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快斗と青いガーネット〜ホームズへの切符〜  作者: 村松希美


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第5章 凍てつく街とガチョウの足跡




「うぅ、寒い……! ロンドンの冬って、こんなに身に沁みるのかよ……」

ベーカー街221Bの重い扉を押し開けた瞬間、僕は思わず肩をすくめ、吐く息の白さに驚いた。


1888年のロンドン、12月下旬。

霧は前日よりもさらに深く立ち込め、街全体が巨大な氷室(ひむろ)に閉じ込められたかのようだ。石畳は薄氷に覆われて濡れた黒真珠のように光り、通りを行き交う人々は皆、エリを立てて俯き加減に足早に立ち去っていく。


「快斗(かいと)、マフラーちゃんと巻きなさいよ。風邪引くわよ」

星来(せいら)が僕の首元にウール調のチェック柄マフラーをキュッと巻き直してくれた。ハドスン夫人が「寒そうだから持っていきなさい」と貸してくれたものだ。


「ありがと……ってか星来、お前は平気なのかよ?」

「平気なわけないでショ! 現代のエアコンのありがたみが身に沁みるわ。でもね……見て、あの雰囲気!」

星来が指さした先では、ガス灯の橙色の光が濃霧に滲(にじ)み、遠くで馬車の鉄輪が石畳(いしだたみ)を叩(たた)く「カツン、カツン」という乾いた音が響いていた。まるでモノクロの洋画の世界にそのまま入り込んでしまったような幻想的な光景だ。


「不便で寒くて最悪だけど……本物の『ヴィクトリア朝の冬』の中にいるって思うと、ちょっとゾクゾクするじゃない?」


「俺は一刻も早くエアコンの効いた自分の部屋でゲームがしたいよ……」

僕がポケットの中で寒さに凍える手をギュッと握りしめると、指先に「青いガーネット」の硬く冷たい感触が触れた。石は静かに、けれど確かに、かすかな鼓動のように一定のリズムで温かさを発している。


『さあ、無駄話をしている暇はないぞ、諸君』

前を歩くホームズが、インバネス・コートの裾を風になびかせながら振り向いた。鹿撃ち帽の庇(ひさし)の下で、彼の灰色の瞳がギラギラと野心的な光を放っている。


『まずは『アルファ・イン』という居酒屋(パブ)へ向かう。そこが、今回の事件の最大の怪異——“ガチョウ”のルーツだからな』


「ガチョウ……?」

後ろからついてくるワトスン先生が、不思議そうに首をひねった。


「ホームズ、警察から聞き及んだ話では、ホテル・コスモポリタンで莫大な価値を持つ『青い紅玉(ガーネット)』が盗まれ、容疑者として修理工の男が逮捕されたはずだろう? なぜガチョウなんだい?」


『警察の見立てなど、穴だらけのザルと同じだよワトスン』

ホームズは歩みを止めず、ニヤリと不敵に笑った。


『今朝、使者のピーターソンが私の元へ持ち込んできた落とし物を覚えているかい? 路上で酔っ払いに絡まれていた男が落としていった、古い帽子と……一羽のまるまる太ったガチョウだ』


「ああ、ハドスン夫人に頼んで調理してもらおうとしていたやつだな」

『そうだ。だが、そのガチョウの胃袋を開けた料理人が、叫び声を上げて飛んできたのだよ。中から出てきたのは……なんと、ホテルから消えたはずの『青い紅玉』だったのだ!』

「な、なんだって……!?」ワトスン先生が驚愕の声を上げる。


隣で星来が「出た……!」と僕の腕をつねった。

「快斗、正典の『青い紅玉』の決め台詞よ! ガチョウの胃袋から宝石が出てくるあのシーン!」


(本物の事件の真っ最中なんだ……)

