#9 奇跡の対価
その後、マリアンは男を診療室へ運んだ。
彼を運ぶのを村長が手伝ってくれたが、途中、「寄進は何年かけてでも必ず」と頭を下げていた。しかし男は首を横に振り、ただ「今回の件は、どうかここだけの話に」とだけ返して微笑んでいた。
治療の際も、彼の意識はしっかりしていた。包帯も下衣も血が滴るほどに濡れていたが、幸いにもすぐに止血と縫合ができたので、大事には至らなかった。とはいえ、新しい包帯を巻き直す頃には、村長らに向けた穏やかな表情も消え失せていた。血を失ったせいだろう。その目は力無く、マリアンの手つきを眺めていた。
マリアンは手を止めず、彼に説明した。
ここが第17大教区の端に位置する森であること。彼が森の中に倒れていたこと。彼をここに運び、腹の傷を治療したこと。彼が先程救ったのは、近くの村の住民であること……。
そこまで話したところで、彼の目がうつらうつらと閉じられかけていることに気づく。あと数巻きしたい気持ちを抑えて、彼を横たわらせると、包帯の端をやわく結んだ。
「腹部以外で、痛いところはありませんか?」
「ええ……」
「名前は言えますか?」
「……ガレスと、申します」
彼は短くそう名乗った。
ガレスは静かな人間だった。失血で意識が低迷しているからということではない。これほどの重傷を負っているというのに取り乱しもせず、老いた賢者のように感情が凪いでいる。どこか人間離れしているようにさえ思える。
しかし、包帯を巻くときに触れた彼の地肌に温度があることが、彼が人であり、患者であるということをマリアンに思い出させた。
マリアンは彼の体に布をかけながら、「ガレスさん。何か温かいものを持ってきます。詳しい話は、食べて、眠った後にしましょう」と笑いかける。
「……さきに、水を頂けますか」
やはり掠れた声でそう乞われたので、マリアンはすぐに水を持ってきた。この男は二日、もしくはそれ以上、飲まず食わずなのだ。
水差しに水を目一杯に汲んでいくと、ガレスはコップに注がれた水をゆっくりと、しかし一息で飲みきった。彼の目がまた、マリアンの持つ水差しを見る。
そういえば、神アーリアを強く信仰する者は、不調時に水をよく飲むのだったか。マリアンは二杯目を注ぎながらぼんやりと思い出していた。
二杯目の水をほんのすこし口に含んで、ガレスはそこでマリアンを見た。コップから口を離し、やがて「貴女は」と問う。掠れのない、弦楽器のような伸びやかな声音だった。
ああ、そういえば、まったく名乗っていなかった、とマリアンはハッとする。自分にとって患者の名前の確認は、意識がどれほどはっきりしているか、その程度の意味しか持たない。施療院を離れてからは久しく、そして村に来てからは新規の患者もなく、名乗り合うという礼儀すっかり失念していた。
マリアンは慌てて名乗った。
「わたしはマリアン・サルスバレンと言います。ここで薬師をしています。……あっ、一応、教会に登録している魔術師です。専攻は薬学です」
「魔術師様、でしたか」
どこかぼんやりとしていた彼の目に、光が戻ったように揺れ、マリアンを映す。
マリアンはぞわぞわと背筋を冷たいものが這い上がってくる感覚を覚えた。彼の人離れした異様な穏やかさだけのせいではない。いやもちろんそれもあるが。
魔術師と名乗れば大抵の人は忌避する。魔術師は遠ざけられる。その偏見は、教会関係者ならば尚更のはずだ。
「あやっ怪しいものではありません。登録証をお見せしたほうがよいでしょうか??」
「いいえ、そこまでは。魔術師様方には、我々教会は多大な恩恵を受けていますから。感謝こそすれ、疑うなどありません。そのうえ、命も救って頂いたともなれば」
ガレスはコップを持たない手を胸に当て、礼の形を取り、頭を下げた。
マリアンはより一層困惑した。教会騎士から威圧的に問い質されることはあれど、頭を下げられたことはない。登録証を見ると、彼らはいつも舌打ちしてこちらをあしらうのだ。
だが、彼の誠意が偽りであるとも思えない。よほど敬虔な男なのだろうか。
「……あの」マリアンは恐る恐る尋ねる。「先程のあれは……"完全な聖水"なんですか」
ガレスは再び水を含もうとして、しかしコップを半ばで止める。水面を見つめていた青い瞳がこちらを見て、困ったように微笑んだ。
「ご老人にもお話しましたが、どうか、ご内密に」
「…………高額な寄進が必要だって聞きましたけど」
「ええ。供物で満たした祭壇を組み上げたのち、高位聖職者が複数人、祝詞を幾晩も絶やさず交代で唱え続ける。そうして、完全な聖水を賜われる。寄進はそのためのものです。奇跡を賜るために神へ祈りを捧げる以上、対価がなくては」
ガレスはコップの水面を眺めながら、祝詞を唱えるときと同じように、淀みなく答えた。
「……あなたは、その対価無しに神へ祈り、奇跡を賜われるんですか?」
「まさか」
冗談でも聞いたように、ガレスが破顔する。
対照的に、マリアンの顔は強張ったままだ。
「なら、対価は」
「寿命を。少し」
ガレスはなんでもないことのように言って、コップを揺らした。水面を見つめながら、
「盃一杯ですから、半年ほどでしょうか」
そう言って、コップに残った水を飲み干した。
彼の話のどこまでが本当かはわからない。だが目の前で、空の水差しから輝く水が落ち、それを飲んだミミンの瘴気の痣はきれいに消えた。ならば、対価の話も、寿命の話も本当かもしれないと思えてくる。
「何を考えているんですか」
気づけば、そう詰問していた。責め立てるような声音になってしまうが、止められない。
「人の命を救うためとはいえ、自分の命を使うなんて」
「私の半年で、幼い子の将来を買えるのですから。安いものでしょう。それに、神に仕える騎士として、目の前の命を救わぬ理由が――」
「安いとか神とかの話ではありません! あなたの命でしょう!?」
怒鳴ってしまってから、マリアンはしまったと手で口を覆った。病人を、それもミミンの命を救ってくれた人間を怒鳴りつけるなど、厚顔無恥にも程がある。しかし、図々しいとわかっていてもその怒りを完全に抑えることもできない。自分が助けようとした患者が命を投げ出そうとするのを、面白く思う医療者がいるだろうか。
「……ごめんなさい。水差しは、ここに置いておきますから」
やり場のない感情をひたすら抑え込み、怒鳴らないようにただ低い声で言い切る。マリアンはそばの机に水差しを置くと、そのまま逃げるように部屋を出た。
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