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#2 大きな噛み傷、小さな噛み傷

 マリアンがようやく座り込んだのは、太陽が天頂に昇りきった頃だった。


 椅子の背もたれを抱え込み、その上辺に頭を預ける。使い古され角の取れた滑らかな木のふちが、頬にむにゅっと食い込む。そのまま、彼女は目を閉じて動かなかった。


 格子も硝子もない窓から、風が入り込む。彼女の銀の毛先をほんのわずかに撫でる程度の風だった。しかし換気には十分だ。そうかからないうちに薬のにおいは薄まり、部屋本来の木の香りに置き換わっていく。

 そう広くない部屋に、椅子、作業台、寝台が一つずつ。木製の作業台にはまだ、治療に使った道具が放置されている。窓辺の寝台には、騎士の男が寝かされていた。下衣を残して装備や衣服は取り除かれ、腹には包帯が巻かれている。


 すると、しゅるり、とマリアンの長髪の間から影蛇――蛇の悪魔が滑り落ちた。彼女の服を伝って床へ降りると、寝台に登っていく。男の耳元まで這っていくと、その顔色を覗き込んだ。



『ふむ。呼吸も安定している。一時は、おまえが動かしたせいで殺しかけたかと思ったものだが』


「殺してません」



 目を閉じたまま抗議する。頬が潰れたままなので声も潰れていた。



「まあ……。ここに運んで、止血の布を外したらどろどろと血が出てきたときは、やってしまったかと思いましたけど」


『ほれ見ろ』



 マリアンが目を開け、ムッと睨んだ。しかし、疲れているせいか、それとももともと迫力不足なのか、ちっとも怖くならない。



「だいたい、あんな水たまりに浸かっていた状態で、血が止まっていて呼吸も安定していたのがおかしいんですよ。奇跡的です」


『言っただろう。信ずる者は神が助けてくださるだろう、と』


「信じていないくせに……」



 目を閉じかけた彼女だったが、蛇の悪魔の居場所に気づいて目を見開く。

 ゆっくりと上下する男の胸板のうえで、蛇が蜷局(とぐろ)を巻いていた。我の土地だ、とでも勘違いしているような図々しさである。



「だめです。降りて」


『良いことを思いついた』


「絶対に良いことじゃない」


『この騎士が目覚めぬうちに、この胸を切り開き、心臓を奪うのだ』



 蛇の尻尾がぺしぺしと男の胸板を叩いている。


 さすがのマリアンも言葉を失った。目から生気が完全に抜けている。

 呆れきった彼女を気にも留めず、蛇の悪魔は悠然と語り出した。



『魔女に心臓を奪われた者は"魔女の下僕(まじょのげぼく)"となる――。伴侶よ、おまえもそろそろ一端の魔女として、下僕を持っても良い頃だ。下僕一号が教会騎士とはなかなかに箔が付くではないか。この高貴なる蛇の悪魔も、鼻が高いぞ』



 蜷局のかたまりから首が伸びる。丸い口先、いや鼻先を、上へ上へと伸ばしていた。

 しかも、蛇の悪魔の黒い体からは絶えず靄が落ちているので、まるで奇妙なモニュメントのようだった。



「そんなことしたら、ほんとに悪い魔女として処刑されるじゃないですか……はあ……」



 彼女はふらつきながらも立ち上がり、寝台へ近づく。


 蛇の悪魔を男の体から退ける。蜷局を崩さないよう、両手でそっと作業台へ持っていく。手を下げると蛇の悪魔は自分から天板へするりと下りた。



「騎士様の目が覚めたら、ちゃんと隠れていてくださいね。知られたら、教会に報告されて、ほんとに処刑されてしまいますから」


『ふん。つまらん。魔女に助けられたと知った教会騎士の、恐れ慄く顔でも拝んでやろうと思ったものを……』



 蛇の悪魔が桶の外周に沿うように這っていく。桶が天板に落とした影にたどり着くと、そこへ頭から潜っていった。


 マリアンはほっと胸を撫で下ろす。そしてそのまま、作業台に散らかっていた道具を整理し始めた。


 まず、血のついたものはすべて水桶に沈めた。布は丸めて、器具もどんどん水桶に入れていく。

 次に、台に散らかる薬瓶を壁際に避けていく。瓶は大小さまざま。陶器製、硝子製が混在する。硝子瓶の中身も、乾燥させた植物や粉末、液体など、やはりばらばらであった。

 最後に、汚れたすり鉢。数は十を超えていた。磨り潰した薬草がまだ残っている。余っていた布で薬を軽く拭き取って、別の桶にまとめていく。



「この騎士様、どこで呪いを貰ってきたんでしょう? 近くには禁足地(きんそくち)も無いのに……」



 問いかけか独白か判別のつかない独り言をこぼす。蛇の悪魔は応えなかったが、マリアンは気にしなかった。


 すり鉢を拭いていた彼女の視線が、作業台の平皿に留まった。

 皿には、糸と血のついた針が数本。傷口の縫合に使われたものだった。



「大きな獣に噛まれたみたいな傷だった……。なんなんだろう……」



 彼女はぼんやりと、騎士の男の腹の傷口を思い返していた。

 血を洗い流してみれば、現れたのは大きな歯型だった。マリアンの掌ほどもある噛み傷だ。野犬か、狼か、熊か、何者かはわからない。そして、その大きな噛み傷の周囲に、いくつもの小さな噛み傷。こちらは鼠の噛み痕だろうと察しがついた。



「熊はこの辺りにはいないし……狼の牙が鎧を貫通するとも思えないし……」


『なんにせよ、この土地の者でないことは確かだ』



 桶の影に沈んだ蛇の悪魔が、影の中からこちらを見ていた。尻尾だけが影からはみ出したまま、うねうねと揺らされている。



『どこかで噛まれて、ここまで逃げ果せてきたのか。それとも……』


「よ、よしてくださいよ。縁起でもない」


『ククク……』



 低い笑い声が遠ざかるとともに、蛇の悪魔の視線も尻尾も影の奥へと引っ込んでいく。



「もう……」



 ひと通り作業台の整理を終えたマリアンは、そのまま、後ろにあった椅子に沈みこんだ。また背もたれに頭を預ける。

 彼女の目がまた閉じられていく。閉まりきらない口で、静かで細い呼吸が繰り返される。数秒もすれば、すぐに意識が遠のきかけた。

 しかしそれでも脳みそは、次にやらなければならないことを考えてしまう。



「……あとで、彼が倒れていた場所を確認しないと……。土にもう瘴気が移っていたかも……」



 寝入って忘れてしまわぬうちにと、記憶に覚え書きするように寝言を唱える。



『心配は要らぬ。多少の穢れならば、土や木々が自浄(じじょう)出来よう』



 蛇の悪魔の声は耳元から聞こえた。影を伝って、彼女の髪の影に戻ってきたのだろう。


 蛇の声に、マリアンはもう応えなかった。彼女の頭がどんどん下がる。背もたれにかろうじて引っかかるように脱力し、眠りに落ちていく――。


 しかし、どこかで誰かに名前を呼ばれているような気がして、マリアンはぼんやりしながら目を開ける。


 少し遠く。隣の部屋から聞こえる、戸を叩く音。



「マリアンせんせえ〜。いないの〜?」



 子どもの声。


 椅子が仰け反る勢いでマリアンが立ち上がった。目も頭も一瞬で覚醒する。



「忘れてたっ、往診!」

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