ChapterXV
第1話 20年後
二十年後――沖縄。
かつての浪野探偵事務所跡地。
建物はすでに廃墟と化していた。
外壁はひび割れ、看板は色褪せ、かつての面影をかろうじて残しているだけだ。
浪野歩九、二十四歳。
彼はその前に立っていた。
ルイとともに政府に引き取られ、刑事となった今でも――
毎年この場所を訪れている。
花を供えるために。
そして、戻らない時間を確かめるために。
「……ふん」
短く息を吐き、煙草を咥える。
火をつける仕草は、どこか見覚えのあるものだった。
扉を押し開ける。
軋む音が静寂を裂く。
中は埃に覆われていた。
誰もいない空間。
それでも、どこかに気配が残っているような錯覚。
割れた窓から朝日が差し込み、舞い上がる埃を照らす。
歩九はしばらく、その光景を眺めていた。
――その時。
携帯が鳴る。
画面には、ルイの名前。
「……なんだよ。久しぶりだな、姉貴」
一方、空の上。
ルイは箒にまたがり、風を切りながらスマートフォンを耳に当てていた。
「久しぶり、歩九」
明るい声。
「今度の日曜、東京に帰るからさ」
一瞬の間。
「おじさんの事務所、ちゃんと掃除しといてね」
軽く笑う。
「……へいへい」
気のない返事。
通話を切る。
歩九は煙草を足元で消し、埃の積もった椅子に腰を下ろした。
きし、と音が鳴る。
誰もいないはずの空間。
それでも、どこか懐かしい。
だが――
再び、携帯が鳴る。
今度は違う着信。
表示された名前に、歩九の表情がわずかに引き締まる。
八条。
「……なんすか」
淡々と応答する。
受話口の向こうから、低い声が返る。
「研究所に戻れるか、歩九」
一拍。
「まずい事態になった」
空気が変わる。
「……緊急ですか?」
問いかける声は、すでに仕事のそれだった。
「緊急だ」
短い断言。
「小汚いネズミが何匹か、嗅ぎ回っている」
わずかに間を置き――
「始末を頼みたい」
静かな依頼。
だが、その意味は明確だった。
歩九はゆっくりと立ち上がる。
埃を払い、周囲を一度だけ見渡す。
かつての居場所。
もう戻らない日々。
「……了解」
短く答える。
通話を切る。
ポケットに携帯をしまい、扉へ向かう。
差し込む朝日を背に――
歩九は、再び“そちら側”へ足を踏み出した。
某研究所跡地――山奥。
人の気配はない。
だが、その地下には巨大な施設が眠っている。
誰にも知られることなく存在する、八条の拠点。
異世界由来の脅威に対処するための、日本政府公認の秘密組織。
静まり返ったオフィス。
八条は椅子に深く腰掛け、紅茶を口に運んでいた。
「戻りました」
扉の前に立つ歩九。
八条は視線も向けず、デスクの上の書類を放り投げる。
わざとらしく、床へ散らばるように。
「最近、我々の存在を嗅ぎ回るネズミが数匹いる」
淡々とした口調。
「その一匹が――これだ」
視線の先。
椅子に縛りつけられた男。
血にまみれ、項垂れている。
その横で、太郎がナイフの血をタオルで拭き取っていた。
「残念だけど」
軽く息を吐く。
「とどめは君がやって」
一歩、扉へ向かう。
「僕は次の仕事がある」
数人の科学者とともに部屋を出ていく。
沈黙。
歩九は何も言わず、拳銃を取り出した。
構える。
ためらいはない。
引き金を引く。
乾いた銃声が一発。
男の頭部が揺れ、そのまま動かなくなる。
八条が、ゆっくりと拍手を送る。
「見事だ」
だが、その表情は変わらない。
そして――
「だが、これだけでは終わらん」
新たな書類を取り出す。
「この中に――君の姉の名前もある」
空気が凍る。
「……なんだと?」
歩九の声が低くなる。
書類を奪い取るように見る。
そこに記されていたのは――ルイの名。
確かに、存在している。
「なんで……姉貴が……!」
八条は紅茶を一口飲む。
「君の父親を探っている」
何でもないことのように言う。
「もちろん、我々は彼の所在など知らん」
一拍。
「だが、彼女は最近私に接触してきてね」
カップを置く音が響く。
「これ以上、周囲を嗅ぎ回られるのは迷惑だ」
冷たい視線。
「だから――消す」
戸棚を開ける。
一発の銃弾を取り出し、歩九へ放る。
金属音を立てて手の中に収まる。
重い。
意味が、重い。
――その後。
研究所、最奥区画。
強化ガラス越しの隔離室。
そこに――悠がいた。
拘束され、身動きは取れない。
世界から“消された”存在。
八条はガラス越しに立ち、再びリンゴの皮を剥いている。
「君の息子には、よく働いてもらっている」
