第7章 靴下と名探偵、そして僕の正解
「……快斗! 快斗ってば!」
耳元で響く星来の声と、どこか人工的な機械の音で目が開いた。
「う……あ……」
頬に当たるのは、冷たく硬い石畳ではなく、柔らかくて温かい……ファストフード店のソファーの感覚。
視界を覆っていた深い霧とガス灯のオレンジ色は消え去り、頭上には眩しい蛍光灯の光が広がっていた。店内に流れるポップなBGMと、揚げ物の香ばしい匂いが鼻を突く。
「……ここ」
「駅前のマックよ! 帰ってきたのよ、現代に!」
星来が僕の肩を揺さぶりながら、自分のスマートフォンを突き出してきた。
画面の右上には『5G』の文字と、今日の日付、そして『17:15』という時刻が表示されている。
「17時15分……!? タイムスリップする前と、10分くらいしか経ってない……!?」
「そうみたい! ロンドンで半日以上過ごしたのに、こっちの時間はずっと止まってたみたいね」
僕が慌ててズボンの右ポケットに手を突っ込むと、そこにはあの「青いガーネット」が静かに転がっていた。
もう先ほどのような濃厚な光は放っておらず、ただの綺麗な青い石に戻っている。だけど、触れるとほんのりと温かく、1888年のロンドンの冷気と名探偵の面影を僕に思い出させた。
「はあ……助かった……」
僕はソファーの背もたれに深く体重を預け、長い息を吐き出した。
信じられないような冒険だった。だけど、手元のスマホも、冷めた缶ココアも、ポケットの青い石も、全部が「あの体験は夢じゃなかった」と告げている。
「さ、快斗! 奇跡的にサーバーオープンに間に合ったんだから、急いで帰りなさい!」
星来がいたずらっぽく笑いながら、僕の背中をポンと強く叩いた。
「うん……! ありがとう、星来!」
僕はカバンを担ぎ、駅前のスクランブル交差点を走った。
夕暮れ時の街並み。行き交う人々、車の走行音、ビルの街頭ディスプレイ。
さっきまでは目に見えないプレッシャーのように感じていた「現代の景色」が、今は愛おしくてたまらない。
「ただいまー!」
勢いよく我が家の玄関を開けると、廊下の奥から母さん——麻子の声が聞こえてきた。
「おかえり快斗。ずいぶん元気な声ね。……あ、ちょうどいいところに来たわ。快斗からもお父さんに言ってちょうだい!」
「え?」
リビングの扉をくぐると、そこにはスーツ姿の父さん——仁川真司が、困り顔で頭を掻きながら立っていた。探偵事務所での仕事を終えて帰宅したばかりのようだ。
そしてその足元には、脱ぎ捨てられた黒い靴下が転がっていた。
「ちょっと真司さん! 探偵事務所から帰ってくるなり、また靴下脱ぎっぱなし! 脱ぐならちゃんと裏返しを直して脱衣籠に入れてって、いつも言ってるでしょ!」
「あ、ああ、ごめん麻子……! 今日受けてきた浮気調査の報告書を頭の中で整理してたら、つい脱ぎ散らかしちゃって……」
「報告書は結構だけど、自分の脱いだ足元くらい自分で手繰り寄せなさい! ホームズさんだってワトスン先生に呆れられてたかもしれないわよ?」
「うっ……プロの探偵としてぐうの音も出ない……」
父さんは情けない顔をして、腰をかがめて靴下を拾い上げている。
仕事場では鋭い観察眼で依頼人の調査をする「プロの探偵」。
家ではシャーロック・ホームズを神様のように熱く語る「すごいお父さん」。
だけど——今の僕の目には、その背中がどこか小さく、完璧とは程遠い「ただの人間」として映っていた。
ロンドンで見た本物のホームズだって、部屋を書類とタバコの煙で散らかし、アイリーン・アドラーに一杯食わされて落ち込んでいた。
どれだけ凄い大人だって、憧れのヒーローだって、完璧な人間なんてどこにもいないんだ。
胸の奥にずっとあった重苦しいプレッシャーが、フッと風に吹き飛ばされるように消えていく。
「父さん」
僕が声をかけると、真司が靴下を手に持ったまま振り向いた。
「父さん、いくら名探偵でも、家庭内の事件は母さんのほうが一枚上手みたいだね」
「か、快斗!? お前、いつからそこに……って、なんだ?」
父さんは僕の顔をじっと見つめ、驚いたように目を丸くした。
「なんだか今日の快斗は、随分とすっきりした良い顔をしているな」
「そう? 別に普通だよ」
僕は笑って誤魔化し、自分の部屋へと続く階段を上り始めた。
「あ、そうだ父さん」
階段の途中で振り返り、僕はニヤリと笑ってみせた。
「ホームズさんだって、部屋の片付けはハドスン夫人に怒られてたと思うよ。ワトスン先生も呆れてたし」
「な、なんだって……!? 快斗、お前 ホームズの生活実態について何か新しい論文でも読んだのか!?」
背後で大騒ぎし始める父さんの声を聞きながら、僕は自分の部屋のドアを開けた。
デスクの上のパソコンを立ち上げ、ゲームの起動ボタンを押す。
画面には『アルカディア・オンライン』の豪華なタイトルロゴが映し出された。
将来の夢なんて、まだ分からない。
どんな大人になるのかも、どの高校を目指すのかも、今の僕には白紙のままだ。
親の期待や世間のモノサシに焦る日も、きっと明日になればまたやってくる。
でも、それでいいんだ。
完璧な大人なんていない。みんな泥臭く、悩みながら生きている。
(僕の『正解』は、僕が決めればいい)
ポケットの中の青いガーネットにそっと触れ、僕はコントローラーを強く握りしめた。
画面の中で、僕だけの新しい冒険が、静かに幕を開けた。
読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、シャーロック・ホームズ未来からの依頼人ー麻子と真司の時空旅行ー一連のシリーズの麻子と真司の息子の快斗と、2人の親友の立花公平とはるか夫婦の娘の星来の物語です。
2026年中学1年生の快斗と星来は日常がつまらなく、特に快斗は父の真司と比べて無気力になっていました。星来はパワーストーンなどの不思議にハマり…
そんな2人がホームズやワトソンと出会ったらどんな物語が生まれるかな?と思いました。
日常がどんなにつまらなくても生きていますからね。
マイペースで楽しみを見つけてください。
◇ ◇ ◇
次回からは、
正解のシナリオを破り捨てたら
を投稿します。
女子同士の人間関係につまづき正解やシナリオどうりに発言しようとする女子中学生の水野 朱梨と同じクラスの人気者男子の大地直の物語です。あの爽やか人気者男子の大地直の意外な一面が……




