#4 丘陵の村
原稿作成のため、明日明後日は更新をお休みします。
次回の更新予定は24日(金曜日)です。
日暮れ前。暗くなる前にと、マリアンは騎士の男の包帯を取り替えることにした。
男の呼吸は変わらず穏やかだったが、目覚める気配はない。
まだ半日も経っていない当て布を、マリアンは恐る恐る外す。
傷口に大きな変化はない。膿んだり、腫れ上がったりはしていなかった。ただし、今朝とは明確に異なり、傷口を縁取るように変色していた黒痣が縮小している。
肩から力が抜ける。
その後、穏やかで流れるような手つきで、マリアンは治療を続けた。
清潔な布に薬液を染み込ませて、新しい当て布を作る。傷口が広い分、大きく作らねばならなかった。
硝子の薬瓶にわずかな液体が残る。どうにかあと一回分、といったところだろう。
処置を終えたマリアンは「蛇。薬作りを手伝ってもらえますか」と立ち上がり、厨へ向かった。
狭い厨の壁には、天井までぎっしりと正方形の引き出しが敷き詰められている。一見すると、積み木かパズルのようでもあった。小さな鉄製のつまみはほとんど黒ずんでいたが、いくつかはまだ銀色の輝きを保っている。今は、窓から入る夕光を含んでいた。
『ふん、神の騎士のためによくも手間をかけるものだ』すぐ耳元で声がする。『治療代として、女神金貨の棒金を要求しろ』
「高い」
口を動かしながらも引き出しをいくつも引っ張り出し、薬材を集めていく。
『お前が払うのではない。教会に払わせるのだ』
そこで、マリアンの手が止まる。
壁から引っ張り出された木箱のなかで、革袋が口を開けていた。乾燥薬草がほんのひとつまみ分だけ残っている。
「あー……うーん……」
『なんだ。今度は金も取らぬというつもりか』
「そうではなくて。これだと一回分しか作れないので。明日村に行くので、その後にまとめて作ります」
マリアンは何も取らずに引き出しを押し込むと、それまで腕に集めていた薬材を元の場所へ戻していった。
起伏の大きな丘陵地帯は森林に覆われていた。丘陵の窪みに沿ってささやかながら集落が生え、森のいくらかは畑に置き換わっている。
集落から見て南の山にマリアンの工房はあった。もともと木こりのための休憩小屋だったが、森を休めるために木こりが入らなくなって久しい。木材を運搬する道もすっかり傷んでいたが、マリアンが移り住んでからは人が通れる程度には整備されていた。つい先日も彼女がまる一日かけて草を刈ったばかりだ。しばらく下れば、道は開けた沢筋に合流する。
マリアンは流れる水と共に、歩きやすい緩やかな坂道を下っていった。
辺りの林が拓け始めると、その空白に入り込むように畑がひろがっていく。
森特有の水を含んだ青臭さが遠のくと、鼻腔をすっと抜ける、甘味と苦味の混じった春先の若芽の匂いがした。まだ若く、背も低い、青いライ麦畑の匂いだ。
沢から畑へ水を引くために、道は定期的に水路によって分断される。木板を被せただけの簡素な蓋を歩けば、ガタガタと大袈裟に揺れた。
マリアンの踏んだ木板が水路の石枠を打ち鳴らすと、畑にいた老女が上体を起こした。
「お〜、先生、おはよう。昨日は山さ下りてくる日かと思っとったんに、まーた熊みたく冬眠に逆戻りしてたんかあ?」
「ちっ違いますっ。ちゃんと起きてます! ちょっと忙しかっただけなんですっ」
背負っていた薬箱の肩紐を思わずギュッと握りしめながら、マリアンは道から畑の中へ叫んだ。
老女も、畑の中からケタケタ笑う。
「わはははは、冗談冗談! 一昨日の雨すんごかったからなあ、みんな大忙しだんね。うちの畑も! ほうら! 水路のまわりがすっかり根腐れしちまってよお」
