#1 水たまりに沈む騎士
――ひと月前。
雨上がりの森は、普段とはまったく違う景色に変わる。
肺いっぱいに吸えば、植物の青臭さで咽せる。雑草の下の地面は泥濘んで、足を掬われる。
しかし、彼女にとっては心弾む日であった。
日が昇ってまだ間もない肌寒い木陰を、一人の女がずいずいと進んでいく。服に泥が飛ぶことも、靴に水が染み込む不快感も、気にしていない。
彼女――マリアンは若いが、まったく飾り気のない、つまりは、森歩きに最適な格好であった。ダボついた麻服は袖口こそ紐で纏められているが、袖が膨らんで野暮ったい。膝上まであるブーツは、何度も補修された痕が残っていた。
すると彼女が唐突にしゃがみこむ。銀の髪がはらりと顔にかかりそうになったので、鬱陶しげに首を振った。手は慣れた様子でベルトからナイフを引き抜く。
木の皮を傷つけないよう慎重に、根の表面と苔の間に刃先を差し込んでいく。破れもなく一枚の布のように苔を剥がせると、彼女は誇らしげだった。体の脇に吊り下げた革ケースの中で袋を開き、苔を折り畳んでしまい込む。
ナイフについた水分を服で拭って鞘へ戻すと、彼女はまた歩き出す。
そのときだ。足下を、シュルッ、と何かが走った。茂みの葉の下を擦って走り抜けていく。
マリアンは足を止めなかった。
音もまた、並走するように茂みを揺らし続けた。
やがて、葉の隙間から、泥を朝露で半端に洗った鱗が見える。
蛇だ。
「おはようございます」
すると、挨拶に応じるかのように、蛇が足先を斜めに横切る。
靴先が蛇の尾を踏みかけたので、歩む速度を落とす。邪魔ですよ、と靴先で軽く泥を蹴れば、泥を嫌がったか蛇が茂みの下に逃げ込んでいく。マリアンの口角は楽しそうに持ち上がった。
しかし、すぐ、ハッとしたように顔をあげる。
蛇の走る音が増えていた。
それも、数匹ではない。
遠くの茂みが、指先で撫でられたように一直線に揺れる。
木の幹の陰った部分を、蛇が這い上がる。
枝に身を引っかけ垂れ下がる蛇たちが、じっとこちらを見つめる。
もう一度視線を落とせば、足下を並走する蛇は三匹に増えていた。
「なに。どうしたんですか?」
彼女が足を止めれば、三匹の蛇も止まった。鎌首をもたげて見つめてくる。
「……なに?」
もう一度問えば、足下の三匹の蛇は「こっち」と言うように、ぬううっと持ち上げた頭で方角を指し示す。獣道からは外れた方向だ。
マリアンは枝葉を押しのけながら、茂みの奥へ踏み入った。
腹まで隠れる茂みは濡れている。服越しに雨露の冷たさを感じて、寒気を覚えた。
足先を根に引っ掛けないよう、慎重に進む。
シュー……と、蛇たちの吐息が聞こえ始めた。
マリアンも息をひそめた。
蛇たちが警戒している。彼らは何に怒り、怯えているのか。熊か、狼か。いいや、獣が餌を求めて移動してくるには季節が早過ぎる。そもそも、彼らが獣ごときでここまで警戒するだろうか――思考を巡らせながら、なるべく足音も茂みも鳴らさないように、ゆっくりと進んでいく。
視界が開ける。
ぽっかりと、木々も茂みも途切れた。代わりに若草の鮮やかな絨毯がひろがる。そう広くはない、小さな草原。木々に遮られることもなく、陽光がこの一角のみに注がれていた。濡れた草がちかちかと光る。
すぐ奥は壁のような斜面だった。彼女の土地勘が正しければ、上には街道が通っている。しかし斜面の上は、木々と茂みで覆われて、街道の様子はわからない。
ただ、斜面がところどころ抉れていた。色の濃い泥が露出し、それが真っ直ぐに上から下へ続いている。
