#15 鼠の悪魔
やがて、森は途切れた。土と岩の混じった見上げるような壁が立ちはだかっていた。岩の隙間から絶えず水が湧き出し、辺りに浅く広く満ちている。
水に入らないよう大きく回り込むようにして、マリアンたちは岩壁へ近づいた。
ランプの火を掲げる。湿った岩が照り返し、水流が光るだけだった。水以外、動く物はない。
「とくに、変わりありませんね。鼠の悪魔がいるのは源流じゃなくて、上流のどこかなんでしょうか。沢沿いに戻ってみますか?」
「……」
「ガレスさん?」
「……そうですね。すこし、下ってみましょうか」
渋々、といった様子だった。もしくは何かを訝しんでいるようにも見えた。周囲を睨めつけながら、手は鞘に納められたままの剣を掴んでいる。
マリアンが再び歩き出す。
「じゃあ、沢沿いはあまり地面が良くないので、気をつけて――」
ちゃぽん、と、水に石を投げ込んだような音がした。
小魚でも跳ねたのか。ランプを水面へとかざす。闇を映す黒い水面は、流入する湧き水によって細かく波打ち続けている。それだけだ。
「ひゃっ」
ブーツ越し、足下を何かがすり抜けた。ふらついた彼女が浅瀬を踏みしめると、水底がぐにゃりと歪んだ。
水底で、泥が逆流する。闇色の水面が大きく粘度を持って波打ち、水が生き物のように立ち上がる。立ち上がった大きな水の塊から、しぶきの代わりに濡れた鼠がぱらぱらと泉へ落ちた。
無数の鼠が、木々より高く噴きあがった。それが落ちて、迫ってくる。
「薬師様!」
足を掬われ転倒しかけた彼女の背を、ガレスが突き飛ばした。
泥と落ち葉の上に突き飛ばされた彼女が顔を上げれば、鼠の群れが目前を通過した。水も土も、ガレスも、すべてを巻き込みながら、鼠の群れが森の奥へ突っ込んだ。
群れが通り過ぎると、轢き倒されて斜めになった木々が森に穴を穿っていた。
「ガレスさんっ」
ぬかるみが抉られ、かえって走りやすくなった新しい獣道を追いかける。武器代わりの木の枝を、ランプを持っているほうの脇に挟み、空いた手を腰のポーチへ突っ込む。
そう深くない突き当りで、鼠の群れが渦巻いていた。ガレスの姿は見えない。マリアンはガレスの名を何度か叫んだが、鼠が体毛を擦れ合わせる音、そこから無数に聞こえる鳴き声に掻き消されてしまう。
ずっとポーチを探っていた彼女の手がようやく何かを取り出した。薬の詰まったガラス瓶だ。蓋を外して、渾身の力で鼠たちの中心めがけて投げ込んだ。鼠の蠢く音の奥で、ぱりん、と硝子が割れる。
途端、群れの中央が弾けた。悲鳴じみた鳴き声をあげて、鼠たちがガラス瓶の落ちた場所を避け始める。裂けた群れの中に、ガレスが蹲っていた。
「ガレスさん! ――このっ!」
どうにか近づけないかと、前を塞ぐ鼠を木の枝で殴る。なかなか崩れない鼠の壁に、火が溢れるのも構わずランプで殴り付けると、鼠がわずかに退く。
しかし、火の粉を受けた鼠たちと入れ替わるように、新たな鼠が数匹飛び跳ねた。
マリアンは咄嗟に腕で顔をかばう。
だが、鼠が飛びついてくることはなかった。鼠の短い悲鳴が遠のく。顔を上げると、ガレスが剣を振り抜いていた。血の滴る剣身が、ランプの光をわずかに返す。
「薬師様、私のそばに」
鋭く言って彼は、マリアンの腕を掴み、自身の背側に引き寄せた。血のついた剣が翻され、次に飛んできた鼠をも剣先で正確に捉え、斬り飛ばす。血肉と鳴き声が、マリアンの顔のすぐ横を飛んでいった。
ガレスは彼女を背に庇い、マリアンも背を彼に預けながら、木の枝とランプを構える。
鼠の壁がすっかり二人を取り囲んでいた。数歩先から外側を、鼠が埋め尽くしている。鼠の沼のようだ。鼠たちがいつ、どこから飛びかかってきても、おかしくない。
「薬師様。先程の瓶は」
「鼠の忌避剤です! 使うかもと思って、作って持ってきていたんです! 言ったでしょう、薬師にも武器はありますよ!」
「それは心強い。残りは」
「ありません!」