老女が、畑から引き抜いたばかりの黄色く焼けたライ麦を掲げて見せた。収穫時の、乾燥して実のつまった健全な黄色ではない。水を含んだまま腐った色だ。
老女のいる水路のすぐそばのライ麦の列も、同じように変色している。芯を失い根元からへたって、水路側に倒れているものもあった。
「先生。根腐れした麦を元に戻す便利な薬はねえんかい」
「うーん、さすがに難しいです。腐る前なら、どうにかする方法もありますけど」
「そんなら儂だって知っとるわさ!」老女は胸を張るが、すぐにまた足下に視線を落とす。「ハア。この辺の水路もずいぶん昔に作ったものだから、そろそろ補修しねえとなあ」ぶつぶつ言いながら老女は畑作業を再開する。
マリアンは軽く別れの言葉をかけてから、沢沿いの道をさらに進んだ。
畑のなかに家が見え始めると、作業する女たちの姿も増える。林業も営むこの集落では、畑はもっぱら女の仕事だ。
ときおり、沢側の道端に村人が立ち止まっていた。彼らは目を閉じ胸に手を当て、沢に向かって朝の祈りを捧げている。
祈りの邪魔をしないよう、マリアンは彼らの後ろを抜けた。
「マリアンせんせえ〜!」
沢沿いの道から外れ、集落へ続く道に入ろうとしたとき。沢のほうから元気な声がする。
立ち止まって沢を見れば、さらに下った先に、人影が二つ。
そのうちの一つ。ミミンが沢の中から手を振っていた。
早い。
ドクターストップ解禁からの行動が実に早い。
しかも朝から。
マリアンは半笑いで手を振る。
すると、石と草が混じった岸でしゃがみこんでいた若い女がこちらを見た。外套の裾がつかないよう端を内側に巻き込んでしゃがんでいるので、風呂敷に包まれた丸い荷物の中から頭が生えたようであった。麻糸を花柄に編み込んだカチューシャで髪をまとめた女が、目を瞬かせる。しかし、目つきが悪いのは眠気だけのせいではなさそうだ。マリアンの姿を捉えてから、ずっと目を離してくれない。
マリアンは集落へ向かおうとしていた足を、おずおずと沢へ向けた。草に覆われた土手を一段下りる。
「おはよう、マリアン。あなたもここでミミンの相手、する? するわよね。する義務がある」
「おはようございます。わたしは往診がありますので」
女が据えた目のまま言う。
マリアンもまた据えた目で返した。
「マリアン。あなたが、あと一週間は安静に〜とかなんとか言ってくれてれば、こんな朝っぱらから叩き起こされることもなかったんだけど?」
「診察で嘘は言えません。元気になったのですから良いことじゃないですか」
「夜明け前に起こされていないから、そんなことが言えるのよ」
「夜明け前」
「みて! サワガニ!」
沢の音もかき消す快活な声に、二人もそちらを見る。
長裾衣の裾をすっかりびっしょり濡らして、ミミンはその手と同じほどの小ささのサワガニを頭上に掲げていた。せっかく捲りあげられていた袖も、手から伝い落ちた水で濡れてしまう。
「せんせえも、シャルねえも、サワガニつかまえようよ〜」
「わたしは荷物があるので……」マリアンが肩を軽く揺らし、背の薬箱の位置を整える。
「寒い」シャルはついに目を閉じる。
「さむくない! あっ」
つるり。サワガニが手から滑って逃げ出した。
サワガニを追うべく、ミミンがまた一から足下の水流を探っている。
シャルは大きく欠伸しつつも、ミミンをずっと眺めている。帰ろうと促すこともなかった。
なんだかんだ言いつつも、面倒みがいい。
