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ChapterⅠ



第1話 事件


 悲鳴が港町に突き刺さった。


 港町ダイアリーの石畳を、男が駆け抜ける。

 腕に抱えた袋が、金属の擦れる音を撒き散らしていた。片手には剣。逃げることしか考えていない足取りだった。


 次の瞬間、その身体が横から弾き飛ばされる。


 けり飛ばされたのだ


 空中で姿勢を崩し、無様に地面へ叩きつけられた。


 黒いスーツの男が、何事もなかったかのように着地する。口元には煙草。火を点け、ゆっくりと煙を吐き出した。


「クズが」


 低く吐き捨てると同時に、足が再び振り下ろされる。


 逃げ場を失った泥棒の身体が、衝撃に軋んだ。


 近くに転がっていた樽を掴み上げ、そのまま容赦なく叩きつける。木が砕け、鈍い音が路地に響いた。


 泥棒は動かない。だが男は構わない。


 胸倉を掴み、力任せに引き起こす。


「おい!見ろあぁ?」


 顔を上げさせると同時に、拳が振り抜かれる。


 肉を打つ感触が、乾いた音となって響いた。


 一度では終わらない。

 沈黙が続く限り、何度でも叩き込む。


 周囲で見ていた住民たちは、声も出せずに立ち尽くしていた。

 目の前で行われているのは制裁でも逮捕でもない。


 ただ一方的な暴力だった。


 それでも男は止めない。


 その口元には、わずかに歪んだ笑みが浮かんでいた。


 狂気を滲ませたまま。


第2話 発覚


 夢を見ていた。

 夕暮れの砂浜に腰を下ろし、恋人の雪と並んでいる。波の音は穏やかで、時間だけがゆっくり流れていた。結婚の話をしていた。


「雪、話があるんだ」


 雪は悠の肩に体重を預け、「なあに?」と微笑んだ。


「俺と、結婚してほしい」


 胸の奥にしまい込んでいた言葉だった。言うには遅すぎるくらい、待たせてしまった言葉でもある。


 ——返事を聞く前に、無遠慮な電子音がすべてを切り裂いた。


 悠は目を開けた。

 薄暗い書斎。埃をかぶったソファ。現実は、相変わらず手加減をしない。


 夢だったことを理解すると同時に、苛立ちが残った。体を起こし、ポケットから煙草を取り出す。火をつけ、肺いっぱいに吸い込む。焦げた匂いが、頭を冷やす代わりに、現実だけをはっきりさせた。


 雪がいなくなったのは、一ヶ月前だ。

 何の前触れもなく姿を消し、両親が警察に行方不明届を出した。


 誘拐の可能性が浮上したのは、それからさらに一ヶ月後だった。


 浪野悠。二十三歳。

 探偵業を生業にし、渋谷の雑居ビルに小さな事務所を構えている。警察と手を組み、事件の後始末に呼ばれることもある。


 そして今、悠は一つのことだけを決めていた。

 雪を見つけ出す。手段は問わない。


 洗面所で顔を洗い、携帯をポケットに戻しかけた、その時だった。


 ピピピピッ。


 着信音が鳴る。画面には「釜野」の名前。大学の同期で、今は警視庁の刑事をやっている男だ。


「よう、久しぶりだな」


 受話器越しの声は、相変わらず愛想がなかった。


「例の事件だが……お前の力を貸してほしい」


「面倒くせえ」


 そう言いながらも、悠はコートを手に取っていた。

 雪に繋がる可能性があるなら、無視する理由はない。


 警視庁・連続誘拐事件捜査本部。

 重たい足取りで門をくぐり、建物の奥へ進む。空気は張りつめていて、歓迎されていないことだけは伝わってきた。


 部屋に入ると、釜野が軽く手を振る。


「よう」


 他にも数人の捜査官がいた。向けられる視線は冷たく、値踏みするようでもあった。


「早速だが、これを見ろ」


 釜野が地図を広げる。新宿の一角。最新の誘拐事件の現場だ。


「現場に行ったんだが……とんでもないものがあった」


「おいそもそも、なんで誘拐って断定できる? 行方不明ってだけじゃないのか?」


「現場に、犯人のものと思われるマークが残されていた」


 用紙が机に置かれる。油性ペンで描かれた、海賊旗のようなドクロ。


「すべての現場に、このマークが残されていた。雪ちゃんの現場にもな」


 釜野の声は低かった。


 悠はマークから目を離さなかった。

 偶然で片付けるには、揃いすぎている。


 雪は自分の意思で消えたわけじゃない。

 誰かに連れ去られた。そして、その“誰か”は、必ず足跡を残す。


 悠の中で、判断が固まった。


「大丈夫か?」


「……ああ」


「三日前、新宿で新たに男児が誘拐された。現場には同じマークがあり、そのそばに倒れていた妙な男を拘束した」


「俺たちは、そいつが犯人の一味だと踏んでる。だが、何も話そうとしない。まるで誰かに“喋るな”と命じられているかのようだ」


 釜野は真っ直ぐ悠を見る。


「なぁ悠。お前、大学で心理学やってたろ? そいつから話を引き出してくれないか?」


「結局、俺に雑用やらせたいだけじゃねえか。警察でやれよ、そんなの」


「……雪ちゃんの手がかりかもしれないんだぞ」


 その一言で十分だった。

 釜野は、雪が消えてからずっと気にかけてくれている。今回も、その延長線上だ。


「……わかったよ。話だけ聞いてくる」


 悠と釜野は並んで歩き出す。

 拘留所へ向かう廊下は、無駄に長く、静かだった。


第3話 真実


 警視庁・拘留室。


「――奴と二人にしてくれ」


 浪野の言葉に、釜野は短くうなずいた。余計なことは聞かない。そういう男だ。

 扉が閉まり、室内には二人分の呼吸だけが残った。


 浪野は椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろす。対面の男は目を伏せたまま、先に口を開いた。


「俺の名はグリス。貴様が来るのを待っていた。海賊どもを野放しにするわけにはいかん。世界を繋ぐ力を持つお前の力が、今こそ必要だ」


 唐突すぎる言葉だった。


「……お前、誰だよ。『世界を繋ぐ』って、何の話だ?」


 浪野が眉をひそめると、グリスはどこでもない一点を見つめ、低く呟いた。


「――長野にある“下町研究所跡地”へ行け。そこに全ての真実が眠っている」


 次の瞬間、男の指先が色を失った。血が引くように、灰色へと変わっていく。

 現実味のない光景に、浪野は無意識に息を止めていた。


「お前が……この腐りきった運命を変えるのだ……」


 言葉が途切れると同時に、グリスの身体は硬直した。石像のように、微動だにしない。


 理解が追いつかないまま、浪野は立ち上がった。

 釜野への報告は後回しだ。頭の中で、一つの地点だけが異様に輪郭を持ち始めていた。


 車を走らせる。


「――雪も、他の被害者も、もしかしたら……!」


 確信に近い何かが、胸の奥で形を取る。

 アクセルを踏み込み、新宿の夜をワゴン車で突き抜けた。


 長野県郊外・下町研究所跡地。


 日が落ち、敷地全体が闇に沈んでいた。

 浪野は建物の脇に車を停め、懐中電灯と拳銃を手に取る。入手経路は正規じゃないが、今さら気にする理由もなかった。


 廊下は静かだった。

 静かすぎる。足音が妙に響き、空気が肌にまとわりつく。


 最奥の扉の前で、深く息を吸う。


「手を上げろ! 警察だ!」


 扉を蹴破り、なだれ込む。


 中にあったのは、荒れ果てた木造の空間だけだった。

 ――そう見えただけだ。


 奥に、もう一つ扉が立てかけられている。

 嫌な予感を振り切り、浪野はそれを押し開いた。


 空気が変わる。


 外観とは釣り合わない、異様に整えられた回廊。まばゆい照明と、重苦しい装飾。

 拳銃を構えたまま、足を進める。


 突き当たりの大扉を開くと――


 そこは“宴”だった。


 仮面を被った紳士淑女が、檻を囲んでいる。

 中には、鎖で拘束された子供や女性たち。泣き声と嗚咽が、場違いな音楽のように響いていた。


「……まさか……こんな場所が、研究所の中に……?」


 浪野は檻へ近づく。

 次の瞬間、視界が拒絶を訴えた。


 淑女たちが、被害者の手足に群がっている。

 食事のように、作業のように。


 考える前に、身体が動いた。

 浪野は最も近くにいた一人を背後から捕まえ、銃口を突きつける。


「動くなァ!! 今すぐ檻の鍵を開けろ!! さもなくば、こいつを撃ち殺すぞ!おおい!」


 叫び声が、空間を引き裂く。


 だが――


 背後から衝撃が走った。

 狼の姿をした大男が、浪野の後頭部を殴りつける。


 視界が裏返り、意識が途切れた。


 雪山・未明。


 風の音が、どこか遠くで唸っている。


 冷気に引き戻されるように、浪野は目を開けた。

 吹雪の中だった。白しかない世界。


 身体を起こそうとした、その時。


 巨大な蛇が、目前に現れる。

 冷たい瞳が浪野を射抜き、牙を剥いた。


「くそ……終わりか……」


 距離はない。逃げ場もない。


 ――銃声。


 大蛇の頭部が砕け、雪に沈んだ。


 煙の向こうから、誰かが近づいてくる。


第4話 過去


あの頃の悠は、世界そのものと殴り合っている気分だった。


高校生だった彼は、喧嘩を避けるという発想を持っていなかった。

目が合えば一触即発。言葉を交わせば、次は拳だった。他校の不良とやり合うことも、特別な出来事じゃない。


「アハハハッ!痛ぇか? こんなんじゃ俺に勝てねぇんだよ!」


倒れた相手の呻き声を聞くたび、胸の奥が静かに満たされた。

サイコパス。それが、当時の悠を形作っていた。


当然、周囲に人は残らなかった。

距離を置かれ、避けられ、触れれば怪我をする存在として扱われた。


――ただ一人を除いて。


雪だけは、そこにいた。


「また試験サボって喧嘩してきたの? ほんっと馬鹿だよね〜。それじゃ成績落ちるの当たり前だよ」


幼馴染だった。

どんな姿を見せても、彼女は引かなかった。血に染まった手で帰ってきても、無言で絆創膏を差し出すだけだった。


「うるせぇな。先に仕掛けてきたのは向こうだ。俺は正当防衛だっつーの」


「へぇへぇ。でも先生にはちゃんと謝っときなよ。反省したフリでもいいからさ」


小言は多いが、背を向けることはなかった。

勉強も教えた。一緒に登校もした。悠が完全に孤立しないよう、線を引き直してくれていた。


「なぁ雪……おれなんかとつるんでていいのか?」


「うーん、今のところ何も言われてないよ? そもそも幼馴染だし。私が関わらなくなったら、悠、ほんとに孤立しちゃうじゃん」


その言葉で、悠は理解した。

感情に名前をつけるのは遅かったが、間違いようはなかった。


雪は、悠の世界の温度を変えた。

荒れた内側を、少しずつ溶かしていった。


変わろうと思ったのは、そのあとだ。

彼女の隣に立つには、今のままじゃ足りない。


喧嘩を抑え、机に向かった。

器用なやり方じゃないが、逃げなかった。


結果、大学には進めた。

心理学部。中でも臨床心理学を選んだのは、自分の中にある怒りの正体を知りたかったからだ。


そして、大学二年のある日。

悠は一つの扉を叩いた。


「初めまして。私は飛鳥探偵事務所の所長、中沢飛鳥よ。渋谷で探偵をしているの」


端正な顔立ち。視線は鋭く、曖昧さがなかった。


「あなたの経歴、全部見たわ。前科はないけど……喧嘩で有名だったらしいじゃない」


正直、期待はしていなかった。

探偵という仕事は、資格や肩書きよりも現場が物を言う。だが、こんな経歴の人間を拾う理由はないはずだった。


だが、飛鳥は違った。


「人の心を読めるのも才能の一つよ。臨床心理学を専攻していたっていうのも、強みになる」


そうして悠は、探偵になった。


過去を断ち切ったわけじゃない。

ただ、使い道を変えただけだ。


第5話 遭難


 目を開けると、古びた小屋の中だった。

 暖炉の前。身体の下には固い床の感触がある。悠は体にかけられていた毛布を払い、ゆっくりと身を起こした。


「……ここは……」


 視線を巡らせた瞬間、違和感に気づく。

 腰の重みがない。拳銃が消えていた。


 雪山に放り出されたときに落としたか。

 そう判断しかけたところで、机の上にそれを見つける。


 悠は距離を詰め、手を伸ばした。


 ――その瞬間。


 小屋の扉が軋み、ゆっくりと開いた。

 猟銃を背負った男が、一歩ずつ中へ入ってくる。


「動くな……!」


 反射的に拳銃を構えた。

 だが男は、眉一つ動かさずに言った。


「おぉ、起きたか。早速物騒なもんを持っておるが、残弾は確認したかの?」


「……?」


 言われるままに確認する。

 弾倉は空だった。すべて抜き取られている。


 悠は舌打ちし、拳銃をポケットへ戻した。


「諦めるんじゃな。わしには勝てん。安心せい。敵意はない」


 男は猟銃を壁に立てかけ、やかんに水を汲み始める。

 手つきに迷いがなく、警戒もしていない。


「わしの名はコロウ。このスモーク山で猟師をしておる。……お主の名は?」


「浪野悠だ」


 男――コロウは頷き、棚からマグカップを二つ取り出した。

 見慣れない茶葉のパックを入れ、湯を注ぐ。柔らかな香りが小屋に広がる。


「紅茶は飲めるか?」


「ああ」


 カップを受け取ると、コロウも椅子に腰を下ろした。

 その視線が、じっと悠を捉える。


「その身なり……お主、この地の者ではないな? 一体どこから来た? なぜスモーク山道にいた?」


「それが、俺にもよく知らん。……パーティー会場で誘拐された子供たちを見たはずだ……あれは夢だったのか……」


 記憶は途切れ途切れで、輪郭が曖昧だった。

 コロウは紅茶を一口含み、低く呟く。


「何やら、訳ありのようだな。……まさか……」


「言いたいことがあるなら言え」


「誘拐された子供、と言ったな。その子供、海賊にさらわれたんじゃないか?」


 頭の奥で、ドクロのマークが浮かび上がる。


「まさか……海賊が犯人だってのか?」


「もしそうなら、思い当たる海賊がいる。奴らの名は――ティード海賊団。人身売買で悪名高く、世界的に危険視されておる連中だ」


「教えてくれ、じいさん……俺は一刻も早く、恋人を取り戻さなきゃならないんだ!」


 コロウは、はっきりと首を横に振った。


「やめておけ。お主が太刀打ちできるような相手ではない。奴らは並行世界を自在に移動し、必要とあらばどこへでも逃げ隠れできる。王国の監視の目すら欺いてきた、狡猾な連中だ」


