ChapterXIV
第1話 四年後、沖縄の生活
沖縄、那覇市。
強い日差しが街路を白く照らしていた。
潮の匂いを含んだ風が、ビルの隙間を抜けていく。
繁華街から少し外れた一角に、小さな事務所がある。
古びた看板には、簡素な文字が並んでいた。
――浪野探偵事務所。
東京を離れた悠たちは、異世界からの被害が比較的少なかったこの地へ移り住んだ。
雪、歩九、ルイ。
新しい生活。
ようやく手に入れた穏やかな時間。
少なくとも悠は、そう思っていた。
それから四年後。
浪野悠、二十九歳。
歩九は四歳になり、よく笑う子に育っていた。
小さな成長を、家族全員で見守っている。
真夏の陽射しが、窓越しに床を焼く。
しかし事務所の中は、冷房の静かな音に包まれていた。
デスクに肘をつきながら、悠はぼんやりと書類を眺めている。
コーヒーメーカーから、一定の間隔で滴が落ちる。
やがてカップに黒い液体が満ちた。
「はい、おじさん!」
差し出されたカップ。
ルイが誇らしげに胸を張っている。
少し背も伸び、表情も以前より大人びていた。
「お、ありがとうルイ」
カップを受け取る。
香ばしい匂いが広がった。
「これも助手の仕事だよ!」
鼻を高くする様子に、思わず苦笑がこぼれる。
その時、控えめなノックが響いた。
ルイは軽い足取りでドアへ向かい、ドアスコープを覗く。
すぐに表情が緩んだ。
扉を開ける。
「やぁ、元気そうだな」
現れたのはクライスだった。
ルイの頭を軽く撫でる。
「久しぶりだな」
悠は椅子に座ったまま視線を向ける。
「好調か?ビジネスは」
「ほぼ浮気調査ばっかりだけどな」
肩をすくめる。
世界を救った探偵の現実は、案外地味なものだった。
「今日は提案を持ってきた。聞いてくれるか」
クライスの声音がわずかに低くなる。
「どうしたんだ」
「ルイは、もともとエルフで異世界の住人だ。身元が判明した」
悠は一瞬だけ視線を伏せた。
「ルイ、歩九と部屋に行っててくれ。内容はあとでちゃんと話す」
「……うん」
少し不安そうな顔を見せながら、ルイは部屋の奥へ消えていく。
「彼女はボルケーノ王国の出身だ。貧民街で両親は自殺し、幼くしてマジョノシマへ捕らえられた。それでお前と出会ったわけだ」
淡々と語られる過去。
重い事実だった。
「おそらく両親のことは覚えていない。何も知らないはずだ」
短い沈黙。
「……だが今は幸せだ。それで十分だろう」
クライスは続ける。
「君は四年前、世界を救った。その恩を返したいと思っている。ルイを大魔術学校ルーンへ通わせるのはどうだろう」
悠の眉がわずかに動く。
「ルーンって、サダベルが支配してたところだよな。もう復興したのか」
「かつての危険な場所ではない。今は安全だ」
クライスの声には確信があった。
「学費はすべて私が負担する。もし望むなら、異世界で魔術師として働く道もある。寂しければ卒業後にここへ戻ればいい」
「見たところ、多少の魔法の才能がある。読み書きも問題ない。高等部に編入すれば三年で卒業できるだろう」
「それに彼女は、世界を渡る力を継承している。この家から通うことも可能だ」
「それほんと?」
影から顔を覗かせるルイ。
どうやら話を聞いていたらしい。
「ルイ、聞いてたのか」
苦笑する悠。
「どうしたい。決めるのはルイだ」
少しの沈黙。
迷い。
期待。
やがて、小さく頷いた。
行きたい。
それが彼女の答えだった。
「では、近日中に書類を持ってこよう」
ルイの表情が一気に明るくなる。
未来へ向かう目だった。
夕方。
玄関の扉が開く。
「ただいまー」
雪が帰ってきた。
沖縄のデザイン会社で、イラストオペレーターとして働いている。
「うーん、つっかれたぁ」
両腕を上げて伸びをする。
「おかえり。晩飯はもうできる。歩九と風呂入ってきな」
何気ない日常。
それこそが、守りたかったものだった。
この平和が続けばいい。
誰もが、そう願っていた。
だが――
事務所から少し離れた路地。
一台のトラックが停まっている。
窓の隙間から、双眼鏡が向けられていた。
レンズ越しに見える看板。
浪野探偵事務所。
「見つけたぞぉ……」
低い声。
「待ってろよ、探偵」
イザの口元が歪んだ。
静かに、次の事件が近づいていた。
第2話 衝撃と襲撃
翌日。
沖縄市街から外れた廃ビルの一室。
割れた窓から差し込む光が、埃の舞う空間を照らしていた。
床には分解された銃器。
男たちは無言で武装の準備を進めている。
金属の擦れる乾いた音だけが響いていた。
「……あぁクソが」
イザが舌打ちする。
直後、階下から複数の足音。
統制の取れた動き。
突入の気配だった。
沖縄県警の武装部隊が、廃ビルを包囲していた。
発砲の衝撃が建物内部に反響する。
壁の破片が弾け、粉塵が舞う。
「戦闘態勢だ!」
イザが叫ぶ。
「あの探偵野郎……やっぱり密告しやがった!」
男たちは一斉に銃を手に取った。
廃墟は瞬く間に戦場へ変わる。
一方その頃。
出社前の雪を、悠が呼び止めていた。
「いいか、今すぐ大阪の異世界対策本部に行く。保護してもらうんだ」
「ねぇ、説明して。いったい何が起きてるの?」
困惑する雪。
「中国マフィアがお前を狙ってる。必要最低限の歩九の身支度だけ済ませろ。すぐワープする」
「ルイはどうするの?!」
「あいつは魔術学校が保護してくれてる。心配ない」
準備に時間はかけられなかった。
空間が歪む。
開かれたワームホールの奥に、対策本部の一室が見える。
家族はその中へ足を踏み入れた。
「さぁ、こっちだ雪ちゃん!」
釜野が手招きする。
雪と歩九を素早く保護エリアへ誘導する。
「すまんな、釜野」
「いいんだ。まさか奴ら、まだ息の根があったなんてな」
緊張の色が漂っていた。
警察署から数十キロ離れた高層ビル。
オフィスの一角で、一人のサラリーマンがキーボードを叩いている。
