第6章 路地裏の追跡と真犯人の影
「待て! 止まるんだ!」
ワトスン先生の力強い声が、霧に濡れた路地裏に木霊した。
だが、前方を走る男は振り返りもせず、必死の形相でコートの裾をなびかせて石畳を蹴り続けている。
「ハァ、ハァ……っ! ロンドンの道、入り組みすぎだって……!」
僕——仁川快斗の足は、すでにパンパンに張り詰めていた。
現代のクッション性の高いスニーカーを履いていても、19世紀ロンドンの不均一な石畳は容赦なく足首に負担をかけてくる。冷たい空気を吸い込むたびに、気管支がキリキリと痛み、肺が焼けつくようだった。
「快斗、足止めてちゃダメ! 見失うわよ!」
隣を並走する星来は、意外なほどのガッツを見せていた。息を切らしながらも、パワーストーンや怪奇現象への好奇心が彼女を動かしているのか、その瞳は爛々(らんらん)と輝いている。
(くそっ……! なんで俺がこんな運動会みたいな真似をしなきゃいけないんだ!)
頭の中で愚痴が溢れ出す。
本当なら今頃、自分の部屋のベッドの上で、ぬくぬくと暖房に包まれながら、最新のRPGで隠しダンジョンを攻略しているはずだったのだ。コントローラーを握って指先を動かすだけで済む平和な世界。
それなのに、なぜ僕は100年以上前の見知らぬ街で、本物の犯罪者を相手に猛ダッシュしているんだろう。
『そこだ!』
前方を走っていたホームズのインバネス・コートが、まるで巨大な鳥の羽のように翻った。
ホームズは長身を活かした驚異的な歩幅で路地の角を曲がり、男の逃げ道を塞ぐように立ちはだかった。
「ひっ……!?」
追い詰められた男は悲鳴を上げ、急ブレーキをかけた。しかし、濡れた苔と馬糞が混ざり合った石畳に足を滑らせ、派手に転倒した。
「うわっ!」
「捕まえたぞ!」
ワトスン先生がすかさず駆け寄り、男の腕を後ろ手に取り押さえる。
男は小さく丸まり、「助けてくれ! 殺さないでくれ!」と半狂乱になって叫んだ。
「大丈夫ですか!? 危害を加えるつもりはありません!」
僕は慌てて膝をつき、男の前にしゃがみ込んだ。
近くで見ると、男は小さく縮こまり、全身を激しく震わせていた。帽子が脱げ落ち、露わになった顔立ちには、酷い怯えと疲弊の色が刻まれている。身なりはそれなりに整っているが、襟元は乱れ、目元には濃い隈が浮かんでいた。
『ふむ……』
ホームズが上空から冷ややかな視線を浴びせる。
『名前はジェームズ・ライダー。ホテル・コスモポリタンの給仕長だな?』
男——ライダーは、ビクッと身体を強張らせ、恐怖に満ちた目でホームズを見上げた。
「な、なぜ僕の名前を……!? 警察か!? 貴様らはスコットランドヤードの手先なのか!?」
『警察などに用はない。私はただの探偵……シャーロック・ホームズだ。そしてこちらはこちらはワトスン医師、そして未来から来た……いや、私の助手たちだよ』
ホームズは煙管を取り出し、カチリと火をつけた。紫煙が冬の冷気に溶けていく。
『つかぬことを訊くが、ライダー君。君は先ほど『アルファ・イン』の周辺をウロウロし、ガチョウの行方を必死に探していただろう?……ホテルから盗まれた『青い紅玉』を呑み込んだ、あのガチョウの仕入れ先をね』
「〜〜〜っ!?」
ライダーの顔から、一瞬にして血の気が引いた。土気色になった唇が、ガタガタと震え出す。
「な、何のことだ……! 僕は何も知らない! 宝石を盗んだのは、あの修理工のジョン・ホーナーだ! 警察も奴を犯人だと断定して逮捕したじゃないか!」
「嘘をついてるわ」
星来が冷ややかな声で言った。彼女は胸の前で腕を組み、冷酷なまでに冷静な瞳でライダ—を見下ろしている。
「本当に無実なら、探偵の姿を見ただけでそんなに逃げ回らないわ。それに、あなたのその服……内ポケットのあたりが妙に膨らんでるし、指先が石炭の煤で黒く汚れてる。ホテルの修理工に罪をなすりつけるために、わざと部屋の暖炉の格子を壊して彼を呼びつけたんでしょ?」
「な……ななな……!」
星来の容赦ない指摘に、ライダーは言葉を失った。
(星来のやつ、相変わらず鋭いな……)
僕は感心すると同時に、目の前で地直に丸まっているライダーの「震え」に目を奪われていた。
彼の手は、寒さからではなく、取り返しのつかないことをしてしまったという「底なしの恐怖」で震えている。
汗と涙で汚れた顔。罠にかかった小動物のように、虚空を泳ぐ瞳。
(この人……根っからの悪党じゃないんだ)
