年は二十。魔王討伐の命を受け、旅立ちの挨拶に来ていた。


 玉座に座るアルタイル王は足を組み、静かに息を吐いていた。

 右手に細身の煙草。煙の奥にある眼差しは、王としての威厳と、父としての迷いを同時に孕んでいる。


 出立の許可が淡々と告げられた。

 クライス王子、勇者ルーシェ、銃士コロウ、魔法使いロイス。

 魔王討伐隊としての認可だった。


 クライスは膝をつき、深く頭を下げる。

 感謝の言葉は形式的だったが、その背筋には揺るぎがなかった。


 彼は若くして、国内屈指の魔力と身体能力を持つ存在だった。

 選出は当然。だが、荒い気性は宮廷内でも知られており、側近たちは静かに眉をひそめていた。


 城門を抜けると、討伐隊の三人が馬車の傍で待っていた。


 最初に声を上げたのはコロウだった。

 腰掛けていた箱から立ち上がり、不機嫌を隠さない。


 ロイスはクライスの装いを一瞥し、疑念をそのまま口にした。

 白いシャツに黒いズボン。腰に帯びた剣だけが、彼の立場を主張している。


 ロイスは王国随一の魔法使いと名高い女だった。

 長身に杖を携え、視線ひとつで周囲を制圧する力を持っている。


 銃を背負ったコロウは若かった。

 後年のような威厳はなく、苛立ちと焦燥がそのまま顔に出ていた。


 ルーシェだけが柔らかく笑った。

 鎧に身を包んだ彼女は、数々の戦場を渡り歩いてきた歴戦の勇者だった。


 意見は分かれたが、クライスは気に留めなかった。

 どうせ死なない。

 そう言い捨て、馬車へ乗り込む。


 誰も反論しなかった。


 五年前。

 ハッタン王国の砂漠に、それは現れた。


 空から落ちてきたかのように大地を砕き、巨大な影が砂を割った。

 蜘蛛に似た異形。六本の腕と四本の脚。理屈を無視した構造で動く怪物だった。


 フロスト将軍は言葉を失っていた。

 未知の存在を前に、人はただ立ち尽くす。


 怪物は三人の女エルフを捕らえ、海へ向かって進んだ。

 砲撃が命じられ、砂漠が煙に包まれる。

 だが、それでも歩みは止まらなかった。


 やがて無人島へ渡った怪物は、捕らえた者たちを放り捨てた。

 獣じみた叫びと共に、その牙が一人を引き裂く。


 残る二人も巣へ運ばれ、獲物として消えた。


 それが始まりだった。


 怪物は世界各地を渡り歩き、エルフを攫っては喰らった。

 逃げ場はなく、国境も意味を持たなかった。


 エルフたちは、その存在をこう呼んだ。


 ――魔王。


 その名は、やがて世界全体に恐怖として定着していく。


========================================


第5話 償い


 荒い呼吸とともに、悠は跳ね起きた。

 視界に広がったのは、汚れ一つない白い天井。背中に伝わるのは硬いベッドの感触と、鼻を刺す消毒液の匂いだった。


 状況を理解するより先に、声が飛び込んでくる。


 姫野が、ベッドの脇に立っていた。

 目は赤く、頬はこけ、無理に気丈を保っていた痕跡がそのまま顔に残っている。


 悠は喉を鳴らし、掠れた声を絞り出した。

 ここが病院かどうかを確かめる、それだけの問いだった。


 姫野は答えず、何度も頷くと、泣きそうな顔のまま部屋を飛び出した。


 後で聞かされた話によれば、悠は栄養失調で倒れ、五日間眠り続けていた。

 生きていたのは運が良かっただけだ。

 点滴を外した翌日、医師は淡々と退院を告げた。


 命が助かった理由を、誰も説明しなかった。


翌日 午前十一時

アルタイル王国 医務室


 クライスは、ゆっくりと目を開いた。

 木製の天井。薬草の匂い。湿り気を帯びた空気が肺に沈む。


 医務室だと理解するのに、数秒かかった。


 傍らで待機していたメントが、音も立てずに立ち上がる。


 次の瞬間、扉が乱暴に開いた。

 ダグとクリスが踏み込んでくる。二人とも、表情が硬い。