淡々とした声。
「だから君も、最後まで役目を果たせ」
刃が滑る。
悠は、かすかに顔を上げる。
「……クソが……」
絞り出すような声。
その瞳には、まだ消えていない意志が宿っていた。
八条の目的は明確だった。
悠という存在。
異世界を自在に渡る能力。
その戦闘技術。
すべてを複製する。
クローンとして量産し、管理する。
“世界を守るため”の兵器として。
そのために――悠は生かされている。
檻の中で。
終わらない役目を背負わされながら。
第2話 老後のクライス
アルタイル王国――アルタイル城。
春の風がやわらかく吹き抜け、王都には穏やかな活気が戻っていた。
戦火に焼かれた日々は過去となり、人々はようやく平穏を取り戻しつつある。
王位にはガルルが就き、若き王として国を導いていた。
その傍らでカイラが参謀として軍を統率し、王の右腕として辣腕を振るう。
ダグは騎士団長となり、ギャバットやエリーとともに王国防衛の要を担っていた。
すべてが、あるべき形に収まりつつあった。
――アルタイル城・中庭。
白髪の老人がひとり、煙草に火をつける。
クライスだった。
かつて王として君臨した男は、今はただの一人の男として、静かに草原を見つめている。
煙が風に流れ、遠くへ消えていく。
「久しぶりですね」
背後から声がかかる。
「クライス王……いや、今はミスタークライスか」
振り返ると、カウボーイ姿の男が立っていた。
ヴィータ。
「やめろ」
クライスはわずかに顔をしかめる。
「こっちが気まずくなる」
短く言い、再び前を向く。
「……どうだった?」
問いは簡潔だった。
ヴィータは肩をすくめる。
「平和なもんですよ」
軽い口調。
「みんな活気に溢れてる。少なくとも、この国はね」
一拍置いて、視線を遠くへ向ける。
「国外は別ですが……そっちはジョーカースに任せましょう」
クライスは静かに頷く。
「そうか……よくやった」
ぽん、と手を打つ。
その合図で、メイドが現れた。
カートを押し、その上には金貨が山のように積まれている。
陽光を受けて、鈍く輝く。
「……なんのつもりですか?」
ヴィータが眉をひそめる。
クライスは淡々と告げる。
「ティードもキングスも消えた」
「伝説の海賊も、もはやいない」
一拍。
「お前に頼む仕事は、もうない」
視線を向ける。
「これまでご苦労だった」
労いの言葉。
ヴィータは小さく笑った。
「滅相もない」
「こちらこそ、あんたと仕事ができてよかった」
その返答に、クライスはわずかに目を細める。
そして続ける。
「もし、よければだが――」
ゆっくりと手を差し出す。
「王国に家を用意する」
「騎士団に正式に入団しないか」
その声には、かつての王の威厳がわずかに残っていた。
「今の実力なら、副団長に任命したい」
風が吹く。
沈黙が流れる。
ヴィータは一瞬だけ視線を落とし、考える。
だが、すぐに顔を上げた。
迷いは消えていた。
差し出された手を掴む。
しっかりと、力強く。
握手が交わされる。
「これからも頼むな、ヴィータ」
クライスの声は、どこか穏やかだった。
戦いを越えた先にある、静かな約束のように。
その時だった。
静かな中庭に、慌ただしい足音が響く。
ジョーカースが駆け込んできた。
「おい、クライス――緊急事態だ」
息を整える間もなく言い放つ。
クライスは煙草を指で弾き、地に落とした。
「どうした」
短い問い。
ジョーカースはすぐに本題へ入る。
「魔力信号を検知した」
一拍。
「伝達魔法だ。誰かが、俺たちにコンタクトを取ろうとしている」
クライスの表情がわずかに引き締まる。
「……いつからだ」
「三時間前からだ」
ジョーカースは続ける。
「かなり微弱だ。だが、途切れずに続いている」
「このレベルの信号を維持してるってことは――」
視線が鋭くなる。
「結界の中に囚われているか、瀕死か……どちらかだ」
沈黙。
風が止まったように感じられた。
クライスの胸中に、ある人物の影がよぎる。
「……まさか」
ジョーカースは小さく頷いた。
「失踪した探偵」
「そいつが、SOSを送っている可能性がある」
その言葉に、場の空気が変わる。
ヴィータが一歩前に出た。
「俺が行きましょうか」
迷いのない声。
クライスは彼を見据える。
「……また国外の任務になる」
一拍。
「東京――関東一帯を探れ」
静かな命令。
ヴィータは軽く笑う。
「承知」
腰のベルトに手を当てる。
スイッチを押す。
低い起動音が響く。
