#10 脱走患者
間に合いました(間に合ってません)。
平日の更新はハード……!
翌朝。普段は朝食を食べないマリアンが、鍋を煮込んでいた。狭い厨房に、薬草と豆、干し肉の香りが漂う。肉はマリアンにとってはたまの贅沢品だ。だが、患者に草だけのスープを飲ませるわけにはいかない。
村長たちを、夜道のなか帰すわけにもいかないので、昨夜は工房に泊まらせた。寝室にの床に毛布を敷いて寝床を作り、病み上がりのミミンにはマリアンが使っていた寝台を譲った。彼女を一晩中見守っていたらしいシャルは、今朝には寝台の縁に寄りかかるように眠り込んでいた。シーツの上で二人の手はぎゅっと握られていた。それは、ただ風邪を引いた妹とそれを案じる姉というだけの光景で、瘴気の痣など嘘のようだった。
ミミンも元気になった。
数日寝込んでいた騎士ガレスも目を覚ました。
心配事は何もない。しかし、マリアンの心は晴れない。ずっと憂い顔で、鍋を掻き混ぜている。
『なんだその顔は』
ぬるり、といつもの調子で蛇の悪魔が、調味料瓶の影から現れた。首を大きく伸ばして鍋を覗き、舌をチロチロさせて、湯気をかぐ。
『気に入らぬか? あの教会騎士が』
「そういうわけでは……」
『では、神の奇跡のほうか』
蛇の悪魔が言うなり、マリアンの口元がわかりやすく引き結ばれた。
「なんというか……正直、まだ信じられないんですよっ。たしかにわたしが見たときは、水差しは空っぽだったんですよ? なのに、そこから水が、それも完全な聖水が出てくるなんて」
『良いではないか。おまえは薬を作らずに済んだ。魔女だと知られるリスクを取らずに済んだのだ』
「それは……そうですが……」
マリアンは鍋底に木べらを押し付けるように動かした。豆の皮だけが浮き、潰された豆が溶けて、スープはどろりと重たくなっている。
『素直に、神に礼の一つでも言っておけ』
「ミミンちゃんを助けたのは神様じゃなくて、あの騎士様ですけどね」
『では騎士に』
木べらと鍋底の擦れる音が止まる。
『なんだ。まだ、自分の寿命を大切にしろだの、綺麗事を吐くか? あの騎士が己の寿命とひきかえに完全な聖水を出さねば、あのミミンとかいう童は助からなかっただろう?』
「それは……わかってます」
木べらをスープから抜き、横へ置く。鍋に蓋をすると、釜戸の火を覗き込むように屈み、火かき棒で掻き混ぜ始めた。
薪が簡単に砕けて、火花が散る。ほとんど燃え尽きているのに、火が消えるわけでもない。木片の隙間で火の粉が光るが、かといって燃え上がりもしない。煮え切らない火だ。
「わかってはいます。でも……やっぱり、患者さんに自ら命を投げ出すようなことをされるのは、複雑です」
『ふん……。奴らは、神に捧げるのが好きなのだ。金も信仰も、命もな。案ずる必要などない。むしろ、その信仰心を利用してやればよいのだ』
「利用?」
『そうだ。あの神の騎士の心臓、今からでも取り出して、下僕にするのだ……。そうして完全な聖水を作らせ、売る。一杯、金貨千二百枚だ』
「お金のために寿命を削らせないでくださいっ」
『おまえの欲しがっていた、冶金学の魔術師から医療器具をいくらでも買える』
「医療……器具……! ――って、だめですから!」
「マリアン?」
「びゃあっ!!」
火かき棒を土壁に立てかけ終えたマリアンが飛び上がる。慌てて振り返れば、シャルが土間からこちらを覗き込んでいた。
「ご、ごめん、マリアン。なにか手伝おうと思って来たんだけど、邪魔した?」
「いいえっ、そんなことはっ! ちょうどスープが出来たので、お皿に盛ってくれますか? わたしはパンを切りますので……」