周囲から見れば、ただの会社員にしか見えない。
男は手を止める。
デスクの脇に立てかけてあった細長いアタッシュケースを開けた。
中には分解された狙撃銃。
サプレッサー付き。
静かに組み上げる。
迷いのない手つきだった。
イザの息のかかった構成員。
男は窓を開けた。
風がカーテンを揺らす。
銃口が向けられる。
対策本部の一室。
その時だった。
悠の背筋に、わずかな違和感が走る。
理由はわからない。
だが経験が警鐘を鳴らした。
「伏せろ!」
ガラスが砕け散る。
銃弾が室内へ飛び込む。
だが、遅かった。
雪の頭部に弾丸が撃ち込まれる。
一瞬。
時間が止まったかのようだった。
悠は現実を理解できなかった。
何が起きたのか、脳が認識を拒む。
崩れ落ちる雪の体を、とっさに抱き止める。
歩九が泣き叫ぶ。
母の腕の中で、必死にしがみついていた。
「救急だ!!!!!救急車を呼べぇぇ!!!」
悠の叫びが室内に響く。
雪は何も言わない。
ただ静かに悠を見上げる。
かすかに唇が動いたように見えた。
声は出なかった。
ゆっくりと目が閉じていく。
歩九を掴んでいた手から、力が抜けた。
「……雪?」
震える声。
「うそだろ……」
呼びかけても、反応はない。
「雪……起きてくれ……」
血が手を濡らしていく。
「雪!!!!」
叫びが、空気を震わせた。
耐えきれず、膝から崩れ落ちる。
涙が止まらなかった。
声にならない悲鳴が、喉を裂く。
守れなかった。
たった一人。
守ると誓った人を。
「ああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
悠の絶叫が、室内に響き続けた。
第3話 人質
翌日。
事務所の所長デスクで、悠は黙々と書類を整理していた。
ルイは体験入学のため、大魔術学校へと旅立ったばかりだ。
静かになった事務所。
いつもより、少し広く感じる。
デスクの端に置かれた写真立てへ視線が向く。
家族写真だった。
雪、歩九、ルイ。
沖縄の海を背に、四人で笑っている。
自然と口元が緩んだ。
こんな時間が、続けばいい。
そう思った矢先だった。
硬質な足音が廊下に響く。
尖った革靴。
ためらいのない歩き方。
ずかずかと、まっすぐこちらへ向かってくる。
悠の表情が変わる。
引き出しを開け、ブラスター拳銃を取り出す。
安全装置を外す指先に迷いはない。
ドアノブが回る。
軋む音が、やけに長く感じられた。
ゆっくりと扉が開く。
黒づくめの男たち。
無駄のない動きで室内へ踏み込んでくる。
そのうちの一人が、ゆっくりとハットを脱いだ。
「よう、探偵」
見覚えのある顔。
イザだった。
悠は無言でブラスターを向ける。
同時に、男たちがサブマシンガンを構えた。
銃口が静かに狙いを定める。
「何しに来た」
「どうだ、ビジネスは」
「絶好調だ。そっちこそ、最上が死んで解放されてはしゃいでんじゃねぇか?クズ野郎」
イザは肩をすくめた。
「これを見せに来た」
ポケットから一枚の写真を取り出し、軽く放る。
床を滑り、悠の足元で止まった。
「拾えよ」
命令口調だった。
「なんだよ」
警戒を解かないまま、しゃがみ込む。
写真を手に取った。
写っていたのは、ビルの窓。
外から撮影されたものだ。
窓の向こう。
打ち合わせをしている雪の姿があった。
悠の動きが止まる。
視線だけをゆっくりとイザへ向けた。
「奥さんの命。息子と娘の命」
イザの口元が歪む。
「全部、俺の手の中だ」
沈黙。
「……なんでここまで調べがついた」
低い声。
「嫁の職場まで」
言葉を区切る。
「内通者がいるだろ。クライス陣営の中に」
イザは、にっこりと笑った。
肯定も否定もしない。
「誰だよ」
銃を握る手に力がこもる。
「そいつを殺してやる」
「落ち着けよ。俺たちは何も殺し合いがしたいわけじゃない。お前だってそうだろ?」
「どうかな」
イザはゆっくりと室内を見回す。
壁。
机。
家族写真。
「俺の目的はクライスの暗殺だ」
さらりと言った。
「そして世界に知らしめる。俺たちジョンイルの存在を」
空気が凍りつく。
「明日また来る。答えはその時でいい」
背を向ける。
「もちろん、奥さんも殺さない」
ドアへ向かいながら、軽く手を振った。
「ばぁい」
不敵な笑み。
黒い集団は、そのまま去っていく。
扉が閉まる。
静寂。
悠はしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと写真を机の上へ置く。
視線が家族写真へ向く。
守ると決めたもの。
そのためなら――
手段は選ばない。
静かに、ブラスターの安全装置を戻した。
第4話 送り
翌日。
雪の葬儀が執り行われた。
薄暗い式場。
規則正しく並べられた椅子。
低く響く読経の声が、空間を満たしている。
悠は最前列に座っていた。
歩九を抱き、隣に座るルイの手を握っている。
視線は下を向いたまま、上げることができなかった。
顔を上げれば、現実を認めてしまう。
それが怖かった。
胸の奥に、空洞が広がっていく。
何かが抜け落ちたまま、埋まらない。
目の前が暗い。
光が差し込む余地がない。
思考が鈍くなる。
言葉も感情も、どこか遠くへ行ってしまったようだった。
ただ、涙だけが流れ続ける。
止めようとしても止まらない。
棺の中に横たわる雪の姿が、どうしても現実のものと思えなかった。
やがて、火葬の時間が訪れる。
係員が静かに合図を送る。
悠は立ち上がった。
足取りは重い。
一歩ごとに、胸の奥が軋む。
最後の別れ。
スイッチの前に立つ。
指先が震えた。
ほんのわずかな動作。
それだけで、すべてが終わってしまう。
それでも、押すしかなかった。
機械音が静かに響く。
閉じられていく扉。
雪の姿が、ゆっくりと奥へ消えていく。
もう二度と触れることはできない。