 荒唐無稽だと切り捨てるのは簡単だった。

 だが、仮面を被った貴族たち。檻の中で泣き叫ぶ子供たち。

 あの光景を思い出すだけで、否定する余地は消えた。


 すべては、現実だった。


第6話 遭難 PartⅡ


 理解が追いつかなかった。

 並行世界だの能力だの、聞き慣れない単語ばかりが積み重なっていく。


 悠の中で、警戒心より先に苛立ちが立ち上がった。

 目の前の老人は、正気とは思えないことを平然と口にしている。


「長野の研究所の裏に、こんな雪山なんてあるわけねえだろ。……ここは一体、どこなんだよ?」


 顔をしかめて問い詰めると、コロウは眉を寄せ、心底不思議そうな表情を見せた。


「長野? 研究所? ……一体何を言っておる」


「おいおい、ここは長野県だろうが!」


「……ここはアルタイル王国だぞ。お主、頭を殴られて混乱しているんじゃないか?」


 否定する言葉はいくらでもあった。

 だが、コロウの目は揺れていない。冗談でも、挑発でもない。事実を述べている顔だった。


 悠はふらつきながら立ち上がり、棚に立てかけられていた地図を掴む。

 視線を落とした瞬間、思考が止まった。


「……なんだよ、これ……」


 見覚えのない国名。果てしなく続く大地。

 そして、その一角に記された「アルタイル王国」の文字。


 膝から力が抜け、床に座り込む。

 身体が、現実を拒否していた。


 その様子を見て、コロウが低く声を落とす。


「お主……もしや、別世界から来たのか? だが、どうやって……」


 一瞬、思案するように黙り込み、すぐに首を振った。


「まあいい。何かの拍子で迷い込んだのだろう。そういうこともある」


 そんなわけがあるか。

 そう叫びたかったが、声は出なかった。悠はただ、天井を見上げていた。


 コロウはやかんから立ち上る湯気に目をやり、言葉を継ぐ。


「……帰る手段が見つかるまで、ここに泊まっていくといい。明日は、ふもとの港町へ行く。ついて来たければ、ついてこい」


 暖炉の火が、静かに薪を舐めていた。

 現実から切り離された空間で、時間だけが淡々と流れていく。


 ここがどこなのか。

 なぜ自分がここにいるのか。


 答えはまだ、どこにもなかった。


第7話 港町ダイアリー


 翌朝、夜通し山を叩いていた吹雪は嘘のように止んでいた。空は澄みきり、冷たい青がどこまでも広がっている。

 悠はコロウの背中を追い、小屋を後にした。雪を踏みしめる感触が、靴底を通して確かに伝わってくる。現実感だけは、やけに生々しかった。


 ——この異世界に、雪とともに子供たちが連れ去られた。

 仮に帰る方法があったとしても、ここで踵を返す選択肢は、最初から存在しなかった。


 前を行くコロウは、がっしりした背中に猟銃を背負い、棚から持ち出した金貨を無造作にポケットへ滑り込ませている。迷いのない動きだった。


「オイ、じいさん。いつまで歩かせる気だよ」


「もうすぐだ。……見えてくるはずじゃ」


 その言葉どおり、視界の先に色が差した。

 雪と岩の世界の下に、唐突なほど鮮やかな青が広がっている。自然が悪ふざけをしているような光景だった。


「……雪山の下に、こんな海があるなんてな」


 紺碧の海を背に、港町が姿を現した。


「着いたぞ。港町ダイアリーだ」


 街に足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。

 人の声、足音、商人の呼び声。市場を満たす熱気が、悠の肌を打った。


「……なんであいつら耳が尖ってんだ?」


 通りを行き交う住民たちの耳は、揃って鋭く尖っている。


「いいか。ここに住む者たちは“エルフ”という異種族だ」


「エルフ? なんだそりゃ」


「耳以外は人間と変わらん。だが、一つだけ決定的に違う点がある」


 その瞬間だった。

 甲高い悲鳴が市場を切り裂き、ざわめきが一斉に止まる。視線が八百屋の前に集まり、誰かが必死の形相で通りを駆け抜けていった。


「……ただの泥棒か」


「コソ泥が……即刻、逮捕だろうが」


 悠はネクタイを外し、第一ボタンを外した。首元が軽くなる。

 口元に、自然と笑みが浮かんでいた。


「……行く気か?」


「ああ、もちろんだ」


 悠は走り出した。

 懐から拳銃を抜き、逃げる男の背中を正確に捉える。引き金を引いた瞬間、乾いた音が街に響き、男の動きが止まった。腹を押さえ、膝から崩れ落ちる。


「ハハハ、何やってんだよぉ、てめぇぇえ!」


 悠は男に跨り、拳を叩き込む。抵抗の気配が消えるまで、手を止めなかった。


 息を整え、無線を取り出す。


「……こちら飛鳥探偵事務所。現行犯で男を確保。引き渡しは……まぁ、いつになるかはわからねぇがな」


 そのとき、八百屋の奥から一人の少女が駆け寄ってきた。


「あ、あの……ありがとうございます。お怪我は……?」


「ああ、大丈夫だ。金も無事に取り返した。あんたに返すよ」


「私、アリスって言います! 八百屋の手伝いしながら、王都の大魔術学校に通ってるんです。もしよければ……お礼させてください!」


「いや、金を返しただけだっての」


「いいからいいから! パパとママに伝えてくるね!」


 少女は弾むように笑い、店の奥へ消えていった。


 背後から、コロウが歩み寄ってくる。


「……済んだか?」


「ああ、終わったよ」


 コロウはポケットから金貨を取り出し、悠に差し出した。


「ほれ、100ポカやる。どの店でもいいから、なんか買ってみろ」


「おい、おつかいぐらいできるわ」


 だが、コロウは一切表情を変えなかった。


「お主はこの世界の常識を知らん。れっきとしたよそ者じゃ。……そんなお前を、わしはかくまっておる」


「……で、何が言いたいんだよ」


「いいか。決して、この世界のエルフを信用するな」


 その言葉には、切迫した重みがあった。


「その理由は……お前もあの会場で見たはずだ。——この世界のエルフは、人間を食う」


 背筋に冷たいものが走る。

 だが悠は肩をすくめ、口元を歪めた。


「安心しろよ。……食われる前に、俺が全員、殺してやる」


第8話 海賊


 港町ダイアリーの喧騒が嘘のように鎮まった、そのわずか数分後。

 町の上空、約五十メートル。


 鋭く湾曲した嘴。黒い羽毛に覆われた長身の男が、潮風に身を委ねるように空を巡っていた。

 名はバードリー。ティード海賊団に属する偵察係であり、獲物の匂いを空から嗅ぎ取る存在だ。


「ケケケ……あれが、別世界から迷い込んだという人間か。面白くなってきたな……」


 眼下に広がる港町を一瞥し、バードリーは喉を鳴らす。


「ティード船長に報告せねば」


 翼を大きく広げ、海風を掴む。

 潮の匂いが濃くなるにつれ、町は背後へと遠ざかっていった。


 やがて、果てしない海原の中央に、黒塗りの巨船が浮かび上がる。

 巨大な帆、木製の船体に刻まれたドクロの紋章。

 それは、ノクターナル——ティード海賊団の旗艦だった。


 バードリーは甲板へ降り立つと、迷いなく舷階を上がり、玉座の間へ足を運ぶ。


「ティード船長、ただいま戻りました」


 翼を畳み、床に膝をつく。


「報告しろ、バードリー」


 玉座に腰掛ける男が、ワイングラスを揺らしながら応じた。


 ティード。

 常人の倍はあろう体躯に、黒銀の長髪。分厚いマントを纏ったその姿は、海の王という言葉が似合いすぎるほどだった。


「我らがかつての研究所跡にて接続されたゲートから、どうやら一人の人間がこの世界に迷い込んだ模様です」


「ゲートは閉じたはずではなかったのか?」


「その通りです。ですが、痕跡は残っており……不自然な点が多々あります」


 ティードは低く唸り、グラスを傾けた。

 視線が、玉座の奥——牢の方へと流れる。


「……やはり、“世界を繋ぐ能力”を持った者が他にも存在しているのだろう。ガウスと、あの女の他にもな」


「まさか……! それが真実なら、もはや前代未聞ですぞ」


 鉄格子の奥。

 薄暗い牢の中で、少女が一人、身を縮めていた。


 名は、雪。


「なぁ、雪とかいう人間よ。貴様は他の奴隷とは違う。お前には並行世界を繋ぐ力がある。それを我らは必要としているのだ」


「……帰らせてよ。お願い、家に帰して……」


 震えた声だったが、言葉には確かな芯があった。


「諦めろ。助けなど、来るはずがない」


 それでも少女は顔を上げる。


「……悠は来る。必ず、あんたを捕まえに来る!」


 ティードは答えず、ゆっくりと立ち上がった。

 牢の前まで歩み寄り、鉄格子越しに少女を見下ろす。


 その唇に浮かんだのは、冷たい皮肉の笑みだった。


「強情な女だ。嫌いじゃない」


第9話 本性


 泥棒騒ぎから数分後。

 アリスに導かれ、悠とコロウは八百屋の奥へ通された。


 店の喧騒から切り離された小さな台所には、木と土の匂いが染みついている。卓の上には湯気の立つ湯飲みが並び、湯の表面がわずかに揺れていた。


「こっちこっち!」


 アリスは屈託なく笑い、先に立って歩く。


「まあまあ、お金を取り返してくれたんだってね。ありがとう。本当に助かったわ」


 そう言って頭を下げたのは、母親のリザだった。

 金髪を後ろでまとめた穏やかな女性で、差し出された湯飲みからは、ほのかに甘い香りが立ち上っている。


「ありがとうございます。いただきます」


 悠は一口、湯を含んだ。

 喉を滑り落ちる温度が、妙に心地よかった。


 そのとき、古い階段が軋む音がした。

 屈強な体格の男が、ゆっくりと姿を現す。


「おお、お前さんたちが泥棒を捕まえてくれたのか。本当にありがとう」


 父親のトラスだろう。

 この夫婦で店を切り盛りしているのは、見ればわかった。


「いや、俺はただの通りすがりだよ」


「わしは何もしておらん。全部こやつがやったことじゃ」


 コロウが肩をすくめる。


「なぁ、爺さん。さっきもらった金、ここで使ってもいいか?」


「ん? まぁ構わんが」


 悠は店の隅に積まれた果物へ視線を向けた。

 赤く、艶のある実。見た目はりんごに近い。


「すみません。この果実はなんて名前なんですか?」


「それはフレの実よ。とっても甘くて美味しいの。……というか、あなた変わってるわね。この世界でフレの実を知らないエルフなんて、聞いたことないわ」


 一瞬、空気が止まる。


「あ、いや……ちょっと頭を打ってて。まだ混乱してるんです」


 即席の嘘だった。

 だが、口をついて出た言葉は、意外なほど自然だった。


「それは大変だったな。無理せず、うちでゆっくりしていくといい」


 トラスの声は穏やかだった。

 だが、その優しさが、かえって悠の神経を逆撫でした。


「いえ、お気遣い感謝します。じゃあ、この実を一つ、買います」


 しばらくして、コロウが腰を上げた。


「すまんな、そろそろ失礼させてもらうぞ」


「そうかい。残念だな、また来ておくれ」


「また遊びにきてね!」


 アリスの声に軽く会釈し、二人は店を出た。


 ——数歩、歩いたところで。


「……あれ?」


 視界が揺れた。

 地面が傾き、足元の感覚が抜け落ちる。


 悠は膝をつき、片手で地面を押さえた。


「この感覚……まさか……」


「やっと気づいたか。遅いわ、このたわけ」


 背後から、コロウの声。


「睡眠薬……」


 喉の奥に残る、あの甘さ。

 理解した瞬間、背筋に冷たいものが走った。


「まだわからんのか。この世界のエルフは人間を食う。それがこの世界の常識なんじゃ」


「……あの家族も?」


「わしがおらんかったら、お前さん、今ごろ三枚におろされとったわ」


 冗談めかした口調とは裏腹に、その言葉は重かった。


「……じゃあ、誘拐された子どもたちは……もう……」


「とっくに貴族に喰われとるじゃろうな」


 淡々と告げられた現実が、悠の胸を押し潰す。


 ——雪は、無事だろうか。


「……なぁ、あんたもエルフなんだろ? なんで俺みたいな人間を助けてくれる?」


 問いかけに、コロウはわずかに目を細めた。


「昔の友人のようになってほしくないからだ」


「友人……? 何の話だよ」


「いずれ話すさ。今は——買い物を済ませて、さっさと戻ろう」


第10話 帰還


 買い物を終えた二人は、足取りも重くスモーク山の雪道を登っていた。

 吐く息が白く、冷えた空気が肺の奥まで染み込んでくる。


 世界を繋ぐ能力。

 人間を食う種族。


 荒唐無稽な言葉のはずだった。だが、頭の奥にこびりついた不安は、簡単には拭えない。

 雪や、攫われた子供たちの行方を考えるたび、胸の内側が焼けるように疼いた。


 堪えきれず、悠は足元の雪を蹴り飛ばした。


 次の瞬間、空間が歪んだ。

 雪煙とともに、円形の“裂け目”が出現する。鏡のように滑らかな表面が、周囲の光を歪めて映し返していた。


「……なんだ、これは」