――緊急離脱システム、起動。
足元に光が走る。
次の瞬間、ヴィータの身体が宙へ跳ね上がった。
風を裂き、空高く舞い上がる。
そのまま一直線に加速。
開かれたゲートへと突入する。
閃光とともに、姿が消えた。
残されたのは、わずかな余韻だけ。
クライスは空を見上げる。
細めた目の奥に、確かな確信が宿っていた。
「……生きているのか」
呟きは、誰にも届かない。
だが、それは希望だった。
第3話 暗殺計画
二日後――東京。
人であふれる大通り。
雑踏の中を、歩九はふらつくように歩いていた。
視線は定まらない。
呼吸は荒い。
これから、自分は何をするのか。
理解しているのに、受け入れられない。
姉を――殺す。
その事実が、頭の中で何度も反響していた。
「……っ」
喉の奥が焼けるように痛む。
次の瞬間、感情が堰を切った。
「あぁぁああああ!!!!!」
歩九は足元を蹴り上げる。
アスファルトを叩く音が響き、周囲の視線が一斉に集まる。
だが、どうでもよかった。
こうでもしなければ、自分を保てない。
その視界の先――
杖を収めたショルダーバッグを背負った少女が歩いている。
ルイ。
見慣れた背中。
守るべき存在。
歩九の呼吸がさらに乱れる。
コートの内ポケットに手を入れる。
拳銃の感触。
装填を確認する。
距離を詰める。
人混みの流れに紛れながら、静かに。
確実に仕留めるために、死角へと誘い込む。
――だが。
足が止まる。
喉が震える。
「……姉貴……」
絞り出すような声。
ルイが振り返る。
「うわぁ!びっくりさせないでよ!」
無防備な笑顔。
それだけで、胸が締めつけられる。
歩九は一瞬、視線を落とす。
――違う。
こんな結末じゃない。
まだ選べる。
今なら。
「姉貴、聞け!」
顔を上げる。
「信じられないだろうが――俺と一緒に逃げて――」
その瞬間。
乾いた破裂音。
バァン――。
高層ビルの上階。
見えない狙撃手。
放たれた一発が、正確にルイの頭部を撃ち抜いた。
時間が止まる。
ルイの身体が、その場で崩れ落ちる。
遅れて、悲鳴が街を満たした。
「きゃああああああ!!!」
人々が逃げ惑う。
混乱。混沌。
だが――歩九には何も聞こえていなかった。
「……姉貴?」
震える声。
駆け寄る。
抱き上げる。
「姉貴……!姉貴!」
血が手を濡らす。
「だめだ……姉貴……起きろよ……!」
返事はない。
温もりが、急速に失われていく。
その瞬間――
すべてが終わった。
腕の中で、命が消えた。
歩九の視界が歪む。
何もかもが遅すぎた。
そのとき。
ポケットの中で、携帯が震える。
現実を引き戻す、無機質な振動。
ゆっくりと取り出す。
画面を見る。
通話を受ける。
耳に当てる手が、震えていた。
聞こえてきたのは――
八条の声。
「君には失望した」
感情のない、冷たい一言。
第4話 姫野
その夜――東京。姫野の自宅。
玄関の扉を開けた瞬間、煙草の匂いが流れ込んできた。
夫が、玄関先で壁にもたれながら煙をくゆらせている。
何も言わず、ただ視線だけを向けてきた。
姫野の手には、一枚の地図。
無数の印が書き込まれたそれは――
浪野悠が捕らえられている可能性のある地点を示していた。
二十年。
釜野の意志を継ぎ、彼を探し続けてきた。
ルイと歩九を引き取り、警察の道へ導きながら――それでも。
答えには辿り着けなかった。
靴も脱ぎきらぬまま、姫野は自室へと向かう。
ドアを閉める。
机に地図を広げ、煙草を咥えた。
火をつける。
ゆっくりと煙を吐き出しながら、視線を走らせる。
「……ここじゃない」
低く呟く。
赤ペンを取り、ひとつの候補地に線を引く。
またひとつ、可能性が消える。
残された選択肢は、わずかだった。
その時――
「姫野さん?」
背後から声。
反射的に、体が動いた。
椅子を蹴り、振り向く。
同時に拳銃を構える。
「――アルタイル王国の人?」
銃口はぶれない。
「不法侵入よ」
冷たい声。
そこに立っていたのは、エリーだった。
彼女は動じることなく、煙草を咥える。
「探偵さんを探してるのよね?」
火をつける。
「たった今、見つけた」
その一言で、空気が変わる。
「どこなの!?」
姫野の声が強くなる。
エリーは静かに答える。
「魔力を検知したわ」
一拍。
「でも、そこには強力な結界が張られていた」
「だから今まで、誰も気づけなかった」
煙がゆらりと揺れる。
「場所は――ミスター八条の研究施設」
姫野の瞳が見開かれる。