燃えゆく棺を見つめながら、悠の内側に沈殿していた闇が、さらに深く沈み込んでいった。
何も感じないわけではない。
だが、何を感じているのか分からなかった。
ただ、失ったという事実だけが、確かにそこにあった。
「……帰るぞ、ルイ」
低い声。
ルイの手を掴む。
やや強引に立たせ、そのまま歩き出す。
式場の扉が開く。
外は雷雨だった。
激しく降りつける雨が、地面を叩いている。
まるで、心の奥底に渦巻く感情を映し出しているかのようだった。
空は暗い。
光は、どこにも見えなかった。
第5話 ジョンイル決戦
悠は沖縄の事務所へ戻ると、誰にも目を向けず、そのまま自室へ向かった。
足取りは速い。
制御を失った感情が、体を急き立てていた。
扉を閉める。
呼吸が荒い。
胸の奥で何かが焼け続けている。
手を伸ばす。
棚に収められていた対異ブラスターライフルを掴んだ。
冷たい金属の感触が、掌に伝わる。
ポケットナイフを上着に差し込む。
迷いはなかった。
車に乗り込む。
エンジンをかける。
ナビに表示された目的地。
差出人不明の情報に記されていた廃墟。
アクセルを踏み込む。
速度計の針が上昇していく。
頭の中には、ただ一つの感情だけがあった。
殺す。
復讐のために。
ジョンイルの構成員はすでに多くを失っていた。
戦力は低下し、組織としての威勢も落ちている。
イザは外出中。
残された四人の構成員が拠点を守っていた。
その時だった。
エンジン音が急速に接近する。
次の瞬間。
車両が廃墟の壁面へ突入した。
激しい衝撃により、建材が崩れ落ちる。
構成員たちは何が起きたのか理解できず、次々に姿を現した。
その隙を、悠は逃さなかった。
ドアを蹴り開けるように車から降りる。
ブラスターを構える。
引き金を引いた。
光弾が空間を切り裂く。
構成員は反応する間もなく倒れていく。
抵抗は成立しなかった。
悠は躊躇なく廃墟の内部へ侵入する。
武器庫の扉を破壊する。
中に並ぶ銃火器。
大型マシンガンを手に取る。
装填。
重さすら感じなかった。
その頃。
イザを乗せた車が廃墟前へ到着していた。
「おいおいおい……なにがあった」
異様な光景に、思わず声を漏らす。
車から降りた瞬間。
建物の奥から、人影が現れた。
悠だった。
マシンガンを構えている。
躊躇はない。
引き金が引かれる。
弾幕が空間を制圧する。
「クソ!!!!」
イザは車体の陰へ身を滑り込ませる。
銃撃が金属を叩き続ける。
イザは素早くUNPサブマシンガンを装填した。
呼吸を整える間もない。
すでに戦闘は始まっていた。
これは交渉ではない。
報復でもない。
ただ一人の男が、すべてを終わらせるために来た。
第6話 最後のリーダー
「野郎がぁ!!!」
イザの姿が掻き消える。
空間を歪ませ、リンクによる瞬間転移。
次の瞬間、悠の背後へ回り込んでいた。
サブマシンガンの銃口が向けられる。
引き金が引かれた。
だが悠は、発射の瞬間にはすでに走り出していた。
弾丸が通過する。
わずかな差。
悠の姿が揺らぐ。
転移。
イザの視界から消える。
「どこ行ったぁ!」
焦燥が声に滲む。
周囲へ無差別に銃撃を浴びせる。
だが、その行為が隙を生む。
背後。
気配はなかった。
ただ、刃だけが現れる。
「ぐは……!」
ナイフが背中へ深く突き立てられる。
悠は無言のまま、さらに刃を押し込んだ。
筋肉を裂き、内部を抉る。
イザの喉から血が溢れる。
膝が崩れた。
「お前はもう終わりだ。逮捕はもうしない……」
低い声。
感情は感じられない。
さらに刃を捻る。
「おれは終わらんぞ……!」
かすれた抵抗。
「いいや、ここで殺す」
悠はナイフを引き抜く。
一瞬の静寂。
次の瞬間、刃が喉元を横切った。
深く、迷いなく。
血が噴き出す。
イザの目から光が失われていく。
体が前のめりに崩れた。
動かない。
ジョンイル最後のリーダー、イザ。
その生は、ここで終わった。
悠は何も言わない。
ただ、血に濡れた刃を見つめていた。
復讐は果たされた。
だが胸の奥にあった空洞は、何一つ埋まらなかった。
残ったのは、以前よりも深い静寂だけだった。
第7話 崩壊した関東
アルタイル王国。
戦争から四年の歳月が流れた。
戦争は終結した。
だが平和は訪れていない。
暴走した一部のエルフたちが、人間世界へ流入している。
憎悪に呑まれ、理性を失った者たち。
アルタイル王国は、今もなお人間世界を守るため動いていた。
クライスは王の座を降りていた。
成長したガルルへ王位を譲ったのだ。
もはや王としてではない。
一人の戦士として戦場に立つ道を選んだ。
東京。
崩壊した新宿。
かつて光に満ちていた街は、今や瓦礫の山と化している。
道路には放置された車両。
崩れた高層ビル。
焼け焦げた看板。
その中を、エルフたちが彷徨っていた。
「ぐげえええあああ……」
濁った声。
かつての知性は感じられない。
まるで屍のように、ゆっくりと歩いている。
ビルの屋上。
クライスはその光景を見下ろしていた。
沈黙。
背後から、規則的な靴音が近づく。
尖った革靴が床を叩く。
「景色はどうかね、ミスター・クライス」
八条の低い声。
振り返らずに答える。
「地獄絵図だ。人間を地獄から守らねばならん」
八条は葉巻に火をつけた。
「お前の兄がゲートを作り、暴徒化したエルフを流し込んでいる」
煙が風に流される。
「兄が死んでも、ゲートが消滅しない。なぜだ」
距離を詰める。
「まだ敵は残っている……お前たちの世界の中に」
声の調子がわずかに変わる。
「世界を繋いだ真犯人がいる」
クライスはゆっくり振り返った。
迷いのない眼差し。
「いいか。結界を東京全体に張る」
短く言い切る。
「絶対に東京から出してはならん」
命令口調だった。
男の眉がわずかに動く。
「……それは、私に命令しているのかね。ミスター・クライス」
