8.われた鏡の中から
私の悩み癖のようなものは頂点に達していた、それはやはり雨の日だった、それはやはり千代と経之助と会えない日だった、未だに家族となるか否かの答えを貰えぬままの日々に私は一人病室に置き去りにされたような感覚でベッドの上で悩み続けていた。
その中で私はある意味で愛に呪われているかのような感覚に陥っていた、私が元来は愛という感情に信頼を持たなかったことも、家族という組織への嫌悪感も、そして、“真実の愛”を感じたことが無い人生であることも全ては私が愛に呪われているからではないかと考えたのだ。
それは私にとってはあまりにも重たい事実のような気がしてならなかった、それを愛を為す上での悪しき幻想であるとする理由を探したが、今の私にはそれを探し出す力が無かった、正しく脆弱である、自己の脆弱さ故に悩み苦しみ、そればかりか愛に呪われているとする、しかし、愛に呪われている人間は脆弱なのだ、愛に充ちている存在は強く眩しいものばかりである、私に必要なのは愛である、それも高等な“真実の愛”である、愛なくして肯定的に滅ぶことは絶対にできない。
あぁ、それとも私は脆弱のくせに強欲か、脆弱であるが故に肯定的に滅ぶことを望んでいるのに、それには脆弱ならば手に入らない“真実の愛”が必要なのである、この矛盾をどのように解決させてくれようか、これもまた私が脆弱であるが故に解決を持たない苦悩なのである。
苦悩に苦悩が重なり「キの病」がそのどす黒い頭をもたげてきた、私はふらふらとベッドから起き上がり、病室の洗面台の鏡に己の顔を映した、その顔は青白く痩せ細った病人のそれである。
「脆弱だ...脆弱の顔だ...」
意識無く私は呟いた、その次の瞬間、私は鏡に頭を叩きつけた、何度も何度も叩きつけた、鮮血が飛び散る白い病室内、鏡の割れる凄まじい音、頭が切れて行く痛み、脳内を巡る苦悩の数々、その騒ぎを聞きつけやって来たのはいつもの若い女の看護師であった。
「何をやっているのですか!!」
若い女の看護師のその声を聞いたのを最後に私の意識は途絶えたのだった。
次に目を覚ましたのもやはり同じ病室のベッドの上だった、私は頭に包帯をぐるぐると巻かれ、寝かされていたのだった。
これは絶望的なことをしてしまったなと思った、こんな様子では千代や経之助と家族となることなど夢のまた夢といった話になるだろう、私は二人の前では健全な男であるふりを精一杯演じていた、しかし、それももはや脆弱と露見してしまったのである。
私はどうにか起き上がった、すると頭に凄まじいまでの鈍痛が襲いかかって来た、次に私を襲ったのは目眩と吐き気である、私は這いつくばるようにして鏡の割れた洗面台へと行くと嘔吐を繰り返した、死だ、死が私の隣にいる、愛は求めても求めても私の側へと現れたりはしないのに、死はこうして容易く私の側へと現れるのだ。
私は洗面台一面に嘔吐をぶちまけるとその場でまた倒れ伏した、頭の鈍痛と目眩が凄まじく呼吸が上がり、汗も凄まじい、肯定的に滅ぶのとは程遠い様であるが、今はその姿を第三者目線で見ることなどできはしない、私は必死で這いつくばりベッドへと戻った、そして、ナースコールを押すとそのまままた事切れたのだった。
鎮痛剤のようなものを打たれたのか、まだ頭が痛むがそれほどではない、私は寝たきりのまま意識を取り戻した、少しだけ頭を右側に動かし、病室の窓を眺めた、外は晴れていた、もしかすると私は日付を跨いで昏睡していたのかもしれない、カーテンの揺れる様を見るなり、窓が少しだけ開いているのが分かった、そこから病室の匂いとは違った夏の香りをはらんだ風が木々のざわめく音と共に入り込んで来るのを鼻先で感じた。
頭をまた少し動かすと鈍痛が一瞬走った、私は顔をしかめたが、天井を眺め目を閉じ、耳をすませた、他の病室も窓を開けているのか様々な音が聞こえてくる、風が吹く度に風鈴の音もした、サティのグノシエンヌをピアノで弾く音も聞こえた、子供の笑い声もした、病院の外からやって来る車の音、その車に乗ってやって来る業者のはつらつとした声も聞こえた、ラジオから流れる懐かしいヒット・ソングも聞こえた。
目を閉じたままでも顔に日の光が当たっているのがわかる、私は世界が動いていることを感じていた、生命を感じた、私は静かに涙を流した、私は生きている、それだけで一つの愛の形なのだ、“真実の愛”に近付いた感覚がした。
若い女の看護師が昼食を運んで来たことでその日の時間を知ることができた、若い女の看護師は「大変だったんですよ!」と冗談交じりに怒ったが、“大変”なのは本当の話だったのだろう、私は本心から「すいません、焦らないようにします」とだけ言った。
「焦らないようにする」然もここの医者が言いそうな言葉だったが私は肝に命じるように一言だけ呟いた、その呟きを聞いた若い女の看護師は
「本当にですよ!」
とこれまた冗談交じりに怒って言ったのだった。