「この二十年、彼に何があったのか」
エリーは肩をすくめる。
「それは、あなたたちで調べなさい」
それだけ言うと、彼女の姿が揺らぐ。
転移魔法。
一瞬で、その場から消えた。
残されたのは、煙草の匂いだけ。
姫野はその場に立ち尽くす。
拳を強く握りしめる。
「……先輩……!」
噛みしめるように呟く。
二十年追い続けた影。
ついに――手が届く場所まで来ていた。
第5話 八条とクライス
アルタイル城。
重厚な門の前に、一台の馬車が静かに止まった。
扉が開き、黒いスーツに身を包んだ男が降り立つ。
カイゼル髭を指先で整えながら、ゆっくりと周囲を見渡した。
八条。
出迎えたのはギャバットだった。
「ミスター八条、銃は預かる」
差し出された手に、八条はわずかに肩をすくめる。
「礼儀にはうるさいらしいな」
そう言いながら拳銃を手放す。
ギャバットはそれを受け取り、兵へと預けた。
「招待した張本人はどうした」
「王宮でお待ちだ。――ご案内を」
兵士二名が先導し、八条は城内へと足を踏み入れる。
長い廊下を抜けた先。
王宮の広間。
中央には長大なテーブルが据えられ、豪奢な料理が並んでいた。
その奥。
クライスが座している。
「ミスター八条、座れ」
抑えた声。
だが、その表情には明らかな緊張が走っていた。
八条は鼻で笑う。
「それが客をもてなす態度かね?」
ゆっくりと椅子を引き、クライスの正面に腰を下ろす。
静かな対峙。
クライスはグラスを手に取り、軽く揺らした。
「さぁ、食べてくれ」
一拍。
「安心しろ。人間の肉は、もうこの世界にはない」
乾いた冗談。
八条は顔色ひとつ変えない。
「笑えんな」
フォークを取り、魚料理を口に運ぶ。
クライスもまた、無言で料理に手を伸ばす。
しばし、沈黙だけが流れた。
やがて、クライスが口を開く。
「単刀直入に聞く」
視線が鋭くなる。
「探偵は――お前がさらったのか?」
八条は小さく笑う。
「まさか」
ワインを口に含み、喉を潤す。
「そんなはずがないだろう」
クライスもまたグラスを傾ける。
だが、その目は笑っていない。
「仲間から報告が入った」
「お前のアジトを調べさせてもらった」
八条の手が止まる。
「最奥の部屋――結界を張っていたな」
「破らせてもらった」
クライスはゆっくりと言葉を重ねる。
「中には、拘束された男が一人」
一拍。
「説明してもらおうか」
沈黙。
やがて、八条は深く息を吐いた。
「俺の目的は、ティードと同じだ」
静かに語り始める。
「世界をつなぐ能力者――その軍隊を作ること」
「だが二十年前、奴を捕らえることはできなかった」
わずかに目を細める。
「ロイスの存在があったからだ」
クライスは黙って聞く。
「彼女は浪野に異常な執着を持っていた」
「たとえ本体が月にあろうと、魔王の創造主であろうと――あの男を愛していた」
「そこで手を出せば、私が殺される」
八条は肩をすくめる。
「だから、機を待った。それだけの話だ」
クライスは視線を逸らさない。
「……そうか」
短く言い、手を叩いた。
「入って来い、太郎」
扉が開く。
現れたのは、太郎だった。
八条の目がわずかに見開かれる。
「貴様まで……裏切るのか」
低い声。
太郎は静かに首を振る。
「あなたについた覚えはない」
一歩前へ出る。
「子供のころ――クライスたちに命を救われた」
「それだけだ」
八条は舌打ちするように息を吐く。
「貴様らは、生物の本質を理解していない」
「不愉快だ」
空気が張り詰める。
クライスが椅子から立ち上がる。
「そうか」
腰に手をやる。
「なら――そろそろ死ぬか?」
黄金のリボルバーが抜かれる。
銃口が、まっすぐ八条へ向けられた。
八条はゆっくりと両手を上げる。
だが、その口元には笑みが浮かんでいた。
「これは降伏じゃない」
一拍。
「これから、面白いショーを見せてやる」
その言葉と同時に、空気が歪む。
「――召喚術」
床に影が広がる。
次の瞬間、巨大な異形が現れた。
無数の触手をうねらせる、タコのような怪物。
湿った気配が広間を満たす。
触手が一斉に伸び――
クライスと太郎へと襲いかかった。
第6話 タコ野郎の触手
八条の周囲に、無数のゲートが展開される。
空間が歪み、そこから這い出るように巨大な触手が現れた。
ぬめる質感を伴いながら、一直線にクライスへと襲いかかる。
「無駄だ」
短く言い放つと同時に、クライスは銃を引き抜いた。
狙いは――天井。
引き金が引かれる。