苛立ちが滲む。
だがクライスは意に介さない。
「言われた通り、兵士を動かせ」
視線を外す。
「いいな」
それだけ言い残し、歩き出した。
王ではなくなった男。
それでもなお、戦場の中心に立つ者の背だった。
第8話 眠りから目覚めた海の亡霊
レベック卿。
百年前、海を支配していたとされる伝説の海賊。
その船に乗っていたのは、わずか五人。
たった五人で、数多の国を征服し、世界に恐怖を刻みつけた。
港は焼かれ、艦隊は沈められ、王たちは震えた。
やがて各国は手を取り合い、討伐艦隊を編成する。
激戦の末、レベック卿は海へと沈んだ。
異世界の深海。
光の届かぬ場所で、その生涯は終わったはずだった。
だが百年後。
ティード海賊団の生き残り、バードリーは海底へ潜っていた。
目的は一つ。
伝説の亡骸。
ミイラと化したレベック卿の遺体を引き上げる。
小型船の甲板。
晴天の海。
膨大な治癒魔法が施される。
干からびた肉体に、ゆっくりと変化が現れる。
皮膚に色が戻る。
筋肉が再生する。
骨ばっていた体が、かつての強靭さを取り戻していく。
やがて、その姿は全盛期すら凌駕するほどの威圧感を帯びていた。
「やはりまだ生きている……治癒魔法が効いている……!」
バードリーの声が震える。
次の瞬間。
レベック卿の胸が大きく上下した。
「……ぐほあああああ!!!」
体を起こし、肺に溜まっていた海水を吐き出す。
百年分の重みを吐き捨てるかのようだった。
ゆっくりと目を開く。
鋭い視線。
その眼には、いまだ衰えぬ覇気が宿っていた。
「……さぁ聞こうか、小童」
低い声。
「俺の船はどうなった」
バードリーを睨みつける。
「お待ちください。わたくしめはバードリー」
姿勢を低くする。
「あなたの力が必要だ。どうか、手を貸していただきたい」
レベックの視線は変わらない。
「おれの見返りは」
短い問い。
「かつてあなた方を海底へ沈めた王どもへ、復讐ができる」
バードリーは続ける。
「わたくしと組みませんか」
わずかな沈黙。
「……ワインをくれ。喉が痛い」
ボトルが差し出される。
レベック卿は受け取ると、そのまま一気に飲み干した。
喉を鳴らし、空になった瓶を海へ放る。
「命を助けてもらったな」
ゆっくりと立ち上がる。
その姿には、百年の眠りを感じさせない圧があった。
「いいだろう。話を聞こうか」
伝説が、再び海へ戻ろうとしていた。
第9話 ホースの死
アルタイル王国。
アルタイル城、馬小屋。
乾いた藁の匂いが漂う。
クライスの愛馬、ホースは横たわっていた。
呼吸は浅く、弱々しい。
医師が静かに容体を確認する。
やがて、うつむいたままクライスの耳元で告げた。
残念ですが、潮時です。
楽にさせてあげましょう。
ホースは病に侵されていた。
回復の見込みはない。
苦しみを長引かせるだけだという。
医師は一礼し、その場を後にした。
静寂が残る。
クライスの呼吸が乱れ始める。
震える手で、リボルバー拳銃を取り出す。
ゆっくりと銃口を向ける。
ホースは抵抗しない。
ただ、かすかに首を動かした。
涙が視界を歪ませる。
銃身が揺れる。
前が見えない。
足元が崩れた。
膝から力が抜け、その場に倒れ込む。
「……できない……私にはできない……!」
かすれた声。
だが、理解していた。
これは責任だ。
王であるかどうかは関係ない。
共に戦ってきた命を、最後まで見届ける義務。
クライスはゆっくり立ち上がる。
再び銃口を向けた。
「すまなかった」
声が震える。
「お前はもう楽になれ」
涙が頬を伝う。
「大丈夫だ。私がついている」
引き金に指をかける。
わずかな逡巡。
そして。
乾いた銃声が響いた。
一瞬だけ、ホースは声を上げる。
やがて力が抜け、静かに首を横たえた。
すべてが止まる。
クライスの手から銃が落ちる。
その場に崩れ落ちた。
声を押し殺すこともできない。
ただ、泣いた。
戦場では決して流さなかった涙が、止まらなかった。
第10話 殺害予告
アルタイル王国、アルタイル城――私室。
愛馬を失った翌朝、クライスは重い瞼を押し上げるようにして目を覚ました。胸の奥に沈殿した喪失感は、夜を越えてもなお消えることはない。
隣では、妻ワンダが静かな寝息を立てている。起こさぬよう気を配りながら身を起こし、クライスは大きなカーテンを引いた。差し込む朝日の白光が、冷え切った部屋を容赦なく照らし出す。
目を細める。眩しさではなく、現実の重さに対して。
やがて二人は食卓に着いた。磨き上げられたテーブルの上に、メイドたちが次々と朝食を並べていく。だがその香りも、クライスの心には届かない。
煙草を咥え、火をつける。紫煙がゆっくりと天井へ昇っていく。
そのときだった。
足音が、慌ただしく廊下を打った。扉が控えめに叩かれ、すぐに一人のメイドが駆け込んでくる。手には、一通の封書。
ただならぬ気配に、クライスは短く問いかけた。
「どうした」
メイドは言葉を選ぶ余裕もないまま、耳元で囁く。内容を聞いた瞬間、クライスの表情が凍りついた。
差し出された手紙を受け取り、その場で封を切る。
――差出人、レベック卿。
視線が文字をなぞるたび、空気が重く沈んでいく。
アルタイル王家、そして浪野悠への殺害予告。
「……信じられない。なぜ、伝説の海賊が生きている……」
思わず漏れた言葉は、驚愕と警戒が入り混じっていた。
ワンダが不安げに問いかける。
「……いたずらじゃないの?」
「度が過ぎている」
即答だった。否定の余地はない。
クライスは椅子を引き、立ち上がる。その動きには、もはや迷いはなかった。
「騎士団を叩き起こせ。臨時会議を開く。今すぐだ」
メイドたちが一斉に動き出す。
「ワンダとサナには護衛をつけろ。絶対に離すな」
命令は矢継ぎ早に放たれ、城内は瞬く間に緊張に包まれた。
ワンダが名を呼ぶ。
「あなた……」
