#14 水源への道
日が沈んでから森に足を踏み入れたことは、これまで一度もなかった。ランプの油は貴重だし、火があってもなお足を掬われる闇に、わざわざ出向く必要もなかった。
しかし、今夜ばかりは火急である。
マリアンは、ときたま寝室で写本を読むときに使っていたランプを持ち出した。これでもかと小皿に牛脂を足した。
満月であることが幸いして、月が暗雲に隠れていても、木々や茂みの輪郭くらいはかろうじて見えた。それでも足下までは見えない。手入れされた工房前はともかく森の中では、やはり火が無ければ一歩も動けないだろう。
ちいさな薬草畑を抜けた先で、ガレスが体を捻っていた。教会騎士はフルプレートアーマーが基本だ。今の手甲と脚甲だけの装備は勝手が違って、違和感があるのかもしれない。治療に邪魔だったとはいえ、彼の鎧を解体してしまったことをマリアンは今更ながら申し訳なく思った。
工房から出てきた彼女に気づいて、彼が振り返る。「では、案内を頼みます」と穏やかに微笑んだが、その手は当然のように腰の剣柄に添えられている。
山頂で風に晒されたように、胸がざわめいた。騎士一人、剣一本でいったい何ができるのか。しかも彼は手負いである。腹には未だ血の滲む大傷もある。そのような状態だというのに、どうして鼠の悪魔を討伐できると信じているのか。その自信はどこから来るのか。
「やめませんか。明日には村の者が、隣町の修道院に着いているはずです。教会の騎士団が派遣されるのを待ちましょう」支度をしながらここまで何度も出かかった言葉が、喉まで出かかっていた。
しかし、マリアンはそれらを飲み込み、頷いた。
教会騎士団が来るまで、何日かかるか分からない。生活用川に流れ出る呪いを止めなければ、畑の土が水と共に呪いを吸って、もうここでは人は暮らせなくなる。それ以前に、もたもたしていれば次こそ村人に死者が出るかもしれない。
やるしかないのだ。
「源流への道はこっちです」
薬草畑の外にひろがる森は、闇一色に沈んでいる。工房のすぐ脇の獣道。今朝もここを慣れた足取りで行き来したはずなのに、夜というだけで知らない場所だった。
足下よりも先に、左右に立ち並ぶ木の幹を照らす。そのシルエットや樹皮の模様と、記憶を頼りに、闇を進む。
マリアンの足取りはひどく遅かった。最初は後ろをついてきていたガレスが、いつの間にか追い越して前を歩いている。
できるだけ腕を伸ばして前を広く照らそうと、ランプを掲げた。
「あの……足下、見えてます?」
「ええ。十二分に。お気遣いありがとうございます」
彼は振り返らないまま、そう返じた。
マリアンは半信半疑のまま、ランプを掲げ続ける。自分の足下だって覚束ないのだ。照らされた端を歩いている彼は本当に見えているのだろうか。
よくも躊躇なく歩けるものだ、と感心とも呆れともつかない思いだった。いまにだって、鼠の悪魔が飛び出してくるかもしれないのに。
『明け方に風車小屋に入ったらさ。鼠の群れがドワーッて』
昼間、テオから聞いた言葉が脳裏をよぎる。間の抜けた言い方ではあったが、この状況で思い出してしまうと、周りの闇全部がいつ鼠の群れにすり替わっていてもおかしくないと思えてしまう。数日前、ガレスの腹に巣食っていた無数の鼠の幻覚さえ思い出してしまって、マリアンは全身を震わせた。足も自然と速まる。
彼には気づかれないよう、でも、できるだけ近くにいよう……とその背中を見つめていたとき。
すぐそばで、茂みが大きく揺れた。
「びゃあ!」
飛び上がったマリアンが、そのままガレスの背にしがみついた。
さすがの彼も足を止めた。
「薬師様」
「ひいい鼠の悪魔です! 鼠の悪魔! 早く斬って!」
「薬師様。悪魔ではありません」
「ひい……」
恐る恐るランプを音のした方向へ向ける。
橙光に照らされると、狐の目が光った。尻尾を翻して、茂みの中へ戻っていく。
マリアンは大きく息を吐いた。
「落ち着かれましたか」
「落ち着かれてません……。そもそも、あなたが落ち着き過ぎなんです。どうしてそんなに堂々としてるんですか」
「どうしてと言われましても」
困ったように彼は眉を寄せる。
そこでマリアンは、彼の手がずっと剣の柄に触れていることに気づいた。工房を出てからずっとだ。
なるほど! 武器があるから気が強いのだ。
マリアンはきょろきょろと足下を見渡す。ちょうど、いい感じの枝が落ちていた。枝を拾う。
「薬師様? その枝は?」
「わたしの武器ですっ。どうですっ」