「わかったわ」
シャルは厨房に入ってくると、「狭いわね」「食器棚は?」などと言いながらぐるりと見渡した。
とりあえず、蛇の悪魔との会話は聞かれてはなさそうだ。マリアンはホッとして「そこの収納です」と答えた。
「お皿は何枚? あの男の人の分も必要?」
「いえ。シャルたちとわたしの分だけでいいです。彼は歩ける状態じゃないので、後から私が持っていきます……」
声がだんだん弱くなる。あの男、ガレスと顔を合わせねばならないと思うと、憂鬱だった。寿命云々はともかく、彼はミミンを助けてくれた、それは事実だ。しかし自分はそんな彼を怒鳴りつけてしまったのだ。ばつが悪い。
マリアンは一人ウンウン唸りながら、布に包んだパンを棚から下ろした。
すると、シャルが首を傾げる。
「あの人、そんなにひどい怪我なの? さっき廊下で、水場はどこにあるのかって訊かれたわよ」
「は?」
彼女の口から出たとは思えない、恐ろしく低い声が漏れた。
見開いた目で凝視され、シャルはわずかに身を引く。
「厠なら外ですって答えたら、川か井戸って言われて。川なら坂道を下ればすぐって答えたんだけど……え、マリアン!?」
「先に食べててください!」
マリアンは大股で厨房を飛び出た。そのまま診療室へ駆け込む。
寝台は空。毛布や掛け布が、抜け殻のように残されているだけ。
本当に川に向かったのだろうか。なんのために? 坂道を下ればたしかに沢に着くが、距離はそこそこある。昨夜はより丁寧に縫合したつもりではあるが、それでも動けば腹の傷がまた開いてしまう。
マリアンは工房を飛び出した。薬草畑の畦で、小柄な蛇が蝶をジッと目で追っている。前に飛び込むと蛇が抗議してきたが、そんな場合ではない。
「男の人、見ませんでしたか!? 茶髪の、お腹に包帯巻いててっ!」
「それなら、この辺うろちょろして……あ。あっちに行ったぜ。それより、よくも邪魔したな! ハニーへのプレゼントを!」
「ハーブにしなさい! ハーブ!」
叫びながら、教えられた方向へ駆ける。薪の積まれた壁沿いに工房を回り込むが、裏手には森が広がっているだけ。木々避けるように獣道が続いている。こちらに川は無い。
どこへ行ったのか。まさか森に入った? なぜ?
息を切らしながら、足を止め、首を振って辺りを見渡す。
そのとき、水の音がした。
魚が跳ね、水に飛び込むような小さな音だ。しかし朝の森の中ではよく響く。
マリアンはハッとして、迷い無く、音の方向へ進んだ。獣道とは別の、藪の隙間へ入り込む。木々を少し抜けた先で、現れた水面に光が反射する。
蛙池だ。蛇たちのために蛙を育てようと、マリアンが作った池の一つだった。大きな窪地を利用したので深さもあり、蛙や虫も多い。とくにこの池は工房からも近く、蛇たちの溜まり場になっていた。
だが、いま、蛇はいない。
青く輝く水面の中央に、ガレスがいた。腰まで水に沈み、上裸の肩と背中、脇まで裂かれた傷が見えた。包帯はどこへやったのか。
彼は目を閉じて、何かを唱えている。
「――闇を退ける神アーリアのお力に感謝を捧げ、今日もまた命の水による慈悲を――」
かすかに聞こえてきたのは、聖アーリア教会の教典、その一節。信仰のあつい村人が朝の祈りで唱えているものと同じだ。
彼の手がおもむろに、池の水を掬った。指の隙間から溢れ滴った水が光り、池に戻っていく。彼はそのままその水で傷口を洗った。
マリアンの喉から、首を絞められた鶏のような声が出た。
それに気づいたガレスが振り返る。
「こっこのッ自殺志願者ァァーーーー!!」
朝の森に、マリアンの悲鳴がこだました。