銃弾はシャンデリアの支点を正確に撃ち抜いた。
金属の軋む音。
次の瞬間、巨大なシャンデリアが支えを失い――
真っ逆さまに落下する。
狙いは、八条。
「チッ……分が悪いな」
舌打ちとともに、八条は手をかざす。
「エスケープ」
足元に開いたゲートへと身を滑り込ませる。
直後、シャンデリアが床を叩きつけた。
激しい衝撃とともに、広間が揺れる。
だが、そこに八条の姿はない。
消えた。
残されたのは、蠢く触手と破壊された空間だけ
クライスは煙を吐くように息を吐き、銃を下ろす。
「……タコめ」
低く呟く。
「逃がさんぞ」
その眼には、はっきりとした殺意が宿っていた。
「もう警察も、国も……お前を守るものは何もない」
振り返る。
「総員、追撃だ」
兵を率い、クライスは王宮を後にした。
――その頃。
研究所。
洗面台の前で、水が流れ続けている。
悠は顔を上げた。
鏡に映る自分を見つめる。
痩せた頬。
落ちた影。
だが――その奥。
わずかに、燃え残るものがあった。
怒り。
ゆっくりと拳を握る。
次の瞬間――
鏡を殴りつけた。
砕け散る。
破片が飛び散り、鈍い音が室内に響く。
息は荒くない。
ただ静かに、壊した。
悠はシェーバーを手に取り、無言で髭を剃る。
動作に迷いはない。
終えると、備品の黒いスーツに袖を通す。
ネクタイを締める。
まるで、かつての日常をなぞるように。
煙草を取り出す。
火をつける。
一口、吸う。
ゆっくりと煙を吐き出した。
それは、恐怖か。
躊躇か。
あるいは――その両方か。
机の上に置かれたリボルバーを手に取る。
弾倉を開き、装弾を確認する。
閉じる。
ポケットへと収めた。
準備は整った。
悠はドアの前に立つ。
一瞬だけ、静止する。
研究員の手帳が落ちていた。それを胸ポケットへと入れる
そして――
蹴り開けた。
扉が激しく開く。
光が差し込む。
男は歩き出す。
立ち込める煙草の煙の中で、すべてを吐き捨てるように。
殺すことへの躊躇も。
恐怖も。
そのすべてを、背後に置き去りにして。
第7話 奪還
翌日――八条研究所前。
山間に隠された施設を包囲するように、武装した部隊が展開していた。
先頭に立つのは山田。
その背後にはSATが整列し、突入の合図を待っている。
山田は煙草を咥え、火をつけた。
一度だけ深く吸い込み、吐き出す。
「総理の許可は取った」
低く、だがはっきりとした声。
「これより制圧を開始する」
視線を施設へ向ける。
「貴様らの壊滅作戦だ」
一拍。
「――異世界との引き継ぎ役は、取り戻させてもらう」
その言葉と同時に、戦闘が始まった。
銃声が連続し、研究所の外壁に火花が散る。
八条の兵士たちも応戦し、激しい撃ち合いへと発展する。
一方――内部。
姫野はブラスターを構え、廊下を駆けていた。
「先輩!どこですか!」
叫びながら、進む。
角を曲がるたびに銃撃。
反射的に撃ち返し、道を切り開く。
だが敵の数は多い。
弾幕が途切れない。
「らちが明かん!」
外から山田の声が無線越しに響く。
「姫野!先に行け!」
「浪野の保護を最優先だ!」
姫野は歯を食いしばる。
頷き、さらに奥へと突き進む。
その時――
乾いた銃声が、別の方向から割り込んできた。
バン、バン、バン――。
鋭い射撃。
跳弾が正確に軌道を変え、八条の兵士たちの頭部を撃ち抜いていく。
一瞬で、前方の障害が消えた。
「お待たせして申し訳ない」
低く落ち着いた声。
「もう大丈夫だ」
振り返ると、ヴィータが立っていた。
腰のバックルにカセットを差し込み、装置を起動する。
光が走る。
次の瞬間、その姿が変わる。
強化装備へと変身したヴィータは、そのまま前線へと躍り出た。
姫野は足を止めない。
最奥の扉へと辿り着く。
鍵に照準を合わせ――引き金を引いた。
衝撃でロックが吹き飛ぶ。
扉を蹴り開け、中へ踏み込む。
そこにいたのは――
拘束された男。
やせ細り、項垂れたまま動かない。
浪野悠。
「……先輩……」
姫野の声が、かすれる。
言葉が続かない。
だが、無理やり絞り出す。
「ルイちゃんが……殺されました……!」
その一言。
止まっていた時間が、わずかに動く。
悠の瞼が、ゆっくりと開いた。
焦点の合わない瞳。
だが、その奥に微かな揺らぎが生まれる。
「……さぁ」
姫野は一歩近づく。
「最後の勝負です」
「私たちと一緒に戦ってください……お願いです」
その瞬間――
「動くな!!!」
兵士たちがなだれ込んできた。
複数の手が姫野の肩を掴み、押さえつける。
