#12 ひろがる鼠の足跡
「私は、教会からの任務を受け――鼠の悪魔を追っていました。一度は追い詰めたものの、隙をつかれてしまった。逃げた鼠の悪魔を追跡しましたが……自分もこの傷で意識を失ったのでしょう。途中で落馬したのだと思います」
説明を聞きながら、マリアンは彼を助けた場所を思い出していた。崖上の街道から滑り落ちてきた跡も、剣や荷物が散らばっていたのも、合点がいく。
「じゃあ、そのお腹の傷は……」
マリアンの問いにガレスは頷いた。自身の腹に巻かれた包帯を撫でる。
「悪魔とは、〈闇〉から生じるもの……。〈闇〉は瘴気に満ち、そこからやってくる悪魔もまた、瘴気を纏う。鼠の悪魔は特に濃い。噛まれるだけでも瘴気に汚染されます。教会は公にはしていませんが、すでにいくつかの集落が、鼠によって齎された不治の病に侵されました。鼠に噛まれた者、引っかかれた者――みな、痣に蝕まれて亡くなった。昨夜の子どもも鼠が原因でしょう。……私が鼠を討てなかったばかりに、苦しめてしまった」
彼の声は淡々としていたが、掛け布の上に置かれた手だけは強く握りこまれていた。
マリアンは得心が行った。彼が躊躇なく寿命を削ってでもミミンを助けたのは、彼自身の信仰心だけではない、負い目もあったからなのだ。
「ミミンに出た瘴気の痣も、鼠の悪魔が原因……。でも、あの子の体には、噛み痕も引っかき傷もありませんでしたよ。全身くまなく確かめましたから、間違いありません」
「先程、村で鼠害があったと仰られていましたが、」
ガレスの言葉に、マリアンの表情が変わる。ゾッと血の気が引き、凍りつく。
村の風車小屋に積まれている麦粉の袋は、村人全員の食糧だ。そこに、瘴気を纏った鼠の悪魔が入ったかもしれない。もしも、その麦粉を食べてしまっていたら。
「鼠に汚染された食べ物を口にした可能性は――」
彼が言い終わらないうちに、マリアンは椅子を蹴倒し、診療室を飛び出した。
彼女が土間へ駆け込むと、テーブルについて既に食事をしていたシャルたちが、一斉にこちらを見る。
「あ、マリアン。あの人の手当てはもう終わっ……わっ何!?」
のんきに匙でスープを掬いながら話すシャルの肩を掴んで、マリアンは食い入るように彼女の顔を覗き込む。
「昨日、パンを焼いて食べましたか!? 風車小屋にあった麦粉を使ったパン! ミミンちゃんにも食べさせましたか!?」
「え、な、なに?」
「答えてください! 大事なことなんです!」
「……い、いいえ。パンは食べたけど、どれも作り置きしてあった乾いたパンよ」
「え……食べていない?」
予想とは違う答えに、シャルに手を払われてもマリアンは呆然としたままだった。
すると、向かいでミミンと並んで食事を取っていた村長が匙を置く。
「昨日はパン焼き窯は使われておらんよ。風車小屋のついでに、窯も掃除しようということになっての」
「そ、そうだったんですね……。あっ、パン以外でも麦粉を使ったりとかは?」
「風車小屋に残った麦の袋を数えねばならんかったから、持ち出した者もおらんよ」
「そうですか……」
ホッと胸をなでおろす。しかし、安堵しても心中は晴れない。
麦粉が原因でないなら、ミミンはどこで瘴気に触れたのだろう。
スープを頬張る彼女を眺めながら、マリアンは考え込む。しかしその視線に気づいたミミンに「なあに、せんせえ」と首を傾げられ、マリアンは慌てて「いいえ。ミミンちゃんが元気になってよかったです」と笑い返す。
「薬師様」
そこへ、壁に寄りかかりながらガレスがやってくる。
「ギャッ!!」マリアンが呻いた。「どうしてあなたはすぐそうやって歩き回るんですか!?」