 言葉を失う悠の隣で、コロウが低く唸る。


「信じられん……本当に存在したか。世界を繋ぐ力を持つ人間が。ティードの言っていた通りじゃな」


「ティード……?」


 その名を聞いた瞬間、背中を冷たいものが走った。

 悠は慎重に円の内部を覗き込む。


 そこに映っていたのは、見慣れた光景だった。

 渋谷の雑踏。行き交う人々。信号待ちのタクシー。

 スマートフォンに視線を落としたまま歩く人間たち。


「……帰れるのか」


 思わず漏れた声は、かすれていた。


「帰るのは構わん。だがな」


 コロウの声が、現実に引き戻す。


「お前さんの言う事件は、何一つ解決しとらん。それでも戻るか?」


 答えは簡単ではなかった。

 この世界で何をすべきか、悠自身まだ見えていない。

 だが、向こうの世界に残したものも、決して小さくはない。


 並行世界を渡る海賊。

 誘拐と人身売買。

 そんな話を持ち帰ったところで、警察が本気にするはずもない。


 それでも——。


「一度、戻る」


 悠はそう決めた。


「無事だけでも伝えておきたい。行方不明扱いされるのは厄介だ」


 コロウは短くうなずいた。


「また会おう、探偵よ」


 悠は一度だけ深く息を吸い、目を閉じて裂け目の中へ踏み出した。


 轟音。

 圧力。

 内臓をひっくり返されるような感覚。


 視界が開けた瞬間、そこは渋谷のスクランブル交差点だった。


「……本当に、帰れたのか」


 乾いた笑いが漏れる。


 悠はその足で、警視庁へ向かった。


 捜査本部の扉を開けた瞬間、室内の静寂が破れた。

 椅子に座っていた釜野と、視線がぶつかる。


 一拍。

 次の瞬間——。


「おまえぇぇぇぇぇっ!!」


 釜野は怒鳴り声を上げ、泣きながら悠に掴みかかった。


「どこ行ってたんだ! 飛鳥さんも、お前の親も、全員心配してたんだぞ!」


 想像以上の反応に、悠は言葉を失う。


「……悪かった。ただ、捜査してただけだ」


「捜査ぁ!? 何のだよ!」


 そこから先は、手続きと説明の嵐だった。

 行方不明届の取消し。

 報告書。

 事情聴取。


 そして告げられた事実。


「お前、三か月も行方不明だったんだぞ」


 三か月。

 悠の感覚では、二日にも満たない時間だった。


 一週間後、悠は取り調べ室に座らされていた。

 古い机。煙草の残り香。疲れ切った刑事の視線。


「で、どこに行ってた?」


「異世界だ。海賊が人間を攫って、売ってた」


「……またそれか」


 刑事は深く息を吐き、立ち上がる。


「事件性がある。しばらくここに居てもらう」


 ドアを開けかけたところで、振り返る。


「そうだ。誘拐事件捜査班は、上の命令で撤廃された」


「……は?」


「次からは“零殺人事件”の捜査だ」


 ドアは閉まり、室内に静寂が戻った。


 納得できるはずがなかった。

 あれだけの惨状を見てきた。

 それでも、見なかったことにされる。


「……許せねぇ」


 だが、立ち止まっている暇はない。

 悠は理解していた。


 この力を使いこなせば、再びあの世界へ行ける。

 そして——必ず雪を取り戻す。


 地獄の底からでも。


第11話 棋士


 取り調べ室での仮眠と覚醒を繰り返す生活は、いつの間にか二週間に届こうとしていた。

 閉じた空間に染みついた埃と煙草の匂いが、時間の感覚を鈍らせる。


「……もうマジで帰りてぇ……」


 浪野悠は机に肘をつき、乾いた声を漏らした。

 シャワーと布団。ただそれだけのことが、今の彼には贅沢品に思えた。


 不意に、鉄扉が開く。


「おぉ、元気そうね。見舞いのリンゴよ、ほれ」


「所長!?」


 現れたのは、飛鳥探偵事務所の所長――中沢飛鳥だった。

 普段はだらしなく酒に溺れ、事務所の床で寝落ちする女だが、事件となれば別人になる。

 感情を切り捨て、事実だけを拾い上げる。その目は、警察のベテランすら怯ませる鋭さを持っていた。


 飛鳥は扉を閉め、悠の正面に腰を下ろす。


「で、今度君が配属される事件、聞いた?」


「えぇ、たしか“零殺人事件”でしたっけ。でも俺、まだこの部屋から出られないんですけど」


「ふぅん、いいだろう。私が人肌脱いでやろうじゃないの」


 そう言って、飛鳥はスマホを取り出し、迷いなく発信した。


「……そこをなんとか。……本当? うん、それで頼むよ」


 短いやり取りを終え、飛鳥は口角を上げた。


「よかったな、君はもう自由だ」


「え、まじで? どうやって交渉したんですか」


「警視庁の上のほうと、ちょっとした付き合いがあってね。コネってやつさ、少年」


 胸を張る姿に、悠は深く追及しないことを選んだ。

 世の中には、知らないほうがいいこともある。


「……よくわかりませんけど、わかりました」


          *


 零殺人事件捜査班。


「おぉ、出られたんだな!」


 部屋に足を踏み入れた瞬間、釜野が声を上げた。


「……みたいだな」


 悠は短く返す。ようやく、肺に溜まっていた空気を吐き出せた気がした。


「じゃ、私は帰るわ。せいぜい頑張りたまえ、少年」


 飛鳥は悠の肩を軽く叩き、そのまま踵を返す。


「飛鳥さんって綺麗だよな。ああいう大人の女性、いいよなぁ」


「やめとけ。あの人の部屋、酒瓶で半分埋まってるぞ」


「まぁ、それはそれとしてだ」


 釜野は表情を引き締めた。


「お前がいない間に、捜査は少し進んだ。まずはその説明からだ」


 照明が落とされ、スクリーンに複数の現場写真が映し出される。


「被害者は全員、自宅で腹部を矢で射抜かれている。死因は出血多量。加えて――」


 釜野は一拍置いた。


「腹部に、刃物で刻まれた“0”の文字があった」


 空気が張り詰める。


「同一犯による連続殺人で間違いない。ただし、痕跡は皆無。侵入経路も凶器も残っていない。正直……手詰まりに近い」


 沈黙が落ちた。


「そこでだ。お前と、もうひとり――将棋棋士として知られ、これまで幾つもの事件で助言をしてきた男を呼んだ」


「……将棋の棋士?」


「どうも、こんにちは」


 扉の向こうから現れたのは、青いスーツに丸眼鏡の長身の男だった。


「名取です。この事件に、本格的に協力させていただきます。よろしくお願いします」


 深く頭を下げる姿は礼儀正しく、隙がない。


「お前は名取と組め。頼んだぞ」


 釜野の言葉に、名取が悠を見据える。


「君が浪野悠くんか。噂は聞いているよ。力で事件を突破する、実に興味深い捜査官だ」


「……そりゃどうも」


「ふふ。これは面白くなりそうだ」


 薄く笑う名取の目に、底の見えない光が宿る。

 悠は直感的に理解した。


(――厄介な相棒だ)


 だが、選択肢はない。


「まぁ、ともかく。一緒にやろう」


「こちらこそ。よろしく頼むよ」


 新たな事件。

 そして、信用できるかも分からない相棒。


 “零殺人事件”は、悠をさらに深い闇へ引きずり込もうとしていた。


第12話 異常


 飛鳥探偵事務所


 夜になって、ようやく事務所へ戻った。

 飛鳥の姿はない。だがそれは些細な問題だった。悠はまず、浴室へ向かった。


 久しぶりに浴びる湯は、肌を打つというより、骨の奥へ染み込んでくる感覚だった。

 溜め込んでいた疲労と不快感が、少しずつ排水口へ流れていく。


(……何をやってるんだ、俺は)


 湯気が薄れ、鏡に輪郭が戻るのと同時に、胸の奥に冷たい問いが残った。

 異世界で攫われた子どもたちは、今も檻の中にいる。

 それなのに、自分はこの世界で、別の殺人事件を追っている。


(あの時……帰らない方がよかったんじゃないか)


 思考が沈みきる前に、電子音が割り込んだ。


 ——ピンポーン。


 インターホンの音は、容赦なく現実を引き戻す。

 悠は服を着替え、玄関へ向かった。


 扉の向こうに立っていたのは、見覚えのある男だった。


「やあ、悠君」


「名取さん……?」


「食事を持ってきたんだ。もし良ければ、一緒にどうかな」


「ああ、じゃあ……どうぞ」


 悠は名取を招き入れ、年季の入ったソファを挟んで向かい合った。

 この事務所には、くつろぎという概念が欠けている。それでも、二人分の距離は保てた。


「サンドイッチを作ってきたよ」


 名取は弁当箱を開き、きっちり整えられた二つを差し出す。

 レタスとトマト、卵。無駄のない色合いと香りが、疲れた胃袋を刺激した。


 一口かじる。

 想像以上に、味はまともだった。


「……うまいな」


「気に入ってくれてよかった」


 名取も一つ手に取り、静かに食べ始める。


「名取さんって、将棋の棋士でしたよね?」


「ああ。テレビにも何度か出ている。……悠君もどうだい? 一局、付き合ってみるとか」


「いやいや、俺将棋なんて全然わからないし。名取さんとやっても、勝てる気がしませんよ」


「それはやってみなければ分からない」


 名取は淡々と続けた。


「人間には誰しも、生まれつき光るものが一つはある。探偵かもしれないし、将棋かもしれない。大切なのは、自分が何に向いているかを知ることだ。挑戦する価値はある」


「……かもしれないですね」


 それ以上、会話は続かなかった。

 食事を終え、名取は「またね」とだけ言い残して事務所を出ていった。


 ドアが閉まる音が、やけに重く響いた。


21:00 東京郊外・とある民家


 覆面の男は、夜道を軽自動車で流していた。

 郊外の住宅地。街灯の数もまばらで、人の気配は薄い。


「……ここにしようか」


 車を停め、鼻歌混じりにトランクを開ける。

 取り出したのは、小型のクロスボウと銀色のポケットナイフだった。


 ラップトップを起動し、数行のコードを打ち込む。

 周囲の監視カメラが、順番に沈黙していく。


 男は躊躇なく玄関へ向かい、ピッキングツールで鍵を外した。

 音は立てない。呼吸すら整っている。


「ふーんふんふーん♪」


 鼻歌と共に、家の中へ足を踏み入れる。


「だぁれ?」


 廊下に現れたのは、クマのぬいぐるみを抱いた幼い少女だった。


「おじさんはね、君を救いに来たんだよ」


 男は穏やかな笑みを浮かべ、クロスボウを少女の腹部へ向ける。


「——今、“ゼロ”に還してあげるからね」


 次の瞬間、矢が放たれた。

 少女の身体は後方へ倒れ、床に転がる。


「ひよりぃぃぃ!!」


 父親が駆け寄り、娘を抱き上げる。

 男は迷わず、再び引き金を引いた。


 父親の身体が力を失い、床に崩れる。


 悲鳴を聞いて、キッチンから母親が飛び出してくる。


「やめてぇえええ!! 来ないで!!」


 震える手に包丁を握りしめていた。


「大丈夫ですからね……みんな、救ってあげます」


 男の瞳に、感情はない。

 彼の言う“救い”は、現実を終わらせることに過ぎなかった。


 矢が放たれ、叫び声が途切れる。


 静寂が家を満たす。

 男は三人の腹部に、丁寧に“0”の文字を刻み込んでいった。


「……よし」


 道具をケースに戻し、手袋を外す。

 車へ戻り、監視カメラの制御を解除する。


 証拠は残さない。

 男はそのまま、夜の闇へ溶け込んだ。


第13話 推理


早朝 東京郊外・事件現場


 夜明け前の住宅街は、妙に静かだった。

 規制線の内側では、警官たちが淡々と動き回り、昨夜の出来事を事実として固定しようとしている。

 薄明かりに浮かぶ民家には、まだ悲鳴の残響が染みついているように見えた。


「……監視カメラの映像はダメだ。バグで犯人の姿が一切映ってない」


 現場に入っていた警部・釜野が、端末を睨みつけるようにして吐き捨てる。


「これまでの事件でも、同じようにカメラの異常はあったのか?」


 悠は家の外観と周囲の道路を一瞥しながら問い返した。


「いや。これまではもっと田舎だ。異常以前に、カメラ自体がほとんど存在しない地域だった」

 釜野は短く息を吐く。


「なのに今回は市街地寄りだ……。リスクを承知で、ここを選んだ理由がある」


 違和感は、空気のように現場に漂っていた。


 そのとき——。


「すみません、遅れました!」


 切羽詰まった声と共に、スーツ姿の若い女性が駆け込んでくる。


「遅いぞ、姫野!」

「す、すみません!」


 小柄な体で必死に呼吸を整えながら、彼女は規制線の内側へ入ってきた。


「彼女は?」


「今日からこの事件に加わった新任刑事、姫野沙耶だ」


 釜野が簡潔に紹介する。


「本日付で配属されました、姫野です! 新米ですが、よろしくお願いします!」


 深く頭を下げる姿には、場違いなほどの真面目さがあった。


「悠、お前が面倒を見てやれ」


「は? なんで探偵の俺が新人教育を……それ、警察の仕事だろ」


「一目でわかった。お前と姫野は相性がいい。頼んだぞ」


 それだけ言い残し、釜野は背を向けて去っていった。


(……冗談じゃない)