 ダグが切り出した。前置きはなかった。


 ティード海賊団の襲撃。

 王の子どもたちの誘拐。


 言葉を理解した瞬間、クライスの体から血の気が引いた。

 痛みも、倦怠感も、すべてが一気に遠のく。


 狙いは明白だった。

 探偵――浪野悠。


 復讐。

 そして、完全な抹殺。


 交換条件を突きつけるつもりか、という問いに、答えは一つしかなかった。


 クライスはシーツを払いのけ、床に足を下ろした。


 メントが制止する。

 まだ動くべきではない、と。


 だが、クライスは止まらなかった。


 探偵はどこにいる。

 その問いは、命令だった。


 ダグが視線を伏せる。

 交換に応じるつもりか、と確認する。


 クライスは即答した。


 子どもたちを取り返す。

 そのためなら、悠を差し出す。


 声に揺らぎはなかった。

 王としての判断だった。


 ただ、その瞳の奥だけが、かすかに曇っていた。

 口に出すことのない苦悩が、沈殿物のように溜まっていた。


========================================


第6話 不穏


警視庁・取調室


 取調室の空気は重く、湿っていた。

 鉄製の机を挟み、釜野が悠を睨みつけている。


「おい。なんで山で倒れてた」


 低い声だったが、棘は十分だった。


「通行人が見つけなきゃ、凍死だ。説明してもらおうか」


 悠は口を開きかけ、言葉を引っ込めた。

 視線を逸らす。その一瞬を、釜野は見逃さない。


「それとだ」

 椅子に体を預け、書類を一枚めくる。


「例の誘拐事件。参考人を取り調べた直後、お前はいなくなった。戻った頃には、被疑者は逃走済み。出来すぎだとは思わねぇか?」


 疑いは当然だった。

 悠自身、その構図の歪さは理解している。


 ――異世界の話はできない。

 口にした瞬間、終わりだ。


 残された手段は、ひとつしかなかった。


「……精神科に通ってる」


 釜野の眉がわずかに動く。


「ほう?」


「解離性同一性障害だ。昔からだ。あの時のことも……覚えてない」


 嘘だった。

 だが、必要な嘘だった。


 釜野は無言でメモ帳を取り出す。


「病院名は?」


「総合精神科病院」


 名前を口にした瞬間、悠の背中を冷や汗が伝った。

 ――灰田が、動いていなければ終わりだ。


一週間前 飛鳥探偵事務所


 ノックの音。

 悠は煙草を揉み消し、立ち上がった。


 ドアの向こうに立っていたのは、黒いコートの男だった。

 眼鏡越しの視線は鋭く、手にはケーキの箱。


「久しぶりだな、浪野」


 灰田。

 高校時代からの腐れ縁で、今は精神科医。


 ドアを閉め、鍵をかける。


「……頼みがある」


「嫌な予感しかしないな」


 悠は躊躇わなかった。


「偽の診断書を作ってほしい」


 空気が凍る。


「ふざけんな」

 灰田の声が低くなる。


「犯罪だぞ。医者を何だと思ってる」


「わかってる」


 悠は頭を抱えた。


「でも、この事件で泣いてる奴らがいる。攫われた子どもたちだ。俺は、途中で投げる気はない」


 灰田は立ち上がりかけた。

 その腕を、悠が掴む。


「頼む」


 次の瞬間、悠は床に額をつけていた。


 沈黙。


「……今日は帰る。考えさせろ」


 扉が閉まり、足音が遠ざかる。


 賭けだった。


現在 警視庁・取調室


「確認取れ」


 釜野が指示を飛ばす。


 数分後、扉が開いた。


「失礼します」


 姫野だった。表情は硬い。


「……事実です。浪野さんは多重人格者でした」


 釜野は目を閉じ、息を吐く。


「そうか」


 嘘は、通った。


「今日は帰っていい。ただし――」


 釜野は身を乗り出す。


「お前、本当に何も知らねぇんだな?」


