第38話 秋の調べ(その7)
丹羽先生は、いつものことだ、という感じで、会場のどよめきが収まるまで、ゆったりとした表情で待っていた。ようやくどよめきの声が収まり、「ほんとにきれいね」とか、「去年よりまたきれいになったな」とかいう囁きだけが聞こえるようになった状態で、丹羽先生は改めて咲の紹介を再開した。
「咲さんは、幼稚園の頃から私のレッスンを受けてきました。最初は嫌々だったですね。小学校に入っても、我慢して弾いている、っていう感じでした。
ですが、小学校5年生の時、突然、‘ベートーベンが弾きたい’と自分から言ってきたんです。
ベートーベンの伝記を読んだんだ、って言いました。ベートーベンは耳が聞こえなくなり、非常に屈折した性格となりながらも、音楽で人の心の扉を叩きたいんだ、と素晴らしい曲を幾つも残した。わたしは、とても共感するんだ、いや、他人事とは思えないんだ、とまで言って頼むんです」
先生は、そこで、一旦会場をゆっくり見渡す。そして、咲の方を見て優しくほほ笑んだ。
「わたしは、なぜ、咲さんがベートーベンの伝記に共感し、その曲を弾きたいと切望したのか、理由をよく知っています。咲さんは、その理由について、控え目にではありますが、当時、私に教えてくれました」
僕たち3人にも、分かる。咲の‘殴られ’は、当時、小学校5年生の女の子としては到底耐えられるレベルのものではなくなってしまっていたのだ。おそらく、小谷さんが話した、「小学校5年生の、しかも女の子がここまで残酷になれるのか」というのと同じものだったのだ。
「その理由については、皆さんにお話しすることはできません。でも、私自身も咲さんを何とかして救ってあげなくてはいけない、と真剣になりました。咲さんのご両親も大変苦しまれ、私達は、どうすれば咲さんを救えるのか、と話し合いました。でも、残念ながら、直接的な方法で咲さんを救う、という所までは踏み込めなかった。
私達ができたことは、咲さんに、ベートーベンの曲を完璧に弾かせてあげることだけでした」
おそらく、この話は、これまでの発表会でも話したことのない内容なのだろう。みんな、しん、と静まり返って聞いている。涙ぐんで聞いている年配の女性もいる。
「自分の生徒のことで何ですが・・・咲さんの演奏は、おそらく、普通に高校に通う女子高生の限られた練習量としては、最大限の完璧な演奏だろうと思います。
私ももう、年です。いつまで皆さんに教えられるか分かりません。最初は冗談で咲さんに、教室の跡を継いでくれませんか、と言っていましたが、そろそろそういうことを本気で考えなくてはならない年齢になってきました。
咲さんが弾くのは、ベートーベンの‘ピアノソナタ「悲愴」第一楽章’です。皆さん、最後までゆっくりとお聴きください」