「はは、行っちゃいましたね」

「……ああ」


 気まずい沈黙を破ったのは、背後からの声だった。


「新人の子かい?」


「うわっ!?」

「わっ……!」


 二人同時に振り向く。

 名取が、いつの間にかすぐ背後に立っていた。


「お前……人を脅かすなよ、棋士のくせに」


「ところで、監視カメラに異常があったそうだね。これまでにはなかった展開だ。実に興味深い」


 名取は不気味に笑い、事件現場へ視線を送った。


 遺体はすでに搬出され、鑑識の手が黙々と動いている。

 現場で得られるものは、もう多くはなかった。


 悠たちは捜査本部へ引き上げることになった。


捜査本部


「で、どうなんだよ。にやにや棋士さん」


 机に腰を下ろし、悠は名取を睨む。


「君は探偵だろう? まずはそちらの推理を聞かせてほしい」


「私も、悠さんの意見が聞きたいです!」


 姫野が前のめりになる。


「……犯人は、わざわざ監視カメラの整った場所を選んだ。理由は一つだ。スリルを求めてる」


「……スリル、ね」


 名取の口元が、わずかに歪む。


「普通なら避ける場所だ。それでも踏み込んだ。快楽殺人犯ってのは、危険そのものを味にする」


「でも……」

 姫野が首を傾げる。「監視カメラを細工してるんですよね? 本当にスリルが目的なら、そんなことしないんじゃ……」


 悠が言葉を探していると、名取が小さく笑った。


「君、転職を考えた方がいいんじゃないか? 推理が少し……稚拙だ」


「はっきり言うな!」


「だが、“スリルを味わいたい”という点については、僕も同意見だよ」


「え、まじ!? 本当に……?」


「……そんなに驚くな。傷つくだろ」


 名取は資料に目を落とし、淡々と続ける。


「推理とは、犯人の心理にどれだけ入り込めるかだ。自分が犯人なら、どう動くか。そこから見えるものがある」


 紙を一枚めくる音が、妙に大きく響いた。


「たとえば……あの民家は古い木造だ。もし僕が犯人なら、証拠ごと焼き払ってから去る。だが、そうしなかった」


「……痕跡を、あえて残した」


「あるいは、時間に制約があった。犯人は快楽だけで動いているわけじゃない。“実験”をしている可能性もある」


「実験、か……」


「もう一つ。凶器はクロスボウ。音を出さず、確実に殺せる。時代錯誤だが、理にかなっている」


「それで七件以上もやって、まだ捕まらない……」


「そう。ここが肝だ」


 名取の目が細くなる。


「警察の動きを、先読みし続けている。つまり内部情報を知っている可能性が高い」


「……警察関係者の中に、犯人がいる」


 悠の言葉に、名取は静かにうなずいた。


第14話 訪問


 飛鳥探偵事務所


 扉を開けた瞬間、鼻を突く煙草の匂いが出迎えた。

 安っぽく、しかし落ち着く。ここはそういう場所だ。


 窓際のデスクには、ポニーテールの女が脚を組んで腰かけ、気怠げに煙を燻らせている。


「おー、帰ってきたようだな、少年」


 所長——中沢飛鳥が、軽く笑って振り向いた。


「ただいま戻りました」


 悠はネクタイを緩め、埃の積もったソファに体を沈める。

 弾力の抜けたクッションが、今日一日の重さをそのまま受け止めた。


「捜査の方はどうだ?」


「……正直、膠着状態です。新しい殺人現場が出たってのに、手がかりは皆無で」


「そりゃあ、難儀な話だ」


 飛鳥は立ち上がり、歩み寄ると、ためらいもなく隣に腰を下ろした。

 次の瞬間、悠の肩に体重がかかる。


「……所長、やめてください。まだ昼間ですよ」

「それに、俺にはもう彼女がいるんで」


「ちぇっ、つれないやつめ」


 舌打ちひとつ残し、飛鳥はキッチンへ向かう。


「コーヒー淹れるけど、飲むか?」

「お願いします」


 やがて湯気を立てるマグカップが二つ、テーブルに並んだ。


 そのとき、悠のポケットで携帯が甲高く鳴った。


「名取さん……?」


 通話に出ると、落ち着いた低音が耳に流れ込む。


『君に見せたいものがある。すぐ終わる。僕の家まで来てくれないか』


「え? いきなり何ですか……まあ、時間はあるんで構いませんけど」


 通話を切った直後、飛鳥がぽつりと言った。


「やめておけ」


「……え?」


「その“名取”ってやつには、深入りしないほうがいい。死にたくないならね」


 冗談めかした調子はなかった。


「……勘ですか?」


「ただの勘さ。でも、私の勘が外れてばかりだと、信じてくれてるんだろ?」


 飛鳥は苦笑し、コーヒーを一口すする。

 煙草の匂いが、妙に重く感じられた。


東京都・品川 名取邸


「……うわ、でか」


 和風の外観、手入れの行き届いた石垣。

 一目で分かる——金がある。


「棋士って、そんなに儲かるもんなんですかね……」


 インターホンを押すと、低く重たい音と共に門が開いた。


「名取さん、来ましたよ」


 門の奥から現れたのは、着物姿の名取だった。


「ようこそ。悠、どうぞ中へ」

「いやこの扉の音……クッパ城以来ですよ、聞いたの」


 名取は微笑み、何事もなかったかのように歩き出す。


 玄関を抜けると、大理石の廊下が果てしなく続いていた。

 音を吸い込む空間が、逆に神経を逆撫でする。


「なぁ、悠君」


 名取が歩きながら言う。


「君は、犯人の動機を“スリルを味わいたいから”だと推理していたね?」


「まあ……はい」


 名取は立ち止まり、一室の前で振り返った。


「君となら、やっていけそうだ」

「……は?」


「さあ、中へ。これから見るものに、きっと驚くだろうね。わくわくするよ」


 開かれたのは、古い木製の書斎扉だった。


 天井まで届く本棚。

 薄暗い照明。

 空気が、重い。


 部屋の中央の小机に、一冊のファイルが置かれていた。

 名取はそれを手に取り、悠へ差し出す。


「どうぞ、見てみてくれ」


 ファイルを開いた瞬間、悠の思考が一拍遅れた。


 そこに収められていたのは——

 連続殺人事件の被害者たちの遺体写真。

 しかも、警察未公開の角度、未報道の情報。


 喉の奥が、ひりつく。


 悠は顔を上げ、名取を見据えた。


「……あんたが、やったのか?」


 声は、不思議なほど冷静だった。


「そうだよ。僕が犯人だ」


 名取は微笑んでいた。

 日常会話の延長のように。

 それが、何の罪でもないかのように。


第15話 逃走


 悠はポケットに手を入れ、小型拳銃を抜いた。

 名取の額に照準を合わせる。距離は十分。引き金にかけた指は、もう迷っていない。


「おい、外道。なぜ俺にこんなもんを見せた?」


 声は低く、平坦だった。怒りはもう沈殿している。表に出る必要はない。


 名取は両手を上げ、半歩だけ後ろへ退いた。

 命乞いの姿勢のはずだが、口元には薄い笑みが張りついている。


「待て待て、殺すのは勘弁してくれよ」


 冗談めかした声。その軽さが、逆に鼻につく。


「君の経歴を少し調べさせてもらった。面白い人生だね。高校時代は喧嘩無敗。界隈じゃ有名だったそうじゃないか」


 黙って銃口を動かさない。


「中学二年の時には、担任教師を刺殺。世間では“少年A”。だが真相は、雪という女子生徒を守るためだった……。実に感動的だ」


 名取は陶酔したように目を細める。


「そういう人間に、僕は強く惹かれる。君と僕は似ているんだ。根っこの部分がね」


「……何が言いたい」


「暴力だよ。君は暴力を理解している。探偵として犯人を追い詰め、法を盾にして殴る。壊す。余分に」


 一歩、名取が踏み出す。


「楽しいだろう?」


 その目は、もう人を見ていなかった。

 衝動と快楽だけが、ぎらついている。


「一緒に“仕事”をしよう。殺しを。君なら分かる。この感覚が」


「それだけか」


 俺は無線機に手を伸ばした。


 その瞬間、名取の視線が跳ねる。背後のクロスボウへと腕が伸びた。


「残念だ。なら——」


 言葉が終わる前に、引き金を引いた。


 乾いた反動。

 弾丸は狙い通り、名取の右腕を撃ち抜いた。


 クロスボウが床に転がる。名取の体がよろめいた。


 即座に無線を掴む。


「至急応援を要請。こちら飛鳥探偵事務所、浪野悠。容疑者・名取が武装、発砲あり。現場は名取邸!」


 数秒遅れて、外からサイレンが重なり始めた。


 名取は血に濡れた腕を押さえながら、愉快そうに笑った。


「もう来たか……仕事が早い」


 そう言って、懐から銀色の筒を取り出す。


「おい、それ——」


 視界が白に塗り潰された。

 煙が一気に広がり、空気が喉を焼く。


 息が詰まり、視界が揺れる。

 その隙を縫うように、足音が廊下へ抜けていった。階段を駆け上がる音が、遠ざかる。


「待て……!」


 立ち上がろうとして、足元が崩れた。

 平衡感覚が曖昧になる。


 扉が破られる音。

 武装した警官たちがなだれ込んでくる。


「悠! 無事か!」


「問題ない……名取が、屋上に……」


 言葉の途中で、視界が落ちた。


屋上


 釜野たちが階段を駆け上がった時、すでに勝負は終わっていた。


 屋上には、離陸態勢に入ったヘリ。

 そのハッチに乗り込む名取の姿があった。


「またな、探偵君」


 余裕の笑み。

 ヘリは浮き上がり、夜空へ逃げていく。


「くそっ……追え! ヘリを出せ!」


 釜野の怒号は、風に裂かれて消えた。


第16話 襲撃


 翌朝、意識が浮上した。

 最初に目に入ったのは白い天井だった。無機質で、汚れひとつない。

 鼻を刺す消毒液の匂いが、ここがどこかを即座に教えてくる。


 頭の奥に、鈍い痛みが残っていた。


 名取は——やはり逃げたらしい。


「お、目を覚ましたか。ずいぶん丈夫だな」


 穏やかな声。

 視線を動かすと、椅子に腰かけた飛鳥所長がいた。小皿を手にしている。

 皿の上には、皮をきれいに剥かれたリンゴが並んでいた。


「……所長」


 喉が乾いている。声は少し掠れた。


「リンゴ、好きなんですね」


「よく言われる。病人にはこれが一番だ」


「病人扱いは心外です」


 軽口を交わしながら、上体を起こす。

 身体は動いた。問題ない。少なくとも、表面上は。


 数時間後、書類にサインをして病院を出た。

 入口の前に、見覚えのある車が停まっている。


「よう」


 釜野だった。

 サングラスを少し上げ、短く手を振る。


 そのまま助手席に乗り込み、車は警視庁へ向かう。


「……悪かったな。逃がした」


 釜野は前を見たまま言った。


「仕方ないです。あいつ、準備が異常でした」


「ああ。屋敷から武器が山ほど出てきた。爆薬の痕跡もな。最初から、やる気満々だったわけだ」


 車は幹線道路を抜け、薄暗いトンネルへ入る。

 音が反響し、外界との距離が一気に遠のいた、その瞬間——


「……は?」


 運転席側の窓に、何かが叩きつけられた。


 衝撃。

 だが、爆薬じゃない。質が違う。

 理屈より先に、嫌な予感だけが走る。


 反射的に窓の外を見る。


「……馬?」


 並走していたのは、馬に跨った二人の男だった。

 鎧をまとい、中世の騎士のような格好をしている。

 現実感が、決定的に欠けていた。


「おいおい……なんだよ、アレ!」


 釜野の声が裏返る。


「止めろ! 今すぐ!」


 ブレーキが鳴き、車が急停止する。


 男たちは馬から降りた。

 無言のまま、こちらへ歩いてくる。


 その手のひらに、淡い光が浮かび上がった。

 模様のようで、記号のようで——見たことがない。


 背中に、冷たいものが走る。


「……まずい」


 理性より早く、身体が答えを出す。


「伏せろ!!」


 世界が白く弾けた。

 爆音が、視界も思考も塗り潰す。


 次の瞬間、意識は闇に沈んだ。


第17話 過去PartⅡ


 中学一年の春、浪野悠は体育館の倉庫で担任教師を刺した。


 昼下がりだった。

 校庭には桜が舞い、体育の授業の喧騒が風に乗って流れていた。

 バレーボールが床を叩く音と、生徒たちの笑い声が混じり合う。


 悠は短く声をかけ、ボールを放った。

 雪は一瞬だけ目を見開き、反応が遅れた。

 ボールは腕をすり抜け、地面に落ちる。


「……びっくりした」


 笛の音が空気を切った。


「そこまでだ。ボールを片付けろ、整列」


 体育教師の酒田が歩み寄ってくる。

 眼鏡を押し上げ、淡々と指示を出す。


「今日はここまでだ。教室に戻れ」


 生徒たちが体育館を後にする。

 その流れの中で、酒田が足を止めた。


「雪。お前は残れ」


 倉庫の扉が開き、彼女は中へ入れられた。

 鍵がかかる音が響く。


「……はい」


 雪はマットに腰を下ろす。


「よう」


「……名前で呼ばないでください」


「今さらだろ」


 酒田の手が、彼女の肩に置かれる。

 雪の身体がわずかに強張った。


 倉庫の隅で、悠は身を伏せていた。

 息は浅く、音を立てないようにしている。


「雪、そこにいるんだろ?」


 外から声が飛ぶ。


「……うん。トスのやり方、教わってるだけ」


「利口だな」


 酒田は笑った。


「お前の写真、覚えてるよな。あれがある限り、逆らえねぇ」


 ——ガラスが割れた。


 小窓が砕け、破片が床に散る。

 次の瞬間、悠は倉庫の中にいた。


「悠……!」


 雪が顔を上げる。

 目に涙が浮かんでいた。


「お前、何してるんだ!」


「その台詞は、あんたのだ」


 悠はポケットからナイフを抜いた。

 刃が照明を反射する。


「女の子に手ぇ出すな」


 酒田の表情が凍りつく。


「やめろ……待て……」


「黙れ」


 悠は前に出た。

 迷いはなかった。


 刃が腹に沈む。

 鈍い感触が伝わり、酒田は声を上げることもなく崩れ落ちた。


「雪」


 悠が呼ぶと、彼女は震える手で彼にしがみついた。


「……怖かった」


 それだけ言った。


 背後で足音が増える。


「何をしてる!」


 別の教員たちが駆け込んでくる。

 床の血を見て、全員が立ち尽くした。


「お前がやったのか」


「俺だ」


 それ以上、悠は何も言わなかった。


 酒田は病院で死亡した。

 悠はそのまま連れて行かれた。


 後になって分かったことがある。

 被害者は雪だけではなかった。

 証拠の映像も出てきた。


 裁判では「正当防衛に近い動機」と判断された。

 刑は軽減された。


 それでも、悠は四年間、少年院で過ごした。


 あの日から、彼の中には問いだけが残っている。

 正義と暴力は、どこで分かれるのか。

 答えは、今も出ていない。


第18話 攻防


 浪野悠が目を覚ましたとき、視界は暗いコンクリートの天井で塞がれていた。

 トンネルの中だ。助手席に半ば崩れるように倒れ込み、全身の節々が鈍く痛む。


「……何が起きた」


 声は喉の奥で擦れた。

 運転席の釜野の声が、遠くで反響している。


 悠が顔を上げた瞬間、トンネルの出口側から二つの影が現れた。

 ローブを羽織った男が二人。歩調は揃い、胸元に手を当てている。


 その掌に、淡い炎が灯った。


「伏せろ!」


 釜野が叫び、悠の頭を無理やり押さえつける。


「応援を呼べ!」


 悠の声に、釜野は無線機を掴んだ。


「至急! 新宿トンネル内! 不審者二名、爆発物または発砲の恐れあり!」


 悠は身体を起こし、ポケットから拳銃を抜いた。


「おい! それはまずい!」


「そんなこと言ってる場合か。来るぞ」


 男たちは止まらない。

 炎が掌の上で膨れ上がる。


 悠は息を止め、照準を合わせた。


 引き金を引く。


 一発目が胸を貫き、男は声を漏らして崩れ落ちた。

 残った一人が怒りに顔を歪め、目を赤く光らせる。


 二発目。

 その身体も地面に転がった。


 銃声がトンネル内で跳ね返る。

 悠は足を引きずりながら近づき、拳銃を向けたまま手錠を取り出した。


「……何者だ」


 ローブを脱ぎ捨てた男は、血に濡れた手で胸を押さえ、かすれた声で言った。


「レガースだ……お前は、終わりだ」


「意味が分からん」


「ティード海賊団員を撃っただろ。船長が黙ってるはずがない」


 悠は淡々と手錠を嵌めた。


「なら、ここで終わりだ」


 男は笑った。


「教えてやる。船長の目的は、並行世界を繋ぐ能力を持つ人間に子を産ませ、軍隊を作ることだ」


 悠の視線が鋭くなる。


「能力者は三人いる。お前、“ガウス”と呼ばれる男、そしてお前の恋人の雪だ」


 男は息を整えながら続ける。


「ガウスは男だ。子は産めない。だから雪を攫った。もう人身売買をやめる理由もない」


「俺は予備か」


「そうだ。代役として──」


 言葉はそこで途切れた。

 悠の両手が、男の喉を掴んでいた。


 骨がきしむ音が伝わる。


「よく聞け」


 低い声だった。


「そんな話で俺が引くと思うな」


 さらに力を込める。


「日本を敵に回す意味が分かってるなら、少しは賢くなれ」


 悠は最後通告のように言った。


「海賊だろうが何だろうが、残らず潰す」


 男が悲鳴を上げた、その瞬間だった。

 身体が揺らぎ、霧が散るように消える。


 もう一人の姿も、同時に掻き消えた。


「……瞬間移動か」


 悠が呟いたとき、遠くからサイレンの音が近づいてきた。


 トンネルに赤色灯が反射する。


「……遅かったじゃねぇか」


 拳銃を握ったまま、悠は目を閉じた。

 意識が、再び闇に沈んでいった。


第19話 渡来


 翌朝。

 飛鳥探偵事務所は、いつもより静まり返っていた。


 意識を失って病院に運ばれ、目を覚ましてから大して時間も置かずに退院した。無茶が過ぎるのは分かっていたが、じっとしていられる性分でもない。戻ってきた事務所に、所長の姿はなかった。