クライスは振り返り、わずかに表情を緩める。
「大丈夫だ。必ず守る。会議が終わり次第、すぐ戻る」
その言葉を残し、彼女をメイドへ託そうとした――その刹那。
遠くから、叫び声が響いた。
「親父! 今すぐそこを離れろ!!」
ガルルの声だった。
瞬間、クライスの直感が警鐘を鳴らす。
考えるより早く、ワンダの体を押し倒すように抱え込む。
次の瞬間――
爆発。
重低音が空間を引き裂き、続けざまに衝撃が連鎖する。食卓は砕け、壁が裂け、炎が一気に室内へと雪崩れ込んだ。
視界が赤に染まる。
クライスは歯を食いしばりながらワンダを抱え上げ、そのまま外へと滑り出る。そこへ駆けつけたガルルに、彼女を託した。
「頼む!」
言葉はそれだけで十分だった。
周囲では、負傷したメイドたちが倒れ伏している。ダグとカイラがすぐさま駆け寄り、魔法で応急処置を施していた。
「いったい何が……!」
ギャバットの声が、混乱の中に響く。
ガルルが歯噛みしながら叫ぶ。
「千里眼だ……! 超遠距離から爆発魔法を撃ち込んできやがった!」
その言葉に、場の空気が凍りつく。
視界の届かぬ場所から、正確無比に急所を撃ち抜く魔法。
常識外れの脅威だった。
――同時刻。
ボルケーノ王国沖。
静かな海に、一隻の海賊船が佇んでいる。
甲板に立つ男は、遠く離れた大陸へと手をかざしていた。
その指先から放たれるのは、見えざる死。
レベック卿は、愉悦を滲ませた声で呟く。
「爆発魔法はいかがかな……ミスター・クライス」
遥か彼方の王城で上がる炎を思い描きながら、ゆっくりと口元を歪めた。
第11話 爆弾の嵐
一週間後――羽田空港。
人の往来で満ちているはずの空間は、異様な緊張に包まれていた。
釜野は、妻と幼い娘を連れ、警察の護衛に囲まれながら走っていた。
妻は足をもつれさせながらも必死に食らいつき、娘はその腕にしがみつく。釜野は二人を支え、何度も振り返りながら前へ進む。
追われている。
姿は見えない。だが確実に、何かが迫っていた。
今朝、自宅に届いた一通の手紙。
内容は、クライスのときと同じ――殺害予告。
あの名が脳裏に焼きついて離れない。
レベック卿。
そのとき、空港内を震わせる衝撃が走った。
爆発。
遅れて、悲鳴が連鎖する。
娘が恐怖に耐えきれず泣き出した。
釜野は歯を食いしばり、さらに速度を上げる。
逃げ切れるはずがないと、どこかで理解していながら。
その前方――空間が揺らいだ。
何もなかったはずの場所に、輪郭が浮かび上がる。
やがて、それは一人の男の姿を結ぶ。
「……あぁ、見つけたぞ」
透明魔法が解かれ、レベック卿が静かに立ち塞がった。
釜野の動きが止まる。
直後、怒号が飛んだ。
「撃て!」
警察隊が一斉に発砲する。
銃声が空港内に響き渡る。だが、レベックの周囲に展開された結界が、すべての弾丸を弾いた。
乾いた音を立てて、弾丸が床に落ちる。
レベックは眉一つ動かさない。
その手がわずかに動いた。
次の瞬間、警察隊の足元で爆発が連鎖する。
閃光と衝撃。
人影が次々と吹き飛び、床に叩きつけられる。
悲鳴すら、長くは続かなかった。
「手紙は届いたかな、ミスター釜野」
穏やかな声だった。
その手には、すでに銃が握られている。
引き金が引かれた。
銃声。
釜野の体が揺れ、膝をつく。
遅れて、妻が駆け寄る。
「あなた……!」
レベックはその様子を眺めながら、淡々と口を開いた。
「かつて名を馳せた探偵――浪野悠の協力者か」
わずかに口元が歪む。
「お前を殺せば、あの男の怒りは必ずこちらへ向く。獲物が、自ら姿を現す」
遠方から、重低音が響いてくる。
増援のヘリコプターだ。
機体が空港上空に差し掛かり、降下準備に入る。
生き残った隊員たちが、必死に妻と娘を誘導する。
「こちらへ!急げ!」
「離れてください!」
引き剥がされるように、二人はヘリへと向かわされる。
「待って!あなた!」
妻が振り返る。
その視線の先で、釜野がゆっくりと顔を上げた。
血に濡れながらも、その目はまだ死んでいない。
「……まだだ」
掠れた声。
「家族が離れるまで……俺は死なない」
震える手で、ブラスター拳銃を引き抜く。
構える。
レベックはわずかに肩をすくめた。
「残念だ」
次の瞬間、その姿が消える。
間合いが詰められていた。
抜き放たれた剣が、迷いなく振り抜かれる。
釜野の腹が裂ける。
鮮血が空中に散った。
「――――ッ!」
妻の絶叫が空港に響き渡る。
「ぱぱぁぁあああ!」
娘の声が重なる。
釜野はよろめきながらも、最後の力で顔を上げた。
その視線は、ただ二人だけを追っている。
「……生きろ」
声にならないほどのかすれた声で。
「お前たちだけでも……」
力が抜ける。
拳銃が手から滑り落ちる。
視界が閉じていく。
その瞳から、光が消えた。
第12話 復讐に燃える男
沖縄――浪野探偵事務所。
薄暗い室内に、酒の匂いが淀んでいた。
デスクの上には、空になったウイスキーのボトルが無造作に並んでいる。
その中央で、悠は顔を伏せていた。
雪の死。
釜野の死。
現実が、重くのしかかる。
思考はまとまらない。
だが、逃げ場もない。
しばらくの沈黙のあと、悠はゆっくりと顔を上げた。
目には、もう涙はなかった。
決意だけが残っていた。
奥の部屋へと向かい、小さな体を抱き上げる。
歩九は、不安げに悠の胸に顔を埋めた。
悠はその背を、静かに叩く。
「……俺がいる」
低い声だった。
「必ず守る」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
ゆっくりと煙を吐き出し、覚悟を固める。
携帯を取り出し、番号を呼び出す。
数コールの後、応答があった。
「……少年?大丈夫か」
落ち着いた声。
ロイスだった。
悠は短く告げる。
「今から沖縄に来れますか。歩九を預かってほしい」
わずかな沈黙。