銃口が突きつけられる。
だが。
「邪魔だ」
低い声とともに、空気が裂けた。
侍姿の男――ゲートウォーカー。
刀が閃く。
一瞬。
兵士たちは声も上げられずに崩れ落ちた。
血の気配だけが残る。
ゲートウォーカーはそのまま奥へ進み、強化ガラスへ手をかざす。
魔力が集中する。
次の瞬間、ガラスは内側から粉砕された。
拘束具を断ち切る。
鎖が床に落ちた。
自由。
ゲートウォーカーは手を差し出す。
「来い」
短い言葉。
悠は、その手を見る。
虚ろな目。
二十年。
すべてを失い、削り取られた時間。
生きる理由すら、もう残っていない。
それでも――
ゆっくりと、その手を掴んだ。
立ち上がる。
足は震えていた。
だが、前へ。
進むしかない。
第8話 最高権力者
クライスは兵を従え、馬車を走らせていた。
向かう先は――アルタイル王国でも屈指の一等地。
広大な敷地に建てられた、ひときわ目立つ豪邸。
そこに住むのは、王国一の実業家――ノワール。
馬車メーカー〈ノエルコーポレーション〉の社長にして、各国へ高品質な馬車を供給する男。
門が開く。
馬車は静かに中へと滑り込んだ。
――その頃、屋敷の奥。
ノワールは一人、チェス盤を前にしていた。
「……ここか」
ぽつりと呟き、駒を指先で弄ぶ。
視線は盤面ではなく、どこか遠くを見ていた。
やがて、従者に案内され、クライスが現れる。
長い廊下を抜け、自室の扉が開かれた。
ノワールは顔を上げる。
「これは驚いた……何年ぶりだ、クライス」
穏やかな声。
クライスは一礼する。
「お久しぶりです、ノワールさん」
短い挨拶。
「パルエルの件は残念だった」
ノワールは淡々と言うと、従者へ鋭い視線を送る。
ワインを注げ、という無言の指示。
クライスはそれを遮るように言葉を重ねた。
「世間話をしに来たわけじゃありません」
「時間がない」
空気が変わる。
「八条という名前に、心当たりはありますか?」
ノワールは肩をすくめた。
「知るわけないだろう」
わずかに笑う。
「誰だ?お前の城の新しい従者か?」
その瞬間。
クライスの手が動く。
銃口が、ノワールへと向けられた。
部屋の空気が凍りつく。
「……なんの冗談だ?」
ノワールの声が低くなる。
「まったく面白くないぞ」
一拍。
「今、銃を下ろせば許してやる」
クライスは答えない。
代わりに、一枚の写真を差し出した。
「人間世界は便利でね」
淡々とした口調。
「カメラというものがある」
ノワールの視線が写真へ落ちる。
そこには――
バルコニーで会話する、ノワールと八条の姿。
沈黙。
クライスが続ける。
「八条に命令を出していたのは、あなただな」
「世界管理局――そのリーダーは、あなたでしょう」
銃口は動かない。
だが次の瞬間、クライスはゆっくりと銃を下ろした。
ノワールはわずかに眉を動かす。
「……殺さないのか」
問い。
クライスは目を伏せる。
「……もう」
短く息を吐く。
「尊敬している人を、これ以上殺したくはない」
静かな答えだった。
ノワールはしばらく何も言わず、やがて立ち上がる。
背を向けたまま、淡々と告げた。
「週末に釣りに行く」
一拍。
「一緒にどうだ」
誘いとも、試しとも取れる言葉。
クライスは何も答えない。
ただ、その場を後にした。
扉が閉まる。
部屋に残されたのは、チェス盤と――動かされないままの駒。
第9話 父と子
警視庁――捜査本部。
騒然とした空気の中、扉が開いた。
先に入った姫野の背を追い、悠が姿を現す。
室内の視線が、一斉に彼へと向けられた。
「……息子はどこだ」
低く、抑えた声。
だが、その一言で空気が張り詰める。
刑事たちは顔を見合わせる。
誰もすぐには答えられない。
その中で、若い刑事が小さく呟いた。
「……誰だ、あいつ」
その声は小さかった。
だが――悠は聞き逃さない。
視線だけを向ける。
「誰か教えてやれ」
一拍。
「この馬鹿に」
煙草を咥え、火をつける。
静かに煙を吐き出した、そのとき。
「……親父……」
背後から、かすれた声。
悠の視線が動く。
そこにいたのは――歩九。
ゆっくりと、歩み寄ってくる。
言葉にできない時間が、二人の間に横たわる。
「待たせたな、歩九」
悠は短く言い、義手でその肩を軽く叩いた。
それだけだった。
だが、それで十分だった。
山田が一歩前に出る。
悠へと視線を送り、わずかに頷く。
そして、全体へ向き直る。
「いいか」
低く、だがよく通る声。