 悠はソファに身体を沈めた。

 背中から腰、腕、脚に至るまで、まだ鈍い痛みが居座っている。撃ち合い、殴り合い、気絶。その繰り返しだ。回復する暇など、最初から与えられていなかった。


「……はぁ。えぐいな。さすがに、きつい」


 吐き出すような独り言が、事務所に転がった。


 それでも、頭に浮かぶのはひとりだけだった。

 雪。

 あの異世界に取り残されたままの少女だ。


「……今、どうしてる」


 答えは出ない。出るはずもない。

 分かっているのは、自分が何も出来ていないという事実だけだ。


「……俺は、何をやってる」


 悠は唇を噛み、視線を落とした。

 自嘲も後悔も、ここでは役に立たない。


 立ち上がり、以前の出来事を反芻する。

 スモーク山。怒りに任せて雪を蹴り上げた、あの瞬間。世界が裂け、帰還への道が開いた。


 ――感情。

 特に、怒り。


 目を閉じる。

 人間を商品として扱う海賊。

 家畜のように扱うエルフ。

 思い出すたび、胸の奥が熱を帯びていく。


「……ひらけ」


 低く呟き、息を整える。


「……ひらけ」


 拳に力がこもる。


「……ひらけ」


 そして、吐き出すように叫んだ。


「ひらけぇぇぇ!!」


 次の瞬間、デスクの前に空間の歪みが生じた。

 見慣れたゲートが、確かにそこに存在している。


「……出来た、か」


 乾いた笑いが漏れる。理屈は分からない。だが、今はそれで十分だった。


 悠は迷わずゲートをくぐった。


 踏み出した先で、光景が一変する。


 巨大な海賊船。

 剣を手に徘徊する荒くれ者たち。

 かつて活気に満ちていた商店街は、すべてのシャッターが閉ざされ、死んだ街のように沈黙していた。


 ティード海賊団に制圧された港町ダイアリー。

 嫌でも理解させられる状況だった。


「……冗談だろ」


 喉が乾く。

 アリスやコロウの顔が脳裏をよぎるが、考えるのは後だ。深入りすれば、今度こそ本気で殺されかねない。


 背後を振り返る。

 ゲートは、すでに消えていた。


「……時間制限、か」


 逃げ道はない。

 悠は銃を構え、海賊船へ向かって歩き出した。


 その背中に、低い声が突き刺さる。


「貴様を待っていた」


 振り向いた先に立っていたのは、ローブを纏った大男だった。

 獣のような眼光。圧倒的な体躯。


 ティード。

 あのオークション会場で、悠を沈めた男。


「……まじか!」


 そう思った瞬間、距離は一気に詰められた。


 重い衝撃が頭部を打ち抜く。

 視界が揺れ、力が抜けた。


 ――意識が、暗闇へと沈んでいく。


第20話 酒


 薄暗い拷問部屋だった。


 意識が浮上する感覚は、頭の中に濁った酒を直接流し込まれるようだった。悠は喉を鳴らし、苦しげに息を吸う。視界に映る天井の木目が、妙に歪んでいる。


「……う、ああ……」


 身体を動かそうとして、無駄だと知った。

 両腕も胴も椅子に縛り付けられている。力を入れても、軋む音すら返ってこない。


 周囲には五人。

 荒事に慣れ切った海賊たちだ。


 だが――

 あの男の姿はなかった。


「起きましたぞ、船長」


 左から声がした。

 悠が視線を向けると、鳥のような頭部を持つ獣人が立っていた。二本脚で立ち、手にした酒瓶を傾け、悠の頭から中身を垂らしている。


 生温い液体が顔を伝い、口元に流れ込む。


「……ぐっ……やめろ」


 酒が喉に流れ込み、息が詰まる。悠は咳き込みながら顔を背けた。


「人間ごときが我らに逆らうとは、愚か者め! 酒に溺れて果てるがいい!」


「……げほっ、げほっ……!」


 喉が焼ける。

 視界がさらに滲んだ。


「やめろと言っているのがわからんのか――ッ!!」


 怒声が響いた瞬間、空気が変わった。


 部屋の中央に立っていた海賊の身体が、音もなく膨れ上がる。骨格が変わり、毛が生え、顔が獣へと歪む。


 狼の貌。

 圧倒的な存在感。


 ティードだった。


 獣化したティードは、振り返りざまに拳を叩き込んだ。

 鳥人――バードリーの身体が宙を舞い、壁に叩きつけられる。羽根が散り、鈍い音が部屋に残った。


「ひ、ひぃ……っ! 申し訳ございません! お許しを……!」


 床に這いつくばるバードリーを、ティードは無言で踏みつける。

 次の瞬間、その視線が悠に向いた。


「貴様、人間の世界で俺の部下に手を出したそうだな?」


 悠は荒い息を吐きながら、睨み返した。


「……はぁっ、はぁっ……だったらどうだ……?」


「お前の名前は、雪とかいう女から聞いたことがある」


 一瞬、悠の目が揺れた。

 それを見逃さず、ティードの口元が歪む。


「助けに来た白馬の王子様が、この有様か。……何がしたかった? コロウにでも泣きつくつもりだったか?」


 言葉は刃物のように、淡々と突き刺さる。


「だがな、もう遅い。貴様は無謀だった。それだけのことよ」


 ティードは腰のサーベルを抜き、悠の首元に刃を当てた。

 冷たい金属の感触が、皮膚を押し潰す。


「トンネルで、俺たちをどうすると言った?」


「……あ?」


「どう・する・か、と聞いている!!」


 怒声とともに、刃先が喉に食い込む。

 血の気が引いた。


「バラバラにしてやる、だったか? ……それがこのザマだ。笑わせるな、小僧」


 周囲の海賊たちが低く笑う。


「世界を繋ぐ女は、すでに手に入れた。貴様はもう用済みだ。ここで……殺す」


 ――ああ。

 悠は、妙に冷静だった。


 これは、終わりだ。


 ティードが剣を振りかぶる。

 視界が白く弾けた、その瞬間――


「水魔法――ドルフィンズ!」


 鋭い声が空気を裂いた。


 青白いイルカが、何体も部屋に出現する。半透明のそれらは、泳ぐように宙を駆け、海賊たちの視界と足場を乱した。


「誰だ!」


「よぉ、海賊ども。探偵君、引き取りに来たぜ」


 声の主は、天井に張り付いた鎧姿の男だった。

 竹槍を構え、獲物を見下ろす目をしている。


「撃てぇッ!」


 バードリーの叫びと同時に、銃声が炸裂した。

 狭い部屋に火薬の匂いが広がる。


 だが、男は弾道を読んだかのように、軽々とかわしていく。


「ほいほいっと」


 一瞬で距離を詰め、悠の前に降り立った。

 次の瞬間、拘束が外れていた。


「な……何が――」


「とんずらこくぞ!」


 男は悠を担ぎ上げ、そのまま窓へと走る。


「ドルフィンズ!」


 再び現れた水のイルカが足場となり、二人を支えた。

 そのまま、海の上を滑るように駆けていく。


「よう、探偵。俺の名はダグだ。

 アルタイル王国の王様が、お前に用がある。俺はそのお迎えってわけだ」


 走りながら、ダグは兜を外した。


 現れた顔は、人間のものだった。

 丸い耳が、その事実をはっきりと物語っていた。


第21話 呪い


 海賊船から十分に距離を取ったころ、二人はなおも海上を疾走していた。


 水面を裂きながら進むダグは、悠を肩から降ろす気配をまるで見せない。波の抵抗など意にも介さず、一定の速度を保ったまま突き進んでいる。


「……うぅ……禁断症状が……!」


 唐突にうめいたかと思うと、ダグは悠の身体を乱暴に振り回した。遠心力で視界がひっくり返る。


「ちょ、待て! 危ないからやめろ!」


「あぁ、悪い悪い。城に戻ったら、薬を打たねぇとな……」


 ――薬。

 その単語が、嫌な重さで耳に残った。


 聞き返す気にはなれなかった。

 今は黙っていた方が、生存率が高い。悠はそう判断した。


 次の瞬間だった。


「このまま逃がすわけ、ないでしょ?」


 声が、すぐ隣から聞こえた。


 悠が息を呑む。

 そこにいたのは、白いローブに身を包み、目隠しをした女だった。足は水面にも触れていない。ただ宙に浮かび、並走している。


 魔女。

 その言葉が、真っ先に頭をよぎった。


「……げっ、封じの魔女……!」


 ダグの声が低くなる。


「封じの魔女?」


 悠が反射的に聞き返す。


「私はヴェンデッタ。ティード海賊団の配下よ。あなたを、このまま還すわけにはいかないの」


「……殺す気か」


「槍兵さまが隣にいる限り、それは無理ね」


 余裕を崩さない微笑みだった。

 状況を完全に掌握している者の表情だ。


 ダグは鼻で笑った。


「へっ、よくわかってんじゃねぇか」


 誇らしげに波を蹴る。そのまま速度を落とさない。


 だが、ヴェンデッタは続けた。


「だからせめて――一つ、呪いをかけさせてもらうわ」


「探偵、伏せろ」


 ダグの声が鋭くなる。同時に、さらに加速した。


「――っ!」


 悠の喉から悲鳴が漏れる。

 水上ジェットどころではない。身体が引きちぎられそうな速度だった。


 だが、それでも――


「……追いつかれたぞ!」


 ヴェンデッタは、同じ速度で空を滑っていた。


「――呪法《べベラ》」


 彼女が右手を掲げる。


「まずい!」


「やめろ――!」


 紫の光が凝縮され、球状になって放たれた。


 直撃。


 脳の奥を焼き切られるような痛みが走る。思考が一瞬で粉砕され、悠の身体が痙攣した。


「……っ!」


 声すら出なかった。


「その呪いの効果はね」


 ヴェンデッタの声が、遠くから響く。


「あなたの世界の住民に、異世界の存在を明かしてはならないという縛りよ。いい? 誰にも、話せないの」


 意識が沈み始める。

 世界が、滲む。


「……殺されなかっただけ、感謝しなさい」


 最後に聞こえたのは、その言葉だった。


「……俺は……一体、何回……」


 悠の意識は、完全には繋がらなかった。

 ダグに支えられたまま、波音に包まれ、静かに闇へと落ちていく。


 また一つ。

 逃げ場のない枷を、背負わされたまま。


第22話 王


 目を覚ましたとき、悠は柔らかな感触に包まれていた。


 天蓋付きの寝台。絹のシーツ。窓から差し込む穏やかな陽光。

 消毒薬の匂いも、機械音もない。ここが病院ではないことは、一瞬で分かった。


 王宮――医務室。


 豪奢だが、逃げ場のない空間だった。


「今度は……どこだ」


 掠れた声が、天井に吸い込まれる。