僕は鳥肌が立つのを感じた。


父さんの書斎で何度も見かけた事件。

ガチョウの胃袋から見つかった青いガーネット。そして、僕のポケットにある謎の青い石。

二つの石は、目に見えない糸で引き合っているかのように、僕が歩みを進めるたびにポケットの中で微かに熱を帯びていく。


「ホームズさん」僕は思わず声をかけた。「ガチョウの中に宝石があったなら、そのガチョウを落としていった男が犯人なんですか?」


『フフ、どう思うね? 快斗』

ホームズは足を緩め、横目で僕を見下ろした。

『君なら、自分が盗んだ数千ポンドの価値がある宝石を、わざわざガチョウに飲ませて持ち歩き、路上の喧嘩でうっかり落として逃げていくような間抜けな真似をするかい?』


「……ううん」僕はずっと考えていたことを口にした。

「もし僕が犯人なら、そんな目立つ持ち方はしないと思う。……むしろ、その男も『知らずにガチョウを持ち歩いていた被害者』なんじゃないかな。あるいは、誰かに押し付けられたか……」

僕の言葉を聞いた瞬間、ホームズの足がピタリと止まった。

彼はゆっくりと振り返り、じっと僕の顔を見つめた。


その視線の鋭さに、僕は「あ、余計なこと言っちゃったか……」と冷や汗をかいて後ずさりした。

だが、ホームズの口元が、ゆっくりと吊り上がっていった。


『……素晴らしい』

「え?」

『観察眼の鋭い探偵気取りの人間ほど、状況に惑わされて『落とした男=犯人』と決めつける。だが君は、人間の『焦り』や『弱さ』、その場の心理を自然に汲み取って推論を立てた。……実にいい着眼点だ、快斗』


「あ……」

胸の奥が、熱くなった。

僕は勉強ができるわけじゃない。探偵のような天才的な観察眼もない。


ただ、普段から周りの顔色ばかり気にして、「相手が何を考えているのか」「どうしてそんな行動をしたのか」を勝手に想像してしまう癖があっただけだ。

自分では「気弱で要領が悪い欠点」だと思っていたその共感力が、目の前の名探偵に「いい着眼点だ」と認められた。


(父さんの期待に応えるための知識じゃない……俺自身の感覚が、今、届いたんだ)


「さあ、着いたぞ」

ホームズが差し指した先には、木製の古い看板が風に揺れるパブ『アルファ・イン』の重い扉があった。店内からは、安酒の匂いと男たちのダミ声、暖炉の薪(まき)が爆ぜる暖かな空気が漏れ出している。


『あのガチョウは、この店の『ガチョウ・クラブ』で会員に配られたものだ。マスターに聞き込めば、ガチョウの仕入れ先が分かる』

ホームズが扉に手をかけた、その時だった。

パブの前の路地裏から、ガサリと物音がした。


薄暗い霧の奥から、襟を高く立て、目元を深く帽子で隠した背の低い男が、ビクビクと怯えた様子でパブの様子を伺っているのが見えた。

男の手は激しく震え、その視線は……パブの看板と、僕たちの立ち姿を交互に往復している。


「ホームズさん……あいつ……!」

僕が指さすより早く、男は僕たちと目が合うと、悲鳴のような息を呑んで脱兎のごとく路地の奥へと逃げ出した!


『追うぞ!』

ホームズの鋭い声が響く。

「待てよ! 逃げるなんて、怪しすぎるだろ!」

僕と星来、そしてワトスン先生は、石畳を蹴って、霧の立ち込めるロンドンの路地裏へと一斉に走り出した。


足元から伝わる冷たい石の感触。激しく打ち鳴らされる心臓の音。

現代で新作ゲームのサーバーオープンを待っていた時のワクワクとは違う、もっと泥臭く、もっと生々しい「命がけのゲーム」のプレッシャーが、僕の全身を駆け巡っていた。


「待てーっ!」

1888年のロンドン。

真犯人の影を追って、僕たちの足音が冬の街に高く響き渡った。










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