そこで、ぎらりと光が視界に差し込んだ。
抉れた斜面の下。草に埋もれるようにして、何かが強く陽光を跳ね返している。
マリアンは茂みから草原へ出た。
日に当たっているからか地面は固く、草の柔らかさが靴底に伝わる。草を踏みしめる音も小気味よい。
蛇たちはついてこなかった。
それでも、木々の陰から聞こえてくる「シュー、シュー……」という威嚇音は続いている。
蛇たちの威嚇を背で聞きながらも進んでいけば、斜面の下で強く反射していた光が鈍くなっていく。
彼女の歩みが止まる。
鎧だ。草の中に、鎧が――騎士が横たわっている。
鎧の表面には雨が流しきれなかった泥や細かな砂利が貼り付いていた。関節部には枝葉が巻き込まれている。
腹部の装甲は、大きくひしゃげていた。鎧の下の鎖帷子と布がぐちゃぐちゃに絡んでいる。装備と傷口の境界はわからず、そもそも傷口が見えているのかもわからなかった。ただ、そこから流れ出た血で、周辺の若草が鮮やかに染まっている。
死体か、と息が詰まる。
フルフェイスの兜のせいで顔色はわからない。鎧のせいで呼吸の有無も、ここからでは判断できなかった。
さらに近づこうと踏み出す。
ぢゃぷん、と足首まで冷たい水に沈んだ。咄嗟に足を戻す。
草のせいで分からなかったが、水が溜まっている。
騎士が倒れている場所は、ちょうど土の落ち窪んだところらしい。遠くから鎧が見えづらかったのもこのせいだ。騎士の背中や四肢はすっかり水に浸かっていた。
草の隙間から見えた水面は、やけに澄んでいた。水底に、白い小さな花々が閉じ込められている。
澄んだ水面に、薄く赤い帯が揺らめいた。帯は鎧の抉れた口から伸びている。
まだ出血がある。
彼女は濡れるのもかまわず、騎士のそばに膝をついた。
兜に耳を寄せる。わずかに呼吸が聞こえる。
そこからの彼女の手つきは素早かった。自身の右手のグローブを外して、指先で騎士の首元の留具を弾く。兜を脱がせながら、顔が水面に傾かないように後頭部を手で支える。
若い男だ。歳の頃は女とそう大差ない。どこにでもいる、精悍な若者に思えた。枯れ藁色の髪はすでに水を吸っていて、結われた毛束が水たまりにひろがる。
傷のわりに、血色は悪くない。呼吸は浅いが、消え入るような細さではなかった。
もしかすると、傷を負ってからそう経っていないのかもしれない。見た目ほど深い傷でないのなら、すぐに止血すれば助かる見込みもあるだろう。
彼女は自分を落ち着かせるように、一度だけ、深く呼吸した。
採取用に使っていたナイフを引き抜いて、騎士の鎧の脇に差し込んだ。装甲を固定していた革ベルト数本を躊躇なく切っていく。
ベルトを切り離した脇から手を入れて、腹側の装甲をほんのわずかに浮かせた。傷口に、装甲の抉れたふちが刺さっていないことを確認する。
そのまま、装甲をぐっと向こう側へ持ち上げた。
腹が、傷口が、陽光にさらされる。
毛の塊が蠢いた。無数の毛玉。
灰色の毛玉は血を吸って、飛び跳ねる。
肉の尾がミミズのようにのたうつ。
毛玉の中から小さな頭が突き出して、真っ赤な目で女を見て、細い声で鳴く。
ぎっしりと詰め込まれた鼠の群れが、腹の肉を食っていた。
「ひっ!」
マリアンは盛大に仰け反って、尻をついた。
手放された装甲が水たまりへ落ち、飛沫をあげる。
森のどこかで、鳥がガアガアと鳴いて飛び立った。
木々が揺れた。
蛇たちが息を止める。
水たまりに尻餅をついた彼女がもう一度、騎士の腹を見る。
鼠はいなかった。
ただ、ほつれた鎖帷子が血で照り、その下から血塗れの服がはみ出しているだけだ。