 その直後、引き戸が静かに開いた。


「おおお、目が覚めましたか」


 入ってきたのは、黒いスーツにマントを羽織った丸坊主の男だった。

 眼鏡の奥で目が細く笑っているが、その表情は作り物じみている。


「私はメント。王室付きの医者です。目覚めて早々で恐縮ですが、クライス王がお呼びです。ご案内いたします」


 形式通りの一礼。

 引き戸を押さえ、待つ仕草。


 ――断れる雰囲気じゃないな。


 悠が身体を起こそうとした、そのときだった。


 視界に入った男の耳。


 尖っている。


 ぞくりと、背中を冷たいものが走った。


 アリスと同じ形状。

 間違いない。人間を喰う側の種族――エルフだ。


 もう迷いはなかった。

 雪を救うためなら、敵か味方かなど関係ない。


 悠は反射的にポケットへ手を伸ばす。


 ――ない。


 ナイフも、拳銃も、すべて奪われていた。


 その瞬間、メントが足を止めた。


 ゆっくりと振り返り、眼鏡の奥から悠を見下ろす。


「変な気は起こさないことです。あなた方の世界など、我々にかかれば――二分で滅びますよ」


 声は穏やかだった。

 だからこそ、言葉が刃のように刺さる。


「ご安心を。我々はあなたを喰うわけではない。……たとえ、あなたが“人間の家畜”であろうと、ね」


 悠は黙って唾を飲み込んだ。


 長い廊下を進み、巨大な扉の前に立つ。

 鎧姿の兵士が、儀礼的な動作で扉を開いた。


 光が溢れ込む。


 玉座の間。


 高い椅子にだらしなく腰かけ、頬杖をついた男がいた。

 青いスーツに赤いマント。整えられた髭。まるで緊張感がない。


「んあぁ……?」


 間の抜けた声を漏らしながら、男は目を開けた。


「彼がアルタイル王国の王、クライス王です」


 メントが淡々と紹介する。


「……あれが王か」


「すまんすまん。昼寝が好きでね。仕事がないと、つい」


 軽い調子とは裏腹に、クライスの視線は鋭かった。

 悠の奥を、値踏みするように見据えてくる。


「ふむ……君が“世界を繋ぐ力”を持つ人間か」


 そのとき、部屋の陰から声がした。


「よう、元気そうだな」


 現れたのはダグとコロウだった。


「無事のようじゃな」


 悠は短く息を吐く。


「事情を話したのは、この爺さんか?」


「そうだ」


 クライスは玉座から降り、数歩前に出た。


「――君の力を、我々は“ウォーク”と呼んでいる。世界と世界を繋ぐ力だ」


 悠は黙って聞いていた。


「ティードの目的は、そのウォークの使い手同士に子を産ませること。だが、この力はエルフには発現しない」


 言葉が、一本の線で繋がっていく。


「だから奴らは、人間の世界から女や子供をさらっていた」


 トンネル。

 あの男。

 ガウス。


「ティードの配下に“ガウス”という人間がいる。彼もウォークの使い手だ」


 間違いない。


「なぜ人間にだけ、この力が宿るのかは分からない。だが――」


 クライスの声が、わずかに低くなる。


「君の存在は、この戦いの要だ」


 悠は一歩も引かなかった。


「……話は分かった。それで? 結局、何が望みだ」


 クライスは静かに、しかしはっきりと言った。


「――我々に力を貸してくれ。ティード海賊団を、共に潰そう」


 その言葉は、命令ではなかった。

 取引でもない。


 戦争への招待だった。


第23話 作戦


作戦会議


「作戦は――こうだ」


 玉座に腰かけたまま、クライス王が口を開いた。

 その声は重く、余計な感情を削ぎ落としている。


「……雪を取り返せるなら、なんだってやる。話してくれ」


 悠は思わず身を乗り出していた。

 だが、クライスは首を横に振る。


「まず、君は前線には出るな」


 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


「……は?」


「君のウォークの力は危険すぎる。使い方ひとつで、戦況を百八十度ひっくり返しかねない」


 コロウが低い声で続ける。


「おそらくティード側も、同じ能力者であるガウスを前線には出さぬ。簡単に失うには惜しい駒だからな」


 悠は心の中で舌打ちした。

 せっかく、目の前の敵を叩き潰せると思ったのに。


 ――エルフどもの、絶望に染まった顔を。

 時間をかけて、ゆっくり見られると思ったのに。


「ふはは。今、相当物騒なこと考えてただろ?」


 笑いながら口を挟んできたのはダグだった。


「……なんで分かった。魔法か?」


「いやぁ、顔に出てた。ちょっと一般人いじめちまったな」


 胸の奥で、何かが小さく弾ける。


「……どいつもこいつも、俺を舐めやがって」


 悠は指を突き立てた。


「そんなにすげぇ力を持ってるって言うなら、使い方の一つくらい教えろよ。いいか、俺はまだお前ら人喰い種族を信用してねぇ」


 一拍置き、吐き捨てる。


「最悪――もう一度世界を繋いで、俺の世界の警察を呼び込んでやる」


 空気が、わずかに張りつめた。


「……お前に、力や魔法の使い方を教える時間は、もう残っておらん」


 コロウの声は淡々としていた。


「ティードは、すでに港町ダイアリーを占拠している」


 クライスが言葉を継ぐ。


「王都に被害が及ぶのも時間の問題だ」


 一歩前に出たメントが、理性的な口調で説明する。


「ティード海賊団は、近年急激に勢力を拡大しています。今や一国の軍でも、正面から止めるのは困難です」


 クライスの声が、さらに低く沈む。


「だが――ダイアリーを襲った最大の理由は、君だ」


「……俺?」


「彼らは君を恐れている。ウォークの力を持ち、その上で凶暴だ。いつ、どんな形で牙を剥くか予測できない」


 視線が、真っ直ぐ悠を射抜いた。


「だからこそ、確保しようとした」


「確保……?」


「ガウスが死んだ場合の“補欠”として、君を冷凍保存するつもりだった」


 淡々と語られる内容が、背筋を冷やす。


「だが、その計画は狂った。君がダイアリーで起こした一件でな」


 ――泥棒を捕まえた、あの夜。


「君は、あまりにも凶暴だった。管理できないと判断されたのだ」


「……それで町ごと占拠した?」


「ああ。最後に君が確認された場所だったからな。ウォークを制御される前に、排除するつもりだった」


「でも、もう遅かった」


 ダグが肩をすくめる。


「俺が助けなきゃ、お前、バラバラにされて海に捨てられてたぞ。完全に終わりだ」


 悠は短く息を吐いた。


「……わかった。で、結局俺は何をやればいい」


「君はコロウと行動を共にする」


 クライスの言葉に、コロウが小さく頷く。


「彼は老いて見えるが、銃の腕は一流だ。必要とあらば、命に代えてでも君を守る」


「そして前線には――私と騎士団が出る」


「王様が前に出るのか」


「クライスは強ぇぞ。ティードとタイマン張れるくらいにな」

 ダグが楽しそうに言った。


「我が騎士団には、ダグ、メント、そして今は不在だが――クリス、カノン、カイラがいる」


「カイラは現在、ハミット王国で王子の護衛任務中だ。今回の戦には戻れまい」


 そのときだった。


 ガチャリ、と重い音が響く。


 扉が開き、スーツ姿の若い金髪の男と、制服を着た短髪の少女が、静かに玉座の間へ足を踏み入れた。


第24話 クリスとカノン


「ただいま戻りました、陛下」


 高身長の金髪の青年が、一歩前に出て頭を下げた。背筋は伸び、仕草に一切の無駄がない。整った顔立ちと冷えた目元が、近寄りがたい印象を強めていた。


 その横で、制服姿の短髪の少女が大きく伸びをする。


「ふわぁ〜、ただいまですぅ〜」


 玉座に腰掛けるクライス王が、二人を見下ろした。


「ちょうど良いところに来たな。お前たちの話をしていたところだ」


 少女は即座に反応し、目を輝かせて前へ出る。


「おぉっ! 君が悠くんだね!? ウォーク能力者の人間さん!」


 距離が近い。あまりにも無防備な笑顔だった。悠は本能的に身構える。


「おい、人間。カノンから離れろ」


 低く、刃物のような声が飛んだ。金髪の剣士だった。


「こいつが勝手に寄ってきたんだろうが」


「カノン、そんな家畜の元に近寄るな。臭いが移る」


 空気が変わった。悠の内側で、何かが弾ける。


「おい金髪……殺されてぇのか? あ?」


「だったらどうする。丸腰の貴様に、俺が倒せるか?」


 悠はポケットに手を突っ込み、口元を歪めた。


「死にてぇみたいだな……繋がれぇ!」


 空間が裂け、黒い裂け目が口を開く。次の瞬間、異界から吐き出された鉄塊が王城へ突進した。


「うわぁぁぁぁあああ! なんなんだよぉぉー!!」


 運転手の悲鳴は、衝撃音に飲み込まれた。床が跳ね、衝撃が玉座の間を揺らす。


 煙が立ちこめる中、金髪の剣士は動かなかった。無傷のまま、そこに立っていた。


「ふん。この程度か。世界を繋ぐ力を持つ人間とやらは」


「……あはは、さすがに殺せねぇか」


 緊張が張り付いた空間に、少女の声が割って入る。


「お、おちついてよ! 二人とも! 喧嘩してる場合じゃないでしょ!?」


 少女は剣士の傍に寄り添い、様子をうかがう。


「どしたの? つらいことあった? 貴方のお話、いっぱい聴きたいな」


 剣士の目から、わずかに鋭さが抜けた。


「あぁ、すまん。少し気が張っていたようだ」


 悠はクライス王へ視線を戻す。


「で、こいつらも騎士団ってやつか?」


「その通りだ。雷鳥の魔法を操るクリス。高機動を誇る剣士だ。そしてカノンは学生だが、剣の腕は一級品だ」


「クリスが失礼なこと言ってごめんね。私はカノン! あなたとも仲良くしたいな。よろしくね!」


 悠は肩をすくめる。


「こっちも悪かったよ。……にしても、綺麗な顔してんな。学校じゃモテるだろ?」


「うん、まぁ。でも私にはクリスがいるから! それにね、わたし“男”なの!」


「……は?」


 理解が追いつかない。どう見ても少女だった。


「カノン! そんな奴と話すな! 戻ってこい!」


「はぁーい」


 カノンは小走りで戻り、剣士の腕に寄り添う。


 悠は小さく息を吐いた。


(まともなのは、あのハゲの医者くらいか……)