「……復讐する気か?」
核心を突く問い。
悠は答えない。
だが、それで十分だった。
「……わかった。すぐ向かう」
通話が切れる。
悠は何も言わず、歩九を部屋へと連れていく。
その背中には、もう迷いはなかった。
すべてを終わらせるための覚悟だけがあった。
――一方。
アルタイル王国、アルタイル城。
広大な発着場に、飛行船が並ぶ。
兵士たちが次々と乗り込み、武装を整えていく。
その先頭に立つのは、カイラ。
冷たい視線で空を見上げる。
標的は一つ。
復活した、呪われし海賊。
各国はすでに動き出していた。
静かに、だが確実に。
再び戦争の火が灯ろうとしていた。
第13話 呪われた海域、ムク海
無数のアルタイル飛行船が、黒雲の垂れ込める海域へと進軍していた。
目的地は――ムク海。
その海は、古くから“呪われた海域”と呼ばれている。
巨大な正体不明の生物が出没し、幾多の船が消息を絶った。
ゆえに、各国の商船は決して近寄らない。
だが今、その死の海域は――戦場へと変わった。
幽霊船。
そこに、レベック卿は君臨している。
甲板には、骸骨兵が無数に並び、静かに侵入者を待ち構えていた。
死者の軍勢は、確実に数を増している。
船長室。
レベックは静かに呟いた。
「メント……サダベル……キングス……ティード……」
名を連ねるごとに、口元が歪む。
「奴らは正しかった。エルフのあるべき姿を取り戻そうとした……皆、正しい」
その傍らで、バードリーがワインをグラスへと注ぐ。
「レベック卿、奴らが来ました……」
差し出されたグラスを受け取り、レベックはゆっくりと立ち上がる。
「ミスター・クライス……来たか」
その視線の先。
幽霊船を取り囲む、飛行船の大群。
砲門が一斉に開かれる。
前線に立つクライスが、短く命じた。
「撃て」
轟音。
数えきれない砲弾が、幽霊船へと降り注ぐ。
だが――
弾丸はすり抜けた。
実体を持たぬ船体を貫き、そのまま海面へと叩きつけられ、爆発する。
カイラが舌打ちする。
「父さん、乗り込むしかない。おれが行く」
「いや、お前は切り札だ。ここで待て」
即答だった。
カイラは肩をすくめる。
「はは……もう王様じゃないのに、命令するんだな。まぁいいよ」
軽口を叩きながらも、その目は真剣だった。
クライスは煙草に火をつける。
「必ず戻る。友人に馬をもらう約束がある」
短く言い残し、前へ出る。
「かかれ!」
号令とともに、兵士たちが飛び立つ。
幽霊船へと次々に降下する。
迎え撃つ骸骨兵。
刃と刃がぶつかり合い、戦場が一気に広がる。
その中を、バードリーが飛び出した。
「けけけ!貴様ももう終わりだ!」
クライスへと斬りかかる。
「邪魔だ」
一言。
次の瞬間、クライスの最奥魔法が放たれる。
火炎が一直線に走り、バードリーを飲み込む。
「ぐああああ!!」
焼け焦げ、崩れ落ちる。
クライスは周囲を見渡し、叫ぶ。
「レベック!出てこい!」
その瞬間――雷が落ちた。
直撃。
だが、クライスは結界で受け止める。
焦げる空気。
この感覚には、覚えがあった。
「……馬鹿な」
ゆっくりと顔を上げる。
帆の上。
そこに立つ影。
クリスだった。
「カノンは……あんたのせいで死んだんだ……クライス……!」
雷を纏いながら、低く吐き捨てる。
「クリス……なぜだ!」
「考えたさ……何度もな!」
怒りと悲しみが混ざった声。
「誰のせいで死んだのかって……!」
剣を構える。
「貴様が操られなかったら、こんなことにはならなかった!」
「俺はお前を殺す……それで俺も死ぬ!」
雷鳴が轟く。
クライスへと斬りかかるクリス。
「海賊と組んだのか……俺を殺すために!」
「ああ、そうだ!」
叫び。
「これは鎮魂歌だ……カノンへのな!」
その時。
船長室の扉が開いた。
「感動の再会だな」
レベック卿。
悠然と姿を現す。
「クリスに何を吹き込んだ!」
クライスの怒号。
レベックは肩をすくめる。
「選んだのは彼自身だ」
その腕に、爆発魔法が構築されていく。
だが――
「そうはさせん……探偵、いまだ!」
クライスがわずかに首を傾ける。
その角度。
空間が歪む。
ゲートの向こう。
引き金が引かれる。
悠の対異ライフルの銃弾が、一直線に走った。
狙いは――眼球。
レベックの結界が砕ける。
反応すら許されない速度。
弾丸はそのまま、目を貫いた。
一瞬の静寂。
レベックの体が崩れる。
血を流し、動かなくなる。
終わりだった。
クリスが舌打ちする。
「くそ……!」
即座に魔法を発動。
「エスケープ!」
その姿が掻き消える。
戦場に残ったのは、静まり返った幽霊船と、終わったはずの戦いの余韻だけだった。
第14話 クリス
その時――悠は廃墟からゲートを開き、戦場へと介入していた。
クライスたちの背後を守るように、悠はライフルを構えて立っている。
レベックは討った。
だが――
悠は周囲を見渡す。
「……クリス、どこ行った……」
静まり返った空気の中、次の瞬間。
「ここだぁ!」
背後。
殺気が弾ける。
振り返るより早く、刃が突き出される。
だが――悠は反応していた。
わずかに体をずらし、致命の一撃を回避。
そのまま地面を転がり、距離を取る。
即座にライフルを構え直す。
機構を切り替える。
ショットガンモード。
銃口が、クリスへと向けられる。
対峙。
互いに動かない。
悠は、ゆっくりと銃口を下げた。
「……説明しろ、クリス」
低く、押し殺した声。
クリスは答えない。
沈黙。
「説明しろよ」
重ねる。
しばらくして、クリスは口を開いた。
「……おれがお前の友達の情報をレベックに流した」
わずかな間。
「これで満足か?」
その言葉と同時に――
脳裏に焼き付く光景。
釜野。
血に濡れ、崩れ落ちる姿。
悠の眉間に、深い皺が刻まれる。
沈黙。
やがて、悠は小さく息を吐いた。
「……そうか」
