#11 傷の原因
「なに考えてるんですかっ! なに考えてるんですかっ! なに考えてるんですかっ!」
蛙池からガレスを引きずり出したマリアンは、そのまま彼を診療室の寝台へ連行した。傷口の洗浄、消毒用の薬布作りをしながら、彼女はずっと騒いでいる。
「なんで歩き回ってるんですかっ! 昨日傷が開いたばっかりだっていうのにっ!? 死にたいんですかっ死にたいんですかっ死にたいんですかっ」
「朝の祈りをせねばなりませんでしたから。それに、薬師様の施術のおかげで、痛みもそれほどありませんでした」
このガレスという男は相変わらず穏やかに微笑んで、何も問題は無いと言わんばかりに堂々と答えた。
マリアンは歯軋りした。
傷を洗うために、治療用に濾過と煮沸を行った、手間暇かかった水をめいっぱい使わされた。高濃度の消毒液も決して安くはない。しかしその貴重な水も薬も、治療のためには惜しんではいられない。自ら池に飛び込むような患者でも、だ。
これでもかと布に薬を吸わせて、傷口に押し当てた。さすがの彼も傷に滲みたのか、穏やかな微笑は保ちつつも、形の良い眉が歪んだ。
マリアンの溜飲もわずかに下がった。それでもまだ十分ではないので、液が滲んで肌に伝うほど、薬布を押し付けた。
「はあ、なるほど、そうですか。祈るのにわざわざ水に浸かる必要があったと?」
「水は神アーリアの権能です。水浴を通じて、傷の治癒を祈っておりました」
「ああっそうですよねっ具合が悪くなったら水を浴びろって言われますもんねっでも腹に穴が開いてる人はやらないでくださいなんなら病人怪我人全員水浴びとかしないでください九割九分悪化するんですよっ!」
マリアンの口調はどんどん加速する。やっと息継ぎしたが、まだ言い足りず、さらに続けた。
「そもそも! あなたがいたところ、蛙池ですよ蛙池っ! 汚いっ!!」
「水は澄んでおりました」
「見た目が澄んでてもっ! 寄生虫とかバイ菌とか目に見えないのがいるんです! 汚いんですっ!」
「神アーリアの水は清浄です」
「これだから聖職者は――んんっ」
ついつい言い過ぎそうになって、マリアンは咳払いする。
教会は魔術師を見下す。しかしこれでは、ひとのことを言えない。
「とにかくですね。完全に傷が塞がるまでは、水浴は禁止です。悪化したら大変ですから」
「はい。お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
ガレスは微笑んだまま、わずかに頭を下げた。
マリアンは疑わしげに彼を見つめ返した。
この男、口では謝っているが、心から反省しているのかどうか全くわからない。暖簾に腕押し、糠に釘。しかしこれは、この男に限った話ではない。嫌な懐かしさ蘇ってきて、マリアンは顔を歪めた。
「ああ、います、いますよ。そうやって何度も脱走する患者さん、施療院にも山ほどいました。苦い飲み薬や傷に滲みる薬を嫌がって脱走されるんですよ。素直に謝る方ほど、また逃げるんですよね……」
そう愚痴を吐いているうちに苛立ちも収まってきた。マリアンは大きくため息を吐き出すと、先よりも抑えた声で続けた。
「どうか、ここにいる間はわたしの指示に従ってください。自分が治療した患者さんに死なれてしまっては、医療者として心の置きどころがありませんので」
消毒用の薬布を桶に捨てる。包帯の下にあてるための薬布を作るため、新しい布に手を伸ばす。
彼は何も言ってこなかった。
手を動かしながらチラと見れば、彼は目を伏せている。口元は弧を作っているが、先程までの完璧な微笑は薄まっていた。
「薬師様がお怒りになるのも尤もです。勝手なことをして申し訳ありません。……昨夜の件も」
昨夜の件。
マリアンの手が止まる。
「薬師様の患者に勝手に手を出したこと、申し訳ありませんでした。急を要する事態と判断し、貴女の制止も聞かず、強引に事を成しました。先に、あなたに説明するべきだったと思います」
「いえ、謝らないでください。昨日のことは……あれは、ガレスさんは悪くありませんから」
マリアンは薬布を挟んだままピンセットごと、平皿に置いた。椅子に座ったまま姿勢を正し、ガレスに向き直る。
「昨夜は怒鳴ってしまってすみませんでした。あなたが助けてくれなければ、ミミンは手遅れになっていたと思います。村の薬師として、お礼を言わせてください。ありがとうございました」
「……いいえ。神に仕える者として、当然の行いですから」
すると、ガレスは自身の腹を見た。
縫われた歪な傷は赤みをもち、瘴気の痣が傷を縁取る。痣の範囲は小さいが、完全には消えていない。
「私こそ、感謝を。怪我を治療して頂いたこと、ありがとうございます。瘴気の痣が思ったよりひろがっていないのも、薬師様の治療と介抱のおかげなのでしょう」
「わたしは消毒と縫合をしただけですよ。瘴気の痣は、私には治せませんから」
言いながらマリアンは目を逸らした。瘴気の痣を治せる薬について、話すわけにはいかない。
早くこの話題から次に進めたい一心で、マリアンは再びピンセットを手に取りながら話し続ける。
「そうだ。空の水差し、持ってきましょうか? 瘴気の痣、ご自身で治せるのでは……。あ、でもそうすると、また寿命が減ってしまうんでしょうか?」
「ええ、そうなります。ですが、ご心配には及びません。この傷は聖水を使うまでもない。じきに治りますから」
「え?」
ピンセットで薬布をつまんだまま、マリアンは顔を上げた。
彼は傷口を見つめたまま、ハッとしたように口を引き結んだ。こちらを見ない。
マリアンはそのまま薬布を当て、包帯を巻き始める。
「……ガレスさん。この傷はいったい何にやられたんですか。どうして瘴気の痣が出来ているんですか。ただの獣に噛まれただけでは、瘴気の痣なんて出来ませんよ……」
「任務中の負傷です。それ以上は、お話しできません」
それまでずっと感情の揺らぎを感じさせず、穏やかなだけだった声が、強張った。
マリアンも引かず、重ねて言った。
「わたしは、患者がどのように怪我をしたか、医療者として訊きたいんです」
「教会騎士の職務として、お話しできません」
「あなたを見つけた時、あなたの腹を鼠が食い散らかしている幻覚を見ました」
マリアンは手を止めずに言った。頭の上で、ガレスが息を飲んだのを、彼女は確かに聞いた。
「実は、村でも、ここ数年はなかった鼠害が起きました。あなたを助けたちょうどそのあとです。……無関係だとは思えません」
「……」
「何か知っているなら、話してください。わたしには聞く権利があると思います。医者としても、ここに住む者としても」
それから包帯を巻き終えるまで、二人はどちらも口を開かなかった。ただ、重い沈黙と、窓から入る森のさざめきだけが、やわい風に乗って流れていた。
マリアンは処置を終えると、椅子に座ったまま背筋を正して、じっとガレスを見つめる。
彼もしばらくは、包帯の巻かれた腹や、窓外の森を眺めていたが、やがて諦めたようにマリアンを見た。その顔はもうすっかり微笑みを忘れ、ずっと思い悩んでいたように険しく曇っていた。
「これから話すことは、どうか、他言無用でお願いします。無用な不安や恐怖を煽りたくはない」
マリアンは静かに頷いた。
彼は再び目を伏せながらも、重々しげに口を開く。
「私は、教会からの任務を受け……、鼠の悪魔を追っていました」




