第4章 敗北のあとの名探偵
「……真司、だと?」
ベーカー街221Bの居間。暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが響く室内で、シャーロック・ホームズがヴァイオリンを奏でる手をぴたりと止めた。
哀愁を帯びた不協和音がすっと消え、彼は灰色の瞳をゆっくりと僕の方へと向けた。
『快斗、今何と言った? 君の父親の名前は……仁川真司(Shinji Nikawa)と言うのか?』
「え……? あ、はい。父さんの名前は真司ですけど……なんでホームズさんが父さんの名前を知ってるんですか?」
僕が困惑して聞き返すと、暖炉の脇でパイプに火をつけていたワトスン先生が「おお!」と声を上げた。
「ホームズ! あの時の彼か! 1886年の初夏、まさにこの部屋に突然現れた、あの奇妙な東洋人の子どもたちの……!」
「えっ……!?」
僕と星来の声が重なった。
「父さんと母さんが……ここに来たことがあるんですか!?」
思わず立ち上がった僕を、ホームズはヴァイオリンをソファーへ雑に放り投げながら、どこか苦笑混じりの目で見つめた。
『思い出したよ。2年ほど前のことだ。突然この部屋の真ん中に光と共に現れ、私を見るなり『本物のホームズさんだ!』と叫んで拝み倒してきた男の子がいた。隣にいた女の子の方も、感動のあまり目を白黒させて……未来からなんて言っていたし…、強烈な印象を残していったよ』
「し、真司叔父さんと麻子叔母さん……!」
星来が手をポンと打って、お腹を抱えて笑い始めた。
「やっぱり! 未来で『ホームズ推し』になる前に、本当に本人に会ってたんだ! だからあんなに家中にホームズグッズを飾ったり、熱っぽく語ったりしてたのね!」
(嘘だろ……父さんと母さん、本当にタイムスリップしてホームズに会ってたのかよ……!)
頭がクラクラしてきた。
父さんが昔から「ホームズは実在する」「あの観察眼は完璧な知性だ」と熱弁していたのは、単なるマニアの読書感想ではなく、本当に生身のホームズに会った感動の体験談だったのだ。
『あの男の子……真司は、私のことをまるで完璧な神かヒーローのように崇めていてね』
ホームズは暖炉の前の椅子に深く腰掛け、自嘲気味に口元を歪めた。
『『いつか息子が生まれたら、ホームズさんのような一度も失敗しない完璧な人間に育てたい』と熱く語っていたよ』
「……っ」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
父さんの言葉。家でのあの熱っぽい視線。
『快斗、ホームズの観察眼はすごいぞ。お前ももっと視野を広く持てば、自分の素晴らしい将来が見えてくるはずだ!』
(父さんは……俺が生まれる前から、俺に「完璧なホームズ」を重ねてたんだ……)
自分が何ひとつズバ抜けた才能を持たない中学生であること。父さんの期待に応えられない息息しさ。その元凶が、まさに目の前にいるこの「シャーロック・ホームズ」という男なのだと突きつけられた気がして、僕は視線を落とした。
「……悪かったですね。俺は天才でもないし、探偵の才能なんてこれっぽっちもない普通のヤツですよ」
僕は投げやりな声でつぶやいた。
「父さんみたいにホームズさんのファンでもないし、ここに来たかっていったら、ただ早く家に帰って今日発売の新作ゲームがやりたいだけなんです。父さんの期待なんて、最初から迷惑だったんですよ……」
自暴自棄な僕の言葉に、部屋がしんと静まり返った。
ワトスン先生が気まずそうに髭を撫で、星来が心配そうに僕の袖を引っ張る。
だが——ホームズは怒るでもなく、鼻で小さく笑った。
『完璧な人間、か……。真司も随分と買い被ってくれたものだな』
「え……?」
ホームズは壁に掛けられた一枚の女性の写真に視線を落とした。そこには、凛とした美しさと知性を湛えた女性——アイリーン・アドラーの姿があった。
『君の父親が会った頃の私は、確かに一度も事件で敗北したことがなかった。だがな、快斗。ほんの数ヶ月前……私は『ボヘミアの醜聞』と呼ばれる事件で、あの写真の女性に完全に出し抜かれ、見事な敗北を喫したのだよ』
「ホームズさんが……負けた……!?」
『そうだ』
ホームズは淡々と言い放った。
『私の観察眼も完璧ではない。見落としもするし、判断を誤ることもある。部屋は散らかしっぱなしだし、事件がない日は退屈で死にそうになる……ただの欠陥だらけの一人の人間だ。……君の父親が夢見ているような『完璧な神様』など、この世のどこにも存在しないのさ』
ホームズの灰色の瞳が、まっすぐに僕を射抜いた。
『他人の勝手な期待や、世間が作った『完璧なヒーロー像』に自分を当てはめるな。君が今、泥臭く『帰ってゲームがしたい』と切望しているその素直な情熱……それこそが、君自身の『正解』ではないのかい?』
ホームズの言葉が、冷たい風のように僕の胸を吹き抜けた。
(この人は……父さんの知ってる『完璧な神様』じゃない。失敗して、負けて、自分の弱さを知っている……一人の『生身の大人』なんだ)
父さんが崇めていた壁が、ガラガラと崩れ落ちていく感覚がした。
完璧じゃなくていい。失敗してもいい。大人はみんな、完璧な存在なんかじゃないんだ。
肩の力が、すーっと抜けていくのが分かった。
「……ホームズさん」僕が呟くと、彼はニヤリと不敵に笑って立ち上がった。
『さて、しんみりした話はここまでだ。快斗、星来。君たちの持つその『青いガーネット』だが……』
ホームズはテーブルの上の青い石を指さした。
『ちょうど今、ロンドンの街で『青い紅玉』と呼ばれる超高価な宝石が盗まれる事件が発生した。警察はすでに容疑者を逮捕したようだが……私はあの捜査に重大な見落としがあると踏んでいる』
「盗まれた青いガーネット……! 原作の『青い紅玉』事件だわ!」星来が目を輝かせる。
『この二つの石が共鳴している以上、その盗難事件の真実を暴くことこそが、君たちが現代へ帰るための『引き金』になるはずだ』
ホームズはインバネス・コートを羽織り、鹿撃ち帽をかぶった。
『どうだね、快斗。君の『ゲーム』を再開させるために、1888年のロンドンで、私と一緒に本物の事件をプレイしてみる気はないか?』
ホームズから差し出された手。
それは、完璧な英雄の手ではなく、失敗を知り、自分の「好き」を泥臭く突き詰める一人の男の手だった。
僕は深く息を吐き出し、胸の中のモヤモヤを全て吐き出した。
(父さんの期待に応えるためじゃない。誰かに評価されるためでもない)
(俺が、俺の『今日』を取り戻すために——)
「……いいですよ。付き合います」
僕はホームズの手を強く握り返した。
『ボヘミアの醜聞』を経て人間味を増した名探偵と共に、僕たちの19世紀ロンドンでの本格的な冒査が、いよいよ幕を開けた。