マリアンも自然と頬を緩めて「じゃあわたしは往診に行きますね」と言えば、シャルも首を竦めて外套の中に鼻まで沈めながら唸って返す。
そうして踵を返すと、
「シャルロット!」
ちょうど土手に現れた男が声を張り上げた。若い木こりだが、手には可愛らしい布がかけられたカゴを提げている。
彼は土手と岸をわける草むらを跨ぐように下りてきた。岸辺の石をじゃくじゃく踏み鳴らしながら「よう、先生」とマリアンを見た後、沢の中へ目を留める。
「テオ」眠そうだっただけのシャルの表情に、わずかに不機嫌がにじむ。
「なんだ。ミミン、治ったんだな。不治の病じゃなかったのか」
「ちょっと」
シャルがひそめた声でしかし咎めるようにテオを睨む。一瞬だけ、先より離れたところで遊ぶミミンをちらりと確認した。
彼はばつが悪そうにしつつも、シャルにならって声量を下げる。
「なんだよ……みんな言ってたことだろ? 親が不治の病で死んだから、ミミンもいつなってもおかしくないってさ」
「え……」
傍で聞いていたマリアンが固まる。
「なんだ。先生、知らなかったのか?」
「ご両親が亡くなってることは聞いてましたが……、不治の病だとは」
「村で不治の病が出たって、大騒ぎだったんだぜ。風邪拗らせると思ったら痣が出て、あっという間に死んじまってさ。死体はすぐ葬水吏が引き取ってくれたが……子供はどうするんだ子供も発症してるんじゃないか伝染るんじゃないかって、村中ですげえ揉めて――」
「やめて」
シャルがまた冷たい声で咎めた。
「……でも、先生には知っといてもらったほうがいいだろ。次に不治の病が出たら、治してもらうときに何か役立つかもしれねえし。ミミンだけじゃなくて、誰かが咳一つしただけでみんなビクビクしてんだぜ。そうだろ、先生?」
テオはそれらしいことを言いつつも、泳いでいた目が助けを求めるようにマリアンに留まる。
マリアンもまた、目を伏せた。
「不治の病は治せませんから」
「でも、あんた、前は不治の病専門の施療院にいたんだろ? 村長が話してたぜ」
「在籍していたのはほんの半年ほどですよ。それにあそこで行えたのは……薬で痛みを散らしたり、進行を遅らせるだけ。痣の広がりや咳を抑えられても、止められないし、治ることもありませんでした……」
「先生でも治せないのか。じゃあやっぱり不治の病になったら、高い金積んで教会に儀式してもらって、神様から聖水を貰うしかねえのか。世知辛いなあ」
「聖水で治るなんて、ただの噂でしょ?」
「領主の甥は教会の儀式で聖水を貰ったから治ったって話だぞ」
「遊学で第一大教区に行ってただけだって、領主様は話してたけど」
「そりゃあ領主サマともあろう者が、親族が不治の病で療養中です!なんて大っぴらに言えねえだろ」
彼らがあーだこーだと話しているのを途中から眺めていたマリアンだったが、ふと、テオの襟元で小さな影が動いた気がした。虫かと思ったが、それはぬるりと首を伸ばす。
蛇の悪魔だ。
マリアンは息をのんだが、彼らは気づいていない様子で話を続けている。
『クククッ……。不治の病、それを治せる薬を作れると、なぜ言ってやらない? 村人どもはさぞ安心し、おまえに感謝し咽び泣くだろう。そして人々は神などではなく、この高貴なる蛇の悪魔の伴侶、蛇の魔女を崇めるのだ』
マリアンは応えない。ただ、はやく影に戻れと眼力に念力を込め――
「な、なん、なんだよ、先生。オレ、そんな睨まれるようなこと言ったか!?」
念力は、蛇の悪魔が乗っている肩の主のほうに届いてしまった。
「す、すみませんっ、睨んだわけでは……」
「いやっ! クッソ睨んでただろ!?」
