30話 穏やかな午後
――あれ。何でこんな所にいるんだろう。
真新しい白い壁紙に囲われた空間で座していた。
今は放課後、俺は美祈さんの家のトイレの中にいる。
「本当に久しぶりね、夏生」
水栓レバーを引き倒してトイレから出たところで、美祈さんが話しかけてきた。
「最近、来てくれないんだもん。すっごい寂しかったわ」
リビングのソファーに腰かけると、美祈さんも隣に座る。
それに釣られて俺の身体もぶかっとソファーに沈みこむ。
「今日はぽかぽかいい気分ね」
「うん……」
俺と、それから年の離れた親戚の姉貴分。ソファーで二人してくったりしている。
窓辺から見える午後の日差しと緑の庭の風景。こうしてゆっくり時を過ごしているとどこか昔に戻った気分になる。
美祈さんが高校生で俺がまだ小学校に入る前くらいの頃、親戚の家に遊びにいくといつもこんな風にベッドでのんびりしていたものだ。
俺は親戚のおじちゃん、つまり美祈さんの父親に買ってもらったおもちゃを見せて遊ぼうとする。すると美祈さんはめんどくさそうに起き上がって付き合ってくれたっけ。
「そう言えば、環季ちゃんは?」
美祈さんが気だるげな顔を向ける。
だけど、今は昔と違ってお互い成長している。こうやって近距離で話すのは少し恥ずかしかった。
「俺が赤坂と一緒に来るの、当たり前のように言わないでください」
「あはは」
冗談みたいなノリだけど、心は結構辛い。
結局、赤坂とはまともに会話もしないままだ。
「赤坂。なんか最近変なんです。俺が怒らせるような事言っちゃったかもしれない……」
驚く素振りもなく美祈さんは『あー』と声を漏らした。
「夏生って地雷踏むタイプだからね。短い恋だったねー」
「別にそんなんじゃ……」
「分かってる分かってる」
そんな風に言いながら美祈さんは身を起こす。その表情は相変わらず楽しそうだ。
だけど、俺の気持ちは暗い。思い出すのはこの前の遠足から今に至るまでの事。
「多分、赤坂と今迄みたいに話す事もないのかなって」
「何かあったの?」
美祈さんの顔がすぐ近くにある。長いまつげが瞬き、その瞳の中には今にも不安で潰れそうな俺の顔が映りこんでいる。
「実は……」
俺はこれまでの顛末を話す事にした。
♦ ♦ ♦
「なるほどねー」
遠足での河原でのやり取り。俺は誰かに笑われても仲良くできるなら平気だ、しかし赤坂はそういうのを許せない。頑なに自分の考え方を貫く、そんな意見が対立した話だ。
「ほんとお人好しだねー。環季ちゃんはそれが我慢できない感じ? 自分だけ見てよーって?」
「はあっ? 今までの話でそういう流れあった!?」
うんうんと納得したように聞いておきながら冗談きつい。
美祈さんは俺の肩を叩きながら、ごめんねと軽く謝った。
「ちょっと会わない間にいろいろな事があったのねぇ」
どこか感慨深そうに美祈さんは窓を見る。
「俺、学校だとこんなんじゃないんです。いっつも人の顔色窺ってる。でも赤坂といる時は今美祈さんと話してるように腹割って話せるんだ」
「環季ちゃんには素直になれるのに?」
「それは……」
確信を得たような美祈さんの言葉に俺は一瞬押し黙る。
「今の夏生。好きな子に振られて落ち込んでるみたいだよ」
「そんなわけないでしょ……」
別に、俺は赤坂に恋愛感情を抱いてるわけじゃない。
そりゃあ女子だし、触れそうな程に近い距離で話しているとたまに心臓が早まることはある。
けど、それは男子として当たり前の心理状態だろう。
「恋愛とはきっと違う。俺の隠したかった事、全部あいつにバレちゃってるから――」
学校の悩みから美祈さんのこの家のことまで、全部知られてしまっている。
だから、赤坂には吹っ切って相対できる。
「クラスの他の連中には知られたくないことももうあいつには知られてる。だから素になれるのかも」
赤坂みたいに他のクラスメートにもこんな風に自分をさらけ出すことができれば――でも、それを自らやろうとする気にはなれなかった。
「そんな俺を分かってる赤坂だと思ってたんだ。でもきっと俺が勝手に押し付けてるだけだったのかもな……」
「なつき」
まだぐちゃぐちゃしている。そんな俺に美祈さんがそっと近づく。
「大丈夫だよ」
気づけば、美祈さんが俺の手をぎゅっと握っていた。温かで柔らかな感触が伝わる。
「だって、夏生って自分に甘いけど……それと同じくらい人にも甘く出来る、そんな優しい子じゃない?」
優しげな顔を浮かべ、美祈さんの優しそうな目じりが細まる。
「そういう人ってこの世界にはすっごく少ないと思う――うん」
そして、一人納得したように頷く美祈さん。
「俺は別に――」
「夏生……」
美祈さんの綺麗な人差し指がそれ以上言おうとする俺の口の動きを止めた。
壁掛け時計の針の音と重なりながら。とくとく、鼓動が胸に響く。
「――ねえ、夏生。冬青に合格してくれて本当にありがとうね」
「え、受験? なんで」
何を話し出すかと思えば、今更受験の話か。不思議に思う俺を見て美祈さんは少し笑みを作った。
「こんな風に、たまにわがまま言って拗ねたり、かと思えば懐いて甘えてきたり。昔の素直ななっちゃんのままでいてくれて、やっぱりかわいいなあって。そう思うの」
美祈さんは俺の頭をぐっと寄せる。そして髪にかかる優しい感触。
「やめ――」
撫でられているんだ、これ。
「恥ずかしいからやめてって」
「やぁだ」
髪を滅茶苦茶にされながら俺は逃れようと必死にもがいた。
「ほんとやめ!」
ふと、その拘束が解かれる。
改めて見た美祈さんの表情はいつものゆったりしたものに戻っていた。
「夏生にとってここが落ち着ける場所なら私はそれでいいんだよね」
美しい横顔。亜麻色の髪がはらりと肩に落ちた。
「それで、また悩みがあったらお姉さんに全部ぶちまけちゃっていいんだよ?」
こちらを見る瞳がいたずらっぽく笑みを作った。
本当にこの姉は……
「……」
頭の中で色々な事が巡った。
高校受験だけの話じゃない。
例えば、美祈さんがこの界隈に新居を建てていなかったら。
例えば、たまたま俺が赤坂と校外で会っていなかったら。
今こうやって話していた事だって無かったかもしれない。下らないと悩んだまま、ずっと変われず炊事遠足も寂しく終えていたかも。
自分はこれからどうしたいんだろう。
ようやく楽しくなり始めたこの学校生活を――
「あのさ」
自然と心の声が漏れ出す。
「俺、もう一度赤坂と話してみる」
決意を口に出す。そうしないと意志の弱い俺は途中で挫けてしまいそうだったから。
「そうしなさい」
美祈さんはにっこりと微笑みながら、俺を応援してくれた。
「うわあ、いい夕焼けね」
玄関のドアを開くと沈みそうにないオレンジ色の塊が俺達を出迎えた。
もしかしたら、俺を元気づけようとしているのかもしれない。
「夏生達を見てると、私も冬青に通ってた頃を思い出すんだよね」
こちらを振り向いた美祈さんと目が合う。
新しい建材の匂い。芳香剤の石鹸みたいな香り。この空間は優しさと温かさで満ちている。
「だから、また二人でここに来てね」
そう言って美祈姉ちゃんは俺を見送ってくれた。




