9話 二人だけの昼下がり
目覚めた場所は教室ではなかった。
俺はベッドの上にいて、三方が白いカーテンで囲まれている。
もしかして、保健室?
「ん……」
額を覆う濡れた感触。手をやると体温ですっかり生暖かかくなったタオルだった。
「そうか。俺、あのままぶっ倒れて」
ハッとしてスマホを取り出すと、時刻はとっくに正午を過ぎていた。
俺は一時限目の途中からずっとここで寝ていたと言う事になる。
「起きた?」
勢いよくカーテンが開かれ、その先に立っていたのは赤坂だった。
俺が目を覚ますのを待っていたようだ。
「まさか、本当に朝ごはん抜きで来たの?」
「諫矢の言う通りにやっただけだ」
「馬鹿じゃない……ほら」
言いながら放物線を描かれ飛んできた物体をキャッチする。
手の中でくしゃっと音をさせて潰れたそれは購買で売られているジャムパンだった。
「いいの?」
「さっさと食べなよ」
俺は袋を開けてかじりつく。
パン生地は飾り気のない酵母の風味だけ。口の中の水分が一気に吸い取られる。でも、空腹感のせいか滅茶苦茶美味く感じた。
そう思った矢先、いちごの甘酸っぱさが口内に広がる。
「……!」
ジャムの酸味に夢中になりながら俺はあっという間に食べきった。
「ただの購買のパンだよ? そんなに幸せそうに食べられるなんて。ほんと羨ましい」
呆れ顔の赤坂。俺がパンを食べる様がそんなに美味しそうに見えたんだろうか。口調も表情も本心そのまんまだ。
「ここまでするなんて。トイレの悩みといい、一之瀬ってほんと全力だね」
「悪かったな。俺はくだらないことでも躍起になるんだよ」
自分の腹の為なら何だってする、それが俺なのだ。赤坂に見下されようがドン引きされようが、できる最善があるなら尽くすだけ。
「どうかした?」
「ううん。別に。そういう訳じゃないけど……」
尋ねると赤坂は険しい顔で俯いていた。
「何というか、一之瀬。あのさ」
「何だよ?」
口ごもる赤坂を急かすように問い詰めると、彼女の赤い瞳が一瞬揺れた――少なくとも俺にはそう見えた。
そして、次の瞬間。赤坂は思いもよらない行動を取ったのだ。
「こうなったの多分私のせいだ。ごめん」
頭を深く下げる赤坂。俺は呆然とそれを見ていた。
――何で?
そんな疑問が顔に出ていたのだろうか。頭を上げた赤坂は少し不満そうだった。
「だって、そうじゃない? 私がくだらない噂に拘ったりしなければ、一之瀬だってここまでしなかったでしょ?」
「……」
それでも俺は釈然としない気持ちだった。いつもの赤坂は俺を罵倒する言葉を雨あられみたいに飛ばして来るのに、ここでこうも素直に謝られると調子が狂う。
「わざわざ様子見に来たり、差し入れまで持ってきたり。赤坂ってもしかして優しい?」
「今頃気づいた? こう見えて私、された恩は絶対に忘れないタイプなの」
綺麗な指を胸に置き、何故か自慢げに語る赤坂。
どう見ても照れ隠しだこれ。
自然と笑顔がこみあげてくる。
「な、なによ」
「その通りだなって思っただけだよ」
「にやにやすんな」
むっとしながら俺に睨みを利かすけど全然怖くないもんね。
「おまけに執念深い」
「うっさいよ?」
壁の時計は昼の一時になったところだった。
試験期間は午前中で学校が終わる。本来なら赤坂も今頃は家で試験勉強をしている筈なのに。
「悪いな赤坂。謝るのは俺の方だ」
俺が立ち上がり言うと、赤坂はちょっと驚いた顔をしていた。
「何で一之瀬が謝んの」
「だって、俺なんかのせいで赤坂の貴重な勉強時間を無駄にしちゃったし」
答えながら窓を眺めた。広がる校庭は無人。遠くには山並みが薄っすらと見える。
「別にいいよ。それに明日は理系の科目が多いから楽勝だし。それより自分の心配したら?」
そう言って、俺の胸元を人差し指で小突いた。
「一之瀬、私より勉強できないでしょ?」
長い睫毛を瞬かせ、こちらを凝視する赤みがかった虹彩。その整った顔立ちを間近にすると鼓動が自然と早まる。
俺たちの間に何もないとは言っても赤坂は女子だ。俺にとって普通に緊張する存在なんだ。
なんとなく照れくさくて俺は視線を逸らした。
「ま、今日の分は追試確定だからな。切り替えていく」
このまま保健室にいてもどうにもならないと言い聞かせ、さっさと入り口に向かう。
赤坂もついてくる。
「駄目なら他の教科で高得点あげて汚名挽回するだけだ」
「……名誉挽回でしょ?」
――え?
赤坂は俺をまじまじと見ながら、これは侮蔑の目だと思った。
「汚名重ねてどうすんの。今日の現代文、普通に受けても赤点だったんじゃない?」
「悪かったな。国語力が足りない現代の若者で」
「明日のテスト、ちゃんと受けなよ」
扉に手を掛けたら赤坂がそんな風に言ってくる。
「分かってる。お前にあれだけ言われたらな」
「あと、ご飯もちゃんと食べなきゃだめだよ?」
「分かってるって。お前は俺のかーちゃんか」
「はいはい」
赤坂は言うが早いかさっさと行ってしまった。
俺はそれを見ながらしばらく立ち尽くしていた。
廊下の窓から微かに聞こえてくるのはスズメの鳴き声だった。
「帰ったら、試験勉強か」
腹に何を詰め込んでから勉強しようか。
消化にいい物が良い。明日も腹を壊すなんて事になったら最悪だ。
俺はそんな事を考えながら帰路についた。




