#8 神への祈り
ずっと眠り続けていたせいで、男はひどくやつれていた。柱にぐったりと身を預けたまま、虚ろな青い瞳を彷徨わせる。
その目が、テーブルを囲むマリアンたちをぼんやりと捉える。そしてすぐにその中心、寝台代わりのテーブルに横たわるミミンへと留まった。青白い顔で浅い呼吸を繰り返し、幼い手足には色濃い瘴気の痣が浮かぶ。
「いま忙しいので寝ててもらえますか!?」
マリアンが叫んだ。
シャルと村長はいきなり現れた男に困惑していた。しかしマリアンには、二人にも男にも、悠長に説明する余裕は無かった。
「急患の応対中なので! あのっ、寝ていた部屋で安静にしていてもらえますかっ! 場所わかりますっ? 廊下戻って一部屋目!」
先よりは声を抑える。それでもどうしても言葉尻は荒くなる。
そこでようやく、男がマリアンを見た。
「水……」
男が掠れた声で言った。
「水!? 水差しがそこに――ああっ、空だったっ! とにかく後で持っていきますから、部屋に戻って――」
口はまくし立てながら、足は厨房へ向かう。男に構っている暇などないのだ。はやく薬の調合に入らなければ、ミミンの瘴気の痣はどんどん広がる。
しかし、厨房へ入るマリアンの視界の端で、男が敷居を跨いで裸足のまま土間へ下りてきていた。ふらつきながら水差しとコップを手に取ったかと思えば、彼はミミンとシャルの間に割って入る。横たわるミミンの手に空のコップを握らせると、その背に腕を差し入れて抱き起こした。
マリアンはぎょっと目を見開いた。
「なにしてるんですか!? 勝手に患者を動かさないでください!」
声が裏返るほどに怒鳴った。足音を立てながら男に詰め寄っていくが、男はこちらに目もくれない。
男はミミンに持たせたコップへ、空の水差しを傾けていた。当然、水など一滴も落ちない。
「……神よ。母なる水の神アーリアよ。畏れながら、第八の窓の前より願い申し上げる。罪、穢れ、病、闇、すべてを押し出し、洗い流す、御身の御手にて――」
聞き覚えのない祝詞だった。掠れた声のまま構わず唱え続ける。
マリアンは彼の肩を掴んだ。
「やめてください! 祈ったところで治らない! 患者に体力を使わせないで!」
しかし男は、コップを持つミミンの手を支え、水差しを傾けたまま、祈りを止めない。
「――この幼き器を雪ぎ、清浄の囲いの内へお戻し下さいますよう……この右手の水瓶を御身の水瓶とし、この左手の盃を満たし給え」
「だからッ、」
再び怒鳴りつけようと、マリアンは息を吸い込んだ。吸い込んで、そのまま固まった。
窓も開けていないのに、空気が動いた。ランプの煙臭さが遠のき、代わりに、雨上がりの森のにおいがした。いや、それよりも濃い、雨そのものの、水のにおいだ。
ぽつ、と。
水滴がコップの底を叩いた。
水差しに僅かに残っていたのかとマリアンは理屈をつけようとする。しかしその目の前で、ぽた、ぽた、と次々と水差しの口から滴が落ちていく。
マリアンだけでない、シャルも村長も、息をすることも忘れてそれを見つめていた。
男がさらに祝詞を続ける。言葉を重ねれば重ねるほど、水差しから落ちる水滴の間隔が狭まり、やがて一筋の水流になる。コップの中で、水面がランプの光を取り込みながら波紋を作り、金色に光り輝いていた。
そのとき、掴んでいた男の肩がぐらりと揺れた。マリアンは咄嗟に彼を支える。ふと男の腹を見れば、包帯に血が大きく染みていた。だが、男はやはり手元を見つめたまま、祝詞を唱えている。水差しからは細く水が滴り続けていた。
「ああ、なんと……神よ……」と村長の祈る声がした。シャルもまた、固唾を飲んで見守っていた。
やがて、コップの七分目まで水が満ちる。水差しから落ちる水もまた勢いがなくなり、やがて途切れた。
男が水差しを置いた。コップを持つミミンの手を支えたまま、「飲んで。ゆっくり」と促す。声は掠れているが、柔らかな口調だった。
ミミンがゆっくりとコップを口に運ぶ。ひと口、ふた口、彼女の喉が動く。
しばらくの間、彼女が水を飲む様をマリアンたちは見守り続けた。
変化があったのは、コップの水が半分ほど減った頃だ。
ミミンの手や腕に浮かんでいた瘴気の痣が、大きく動いた。痣が流れ落ちた。まるでそれがただの汚れだったかのように、重力に従って、腕から肘へ伝い、肘からぼたぽたと青黒い水となって滴り落ちていく。落ちた汚水は服に染みることもなく、宙で消えた。
「もう、大丈夫」
ミミンが水を飲み切ると、その手からコップを取り上げながら男が言った。彼が離れると、シャルがすかさずミミンに駆け寄る。
「痛みは!? もう痛くはない!? ミミンッ……」
「……うん。……あしも、ても、いまは痛くない……」
ミミンが疲れた様子で答える。シャルはたまらず抱きしめた。
その姿を、マリアンは呆然と眺める。
瘴気の痣が本当に消えたのか。では、男が祝詞を唱え、無から出した、あの水は――。
すると、村長が男に歩み寄り、その手を握った。
「どこのどなたかは存じ上げませぬが……きっと位の高い聖職者の方とお見受けします。ミミンを……儂のもう一人の孫娘を助けてくれて、ありがとう……本当に、どうお礼を言えばいいか……!」
村長は何度も頭を深く下げ、感謝の言葉を繰り返す。
男は疲れきった様子ながらも、薄く微笑んだ。
「いいえ。私はただの、一介の騎士ですから。どうか頭を」
お上げください、と続けようとしたところで、がくんと膝から折れる。その場に崩れ落ちるが、なんとか地面に手をつく。まだ意識は保っているようだった。ただ、その腹の包帯は真っ赤に染まり、下衣まで血が滲み始めている。
「動いたから傷が開いたんですっ、今すぐ止血しますから、寝台へ……!」
マリアンが慌てて駆け寄る。肩を貸そうとすれば、目が合った。
男が柔らかく微笑んだ。
一瞬、マリアンの動きが止まる。なぜこんな重傷で笑っているのか。いや、そうではない、ただ単純に――男のどこか人離れした穏やかさに、冷たい手に胸を弄られるような、そんな悪寒を覚えた。