「睨んでた睨んでた。早く謝んなさい。ついでにあたしとミミンにも」シャルが会話にはさまってくる。
「なんでだよ!」
「あんたが無神経だから」
「むし……べ、べつにミミンに限ったことじゃないだろ! 誰かが咳一つすりゃあ、みんなビクビクしてんだから!」
「マリアンが睨むのは相当だわ」
「話聞けよ!」
またいつの間にか二人での応酬になっていく。
マリアンがどうにか弁解すべく会話に入る隙を伺っていると、彼女の耳にだけ蛇の悪魔の声が響く。
『では、あの神の騎士が目覚める前に、言い訳を考えておかねばなあ? 呪いの痣も、不治の病の痣も、同じ瘴気の痣よ……』
笑いを抑えるように声を揺らしながら、蛇の悪魔はテオの肩から滑り降りるように、ぬるりと腕に絡みつく。影にも戻らずどこへ行くのか……目で追い続ければ、蛇の悪魔は男の手に提げられたカゴに辿り着いた。布の弛んだ隙間に入り込んでいく。
「そもそも、あんた、何の用でこんなところにいるのよ。仕事は?」
「ああっ、そうだった」
シャルに言われて思い出したのか、テオはカゴを持ち上げた。
カゴに潜り込んだ蛇の悪魔の尾がぷらーんと揺れたので、マリアンは叫びかけて寸前で飲み込む。
「村長から渡されて、持ってきてやったんだよ、朝飯。朝っぱらからミミンの相手してたんだって?」
「あら、おじいちゃんが? 仕事前なのにわざわざありがと」
彼女はしゃがみこんだままカゴを受け取る。膝の上にカゴを載せると、そのまま布を取り去った。
マリアンの喉から引き攣った呻きが漏れて、テオから一瞬だけ怪訝な目を向けられる。
カゴには、チーズを挟んだだけのサンドイッチが三つ入っていた。蛇の悪魔はいない。
……ただ、明らかに、もう一つそこに何かがあったような空間がぽっかり空いている。
「来る途中で食べたわね?」
「言いがかりだ! ひとの飯を食うほどオレは無神経じゃねえって」
「あたしとミミンの分なら、二個ずつのはずでしょうよ」
二人の口論のさなか、マリアンの耳元で小さなゲップ音が聞こえる。
ハッとして彼女は、突然二人の間に踏み込んだ。
「ミッ、ミミンは小さいから一個分なんですよきっと! さてわたしそろそろ往診に行かないと! テオさんも仕事ありますよね!? ほらほらほら!!」
「お? おう……」マリアンに肩を掴まれ強引に土手へ誘導されるテオだったが、シャルを振り返る。「オレは食ってねえからな!」
「はいはい、わかったわよ。そういうことにしといてあげる。二人とも、仕事頑張ってね」
シャルに手を振られ、マリアンは軽く会釈してから土手を上がる。「ミミン、朝ごはんにするから戻ってきなさい」とシャルの張り上げた声が、沢の音と共に遠ざかる。
ずっと彼の肩を掴んでいたことに気付いてマリアンは離れたが、彼は変わらず怪訝な目で見つめてくる。
「先生、なんで汗かいてんだ」
「今日は……暖かいので……」目を逸らす。「じ、じゃあ、わたしはこのまま村に行きます。テオさんも気をつけてくださいね」
「ああ、オレも村に戻るわ」
「あれ? お仕事場所は山では?」
「山は午後から。先に風車小屋」
言いながら、テオが顎で村の方向を示す。
拓かれた丘陵を背に、大きな白帆の風車が一つ。他の家々の屋根よりも高く、ゆっくり回っている。小屋というより塔だ。
村に唯一のあの風車小屋は、畑で採れた穀物を粉にするための重要な設備である。
「麦の袋でも運ぶんですか?」
「いや、そういうんじゃなくてさ」
風車小屋を遠く見つめたまま、彼の表情が曇る。
「麦粉の袋がいくつか食われた。――鼠が出たんだ」




