#6 最後の薬、迫る病
往診から帰ると、すでに日は傾いていた。風車小屋の鼠害対応にも時間を費やし、往診そのものの開始時間がずれこんだ。さらには、住民がどこから聞きつけたのか、家々を回っていると鼠の忌避剤の作り方をせがまれてしまい、往診予定のなかった家にも出向いたのだった。
暗くならないうちにと、マリアンは昨日と同じく騎士の男の包帯を取り替えることにした。
すっかり入院患者用病室になってしまった診察室。戸のないその間口を跨ぐと、寝台から離れたところで、きれいに弧を描いて並ぶ蛇たちがいた。寝台を見張っていた彼らの頭のいくつかがこちらを見る。
「見守り、ありがとうございます。……にしても、すごくきれいに距離を取っている」
すると、寝台から最も離れた部屋の隅で、しましま模様のヘビが頭を持ち上げた。リボンを解くように蜷局が解かれていくと、体のしましま模様のせいで見ているこちらの視界がチカチカする。
マリアンが目をしばしば瞬かせていると、シマシマヘビが口を開けた。
「いつまでここにあの呪い男を置いておくんだ」
低い男の声で、シマシマヘビがしゃべった。
実際には、ヘビが言葉を発することなどない。蛇の悪魔の姿や声がマリアンにしか認知できないように、野生の蛇の声も彼女にしか聞こえない。
「元気になるまでですよ。……よいしょっと」
マリアンは蛇たちを跨ぐと、そばにあった椅子を机代わりに治療器具を置いた。そうして彼の包帯を取り替えていく。
薬布と古い薬を取り去れば、昨日と変わらぬ大きな噛み傷があった。化膿はない。肉が見えている部分は血も止まり、はやくも薄皮が張りはじめているように思える。
瘴気による青黒い痣は昨日よりも小さい。あと数日も塗薬を続ければ根治も見えてくる。
問題は、その薬であるが。
処置を終えて、マリアンは空になった薬瓶をつまみ上げた。
「遂に薬がなくなってしまいました……」
『材料はあるだろう』
「あんなの、"ある"とは言えません! 調合ロスが出ないように慎重に!慎重ぉ〜に作っても! ようやく一回分あるかないかですっ!」
『では教会に遣いを出せ。治せぬなら引き取らせるしかなかろう。いや、最初からそうすればよかったのだ』
「お腹が裂けてる患者をあまり動かしたくありません。それに……教会の人にここに来られるのは、絶対に嫌です。意識のない患者さんを運ぶとなれば大人数で来ますよ、教会騎士や聖職者が! そして、蛇たちが見つかり――」
最後までは言わず、目を閉じる。閉ざされた瞼裏にありありと、工房前に集まる教会騎士や修道士の光景が浮かぶ。
『この山小屋、そこら中に蛇がいるぞ!』修道士が工房前の薬草畑を指差している。
『この子たちはただの野生の蛇でっ! 怪しい蛇では――』茂みの蛇を庇おうとするマリアン。
『ここは魔女の家に違いない! 魔女を捕らえろ!』異端審問官が不気味な面布の下から叫ぶ。
『むっ無実ですぅっ! わたしは人畜無害の薬師ですぅぅっ!』縄でぐるぐる巻かれるマリアン。
『処刑だー!』騎士たちがマリアンを柱のような杭に縛り付けていく。
『火刑に処す!!』
『アッ――――――!!』杭に縛り付けられたまま、釣り上げられた魚のように左右に撓るマリアン。その足下へ無慈悲に投げ込まれる松明は、やけにゆっくりと宙で放物線を描いて――。
「み、水ぅ……水の神アーリアよ……」
空の薬瓶を両手で大事に握りこんだまま、消え入りそうな声でマリアンは祈った。ガタガタガタガタ。真冬でもないのに全身は小刻みに痙攣し、白目を剥いている。
蛇の悪魔は、揺らしていた尾をぱたりと置いた。
『……』
興味を失ったのか、そのまま悪魔は寝台を下り、寝台の影に潜り込んでしまう。
てっきり『魔女が神に祈るとは』とかなんとか煽られると考えていたマリアンは首を傾げた。しかし考えても仕方ないので、寝台の上へと視線を戻す。
男はやはり目覚める様子はない。
マリアンは清潔な布を水桶に沈めた。ゆるく絞り、まだ水を含んだ布を、男の口元に当てて唇を湿らせる。
「そろそろ起きてくれないと……傷や呪い以前に、体力低下や脱水が心配なんですが……」
蛇の悪魔に言われたとおり、教会に遣いを出すべきかもしれない。
もとより、彼の意識が戻れば教会に帰ってもらうつもりではあった。瘴気の痣を治せる薬を、彼の目の前で使い続けるわけにはいかない。教会騎士である彼ならば、寄進がなくとも教会から聖水が提供され、腹の呪いの傷も治療してくれる可能性は十分にある。意識のない患者という点でも、この工房よりも修道院や施療院のほうが手厚い治療ができるはずだ。
しかし、意識のない患者の生命のためとはいえ、工房に教会関係者を何人も呼び込めば、今度はマリアンの生存に関わるのだ。
「できれば、自力で教会に帰ってほしいので……早く起きてくださいね……」
マリアンは未だ眠り続ける男の体に麻布をかけてやりながら、もそもそと呟いた。
すでに窓の外は陽が沈みきり、空にわずかに夕の名残りが焼き付いているだけだった。診察室にいた蛇たちもいつの間にかねぐらへ戻り、ほんの数匹が作業机の下で一塊になっているだけ。マリアンも治療器具と水桶を抱えて、診察室を出る。
彼女にとって、日が沈めばもう眠る時間だった。まだわずかに空に光が残っているうちに、手早く片付けを済ませる。それでも治療器具を洗うためには手元が暗く、マリアンは、貴重な脂を入れたランプに火を灯した。
ひととおりが終わる頃には、すっかり夜闇に包まれる。ランプを点けたついでとばかりに彼女は植物に包まれた土間の椅子に腰掛け、騎士の男の治療記録を羊皮紙に書き留めていた。これが終われば、そのまま寝るつもりだった。
羽根ペンを走らせながら、テーブルに置かれたままになっていたクッキーカゴから一枚を口に運ぶ。ふんだんに使われた砂糖の暴力的な甘みと、後から追いかけてくる薬草の苦味で舌が痺れた。我ながら天才的な味だが、粉物ゆえ、喉が渇く。コップに水を注ごうとピッチャーを掴んだが、ひどく軽い。マリアンはクッキーを噛み締め続けた。
そのときだ。外で足音が聞こえた。いや、人の声や荒い息遣いも。
マリアンが椅子から立ち上がるより早く、戸が強く叩かれた。
「マリアン!マリアンッ!! いるッ!? 起きてるッ!?」
シャルの声だ。今朝の気怠い調子からは想像できない、静寂を裂く叫びだった。
マリアンが掛け金を弾き、戸を押し開けると、そこにいたのはシャルと村長――さらに、シャルに背負われたミミンだった。村長の持つランプに照らされた彼女の顔は青白いのに、汗の雫が額に浮いている。
「マリアンッ、ミミンが……!」
シャルが泣きそうに叫んだ拍子に、ミミンを包んでいた毛布が緩んだ。細い脚が露わになる。
マリアンが息を飲む。
ミミンの脚の皮膚は青黒く変色し――瘴気の痣によって蝕まれていた。