『役立たずめ』蛇の悪魔が耳元で言った。残念ながら、言い返している余裕はない。
マリアンは鼠を近づけまいと、枝をがむしゃらに振る。枝に当たった鼠が飛んできて、重ね着した服越しに、温かくて柔らかい感触が太腿に当たった。
「ヒィッ」
マリアンは喉が引き攣るように悲鳴をあげた。気色悪い。不潔。ぞわぞわ。鳥肌が手足の先から駆け上る。先まではガレスを助けなければとしか考えていなかったが、今はもうすっかり目の前の鼠たちの気色悪さで震え上がっていた。
「こんなに多いなんて聞いてませんよお! これ全部悪魔なんですかあ!? どうやって退治するんですかこれえ!」
「全てを討つ必要はありません。群体の悪魔には、必ず核となる個体がいます。その一匹を討ちさえすればいい」
「一匹!? この中から見つけるんですか!? どうやって――」
そのとき、視界の横で群れの中から鼠が跳ねた。数匹がマリアンへ飛びかかってくる。会話の最中、反応が遅れる。
「下がって!」
ガレスが合間に踏み込み、鼠を斬り伏せる。
そのまま、彼の体が傾いだ。左手で腹の傷を服の上から強く押さえ、倒れ込まないように踏ん張る。
その一瞬の隙を狙ったのか、ただ運が悪かったか。また鼠が跳ねた。不安定な姿勢にくわえ、痛みで力が緩んだか、剣が彼の手を離れた。惜しむ間もなく鼠の波に飲まれてしまう。
剣をさらった鼠たちの余りが腕にかじりついたが、ガレスは腕を太腿に殴り付けて鼠を振り落とした。それでも落ちない鼠を、剣鞘で腕の表面から削ぎ落す。剣鞘をベルトに固定していた留め具が、鈴のような音を立てて、草むらに紛れ消える。
「ガレスさん! 腕が……!」
「大丈夫です。あなたは前に集中して」
『ああ……。こんな夜更けにいったい誰かと思えば』
女の声があたりに響いた。ただし一人の声ではない。幾人もの女が一斉に同じ言葉を唱えているようだった。鼠たちの駆け回る音に紛れて、四方から聞こえてくる。
『この血の味。雨の中、夜這いに来た坊やかえ?』
声が笑いを含んで揺れた。
周囲で駆け回っていた鼠たちの動きがゆるやかになっていく。鼠の群れの一部が、奇妙に盛り上がる。
盛り上がった頂点から鼠たちが剥がれ落ちていくと、濡れた黒い毛並みの熊が現れた。いや、その巨体には肩がない。胸の前で小さな前足を持ち上げ、長い鼻先で夜闇のにおいを嗅ぎ取っている。ガレスよりも背の高い、ずんぐりとした鼠だった。ランプに照らされて、濡れた毛皮と赤い目が照り返す。赤く小さな木の実のような、透明感のない目だった。
マリアンは震えるのも忘れて、息を潜めて、ガレスの背に隠れた。それでもその巨大な鼠から視線を外す勇気はなく、脇から覗く。
『また淑女の寝屋に土足で踏み込んでくるとは、本当に礼儀を知らない子。それとも、そんなに妾のことが忘れられなんだか』
巨大な鼠の首が伸びて、ガレスを頭上から見下ろす。
「こんばんは、鼠の悪魔。その首、頂戴しに参りました」
ガレスの声は物怖じどころか、敵意すら滲まなかった。ただ、大して親しくもない知り合いと挨拶を交わしている、淡々とした調子だった。
『アッハッハッハッハッハッハ!』
鼠の悪魔が、毛を震わせて膨らんだ。
『剣も無いのに、勇ましいこと。あの雨の夜も、妾に腹を犯されたというのに、無謀で元気で、愛い男。だが……逢瀬に他の女を連れてくるのは、礼儀知らずにも程があるとは思わなんだか? それも、』
濁った赤い目に見られ、マリアンが息を詰まらせる。
『蛇の臭いの女ッ――!』
黄ばんだ牙を剥き出して、女の憎悪を煮詰めたような声で唾棄した。
11月8日開催の文学フリマ東京43【南1・2館 Q-75】にて、書籍版を頒布します。書籍版は、なろう掲載中の本文初稿を推敲し、改稿と編集を加えた内容となります。また、現在なろうに掲載されている「鼠の悪魔編」に加え、「魔女検め編」を先行収録します。
ご興味あれば、ぜひお立ち寄りください〜〜