「知らねぇよ」


 短く、切り捨てた。


========================================


第7話 交換と裏切り者


正午 王都


 馬車が王都の門をくぐった瞬間、空気が変わった。

 兵士たちの視線が一斉に浪野悠へ突き刺さる。剣は抜かれ、切っ先は寸分の迷いもなく彼に向けられていた。罪人を迎える態度だ。


 門前には、騎士団のダグとクリスが立っていた。雪を踏みしめる足音さえ、張り詰めている。


「来たな、イカれ探偵」


 ダグの声には、最初から敬意など存在しなかった。


 クリスが手を上げ、兵士たちを制する。


「ここからは我々が引き継ぐ。持ち場に戻れ」


「は?」


 理解する前に、腕が背後から捻り上げられた。

 骨が軋む感触と同時に、鋭い痛みが走る。


「ぐぎぎぎ……っ、何しやがる!」


 ダグが耳元で囁く。


「悪いな。こっちは人命が懸かってる。お前みてぇな家畜は、都合のいい駒なんだよ」


 悠は歯を食いしばり、笑った。


「家畜? だったらお前も同じだろ。その丸い耳が証拠だ。俺たちは同類だ」


 次の瞬間だった。


 乾いた音。

 骨が折れる感触が、はっきりと伝わった。


 右腕が、あっさりと壊された。


「ぎゃあああああ!!」


 崩れ落ちる前に、ダグが髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。


「いいか、クズ。二度と俺を人間扱いするな」


「……あはは。考えとくよ、“人間”さん」


 拳が振り上げられる。


 だが、そこで止まった。


「いい加減にしろ!」


 城門からクライスが現れ、怒声を放つ。


「さっさとそいつを王室へ連れてこい!」


 悠は騎士団に囲まれ、引きずられるように王城へ向かった。


「まもなく、ティードが子供たちを連れて現れる」


 並び歩きながら、クライスが言う。


「交換ってわけか」


 折れた腕を押さえ、悠が吐き捨てる。


「その通りだ」


 答えたのはクリスだった。感情はない。


 王室は異様なほど整っていた。

 豪奢なテーブル、磨かれた床。使用人が無言でワインを注ぐ。


 待つ時間は、拷問だった。


 次の瞬間――


 轟音と共に扉が吹き飛んだ。


 ティードが立っていた。

 両脇には、縄で縛られたガルルとサナ。衣服は乱れ、目には恐怖が張り付いている。


「邪魔するぜ」


「ティード!」

 クライスが叫ぶ。


「探偵を渡す! 子供たちを解放しろ!」


「まぁ待て。まずは腹ごしらえだ」


 ティードは縄を解き、椅子に座った。

 兄妹はふらつきながらクライスへ駆け寄り、泣きながら抱きつく。


 運ばれてきたのは、血に濡れた肉の塊だった。

 それが何だったか、考える必要もなかった。


「おう、来た来た!」


 ティードは手づかみで貪り始める。咀嚼音が、王室に不快に響く。


 悠は思った。

 ――ここで終わるのか。


 その時だった。


「お迎えに上がりました、船長」


 現れたのは、岩のような体躯の男――ガーゴン。


「探偵を連れていけ」


 命令が下った瞬間、


「ですが、それはできません」


 空気が裂けた。


 岩が生成され、ティードを直撃する。

 身体が吹き飛び、机ごと床に叩きつけられた。


「ぐおおおおあああ!!」


「貴様……裏切ったな……ガーゴン……!」


 血を吐きながら立ち上がろうとするティードの前に、剣を抜いたクライスたちが立つ。


「この探偵の力は、貴様には渡さない」


 背を向けたまま、ガーゴンが答えた。


「悪く思うな、船長」


「ダイス! 奴を叩き潰せ!」


 号令と同時に、天井が歪む。

 サイコロの形をした巨大な目玉が、ゆっくりと降下した。


 鋭い光。


 ビームが放たれ、王室を焼き払った。