僕の胸の中に、妙な感情が芽生えた。
観察眼でも、推理力でもない。相手の表情の微小な翳りや、呼吸の乱れから、その内面にある「追い詰められた孤独」を嫌でも察してしまう、僕のいつもの癖。
僕はずっと、この「人の気持ちばかり気にして足が止まる」自分の性格が嫌いだった。父さんみたいな強い情熱もなく、星来みたいなマイペースさもない、中途半端な欠点だと思っていた。
でも——今、この男の恐怖が、痛いほど僕に伝わってくる。
「……ライダーさん」
僕は静かに口を開いた。
「もう誤魔化すのはやめなよ。……すごく怖かったんだろ?」
「え……?」
ライダーが驚いたように僕を見上げた。
「盗むつもりなんて、最初はなかったんじゃないかな。あまりにも高価な宝石が目の前にあって、魔が差してポケットに入れてしまった。でも、警察が動き出してお手上げになって、捕まるのが怖くて……妹さんの家に逃げ込んで、ガチョウの中に宝石を隠した」
「な、なぜ……それを……!?」
「顔を見れば分かるよ」
僕は溜め息をつき、膝を叩いた。
「あんた、宝石を盗んで大金持ちになりたかったわけじゃないんだろ。ただ、日々の生活の惨めさから逃げたくて、衝動的にやっちゃったんだ。でも、いざ盗んだら罪悪感と恐怖で生きた心地がしなくて……本当は、今すぐ全部無かったことにしたいんだろ?」
「う……うあああああっ!」
僕の言葉が引き金となったように、ライダーはその場に伏し、石畳に額を擦り付けて慟哭した。
「そうだ! その通りだ小僧! 僕が悪かった! 妹の家でガチョウの中に石を押し込んだんだが、どれが石を呑んだガチョウか分からなくなって……っ! 恐怖で狂いそうだったんだ! 頼む、警察に渡さないでくれ! 僕は刑務所に入ったら生きていけない! 助けてくれえええっ!」
惨めな男の叫び声が、路地裏に虚しく響き渡る。
ワトスン先生が複雑な表情で「ホームズ、どうする?」と問いかけた。
ホームズは深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
その灰色の瞳は、涙を流すライダーではなく、隣に立つ僕——快斗を静かに見つめていた。
『……ふむ。見事だな、快斗』
「え……?」
『私は容疑者の矛盾と証拠を詰め詰めて追い詰めるのが得意だが、君は言葉の端々から犯人の『心のヒビ』を読み取り、自白させた。……観察眼とは、何も現場の痕跡(足跡や煙草の灰)を見ることだけではない。人間の『感情』を正確に観察することもまた、立派な知性なのだよ』
「感情の……観察……」
父さんの言葉が、再び脳裏をよぎる。
『快斗、ホームズの観察眼を見習え』
父さんは僕に「完璧な推理力」を求めているのだと思っていた。
でも、僕が持っていた「他人の顔色や孤独に気づいてしまう気弱さ」は、見方を変えれば、僕だけの「観察眼」だったのだ。
名探偵ホームズが、僕のその泥臭い「強み」を認めてくれた。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
その時だった。
僕のポケットの中で、「青いガーネット」がこれまでにないほど強く、脈打つような濃厚な青い光を放ち始めた!
「あ……! 石が……!」
光は僕の手のひらを透過し、路地裏の霧を青く染め上げていく。
同時に、ライダーが盗み出した本物の『青い紅玉』も、ワトスン先生のポケット(ピーターソンのガチョウから取り出した宝石)の中で、共鳴するように激しく明滅し始めた。
『引き金が解けたようだな』
ホームズが、どこか満足そうに口元を緩めた。
『盗まれた青い紅玉の真実が暴かれ、君自身の『正解』……自分の価値に気づいた時、時空の扉が開く仕組みだったわけだ』
「現代へ……帰れるの!?」
星来が歓声を上げる。
僕たちの足元が、再びグニャりと歪み始めた。19世紀の石畳が遠のき、馬車やガス灯の景色が光の渦の中に溶けていく。
「ホームズさん! ワトスン先生!」
僕は光の中で、必死に手を振った。
「ありがとうございました! 俺……現代に帰っても、自分のペースで頑張ってみます!」
ホームズは鹿撃ち帽の庇に指をかけ、不敵にニヤリと笑った。
『さらばだ、未来の友人たちよ。……早く帰って、君の『本気のゲーム』を楽しみたまえ!』
光が僕たちの視界を完全に覆い尽くした。
馬の蹄の音も、冷たい冬の風も消え去り、僕たちは眩い光の奔流の中へと飲み込まれていった。