ゆっくりと銃を持ち直す。
「お前には助けられてばかりだったからな」
その声は、不思議なほど静かだった。
「今度は……おれがお前の望みを叶えてやる」
引き金が引かれる。
轟音。
至近距離から放たれた散弾が、クリスの頭部を粉砕する。
一瞬で決着はついた。
クリスの体が力を失い、その場に崩れ落ちる。
動かない。
完全に、沈黙した。
第15話 攫われた歩九
その夜――。
悠は、クリスの遺体をクライスへ引き渡し、ひとり沖縄の事務所へと戻った。
がちゃり、と乾いた音を立ててドアを開ける。
――静かすぎた。
人の気配がない。
生活の温度が、消えている。
「……歩九? 所長?」
呼びかける声が、空虚に響く。
部屋の奥へ進む。
寝室、キッチン、隅々まで確認する。
だが、どこにもいない。
胸の奥がざわつく。
嫌な予感が、確信へと変わる。
――遅かった。
デスクの上。
一通の手紙。
無造作に置かれている。
悠はそれを手に取り、目を通す。
内容は、これまでのすべてに繋がっていた。
エルフの暴走。
その首謀者からの――招待状。
記された場所。
浪野探偵事務所。
「……ここだ」
低く呟いた、その瞬間。
「やぁ、少年」
背後から声。
反射的に振り返り、ブラスターを突きつける。
そこに立っていたのは――ロイス。
悠の視線が鋭くなる。
「……やっぱり、あんただったのか」
吐き捨てるように言う。
「最初からなんとなくわかってた」
一歩、踏み出す。
「おれに異世界へ渡る能力を与えたのは、あんただろう――所長」
ロイスはわずかに微笑む。
「さすがだ。私の見込んだ通りだよ」
その余裕が、逆に不気味だった。
悠は引き金に指をかける。
「今すぐエルフの暴走を止めろ」
声は低く、殺気を帯びている。
「二度は言わせるな」
だが、ロイスは肩をすくめた。
「まぁまぁ、落ち着きたまえ」
まるで世間話のような口調。
「私の“実体”は、この世界にはないんだ」
悠の目が細まる。
「……どこだ」
短く問う。
ロイスはゆっくりと空を指差した。
「月だよ」
静かな声。
「私の本体は、あそこにある」
その瞬間、悠は理解する。
目の前のロイスは――分身。
魔法で作られた、ただの“器”。
ロイスは続ける。
「君も知っているだろう?」
一拍置く。
「魔王グラウンド」
その名に、空気が凍る。
「あれはね――私が生み出した」
言葉が落ちる。
悠の思考が、一瞬止まる。
すべての元凶。
その核心が、あまりにもあっさりと告げられた。
ロイスは満足げに微笑む。
「明日の夜明けまで猶予をあげよう」
指を一本立てる。
「異世界最高戦力――カイラを連れてきたまえ」
その声には、明確な意図があった。
「彼は私の範疇を超えている。あれほどの力は、少々困るのでね」
そして――
「彼と引き換えに、君の子どもは返してあげよう」
淡々と告げる。
「もしできなければ――」
一瞬、間を置く。
その笑みが、わずかに歪む。
「この世界を消す」
第16話 クレーター戦線
その後、悠は無言で携帯を取り出し、どこかへ電話をかけた。
短いやり取りだけを残して通話は終わる。
決断は、すでに済んでいた。
――翌朝。
荷物を背負い、ブラスターを手に取る。
深く息を吐き、目を閉じる。
思い描くのは――月。
意識を、飛ばす。
視界が切り替わる。
重力のない、静寂の世界。
荒れた月面には、無数の影が蠢いていた。
魔王の群れ。
異様な密度で集結している。
その先。
ぽつんと存在する、小さな研究所。
「……研究所……この中に所長はいる……!」
悠は意識をさらに集中させる。
一点へと絞り込む。
「リンク!」
叫びと同時に、空間が裂ける。
月と地上が繋がる。
悠はそのままゲートをくぐり、研究所内部へと踏み込んだ。
外とは対照的に、内部は静まり返っている。
だが、壁や構造は異様に強固だった。
宇宙空間に耐えるための設計。
廊下を進む。
奥へ、さらに奥へ。
やがて大きなホールへと辿り着く。
その先にも扉。
まるで迷宮のように、道は続いている。
――その時。
「まてぇええええ!!!小僧ぉぉぉ!」
背後から、怒号。
振り返る。
そこにいたのは――バードリー。
「鳥...!」
悠は短く吐き捨てる。
「まだだ!貴様と最後の決着をつけてやる!」
バードリーが突進する。
「ティード様の意思は、私が継ぐ!」
手にした斧。
斧を悠に手渡した
さらにもう一振りを、口から引き抜く。
「これは形見だ……あのお方の想いと共に、貴様を葬る!」
両者、構える。
間合いが詰まる。
次の瞬間――衝突。
鋼がぶつかり合い、激しい音が響く。
押し込まれるのは、悠。
「くらえ!」
バードリーの斧が閃く。
一瞬。
悠の右腕が宙を舞った。
「――っ!」
遅れて、激痛が走る。
膝が崩れかける。
血が噴き出す。
「終わりだぁ!」
とどめの一撃。
頭部へ振り下ろされる斧。
――だが。
悠は、倒れなかった。
残された左手で、斧を握る。
振り抜く。
一閃。
バードリーの体が、縦に裂けた。
音もなく、崩れ落ちる。
ティード海賊団、最後の生き残り。
その命は、ここで尽きた。
悠はその場に膝をつく。
荒い呼吸。
流れ続ける血。
だが――止まらない。
歯を食いしばり、立ち上がる。
視線は、ただ前だけを見ていた。
たとえ腕を失おうと。
たとえ命が削れていようと。
進むしかない。
その奥にいる存在を、終わらせるために。
第17話 本当の姿
最奥の扉へ――ようやく辿り着いた。
悠は残された左手で取っ手を掴み、力を込めて押し開ける。
その先に広がっていたのは、見覚えのある光景だった。
――かつての飛鳥探偵事務所。
机の配置、古びた棚、空気の匂いさえも再現されている。
だが――違う。
奥の壁。
そこには、無数の目玉と肉片が絡み合った異形が鎮座していた。
脈打つそれは、生き物としての輪郭すら曖昧で、ただ“存在している”。