========================================


第8話 スパイ


 クライスが短く合図を送った。

「ダイス、やれ」


 天井の空間が歪み、巨大なサイコロ状の異形が姿を現す。無数の目を持つそれが静かに降下すると、次の瞬間、収束した光が一直線に放たれた。


 光線はティードを正面から捉え、王室全体を白く塗り潰した。

 床も壁も、影すら焼き消される。


 その中で、ティードの叫び声が響いた。

 ――しかし、それで終わりではなかった。


「ドラゴぉぉぉおお!!」


 高窓が内側から粉砕され、外気が流れ込む。

 怒号とともに、空を裂いて一匹の小型ドラゴンが突入してきた。


 ティードは落下するように身を投げ、ドラゴンの脚を掴む。

 獣は即座に上昇し、彼を抱えたまま王城の上空へと消えた。


「逃げられちまったな……」


 ダグが剣を鞘に収め、肩をすくめる。


 クライスは傍らのガーゴンの肩に手を置いた。

「ご苦労だったな、ガーゴン」


「ダイアリーでの戦闘じゃ、正直死にかけたぞ」

 ダグが不満を漏らす。

「もう少し加減しろよ」


「手加減すれば勘づかれる」

 ガーゴンは淡々と返した。


 悠は状況を咀嚼しきれないまま、問いを投げた。

「……つまり、最初から海賊側に潜り込んでたってわけか」


 ガーゴンは短く頷く。


「そういうことだ」


 クライスが続ける。

「ティードのアジトを特定するため、王国兵である彼を潜入させていた」


 それでも、悠は引き下がれなかった。

「……不本意とはいえ、人間の奴隷を使役して、何も思わなかったのか」


 騎士たちは顔を見合わせ、理解できないという表情を浮かべた。


「痛むわけがない」

 ガーゴンの声は冷え切っていた。

「我々にとって、人間は食糧だ。食い物に同情するか?」


 悠は言葉を失う。


 その空気を断ち切るように、ダグが立ち上がった。

「悪い、ちょっと席外す」


 クライスは話を戻した。

「ティードの拠点は割れた。君が探している人間たちも、そこにいる可能性が高い。我々は海賊を潰したい。君は奴隷を解放したい。利害は一致している」


「ふざけるな」

 悠は低く吐き捨てる。

「俺を交換材料に使っておいて、今さら共闘だと?」


「フフ……あれは演技だ」


 騎士たちは揃って笑みを浮かべた。

 だが、その表情に信頼の色はない。


「だが、その前に頼みがある」

 クライスは声を改めた。


「今度は何だ」


「学園で、私の息子と娘の護衛をしてほしい。期間は三ヶ月。明後日からだ」


「子供の護衛を、俺一人で?」


「カイラが同行する」


「……あの騎士がいりゃ、俺なんて不要だろ」


「彼女は学生だ。授業中は護衛に回れない」


 その時、扉が静かに開いた。


「失礼します」


 白いワンピースに身を包んだ女性が入室する。

 柔らかな所作と、穏やかな気配をまとっていた。


 騎士団全員が即座に膝をつく。


「おお、ワンダ。体調はどうだ?」


「今は落ち着いています」

 彼女は悠に視線を向けた。

「探偵さんにご挨拶をと思って」


「ガルルとサナの母、ワンダです。あなたが浪野悠さんですね」


「苗字で呼ばれるのは久しぶりだ」

 悠は苦笑する。

「つまり、あんたがクライス王の妻か」


「この国はいま、海賊の脅威に晒されている」

 ワンダは静かに言った。

「子供たちを、お願いします」


「……優秀な騎士が揃ってるだろ。なんで俺なんだ」


「同時期に、私はハッタン王国での会合がある」

 クライスが説明する。

「クリスとメントは護衛として同行する」


「ハッタン王国?」


「砂漠の国だ。水もろくにない」


 背後から、ダグの声が飛んできた。

 いつの間にか戻っていたらしい。


 さらに扉が開く。

 鎧姿の騎士――カイラが一礼した。