「申し訳ありません。あまりにも勢い良く飛び出されていかれたので、つい……」
「つい、で追いかけてこないでくださいっ! お腹に穴が開いてる人は寝ていてください! ほらほらぁっ!」
彼を診療室に追い返そうとマリアンが近づく。すると、彼女にしか聞こえないよう、ガレスが声をひそめる。
「先の件、薬師様にお話しした以上、村長様にもお話しさせて頂きたく」
◆ ◆ ◆
マリアンたちが工房を出たのはすでに昼に差し掛かる頃だった。
手を繋いで楽しそうに道を下っていくミミンとシャル。二人はときおり振り向いて、後ろをついてくるマリアンと村長を急かしていた。笑って手を振り替えすも、ミミンたちが前を向き直れば、マリアンと村長はため息をつく。
「まさか、この村に悪魔が出るとは……」
「蛇さんたち、ガレスさんに見つからないようちゃんと隠れているでしょうか……」
「うむ?」
「アッ、いえ、そうですね! 悪魔が出るだなんてっ」
慌てて誤魔化すマリアン。幸い、深く追求されることはなかった。
村長にとっては、村に潜んでいるかもしれない悪魔の存在で、すっかり他のことは考えられないようだった。ガレスから話を聞いてからずっと、皺だらけの顔を皺だらけの手で何度もゴシゴシと擦るように覆っては、ため息を繰り返している。
「騎士様に言われたとおり、村に帰ったらすぐに教会へ遣いを出して……騎士団が来てくださるのはいつになるのじゃろうか。それまでに村に被害が出んといいのじゃが……いや、すでに風車小屋が……」
「まあまあ、村長さん、そんなに申告にならないで……。風車小屋の鼠については、悪魔の気配に引きつけられて寄ってきた野生の鼠かもしれないって、ガレスさんも言ってたじゃないですか」
「それはそうじゃが……。万が一ということもあるじゃろう。風車小屋の麦粉を使わんよう、村人たちにどう説明すれば……。はあ、騎士団が来るまでとはいえ、不安を煽らぬよう村人たちには秘密にと言われたが……ううむ……」
村長は工房にいるうちからずっとこの調子である。
少し前。ガレスは、村長にも鼠の悪魔について明かすと、任務に当たっていた自分が重傷で動けなくなった旨を騎士団に正式に連絡してほしいと願い出た。既に村にも被害が出ていると言えば、数日のうちには騎士団が派遣されるだろうとも。
「教会騎士団が来る……」
村長の隣で、マリアンもまた、低い声でつぶやいた。その目に生気はない。
彼女の脳裏には、なぜか鼠の悪魔そっちのけで教会騎士たちが工房を取り囲む光景が浮かんでいる。縄で縛られ引きずられていく自分。網で次々と捕獲されていく蛇たち。
「わたしは火炙り……みんなは蒲焼き……」
そんなときだった。
「おーい」
坂道の下から聞こえた声に目を向ければ、村人が一人、手を振りながら駆けてくる。村からここまでずっと走ってきたのだろうか、立ち止まり、膝に手をついて息を整えている。
なにかあったのだろう。足を早めて、普通の声で話せる距離まで下りていくと、村人がマリアンを見た。
「ちょうどよかった。薬師さんを呼びにきたんだ」
「わたしを?」
「ああ。テオが怪我をしたんだ」
言葉のわりに、村人はあっけらかんとしていた。どこか呆れも混じった様子で続ける。
「昨日一晩、風車小屋の見張りをしてたらしいんだが。なんでも、鼠にやられたとか言っててな。笑っちゃうよなあ」
横で聞いていたミミンは笑う。シャルも「あいつらしい。大袈裟なんだから」などと言って村人といっしょに呆れている。
ただ、マリアンと村長だけは息を飲み、体を強張らせたようだった。