「こいつらが我がアルタイル騎士団だ」


 王の言葉と同時に、王都の空がざわめいた。


 王都上空。


 鳥の姿をした男の背に、忍装束の男が跨がっている。


「ほぉ……攻めてくるか」


「ケケケ、船長に報告せねばな、ジャック」


「戦争か……待っていたぞ。この忍術で奴らを蹂躙してくれる」


「やめておけ。お前の技は戦には向かん」


「ふふふ……あなどるな。探偵は必ずこの手で仕留めてみせる」


 港町ダイアリー。


 海賊船の甲板に降り立つ二つの影。


「ただいま戻りました、ティード様」


「……今はやめろ。ワイン飲みすぎて気持ち悪い……」


 ティードは顔をしかめ、口元を押さえた。


「敵はこちらに向かっております」


「私にお任せください。あの忌々しい探偵、今度こそ始末してみせましょう」


「女、こっちに来い」


 下着姿で首輪をつけた少女が、ゆっくりと歩み寄る。


「貴様は人質だ。だが問題はクライスだ……奴は容赦しない」


「……やめてよ。お願い……家に帰して……」


 ティードは鼻で笑った。


「俺の暗黒砲か、クライスの光魔法か……」


「どちらが上か、楽しみだ」


 男はワインを掲げ、歪んだ笑みを浮かべる。


 ――海の決戦が、静かに牙を剥いた。


第25話 海戦


 馬の蹄が石畳を叩く音が、一定のリズムで続いていた。

 悠は城門をくぐり抜け、初めて王都の外気に晒される。


 視界いっぱいに広がる市街地。整えられた道の両脇には石造りの建物が並び、人のざわめきが生き物のように流れていた。


 門前で一度、馬が止まる。

 その瞬間、周囲の視線が一斉に悠へ集まった。


「耳が……丸いぞ」

「まさか人間か?」

「なんで家畜が陛下の城から出てくるんだ?」


 言葉は刃だった。

 悠は表情を変えず、黒光りする馬車へと歩を進める。


「ここが……王都か」


 漏れた呟きに、隣を歩くメントが穏やかに応じた。


「そうか。あなたは目覚めた時には、すでに城の中だったな」


 馬車に乗り込んだ瞬間、軽い気配が跳ねる。


「やっほー、悠くん! あ、隣、いいかな?」


 顔を覗かせたのはカノンだった。

 二人きりの座席。悠の脳裏に、金髪の剣士の険しい目が浮かぶ。


 カノンは気にした様子もなく、屈託なく笑った。


「私ね、エルフとか人間とか、そういうの関係ないと思ってる」


 その言葉に、悠は視線を向ける。

 軽さは消え、真剣な目だった。


「なんで人間が“食べ物”になったのか、知ってる? 五百年前に起きた“ビッグバン”って呼ばれる戦争で、人間はエルフに敗れて降伏したの。それがすべての始まり」


「つまり……人類は、負けたのか」


「うん。戦わずに、降参したの」


 馬車の外から、御者の張りのある声が飛ぶ。


「まもなく発進いたします!」


 列を組んだ馬車が動き出す。

 クライスをはじめ、各騎士団員もそれぞれの馬車に分かれていた。


 背後の城から、ファンファーレが鳴り響く。


「陛下! ご武運を!」

「平和を取り戻してください!」


 歓声に応えるように、クライスは窓を開け、拳を振り上げた。


「うぉーっ!!!」


 王の咆哮が、王都を震わせた。


 ──港町ダイアリー 午後六時。


「見えてきたな……」


 クライスの低い声が、車内に落ちる。


「そろそろ停めるか?」とコロウ。


「ああ」


 馬車が順に止まり、一同は地面へ降り立った。


 視界の先。

 巨大な木造の海賊船が、港に鎮座している。

 周囲には焼け落ちた建物の残骸。人の営みが、黒く潰れていた。


「これが……ダイアリーなのか」


 悠は言葉を失った。


「いいか、作戦を伝える」


 クライスが振り返る。


「まず、ダグ、クリス、カノン、メントで奇襲をかける。敵は我々がここまで踏み込むとは思っていない。だったら最初から全力だ」


 空気が張り詰める。


「俺の光魔法“ダイス”が準備できるまで、海賊幹部を削れ。悠、お前は馬車で待機だ。いざとなればゲートを開け」


「わかった」


「コロウ、お前は悠の護衛だ」


「任せろ、相棒」


 ダグが肩を回し、気の抜けた声を出す。


「さ〜て、やりますか」


 そして呪文を唱えた。


「水魔法・ドルフィンズ!」


 水が形を持ち、イルカとなって空を切る。

 次の瞬間、街へと突入した。


 爆風が地面をえぐり、黒煙が立ち上る。


 その光景を、甲板の上から見下ろしながら、ティードが呟く。


「来たか、我が兄弟たちよ……」


 戦いは、すでに始まっていた。


第26話 海戦PartⅡ


「おいおい、だらしねぇなぁ……海のクズどもがよォ!」


 ダグの咆哮が街路に響いた。

 水で形作られたイルカ《ドルフィンズ》を引き連れ、男はダイアリーの中心部へ突入する。水飛沫が砕け、魔法生物が獣のように地を蹴った。


「騎士団のダグが来たぞ! やっちまえ!」


 海賊の下っ端たちが我に返り、ショットガンを構える。

 銃声が重なり、弾丸が雨のように飛んだ。


 だが、弾は届かない。

 水の膜が盾となり、すべてを弾き返した。


「ぬるいんだよォ! てめぇらの攻撃はァ!」


 ダグは止まらない。

 水を纏ったまま、瓦礫を踏み越え、敵陣へ踏み込む。


 その進路を塞ぐように、巨体が現れた。

 角張った四肢。岩を削って作ったような身体。


「お前ら、下がってろ」


 低い声に、海賊たちは一斉に道を空けた。


「てめぇが俺を楽しませてくれんのか? あぁ?」


 ダグが口角を上げる。

 男は返事をせず、周囲の空気を嗅ぎ取った。


「……薬物の匂い。枯枯草か。なるほどな」


「せいかーい!! 俺を殺せるやつなんざ、この世にいねぇ!」


「哀れだな。王国を守る軍に、こんな人間がいるとは」


「俺ぁ愛国者なんだよォ! 国のためなら、何したって許されんだよ!」


 ダグは背中の竹槍を引き抜き、迷いなく振り抜いた。


 鋭い一撃。

 だが、槍は岩の頬に弾かれただけだった。


「普通のエルフなら死んでる。……かてぇな。幹部だろ?」


「いかにも。ティード海賊団幹部、ガーゴンだ」


 岩のような肉体。

 あらゆる衝撃を拒む魔法の防壁。


「岩石化魔法か」


「聞いているぞ。貴様が騎士団最強らしいな」


「だったらどうした」


「ここで潰す。それだけだ」


 ガーゴンの平手が、ダグの頬を捉えた。


 衝撃。

 ダグの身体は宙を舞い、焼け落ちた民家に叩きつけられる。


「残念だったな。最強はこの俺だ」


 次の瞬間、空気が裂けた。


 雷鳴。

 電光の残像とともに、金髪の剣士――クリスが背後に立っていた。


「……速い……!」


 雷を纏った剣が振るわれる。

 ガーゴンの巨体が弾き飛ばされ、地面を転がった。


「俺の魔法は“雷化”。雷を纏い、移動も攻撃も可能だ」


 その声を嘲るように、羽音が上空から降ってくる。


「防御に寄せすぎたな、ガーゴン。見苦しい」


 鳥の姿をした男が、ゆっくりと舞い降りた。


「バードリー……貴様も幹部か」


「五年ぶりだな、クリス。元気そうで何よりだ」


 ティード海賊団創設期からの幹部。

 空を支配する殺し屋。


「悪いが、再会を祝う気はねぇ。ここで終わりだ」


「ケケケッ! いいねぇ! 速さ比べといこう!」


 バードリーは一気に高度を取った。


「飛びやがったか! 反則だろうが!」


「悔しければ、お前も飛べ!」


 クリスは短く息を吐き、右腕を天へ突き上げる。


「来い、雷鳥《ザンダー》!」


 雷鳴が爆ぜ、光の中から雷の鳥が形を持つ。

 凝縮された雷の塊が、意志を宿したかのように羽ばたいた。


「おい、金髪……俺の魔法、真似してんじゃねぇぞ……」


 瓦礫の中から、ダグが立ち上がる。


「勝てりゃ何でもいい」


「……だな」


 その瞬間、瓦礫が弾けた。


「まだだ……まだ終わってない!!」


 ガーゴンが再び姿を現す。

 砕けぬ意志だけが、なお立ち上がらせていた。


 ダグが歪んだ笑みを浮かべる。


「今度は本気だ。覚悟しろよ、岩野郎」


「こちらも同じだ」


 雷鳴、銃声、水の奔流、羽ばたき。

 すべてが交錯する。


 ――ダイアリー奪還戦は、もはや後戻りできない段階へ踏み込んでいた。


第27話 海戦PartⅢ


 このまま、待てというのか。

 悠は歯を噛みしめた。


 視線の先には、雪がいる。確かに、そこにいる。

 それなのに、自分は一歩も踏み出せない。


「気持ちはわかる。恋人をすぐにでも助けに行きたいのじゃろう」


 低い声で、コロウが言った。


「わしも同じじゃ。だが、船にはティードがいる。命が惜しければ、騎士たちが敵を殲滅するまで待つんじゃ」


 悠は返事をしなかった。

 待つ、という言葉が、喉に引っかかる。


 そのときだった。


 クライスが天に掲げていた剣を、静かに下ろした。


 ――止まった。


 構えが変わる。


「どうした?」


「……来る」


 答えたのはコロウだった。


「空からじゃ。強いのが」


 空気が変わる。

 悠は反射的に拳銃を抜き、構えた。


「悠、下がれ」


 クライスが一歩前に出る。


 次の瞬間、影が落ちた。


 地に降り立ったのは、忍者装束の男と、黒衣の魔女だった。


「お前……俺の呪い、早く解けよ!」


 悠の声が、思わず荒れる。


「君を狙いに来たんだけどさ」


 魔女――ヴェンデッタが、楽しげに笑った。


「王様と銃ジジイまで一緒とはね」


「簡単にはいかんようだな」


 ジャックが、二刀の短剣を抜く。


「いいか」


 クライスが低く告げる。


「忍者は脅威ではない。だが魔女には気をつけろ。魔法の腕が違う」


「……俺が強くない、だと?」


 ジャックの目が細くなる。


「私は忍者をやる。コロウ、お主は悠を守りつつ、魔女を引き受けろ」


「無茶を言うわい」


 コロウが吐き捨てるように言った。


「行くぞ」


 ジャックが跳んだ。

 短剣が走る。


 だが、刃は剣に弾かれた。


「この程度か」


 クライスは鼻で笑い、そのまま左手で忍者を掴む。


「海賊団の幹部とは、がっかりだな」


 次の瞬間、地面ごと投げ飛ばした。


「あなたはステルス向きでしょ?」


 ヴェンデッタが小さく笑う。


「正面から王様に挑んで、勝てるわけがないわ」


「この場所を選んだのは貴様だろうが!」


 ジャックが怒鳴る。


「ふふ……あなたがここで死んでくれれば、新しい船長候補が減って助かるのよ」


 銃声が響いた。


 だが――当たらない。


「無駄よ、お爺さん」


 ヴェンデッタの姿が、影のように崩れる。


「なるほど、投影か」


 コロウが唸る。


「ご名答。本体は船よ」


 魔女の声だけが残った。


 その瞬間だった。


 刃が閃き、御者の首元から血が噴き出す。


「こっちだぁ、王様ァ!」


 ジャックが運転席に飛び込み、馬車を走らせた。


「乗ってやる、その勝負」


 クライスが地を蹴る。


 馬車と並走する王の姿に、悠は思わず目を見張った。


「……走って追いついてる……」


「油断するな」


 コロウが悠の前に立つ。


「来るぞ」


「――呪法《ツンドラ》」


 杖が光り、紫の魔力が奔る。


 だが、コロウは紙一重でかわした。


「オイ! こっちだ!」


 悠も引き金を引く。


 しかし――


「無駄だって言ったでしょ?」


 ヴェンデッタの声が、空に溶ける。


「本体は“船”よ」


 影が消え、静寂だけが残った。


 悠は、拳銃を握りしめたまま、唇を噛んだ。


 ――待っているだけでは、何も守れない。


第28話 海戦PartⅣ


 弾は当たらない。

 引き金を引くたび、虚しさだけが積もる。


「……クソ。本当に当たらねぇな」


 吐き捨てた瞬間、冷たい笑いが返ってきた。


「諦めるのかしら?」


 ヴェンデッタの声だった。


 一歩前に出たコロウが、低く言う。


「焦るな、若造。まだ終わっておらん」


 その直後だった。

 地鳴りのような蹄音が、背後から迫る。


「探偵! 今度こそ終わらせてやる!」


 怒声とともに現れたのは、トンネルで遭遇した男――レガースだった。


「また殴られに来たのか?」


 悠は一瞬だけ笑い、声を張る。


「返り討ちにしてやるよ」


「今度は容赦せん!」


 レガースの掌から、火球が放たれた。


 悠は舌打ちし、横へ跳ぶ。

 熱が頬をかすめ、背後で地面が焼ける。


「どうしたぁ! さっきの威勢は!」


 炎が連続して飛んでくる。

 悠は走り、避け、距離を測った。


 ――このままじゃ、削り殺される。


「……なめんな」


 呼吸を整え、意識を一点に絞る。


「繋がれ」


 空間が歪んだ。


 次の瞬間、視界は一変する。

 雑踏。ネオン。信号の音。


 渋谷のスクランブル交差点だった。


 悲鳴が上がり、人波が割れる。


「どけ!」


 悠は叫び、人をかき分けた。


 銃口を空へ向け、引き金を引く。


 ――背後だ。


 怒りを叩きつけるように、叫んだ。


「繋がれ!」


 ゲートが開き、その向こうにレガースの背中があった。


「おらぁ!」


 悠は駆け、体当たりする。


 鈍い衝撃。

 レガースが呻き、地面に崩れた。


 ゲートは即座に閉じる。


 悠は馬乗りになり、拳を叩き込んだ。


「何回やっても同じだ!」


 殴る。

 殴る。


「てめぇじゃ、俺は殺せねぇ!」


 その声を、冷静な声が遮った。


「ヴェンデッタ。伝えろ」


 コロウだった。


「悠は、すでにウォークを使いこなしている」


 背後で轟音。

 血にまみれた馬とともに、ジャックが吹き飛ばされてくる。


「……やりすぎたな」


 淡々と呟くクライス。


「馬まで巻き込むな」


「射程にいたのが悪い」


 短い応酬のあと、ジャックが呻いた。


「……化け物じみてやがる。船長に伝えろ」


「ええ」


 ヴェンデッタは冷たく言い、悠を見る。


「また会いましょう、探偵さん」


 闇に溶けるように、その姿は消えた。


「……突入する」


 クライスが決断を告げる。


「決め技は使わんのか」


「不要だ。ダグたちが、すでに幹部を削っている」


 そして、悠を振り返った。


「君はここで待機だ」


「……は?」


 悠の声が荒れる。


「切り札は、最後まで切るな。合図が出たら、街ごと包め。湖でも、海でもいい」


 悠は唇を噛み、睨み返す。


「雪に手ぇ出したら、全員殺す」


「いい目だ」


 クライスは、わずかに笑った。


「その時は、返り討ちにしてやる」


 次の瞬間、二人は走り出す。

 港町ダイアリーへ――決戦の中心へ。


 悠は、その背中を見送った。


 拳を握りしめながら。


第29話 海戦PartⅤ


 ダグは竹槍を大きく振り抜き、行く手に立つ下っ端海賊を容赦なく薙ぎ払っていった。体格に似合わぬ荒々しい動きだったが、その一撃一撃には迷いがない。


「タフだな、薬中野郎」


 ガーゴンは一歩引いた位置から、冷えた視線でその背中を眺めて呟いた。


「誉め言葉か?」


 ダグは振り返りもせず、鼻で笑うように返す。


「多分違うぞ」


 低い声が背後から割り込んだ。

 クリスだった。血に濡れた手で、バードリーの首を掴み、そのまま地面を引きずっている。白かった衣服は赤黒く染まり、その姿はもはや人というより、戦場に棲む獣に近かった。