悠は、理解する。
「……所長」
呼びかけるように呟く。
「やぁ、遅かったね」
ロイスの声が、空間全体から響く。
「子供はそこに寝かせてある」
視線を向けると、ソファの上に歩九の姿があった。
悠は背負っていた袋を静かに地面へ下ろす。
「……全部、仕組んでたのか?」
低い声。
「最初から」
ロイスは愉快そうに応じる。
「私が事務所を立ち上げた理由かい?」
一拍。
「人間を観察するためだよ。ついでに実験モルモットとしてね」
淡々とした告白。
悠の目が細まる。
「……異世界に渡る能力を授けた理由は?」
問いに対し、ロイスは少しだけ間を置いた。
「君だからだ」
静かに、だが確信を持って言う。
「初めて面接に来たとき、分かったんだ。私は君に惹かれていると」
歪んだ感情。
「確かに能力は与えた。だがね、君が死にかければ、いつでも助けるつもりだった」
悠は俯く。
「……もういい、やめろ」
かすれた声。
ロイスは優しく語りかけるように続ける。
「安心していい。君は殺さない」
「子供たちもだ」
「ここで、私と永遠に暮らそう」
その言葉に、悠の肩が震えた。
「……もう少しだった……」
小さく漏れる声。
「?」
「もう少しだったんだ……!」
顔を上げる。
その目は、怒りとも絶望ともつかない色を宿していた。
悠は最後の煙草を取り出し、火をつける。
「家族……家……幸せな家庭……」
煙がゆっくりと上がる。
「こんなことにならなければ……」
一歩、踏み出す。
「もう少しで、全部手に入ったんだぁぁ!!!!!」
叫びが空間を震わせる。
その瞬間――
ソファの下にゲートが開く。
歩九の体が、重力に引かれるように落ちていく。
光の向こうへ消える。
「……家に帰したのね」
ロイスは淡々と呟く。
「まぁいい。私に必要なのは、あなただけだから」
悠は煙草を投げ捨てる。
袋を開く。
中にあったのは――釜野の遺体。
「……!?」
ロイスの声が初めて揺れる。
「約束と違うじゃないか……カイラはどうした!」
「違うとも」
短く返す。
――場面は変わる。
沖縄、浪野探偵事務所。
緊急で戻ってきたルイが、落ちてきた歩九を抱き上げる。
「……おじさん……」
震える声。
悠が最後に電話をかけた相手――それがルイだった。
別れを告げるために。
――さらに。
神奈川、駅前。
暴走したエルフたちが街へ雪崩れ込み、人間を襲っていた。
「急げ!中へ入れ!!」
新田が叫び、装甲を纏った警察部隊が応戦する。
混乱は頂点に達していた。
――再び、月。
ロイスの声が低く響く。
「お前を創ったのは私だ……私がお前の神だ……!」
悠は静かに巻物を取り出す。
最後の手段。
口を開く。
「最奥魔法……ブラックアウト……!」
闇が走る。
黒い光線が、ロイスの異形を飲み込む。
目玉が、肉片が、悲鳴のように歪みながら消えていく。
やがて――完全に闇に呑まれた。
同時に、警告音が鳴り響く。
研究所の崩壊。
構造が軋み、壁が裂ける。
悠の膝が崩れる。
限界だった。
そのまま、床へ倒れ込む。
意識が遠のく中――
爆発。
月面に光が走り、研究所は消滅する。
それに呼応するように、魔王たちも消え去っていく。
そして――
地上。
暴走していたエルフたちの動きが止まる。
呪いが、解けた。
――沖縄。
ルイは窓を開ける。
夜空を見上げる。
遠く、見えないはずの月の方角へ。
静かに涙が頬を伝った。
第18話 打倒後
目を開けると、白い天井が視界に広がっていた。
無機質な光。消毒液の匂い。
どこかの研究施設――そう直感する。
周囲では白衣の研究員たちが忙しなく行き交っている。
機械音と足音だけが、規則的に響いていた。
悠はしばらく何も言わず、ただ天井を見つめる。
「……」
やがて、低い声が落ちてきた。
「目が覚めたか、浪野くん」
視線を横へ向ける。
窓のない病室の隅。
八条が椅子に腰掛け、ナイフでリンゴの皮を剥いていた。
するすると、赤い皮が途切れることなく落ちていく。
悠は眉をひそめる。
「……どういうことだよ」
かすれた声。
八条は手を止めずに答える。
「ここは私の研究所だ」
一拍。
「そして君には働いてもらう」
刃が最後まで走りきる。
「世界の平和のためにな」
あまりにも一方的な宣告だった。
悠は理解が追いつかないまま、視線をさまよわせる。
現実感が薄い。
八条は淡々と続ける。
「君が月で死ぬ直前――」
「私がゲートを開き、君を回収した」
悠の目がわずかに見開かれる。
あの爆発の直前。
確かに、意識はそこで途切れている。
八条はようやくリンゴを一口大に切り分け、皿に置いた。
「ここが気になるようだな」
軽く顎で周囲を示す。
「ここは“世界均衡管理局”」
その名称は重く響いた。
「我々はな、数々の異世界を監視し、滅亡を未然に防ぐ組織だ」
悠の視線が戻る。
「……滅亡?」
絞り出すような問い。
八条は静かに頷く。
「君たちの世界で言えば、ティードやあの海賊どもだ」
「世界を壊そうとする“歪み”は、どこにでも生まれる」
「それを排除する。それが我々の仕事だ」
言葉に一切の感情はない。
ただ、事実だけを並べている。
「武力行使も辞さない」
「それで何度も世界を救ってきた」
病室の空気が、わずかに重くなる。
その時――ドアが開いた。
一人の男が入ってくる。
太郎だった。
彼は静かに歩み寄り、悠の前で足を止める。
「……僕たちは君の敵じゃない」
落ち着いた声。
「君の子供たちは、政府が責任を持って守る」
その言葉に、悠の表情がわずかに動く。
「だから――力を貸してほしい」
太郎は手を差し出した。
真っ直ぐな目だった。
悠はしばらくそれを見つめる。
雪の死。
釜野の死。
すべてを奪われた現実。
そして――守るべきもの。
ゆっくりと腕を持ち上げる。
迷いは、もうなかった。
その手を、掴む。




