第46話 プロポーズ(その4)
その後は無言で歩いた。無言だけれども、新井さんは言うべきことを言ってすっきりしたのだろうか、とても清々しい笑顔で時折鼻歌すら混じっている。それに反して僕はどんよりとした、重い荷物を背負わされたような気分で下流へ向かって歩いた。
「室田くん、家に寄って行って」
新井さんが突然立ち止まった。
「土手のここから下りてすぐだから」
気が付くと新井さんの家のある辺りまで着いていたようだ。僕はどうしたものかと思ったが、このまま帰るのではなく、何とかして重荷の一部を新井さんに返してから家路につきたいと切に思った。
だから、新井さんの家にお邪魔することにした。
新井さんの家はこじんまりとした庭付きの一戸建てだった。
新井さんの家にお邪魔するという僕の選択は僕自身の目的からは明らかに失敗だった。ただ、僕の目的や願いが必ずしも僕の幸福や良い結果につながるとは限らない。そんな意味では今後の僕の将来を左右しかねないような場面に僕は自ら足を踏み入れてしまったことになった。
今、僕の目の前には新井さんのお母さんがニコニコしながらケーキをつついている。
新井さんのお母さんは36歳だ、と自分で言った。若い。18歳で結婚し、19歳で長男である新井さんのお兄ちゃんを、20歳で新井さんを生んだそうだ。新井さんが16歳。したがって自分は36歳なのだと理路整然と説明してくれた。
「室田君のことは紫帆からよーく聞いてるよ。バンドやってるかっこいい男の子がいるって」
「お母さん、やめてよ。室田くんに失礼だよ」
新井さんは口ではそうは言っているけれども、お母さんに自分の‘援護射撃’をして欲しいという気持ちが見え見えだ。
「ねえ、室田君、紫帆のことどう思う?わが娘ながら結構かわいいと思うんだけど、どう?」
これじゃあまるで母親による自作自演のお見合いみたいなものだ。多分、ある程度までは冗談だろうという期待で聞いてはいるが、こちらが冗談ぽいコメントでもして本当に新井さんを傷つけてしまうようなことがあったら大変なことになる、と警戒心を強めた。まだ、何も僕は答える準備ができていない。
「それに、紫帆は料理も上手よ。室田君は長男?」
「え・・・そうですけど・・・」
質問の意図が分からず不審に思っているとお母さんは立て続けに意表を突く話題ばかり振って来た。
「紫帆が室田君の家に嫁いだらきっとご両親も喜ぶわよ。うちはおばあちゃんがいるから紫帆はお年寄り向けの味付けも凄い上手。ご両親と同居しても将来気に入る料理が作れるよ」
自分の娘をべた褒めである。けれども、多分、本当のことなんだろうと思う。お母さんのことはともかく、普段の新井さんを見ていればいかにも、という感じがする。それに、おばあちゃんに合わせた味付けをするなんて、なんだかいいな、と少しほっこりする。
「わたし、ちょっと洗濯物取り込んでくる・・・」
まるで漫画か何かの1シーンのように、恥ずかしがった新井さんがベランダの方に逃げて行った。そこからいよいよお母さんの‘援護射撃’が激しさを増した。
「紫帆は室田君のことが好きなのよ」
紅茶を吹きだす、という漫画みたいな反応はさすがに堪えたが、心の中では‘うっ’と思った。更にエスカレートした言葉が続く。
「それもただ好きなだけじゃないよ。そんないい加減なんじゃなくて、あなたと結婚したいって思ってるのよ」
「・・・・・」
僕は一瞬無言になる。どこまで陽気に冗談の話を言うんだろう、と思った。でも、僕はさっきお母さんが18歳で結婚した、という話を聞いた。だとしたら・・・
「室田君。わたしはふざけてこんな話をしてるつもりはないよ。逆に、誰かを‘好きだ’って言う時に、結婚のことも考えずに言ってる人がいるとしたら、そっちの方こそ‘ふざけてる’ってわたしは思うわよ」
僕は思わず姿勢を正した。
「本当に真剣な恋愛は‘結婚’だと私は思ってる。出会いがお見合いだろうが合コンだろうがね。結婚以外の恋愛の形も認めない訳じゃないけれども、それはどこまで行っても未完成の‘恋愛ごっこ’だよ。‘ままごと’だよ。
室田君はどう思う?」
僕は大急ぎできちんとした答えをしようと考える。でも、真実の自分から出て来た答えは本当に頼りないものだった。
「僕はまだ、そんな結婚なんかする資格の無い人間です。将来の展望もまだ全然ないし・・・」
お母さんは、ふふっ、と笑う。
「そんなの当たり前じゃない。じゃあ、室田君は‘この女の子は将来こんな職業に就いて、何歳で管理職になってこれだけの収入があって、健康そうだから長生きして自分が死ぬまでは面倒見てくれるだろう’って予想して結婚するの?」
うっ、と僕はまた言葉に詰まる。恐る恐る返事をしてみる。
「いえ、そんな訳、ないです・・・」
お母さんは、そうでしょう、という感じでまた僕に話し続ける。
「結婚する相手が将来、自分にとって損か得かなんて、そんなの人間として悲しすぎる。
私の旦那は結婚前は本当にだらしなくてまっとうに生活の糧を稼ぐことすらできなかったけれど、私から逆プロポーズしたその日から何かが憑りついたんじゃないかと思うぐらい、懸命に生き始めたわよ」
お代わり飲んで、とティーポットから紅茶を僕のカップに淹れてくれる。
「今の室田君は当時の旦那に比べたら、遥かに先を行ってるよ。真面目だし、バンドもやってるし」
「え、でも、バンドで食っていける訳もないですよ」
お母さんの顔が真剣になる。
「誰もそんなこと期待してない。あなたが今、バンドをやってる、っていう生き様が大事だってことよ。少なくともあなたは今、バンドに自分の何かを注いでいる。それが私があなたに惚れたところよ」
‘あなたに惚れたところよ’という部分で、お母さんは、あ、しまった、という感じになる。僕もしばらく、無反応のまま、警戒心を深めじっと様子を窺う。
「あの、惚れたって言っても、紫帆があなたを好きだ、っていうのとは別の意味だからね。当たり前だけど。
紫帆があなたのバンドの動画を見せてくれたのよ。で、詩は室田君が書いんだよね?」
はい、そうです、と僕はまだ警戒しながら答える。
「ああ、この男の子ならいいな、って思った。こんな詩が書けるなら、紫帆の旦那さんとしてね。
何とかして一度室田君をおびき出して家に連れてきなさい、って私が紫帆に指示を出したのよ、実は。まさかこんなに早くのこのことやって来てくれるとは思わなかったけどね」
新井さんはそこまで思いつめた気持ちで犬の散歩をしていたのだろうか?
「将来室田君が出世するとか金持ちになるとか、そんなのはどうでもいい。あのバンドの演奏、曲、歌に室田君の全てが出てる、って思った。それでいて紫帆が室田君のことを好きだ、結婚したい、っていうんなら、私から何も言うことなんかない。うちには長男が居て後を継ぐ予定だから、紫帆はいくらでも嫁に上げるよ」
僕は気が付くと顔が真っ赤に火照っているのが分かった。まさか、新井さん本人じゃなく、お母さんから娘の‘逆プロポーズ’をされるとは思わなかった。
「今すぐに、とは言わないから、ゆっくり考えておいて。わたしは本気だよ。もちろん、紫帆も本気。それに、紫帆は結婚したらご両親と是非同居したい、って言ってるよ。
こんな魚逃したら、室田君もご両親もきっと10年後には後悔してると思うよ」