「八条を放置すれば、別の世界で同じことが起きる」
一歩、踏み出す。
「反乱、災厄――いくらでも繰り返される」
拳を握る。
「だから止める」
声が一段、強くなる。
「何としても――我々がな」
一瞬の静寂。
そして。
「いいな!!!」
室内に響き渡る怒号。
「はい!!」
刑事たちの声が揃う。
覚悟が、場を満たす。
悠は煙を吐き出しながら、その光景を見ていた。
もう迷いはない。
すべてを終わらせるための戦い。
――最後の戦いが、静かに幕を開けた。
第10話 最終作戦
激しい雨が、海面を叩きつけていた。
雷鳴が空を裂き、白い閃光が闇を照らす。
その嵐の中――悠たちを乗せた船は、無人島へと接近していた。
次の瞬間。
銃声が炸裂する。
島からの一斉射撃。
八条の部下たちが、雨を切り裂く弾丸を浴びせてきた。
「応戦しろ!」
新田の号令が飛ぶ。
SAT隊が一斉に構え、サブマシンガンの火線を返す。
火花と衝撃が入り乱れる。
だが――
轟音。
爆撃弾が船体に直撃した。
衝撃が甲板を揺らし、火と破片が舞う。
それでも、歩九は止まらない。
船が接岸するや否や、真っ先に飛び降りた。
泥と雨に足を取られながら、島へと駆ける。
「八条ぉぉ!!」
叫びとともに、銃を構える。
その背を、悠が追う。
「おい!待て!」
声は雷にかき消される。
歩九の目には、もう敵しか映っていなかった。
奥へ――奥へ。
逃げる八条の影を追い、突き進む。
「落ち着け!」
悠が追いつき、肩を掴む。
「死んだら元も子もない!」
だが――
「親父に何がわかる!」
歩九は振り払う。
「姉が……殺されたんだ!あいつに!」
怒りが、その声を震わせていた。
その瞬間。
地面が震える。
轟音。
振り返る間もなく、戦闘車両が突っ込んできた。
一直線に、二人を狙って。
運転席――
八条。
その口元には、歪んだ笑みが浮かんでいた。
一瞬。
すべてが、静止したように見えた。
悠は決断する。
迷いはなかった。
歩九を横へ突き飛ばす。
その反動で、自身は正面に残る。
拳銃を構える。
片腕。
揺れる視界。
だが、狙いはぶれない。
引き金を引いた。
弾丸は一直線に飛ぶ。
八条の左目へと突き刺さり――
脳を貫いた。
血が弾ける。
だが。
車両は止まらない。
勢いのまま、悠を巻き込む。
衝撃。
身体が宙を舞う。
そのまま、崖へと叩きつけられた。
「父さん!!!!」
歩九の叫び。
崖の縁。
落ちる寸前――
悠の手を、掴んだ。
雨が二人を打つ。
滑る手。
今にも離れそうな指先。
悠は、静かに息を吐いた。
「……」
視線を上げる。
「俺のことは忘れて――幸せになれ」
それが、最後に伝えたかった言葉。
「愛してる」
短く、確かに。
「……!!」
歩九の目が見開かれる。
だが。
次の瞬間。
悠は、自ら手を離した。
強引に。
振りほどくように。
身体が、闇へと落ちていく。
海へ。
その直後、島が唸る。地の底から、何かが目覚める。
火山。
轟音とともに、噴火が始まった。
炎と煙が空へと噴き上がる。
まるで――
ひとりの男を弔う、鎮魂の炎のように。
歩九は、その場に立ち尽くしていた。
ただ、落ちていく父の姿を見つめることしかできなかった。
第11話 首謀者
荒れた海に打ち上げられた身体が、岩にぶつかって止まった。
波は容赦なく引き、また押し寄せる。
そのたびに、悠の体は小さく揺れた。
意識が浮かび上がる。
虚ろな目が、ゆっくりと開いた。
「……」
声は出ない。
最後の力を振り絞り、岩に手をかける。
身体を引きずり、背を預けるようにして座り込んだ。
呼吸は浅く、途切れがちだった。
ここで終わる。
そう理解していた。
そのとき――
ふと、違和感が走る。
痛みが、薄れていく。
「……?」
動くはずのない胴体が、わずかに動いた。
感覚が戻ってくる。
ありえないことだった。
そのとき、声が響く。
「おじさん!おじさん、こっちだよ!」
顔を上げる。
岩の上。
そこに――ルイが立っていた。
手を振り、必死に呼んでいる。
悠の瞳が揺れる。
信じられないものを見るように。
それでも、応えるように体を動かす。
這うように、引きずるように。
だが――
ルイの方が先に駆け寄ってきた。
そのまま、抱きしめられる。
温もり。
確かに、そこにあった。
「……雪が言ったのか」
かすれた声。
「雪がおれを迎えに行けって……」
目から涙がこぼれる。
「おれは……やっと死ねたんだな」
ルイは首を強く振る。
「違う!」
声が震える。