枝を振る。空を切る小気味よい音と、枝先についた葉がこすれる音。
「よくしなりますっ」
マリアンは何度も枝を振ってみせた。
「薬師様」
「はいっ」
「水源まではあとどのくらいでしょうか」
「え? ええと……」
名残惜しそうに枝先を下ろしながら、獣道の先を見る。
「もう少し行くと分かれ道になっていて、右に行くと、水源の湧き水に出ます」
「わかりました。場所さえ分かれば、あとは私が対処します。薬師様はどうかお戻りください」
「えっ、ここまで着いてきたのに! どうしてですか」
抗議するようにガレスを睨みつける。
しかし彼はそこで初めて、いつも浮かべている微笑みを消した。まっすぐにマリアンを見つめて、静かに言う。
「鼠の悪魔との戦いになれば、心苦しいですが、私には貴女を守る余裕はありません。朝まで山小屋でお待ちを。必ず鼠の悪魔を退治して戻ります」
「はいわかりましたと、あなた一人に任せられると思っているんですか。わたしもついていきます」
マリアンもまた先までの怯えをすっかり忘れたように、静かにガレスを見つめ返した。
「それに、そのお腹の傷は、一人で鼠の悪魔と戦おうとしてやられたものなのでしょう? なら、なおさら一人では行かせられません」
「足手纏いだと申し上げているのです」
ガレスの強い言葉に、マリアンは固まる。きゅうっと心臓が縮みあがるような気がした。
しかし、すぐに怒りが込み上げてくる。足手纏いだなどとどの口で言っているのか。
睨み合っていた視線を切る。「手負いのあなたに言われたくありません」と言い放ちながら彼の横を抜け、先へ歩き出す。
「薬師様」
呼び止められても、マリアンは止まらなかった。獣道の分岐に差し掛かっても、彼女は躊躇なく水源への道を進んでいく。
「ここは大事な森です。村人も蛇たちも、森や川を、土地を失ったら生きていけません。薬師の私にとっては生活基盤でもあります。ここはみんなの家なんです。自分の家は自分で守ります」
「ですが、家を守るために人が死んでは意味がない」
「代わりに騎士様を無駄死にさせるのも、どうかと思いますけど」
無駄死に、という言い方が引っかかったのだろうか。ガレスが眉を顰めた。声を荒らげることはなかったが、明らかに感情を抑えた声で反論する。
「無駄死にはしません。たとえ死んだとしても、必ず鼠の悪魔を削ぎます。悪魔が弱まれば呪いも弱まるでしょう。騎士団が派遣されるまでの時間稼ぎにはなる。私の命で人々の生活が守られるなら、本望です」
「すさまじい自己犠牲精神……」
マリアンのげっそりとした呻き声をこぼす。
呆れのあまり緊張の抜けた彼女の様子に、その背を追っていたガレスの表情が和らぐ。
「人々を守る。それが、騎士である私の使命ですから。どうか私に任せて――」
「だからっ!」
彼女が急に足を止め、声を張り上げながら勢い良く振り返った。その勢いの良さに、後ろをついてきていたガレスもびくりと静止する。
「あなたは騎士である前に怪我人なんですよっ。騎士であるあなたの使命が人を守ることなら、薬師であるわたしの使命は患者を治すことです。患者が一人で出歩くのを、見過ごせません!」
「……出歩く、という話ではないと思いますが」
「薬が嫌で逃げ出そうが、戦いにいこうが、寝台を離れるなら同じ脱走患者です」
「……」
「それに、あなたはわたしを守らなきゃいけないと考えているようですが、これでも森で独り暮らしをしてきたんです。あなたに守ってもらう必要はありません。ビクビクしながら道案内だけしにきたつもりはありませんよっ」
彼女は胸を張って言いきった。先まであんなに怯えていたのに、今は、この世界に自分が恐れるものなどないと言いたげな子供のようである。
ガレスはしばらく、考え込むかのように押し黙った。マリアンもじっと彼を睨み続ける。
やがて、彼が観念したように大きく息を吐き出した。
「私が傷を押してでも悪魔を討たねばと考えるように……貴女も、怪我人を放っておけないのですね」
「はい」
「なら、共に行きましょう。ただし、自分の身は自分で守ってください、薬師様」
「はいっ」
元気よく返事をした彼女がまた歩き出す。ガレスもその隣を歩いた。
しばらく進めば、水の音が聞こえてきた。剣の柄に添えていたガレスの手が柄を強く握りこむ。
彼の緊張を感じ取ったのか、マリアンが笑った。
「安心してください。騎士に剣があるように、薬師にも武器がありますっ」
マリアンが枝を振る。ヒュンヒュン、と枝先の葉が空を切る。
「心配です」
ガレスはつぶやいた。




