#13 汚染された川
シャルたちと一旦別れたマリアンは、村人に案内され、再び風車小屋へ訪れた。
今日の風車小屋は、ひとはまばらだった。まわりで掃除をしている者が数人。
その様子を、少し離れた石垣に寄りかかったテオが眺めていた。左脚には支えの木の棒と一緒に包帯が巻き付けられている。村人に連れてこられたマリアンを見ると、彼はへらっと笑う。
「呼んでこなくていいって言ったのに」
「そういうわけにはいかないだろう。骨が折れてたらどうする。ちゃんと診てもらえ」
ここまで案内した村人はそう言って、風車小屋の掃除に加わっていった。
そうしてこちらへと向き直ったテオだったが、その顔が引きつる。マリアンがあまりに深刻な顔をしていたせいだった。
「な、なんだよ。また怖い顔して……。転んだくらいでそんな怒らないでくれって」
「転んだ? 鼠に襲われたんじゃ?」
「鼠の群れがドワーッて来て……その……びっくりして躓いたんだよ……」
彼は誤魔化すように笑いながら、目を逸らす。
鼠に直接怪我をさせられたわけではない。マリアンはひとまず安心しつつ、「一応、診せてください」と背負った薬箱を下ろした。
「鼠に襲われたというのは……具体的には?」
「そのまんまだよ。罠にそろそろ鼠がかかってるかなと思って、明け方に風車小屋に入ったらさ。鼠の群れがドワーッて」
「ドワーッ」
「で、そこですっ転んじまったわけだけど……」
包帯を外すと、たしかに彼の脚に外傷はなかった。噛み傷も引っかき傷もない。ただし、足首の関節が腫れている。筋肉は膨れ上がっていた。何度か押し込むように触れると、頭上から呻き声がした。
「捻挫だと思います。念の為、添え木はそのままで。痛みが減る薬布を作って、包帯を巻き直しますね」
「おお、助かる」
「それで、転んでしまったあと、鼠は? 逃げていったんですか?」
「あー……」
返ってきた彼の声は歯切れ悪かった。薬箱から出した薬材をすり鉢に入れながら、マリアンは顔を上げる。
それまでのんきにしていた彼は、なにか考え込むように眉を寄せていた。
「いや、それが、鼠のやつら、全然逃げなくてさ。あんま人間に怯えないっつうか。だから、脚は痛えけど鼠をとにかく追い出さねえとって思って。箒で叩いたらやっと小屋から出ていったんだけどさあ……」
彼の言葉尻は、やはり歯切れが悪い。
「まだ、何かあるんですか?」
「……笑わないで聞いてくれよ? おっさんには見間違いとかなんとかって言われたんだけど」
テオはそう前置きしてから、彼にしてはえらく真面目な調子で続けた。
「明るいところに出た途端、消えたんだよ、鼠が」
「消えた……?」
「そう。煙みたいにさ」
テオがそう言ったとき、マリアンの視界の隅、薬箱の上で黒い影が蠢いた。蛇の形をした光を反射しない闇一色の影が、蜷局を巻く。蛇の悪魔だ。その体からは煙のように黒い靄が漂い、空気に混じり合っていく。
マリアンはすぐにテオへ視線を戻した。
「昨日仕掛けた鼠捕りの罠にも、一匹も引っかかってなかったし。餌は食われてるし罠も動いてるのに、毛一本すら引っかかってねえんだ」
「麦粉の被害は?」
「それはほとんどなかった。鼠の餌用に残した袋だけだよ。マリアンの忌避剤のおかげかもな。周りの家も、昨日の夜はどこも鼠の被害はないってさ」
「よかった……。鼠は全部、煙になったんですか?」
「いや、半分くらいは水路のほうに逃げたと思う。水の音がしたし」
「水路……?」
マリアンは足下を見た。
すぐそばに細い水路が走っている。水路は風車小屋と家々のすぐ横を沿って、村向こうに広がる畑へと水を届けていた。
テオの手当てを終えたマリアンは、村向こうの畑へと走った。薬箱をガシャガシャと鳴らしながら走る彼女を、村人たちが物珍しそうに見る。
『何を急ぐ』
彼女のうなじと髪の影から、蛇の悪魔が首を伸ばした。
「もしかすると、はあ、はあっ、思ってたより深刻かもしれませんっ」
『水路が鼠の通り道になっていることか?』
「それもあります。でも、たぶん、水路だけじゃない……はあ、はあ」