「おじさんは死んでない!」
だが悠は、ゆっくりと首を横に振る。
「いや……致命傷だ」
「ルイと一緒だ」
それでも、どこか安らいだ表情。
「でも……これで、家族ずっと一緒だ……」
その言葉を、ルイは遮る。
「違うってば!」
涙をにじませながら、叫ぶ。
「雨も、いつか止んで……晴れが来る」
一歩、近づく。
「それはね――天の神様からの魔法なんだよ」
悠は、わずかに眉をひそめる。
「……?」
理解が追いつかない。
ルイは続ける。
「おじさん、最後に拾った手帳を見て」
「そしたら……きっと、生きる気力が戻るから」
その言葉が、どこか現実を引き戻す。
――気づけば。
雨は、止んでいた。
雲が裂け、夜が薄れていく。
朝の光が、ゆっくりと差し込む。
悠は視線を落とす。
自分の腹へ。
そこにあったはずの致命傷は――
跡形もなく、消えていた。
息が止まる。
ありえない。
だが、確かに治っている。
悠はふらつきながら立ち上がる。
まだ覚束ない足取り。
それでも、立てた。
胸ポケットへ手を伸ばす。
取り出したのは――八条の研究員の手帳。
水を吸い、紙はふやけている。
震える手で開く。
中のポケットに、何かが挟まっていた。
写真。
それを引き抜き、見る。
――その瞬間。
悠の目が、変わった。
第12話 おしまい
アルタイル王国、港町ダイアリー――防波堤。
静かな波音が、曇天の海に溶けていた。
ノワールとクライスは並んで釣り糸を垂らしている。背後には、護衛として控える
凄腕の魔術師たち。誰も口を開かず、ただ風だけが二人のコートを揺らしていた。
やがて、クライスが低く呟く。
「……八条が死んだ」
ノワールは視線を海へ向けたまま、小さく息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。
まるで、いつか来ると分かっていた結末を受け入れるように。
クライスは煙草を取り出しかけ、途中で手を止める。
「あんた、本当は何が目的だった?」
重い声だった。
「世界を良くしたい……そんな綺麗事じゃないだろう」
その瞬間だった。
銃声が、防波堤を裂いた。
護衛の魔術師の額が弾け、血を撒き散らしながら崩れ落ちる。
誰も反応できなかった。
風上。
そこに、黒いスーツ姿の男が立っていた。
浪野悠。
片腕の義手を軋ませながら、煙草の煙を吐き出している。
ノワールの目が細まる。
「……生きていたか」
悠は答えず、懐から一冊の手帳を取り出した。
「研究員の手帳だ」
雨に濡れ、角がふやけている。
「中に写真が一枚入ってた。あんたたちが並んで写ってる集合写真だ」
悠はゆっくりとノワールへ歩み寄る。
「裏には住所、所属、個人情報。消えないペンで丁寧にな」
クライスが眉をひそめた。
「……なぜ八条の仕業だと分かった?」
悠は乾いた笑みを漏らす。
「二十年だ」
その声には、積み重なった時間の重さが滲んでいた。
「奴の書類を、俺は二十年見続けた。筆跡くらい見れば分かる」
風が強く吹き抜ける。
「八条は出世欲の塊だった。あんたを出し抜いて、自分が玉座に座るつもりだったんだろ」
ノワールは釣り竿を置き、ゆっくり立ち上がった。
「組織を壊滅させたのは貴様か?」
「そうだ」
即答だった。
悠はリボルバーを構える。
乾いた銃声。
ノワールの脚が撃ち抜かれ、防波堤に倒れ込む。血が石畳を濡らし、海へ流れていく。
護衛たちが魔法陣を展開しかける。
だがクライスが片手を上げ、制した。
悠はゆっくりとノワールの前へ立った。
見下ろす瞳に、もう迷いはない。
「そうだ。このまま死ね」
煙草の灰が、風に散る。
「天の神様からの魔法だ」
引き金が引かれた。
銃声が、広い海へ響き渡る。
ノワールの体から力が抜け、防波堤に崩れ落ちた。
沈黙。
波の音だけが残る。
悠は振り返らず、その場を去ろうとする。
クライスが背中へ声を投げた。
「これからどうするんだ!」
悠の足が止まる。
「君さえ良ければ、王国に住め!」
しばらく沈黙が流れた。
やがて悠は、少しだけ口元を緩める。
「遠慮しとくよ」
低く、かすれた声だった。
「生きる目的ができたんでな」
クライスは静かに目を細める。
悠は空を見上げた。
分厚い雲の隙間から、光が差し込んでいる。
「息子に会いに行く」
海風がコートを揺らす。
「またな、クライス」
その背を、誰も止めなかった。
やがて雲は切れ、港町に柔らかな陽射しが降り注ぐ。
長く続いた雨季の終わりを告げるように。