しかし彼女の表情は険しい。警戒とわずかな怯えが混じった目で、騎士の傷口を睨む。
「呪い……」
思わず口からこぼれた言葉に、彼女は改めて息を飲みこんだ。
すると、彼女が落とした影の中で草が揺れる。根元から草を掻き分けるように、ぬるりと、蛇が頭を出した。
光をすべて吸い込むような漆黒の体だった。鱗はすこしも光を反射せず、まるで影そのものが地面から生えているようだ。
影蛇の体表を伝って、黒い靄が落ちていた。
この世のものではない証だった。
地面についた彼女の腕から、影蛇はその体に這いのぼっていく。首元まで登ってきたところで、影蛇がちろりと舌を出した。
『おお、おお。眷属どもが騒いでおったわけよ』
影蛇が声を発した。低くしわがれた声だった。
マリアンは騎士の血まみれの腹を見つめたまま、
「みんなが警戒していたのは、彼ではなく、これだったんですね」
と、確認を求めるように影蛇に言った。
しかし、黒蛇は答えない。ただ首元に巻き付いて、舌を忙しなくちろちろさせている。
彼女はしばらく騎士を、その血だらけの腹を見つめて……やがて、腰を上げた。下衣にすっかり水が染み込んでしまった不快感もそのままに、騎士のそばに再びしゃがみこむ。
『まさか助けるつもりか? おまえが手を出さずとも、神がどうにかしてくれるだろうに』
影蛇がうねうねと頭を揺らして笑う。その首を伸ばして、舐めまわすように騎士を見る。
磨かれた鎧。継ぎ目の少ない、なめらかな鋼。実務向けのシンプルなつくりでありながら、肩当てや手甲の要所に彫り込まれた、水瓶の意匠。
そして、水たまりに沈む、真っ青な外套。
水瓶と青――――聖アーリア教会の象徴である。
この上等な鎧も、マリアンには見知ったものだ。教都へ出向けばいくらでも見かけられる、聖アーリア教会の騎士。
『教会の騎士など放っておけ。真に信仰が神に届くというのならば、死ぬことはあるまい?』
影蛇の声が嗤いを含んで震える。
しかし彼女は影蛇には視線をくれることもなく、淡々と返す。
「関係ありません。ここで死なれたら、瘴気が土に染み込んでしまう……」
言いながら、グローブをつけたままの左手で、鎖帷子と服をやんわり押しあげた。
傷口を確認すると、ポーチから布や帯を取り出して、出来うる限りの止血を始める。
影蛇が、宙でうねらせていた頭をピタリと止めた。器用に首を折り曲げてマリアンを振り返る。
『ああ、ああ。我が伴侶はなんと愚かな。これを助ければ、おまえは火炙りにされるというのに。いいや、それとも斬首か? クククッ』
彼女は影蛇の言葉を無視して、騎士から鎧を外せるだけ外した。出来るだけ軽くする。そうした後、麦の袋を背負い込む要領で、騎士の腕を掴んで一気に背中に引き上げた。
騎士の服に染み込んだ水が滝のように流れ落ちて、水たまりへ戻っていく。
「重っ……」
呻き声は、潰された蛙を思わせた。
『非力な』
「助けてくれてもよいのでは?」
『この、高貴なる蛇の悪魔に、神の騎士を助けろと? 面白い冗談だ』
「伴侶をっ、助けてくれてもっ、よいのではっ」
『クククッ』
影蛇――蛇の悪魔は彼女の首元に頭を置いて、優雅に尾をくねらせた。
冷たい尾で鎖骨を叩かれると腹立たしかったが、悪魔への抗議は後回しにして、彼女は森を戻った。重さに負けて膝が折れないよう、一歩一歩着実に力を入れて土を踏み締める。
野生の蛇たちが、少し距離を保ちながらも、共についてきた。
威嚇の呼吸音は聞こえない。
ただし、背負った騎士の呼吸音は、一呼吸ごとに乱れていった。