息を切らした彼女がようやく足を止める。
目の前にひろがる青いライ麦の畑は、風に揺られて波打つように輝いている。かすかに花のような甘い香りが吹き抜けた。
だが、畑の端に並ぶ穂はところどころ黄色く変色し、萎れている。その根本の土は湿っている。すぐそばを通る水路から水が漏れ出し、土を濡らしているのだ。
マリアンは畦道を下り、ぬかるんだ土に踏み込んだ。しゃがみこみ、穂の根元へ手を伸ばす。掴んで力を込めれば、簡単に引き抜けてしまった。根は黒ずんでいる。光に当てると、反射の具合で、どこか青黒くも見えた。
『ほう。禁足地の植物と同じだな。瘴気に当てられて、腐っている』
「水路の水は川から引いてます……。ああっ、どうして気づかなかったんだろう……!」
マリアンは麦穂を捨て、急いで畦道へ登った。そしてまた村の中へと駆け出す。
「ミミンに出た瘴気の痣は、手や腕、脚だけでした! 川遊びをしてたからですっ! 川の水が瘴気に汚染されているなら、全部説明がつきますっ!」
村長の家に駆け込んだマリアンは、川に人を近づけないよう、村長に伝えた。
村長を通して、村人たちには農作業を休むよう伝えられた。
この村には井戸があり、料理や飲水には井戸水が使われている。村人たちが今すぐに川の水に触れる事態は避けられている。
村長も村人たちの説明に頭を悩ませていた。村人たちもどこか不穏な空気を感じ取ったのだろう、村長の説明に首を傾げる者もいた。鼠の悪魔の存在が露呈するのも、時間の問題だろう。
教会への遣いを任せた村人は、既に村を発った後だった。戻ってくるのは早くても明後日になるだろうとのことだ。残念ながら、川の水について教会にすぐ伝えることはできなかった。
マリアンにも村長にも、これ以上、出来ることはなかった。
◆ ◆ ◆
日も暮れかけた頃。ようやくマリアンは工房へ戻った。
山中の工房と村とを往復することなどマリアンにとっては日常で、たいして疲れることでもなかったが、今日ばかりは肩も脚も重かった。ずっと胸のあたりが気持ち悪い。不安で仕方がない。
工房に入るとすぐに薬箱を下ろして、マリアンはガレスが寝ているはずの診療室へ向かった。幸い、彼はちゃんと寝台にいた。
マリアンが入ってくると、彼は体を起こしながらやはりいつもの穏やかな笑みを浮かべる。しかし彼女のただならない様子にわずかに眉を寄せ、「どうかなさいましたか、薬師様」と抑えた声で尋ねてきた。村で起きていることを伝えられれば、彼の顔色も曇る。
寝台横の椅子に腰掛けたマリアンは、両手を握り込だ。
「このままだと、作物がすべて駄目になってしまいますっ。作物だけじゃない、水は土に染み込む……。昨日今日だけでもうこんなに被害が出てる。騎士団が鼠の悪魔を討伐してくれても、土が瘴気を吸い過ぎてしまったら――」
「この土地は、禁足地に指定されるでしょう」
マリアンの言葉を、ガレスが引き継いだ。
「人も獣も住めない、闇に侵食された土地のひとつとして、教会が立ち入りを禁じます」
「そんな……」
「マリアン様。私の剣は、どこにありますか」
「え、剣ですか? あなたの荷物なら、全部拾って、納屋に置いてありますが……えっ、ちょっと!」
ガレスが寝台から立ち上がろうとする。
マリアンはすぐに制止したが、彼はその手を丁寧に外し、まっすぐに見つめ合う。
「どうか、薬師様、私の剣をお返しください。討伐に向かいます」
「今から!?」
マリアンの声が裏返る。
「もう夜ですよっ!」
「宿主を持たぬ悪魔は、闇に近い場所でなければ存在を保てません。夜にしか、首を斬ることはできません」
「で、でも、あなたは絶対安静の患者なんです! 何度言ったら分かるんですか!」
「これは私の使命です」
ガレスは静かに言った。真剣な目はわずかな揺らぎもしなかった。何を言おうとものらりくらりと言い躱されてしまうときの目だと、マリアンは悟った。
マリアンの諦めを見て取ったのか、彼はやわらかく微笑んだ。
「薬師様。川の水源までの道を、お教え願いますか」