「戻りました」

 彼女は悠を見て微笑む。

「探偵さん、よろしくお願いします。明後日、学園でお待ちしています」


========================================


第9話 最強


 魔王を討ち、英雄として名を刻んだ勇者ルーシェは、その戦いの果てに命を落とした。

 彼女の子として生まれたカイラは、ほどなくしてクライス王の側近であるコロウに引き取られる。


 人里離れたスモーク山の山中。

 粗末な小屋で、コロウは剣の振り方だけでなく、生き残るための考え方を教え込んだ。甘えは許されず、言葉よりも背中で示される日々だった。


 ――七年後。


 カイラの振り下ろした斧が、薪を正確に割った。

 雪に覆われた小屋の前で腕を組むコロウが、低く言う。


「そうだ。だいぶ形になってきたな」


 その評価に、カイラは不満を隠そうともせず顔をしかめた。


「ねえ、そろそろ薪割りは十分でしょ。剣以外も教えてよ。銃とか、魔法とか」


 期待を隠さない視線に、コロウはわずかに口元を緩めた。


「そうだな……もういい」


 カイラは抑えきれず声を上げ、雪の上で跳ね回った。

 その日から、戦術魔法と銃器の基礎を叩き込まれることになる。


 ――二ヶ月後。


 吹雪に晒される山の麓で、カイラは大剣を構えていた。

 踏み込みと同時に放たれた斬撃は、空気を切り裂き、雪に覆われた斜面を一直線に割る。

 次の瞬間、山肌に走った亀裂が拡大し、雪と岩が崩れ落ちていった。


 傍らで見守っていたコロウは、言葉を失っていた。


「……七歳で、ここまで来るか」


 自分やクライスを思い浮かべ、愕然とする。

 カイラは何も言わず剣を納め、その場を後にした。


 ――さらに六年。

 十三歳になったカイラは、大魔術学校ルーン中等部へ進学する。


 夕暮れの小屋。

 鍋の中でスープが静かに煮える中、コロウが背中を向けたまま口を開いた。


「もうすぐ飯だ。少し手を貸せ」


「うん」


 本を棚に戻し、カイラは台所に向かう。

 だが、コロウの声色はどこか重かった。


「……話しておかねばならんことがある」


 彼は手を止め、深く息をつく。


「お前の母親のことだ」


 その一言で、空気が変わった。

 カイラの視線が、真っ直ぐに彼を射抜く。


「……今さら?」


「お前の母の名はルーシェ。俺と共に魔王を討った仲間だ」


 言葉は淡々としていた。


「旅の最中にお前を産み、最後の戦いで命を落とした」


 そして、コロウは続ける。


「魔王は最期に禁忌魔法――時間跳躍を使い、未来へ逃げた」


 沈黙が落ちる。


「ルーシェは死ぬ間際、お前を俺に託した」


「……どうして、今になって話すの」


「お前が、背負えるだけの力を持ったからだ」


 カイラは問いを重ねた。


「魔王は……まだ生きてる?」


「おそらくな」


 彼は膝の上で拳を握りしめた。


 ――翌日。

 大魔術学校ルーン中等部、Aクラス。


「おはよう、カイラ」


 陽気な同級生アレンが声をかける。

 いつもより慎重な調子だった。


「……よう」


「おはよ! はい、これ」


 八百屋の娘アリスが差し出したのは、朝採れの果実だった。


「商品を持ち出して大丈夫か」


「いいのいいの。朝ごはん抜きでしょ? つらい時はさ、私たちが話聞くから」


 教室の扉が開き、ギャバットとカノンが姿を見せる。


「おはよう、調子はどうだ?」


 カイラは窓の外へ視線を向けた。

 穏やかな校庭。変わらない日常。


(……まだ、守るものがある)


 その思いを胸にしまい、彼は振り返る。


「なんでもない。ただ――もっと強くならなきゃって思っただけ」


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