「そっちこそ、殺戮を楽しんでるな?」


 ダグがその光景を見て、愉快そうに言う。


「分かってるみたいだな」


 クリスは無表情のまま、頬に付着した血を舌で拭い取った。


「き、貴様……この私に……こんな仕打ちを……」


 バードリーが掠れた声で叫ぶ。


「アハハ、これから仲間の前でお前の首を切ってやる」


 感情の起伏を感じさせない声で、クリスは言い放つ。

「知り合いだからって、敵は敵だ」


「や、やめてぇええ!!」


 悲鳴が夜気を裂いた。


「いいぞぉ、クリス! やっちまえ!」


 ダグは完全に興奮し、周囲の混乱すら娯楽のように楽しんでいた。


 そのとき、鋭い足取りでカノンが割って入った。

 剣を振るいながら、別方向から迫っていたガウスと斬り結ぶ。


「どいてどいてー!」


 声とは裏腹に、その剣筋は正確だった。


 ガウスは、引きずられるバードリーの惨状を見て、一瞬言葉を失った。


「……イカレたやつらだ」


 低く吐き捨てる。


「おい、バードリー。何故負けた?」


 重く響く声が戦場を制した。

 いつの間にか、ティードがバードリーの前に立っていた。


「よォ、大将! ここで終わりだぁ!」


 ダグが挑発的に叫ぶ。

「いけ、ドルフィンズ!」


 召喚されたイルカたちが突進する。しかし、ティードは一切慌てず、剣を構えたまま黒い光を解き放った。


「失せろ、暗黒砲ガノン」


 光線は一直線に走り、ドルフィンズを跡形もなく消し飛ばした。


「……ふん」


 吐き捨てるような一言。


 次の瞬間、ダグの体が衝撃に弾き飛ばされ、空中に放り出された。


「まじかよ……」


 クリスが呆れたように呟く。

 ダグが落下するより早く、彼はソードオフショットガンを取り出し、引き金を引いた。


 その反動でダグはさらに吹き飛ばされ、民家の壁を突き破って姿を消す。


「暗黒魔法、ブラックボックス」


 ティードが淡々と呟くと、黒い宝箱のような異形が出現した。

 それは意思を持つかのように歪み、笑みを浮かべる。


「こいつらを一掃しろ」


 命令を受け、ブラックボックスは大きく口を開いた。


 次の瞬間、黒い火球が空から降り注いだ。


「カノン、気をつけろ! 嫌な気配がする!」


 クリスが叫ぶ。


 逃げ惑う下っ端たちの悲鳴が次々と上がる。火球に触れた者から、身体が焼かれ、炎に包まれていった。


「そいつは、触れたら終わりだ」


 ティードは冷徹に告げる。

「ブラックボックスか、触れた相手が死ぬまで燃え続ける」


「きゃ……熱っ……!」


 カノンも火球に触れ、炎に包まれた。


「カノン!!」


 クリスは駆け出そうとするが、間に合わない。


「戻せ、ティード!」


 怒りを剥き出しにし、睨みつける。


 少し離れた場所では、ダグもまた炎に包まれ、苦悶の声を上げていた。


「バードリー、引くぞ」


 ガーゴンは冷静に言い、仲間を背負って後退する。


 クリスは歯を噛みしめた。

 あと一歩だった。確実に殺せた距離だった。


「皆さん、治癒します」


 メントの声が響き、杖が淡い光を放つ。


「回復してる……でも、まだ燃えてる……!」


 カノンの声は苦しげだった。


「こっちもだ……!」


 ダグも必死に叫ぶ。


「やはり、あの箱を倒さない限り無理ですね。街を焼いたのも、この力でしょう」


 メントは状況を冷静に見極める。


「そういうことだ。諦めろ」


 ティードは余裕の表情を崩さない。


「諦めるのは貴様だ、ティード」


 鋭い声が割り込んだ。


 クライスだった。

 駆け寄りざま剣を交え、衝突の衝撃で地面が悲鳴を上げる。


「来たか、兄弟よ」


 ティードが冷ややかに言う。


「もう兄弟ではない」


 クライスは剣を構え直し、怒りを込めて言い切った。

「――決着をつける」


第30話 決着


「何年ぶりだ、クライス!」


「覚えていないな」


 刃と刃が噛み合い、火花が散る。二人は間合いを詰め、退き、再び踏み込む。剣戟はもはや挨拶ではなく、互いの生存を賭けた問いかけだった。


「見せてやる、真の力を!」


 ティードは剣を捨てるように収め、上半身を晒す。筋肉が緊張し、空気が歪む。


「変身術、ウルフ!」


 咆哮が夜を引き裂いた。

 皮膚は瞬時に黒い毛に覆われ、骨格が軋む音を立てて変形する。顔は獣へと崩れ、狼の顎が現れた。そこに立っているのは、もはや人ではない。


「どうだ。これがウルフだ。人間の世界では伝説として語られる、幻の猛獣だ」


 クライスは一歩も退かない。


「ならば、こちらも本気を見せてやる。アーマード」


 金属音が重なり合う。

 虚空から現れた鎧が、彼の身体を包み込んでいく。無駄のない造形。力を受け止めるためだけに存在する装甲だった。


「この鎧は飾りではない。魔力を蓄え、最適な形へ変化する。私の魔力は、この国でも最強だ」


「ただの鎧だ。俺の敵じゃない」


「そうか。なら、試せ」


 次の瞬間、ティードの拳が腹部に突き刺さる。

 衝撃は凄まじかったが、鎧は悲鳴すら上げなかった。


「……この程度か」


 拳は弾かれ、ティードは低く唸る。


「強度は本物らしい。面白い」


 剣は捨てられ、戦いは殴り合いへと変わる。

 獣の拳と鎧の塊がぶつかり、鈍い衝撃が何度も響いた。


「騎士道もクソもないな」


「同感だ」


 ティードの重い一撃が連続して叩き込まれ、ついにクライスは膝をついた。地面に手を突き、呼吸を整えようとする。


「終わりだ、兄弟」


 金属音。

 ティードはショットガンを取り上げ、銃口を向けた。


「こっちだ、馬鹿野郎!」


 背後で空間が裂けた。

 悠が開いたゲートから、地下鉄の車両が咆哮と共に飛び出す。


 急ブレーキの悲鳴が響くが、距離は近すぎた。


「まじかよ」


「カノン、掴まれ!」


 次の瞬間、電車がティードを飲み込み、爆風が街を叩いた。


「ぐああああ!!」


 叫びと衝撃が混ざり合い、視界が白く弾ける。


「陛下!」


「皆さん、無事ですか!?」


 瓦礫が落ち着いた頃、声が飛び交う。


「カノンのバリアがなきゃ、終わってたな」


「ううん。無事でよかった。それで十分」


 クリスは倒れたクライスのもとへ駆け寄る。


「陛下、大丈夫ですか」


「問題ない。それより、ティードを追う」


 悠は倒れ伏すティードの前に立ち、銃口をその眼球に押し当てた。


「雪を返せ」


 ティードは苦悶に顔を歪めながら、嗤う。


「もう遅い……あの女は、ヴェンデッタが基地へ移送した」


「基地? どこだ」


 答えは返らなかった。


 上空から影が落ちる。

 バードリーだった。


「羽爆弾!」


 白い羽が散り、次の瞬間、爆風が街を包んだ。


「まずい、悠! 逃げろ!」


「は?」


 衝撃で視界が揺れ、建物の破片が舞う。

 煙の中、バードリーはクライスを背負い、そのまま空へ舞い上がった。


「逃がすかよ……外道が!」


 悠は引き金を引き続けるが、弾はすべて虚空を切る。


「……クソ。逃げられたか」


 周囲を見渡すと、街は炎に包まれていた。


「鎮火しなければ」


「了解。行け、ドルフィンズ」


 水の奔流が建物へと走り、炎を押し返す。


 数分後、ようやく火の手は収まった。

 だが、街に残ったのは焦げた匂いと、決着のつかなかった戦いの後味だけだった。


第31話 海の終戦


 生き残った住民たちが、瓦礫を避けるようにして広場へ集まってきた。

 すすに汚れた顔、破れた服。それでも誰もが、互いの無事を確かめ合うように声を上げている。


「おーい!! カノン! 探偵さーん!!」


「げぇ……」


 聞き覚えのある甲高い声に、カノンの肩が跳ねた。


「アリス!!」


 次の瞬間、彼女は駆け出していた。

 人混みを縫い、二人は勢いのまま抱き合う。


「怪我してない!? ずっと心配してたんだよー!」


「私は平気! アリスのパパとママも無事でよかった!」


 笑顔が、ようやく戦場の空気を和らげた。


 アリスはそのまま、悠の前へやってくる。


「……な、なんだ?」


「この前は食べちゃおうとしてごめんね。でももう食べないから!」


 無邪気な笑顔。

「あなたがいなくなったら、カノンが悲しむもんね!」


 悠は一瞬、言葉に詰まり、視線を逸らした。


「……“あなたは”、な」


 そのとき、規則正しい足音が近づいてきた。


「あれは……?」


 制服姿の青年が、鎧姿の兵士を数名従えて歩いてくる。


「皆さん、ご無事ですか」


「おおおお! たいちょおおおお!!」


「カイラ! 戻ってたのか!」

 クリスが珍しく、屈託のない笑顔を見せた。


「私が呼んだ。手当と迎えが必要だろう」

 クライスが穏やかに言う。


「カイラ……?」

 悠は青年を見て、わずかに眉をひそめた。


 騎士というより、学生のような面立ちだった。


「アリス、カノンちゃん。無事で本当によかった」

 カイラは心底ほっとした声で言った。


「悠、紹介しよう」

 クライスが一歩前に出る。

「アルタイル騎士団隊長、カイラ・エドワードだ」


「あなたがウォーク能力者の人間ですね。話は聞いています」


 ぎこちなく頭を下げるカイラに、悠は深く追及しなかった。


「カイラは我が国随一の戦力だ。だから、息子と次女の護衛を一任した」

 クライスは誇らしげだった。


「ご子息様は王宮へ無事帰還しました」

 カイラが即座に報告する。


「うむ。ご苦労だった」


 その直後――

 爆発音が空気を引き裂いた。


「忘れてもらっちゃ困るぜええ!! 探偵!!」


 怒声と共に、炎の玉が夜空を照らす。

 レガースだった。馬に跨り、狂気を剥き出しにして突進してくる。


「今度こそ、炎で消してやる!!」


 悠は瞬時に状況を整理する。

 拳銃は空。騎士たちは消耗しきっている。王国兵では止められない。


「陛下、お下がりください!」

 兵士たちが前に出ようとした、その前に――


「みんな、下がってて」


 カイラが一歩踏み出した。

 迷いのない声だった。


「来い、リヴァイアサン」


 右手を掲げた瞬間、空間が歪む。

 巨大なエイに翼を生やした異形が現れ、一直線に突進した。


 次の瞬間、レガースは丸ごと呑み込まれた。


 ――爆音。


 リヴァイアサンは内部から崩壊し、光と衝撃だけを残して消えた。

 そこには、何も残らなかった。


「……何が起きた?」


 悠の呟きに、カイラは淡々と答える。


「飲み込まれた対象は、この世界のどこにも存在できなくなる。だから、内部で消滅する」


「格闘術も化け物じみてるんだぜ」

 ダグが感心したように言う。

「俺らじゃ、逆立ちしても敵わねえ」


 クライスが前に出て、広場に響く声で告げた。


「ダイアリーの皆! 海賊の脅威は去った! 我々は復興を全力で支援する! 兵士の指示に従い、テントへ向かってくれ!」


 ほどなく、馬車と共に兵士たちが到着し、仮設テントが次々と立ち上がっていく。


「悠、そして騎士たちもご苦労だった」

 クライスは低く続けた。

「だが、ティードが諦めるとは思えん。また来るだろう」


「コロウの爺さんは?」

 悠が周囲を見回す。


「市民の救助に向かわせた。じき戻る」


 やがて、一行は城へ戻った。

 だが、何一つ終わってはいなかった。


 ――数日後。

 スモーク山の小屋前。


「世話になったな」


「今のお主には呪いがかかっておる」

 コロウが低く告げる。

「この世界のことを、自分の口から語るな。石になって死ぬ」


 悠の脳裏に、拘留室の男が浮かぶ。

 異世界のことを口にし、石になった男。


 ――あいつも、海賊の仲間だったのか?


 違和感が積み重なる。

 なぜ、自分が一度戻ったとき、釜野たちはその男の話をしなかった?


 不自然だ。

 まるで、直後に“誰かが処分した”かのように。


 捜査班の解体。

 警視庁と海賊の繋がり――考えれば考えるほど、臭い。


 悠は頭を掻き、ゲートへ足を踏み入れた。


 渋谷スクランブル交差点。

 騒音、雑踏、変わらない日常。


 だが――その世界に、雪はいない。


 諦める理由は、どこにもなかった。


「……必ず取り戻す」


 声は低く、だが確かだった。


「たとえ、命が尽きても」


カクヨムにて投稿したエピソードを章ごとにまとめています

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