第3章 ベイカー街221Bとファン視点の狂騒
「……ちょっと待って。ホームズさん、僕たちの服をそんなに見ないでください」
僕は思わず両手を胸の前で交差し、一歩引き下がった。
ベイカー街の路上。薄暗いガス灯の光の下で、シャーロック・ホームズと名乗る男は、まるで珍しい昆虫でも観察するかのように僕と星来をじろじろと見回していた。彼の灰色の瞳は恐ろしいほど鋭く、光を反射する刃物みたいだ。
『ふむ……布地の繊維が実に緻密だ。縫い目も手縫いではない。機械による極めて均一なステッチ……それに、君たちが履いているそのゴム底の靴は何だ? 泥のつき方からして、ロンドンのいかなる舗装道路も歩いていない。……君たち、一体どこから来た?』
「ひ……っ」
息が詰まる。父さんの本棚にあった『名探偵ホームズ』の挿絵そのままの姿だが、目の前にいる男の圧倒的な圧迫感は、本の中のイラストとは比べものにならない。パイプからくゆり立つ強いタバコの煙と、石炭の匂い。この男は間違いなく、生きている。
「ホームズ、急に子供を怖がらせるんじゃない」
後ろから歩み寄ってきたのは、口髭を蓄えた温厚そうな紳士——ジョン・H・ワトスン医師だった。
『怖がらせてなどいないよ、ワトスン。単に観察しているだけだ。この寒空の下、こんな珍しい身なりの東洋人の子ども二人が、ベイカー街のど真ん中にポツンと立っている。おまけに保護者もおらず、手に持っている小さな黒い板からは、理解しがたい電磁の匂いがする……。実に好奇心をそそるじゃないか』
ホームズはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。その笑顔は、どこか少年が新しいおもちゃを見つけた時のそれに似ていて、僕は背筋が寒くなった。
(この人……全然「正義の味方」みたいな顔してない。ただ、自分の『知りたい』って欲求だけで動いてる顔だ……!)
「あの、すみません!」
隣で星来がすっと一歩前に出た。彼女はいつものマイペースさを崩さず、むしろ目をキラキラと輝かせている。
「私たちは怪しい者じゃありません。……うーん、説明するのはすごく難しいんですけど、時空の歪みというか、パワーストーンの不思議な力で、遠い未来の日本からここに来ちゃったんです」
『未来……?』
ワトスンが驚いたように目を丸くした。
「おいおい、お嬢さん。おとぎ話の冗談にしては出来が過ぎるぞ。未来からタイムスリップしてきたなんて——」
『いや、ワトスン。一概に冗談と切り捨てるのは時期尚早だ』
ホームズが顎に手を当て、僕のポケットを指さした。
『その少年のポケットで輝いている青い石……あれはただの鉱物ではない。私がこれまで見てきたどんな宝石とも異なる、妙な波動を放っている。……それに、彼らが話している言葉を聞いてごらん』
「え?」とワトスンが耳をすませる。
『彼らは確かに東洋の言語を喋っているはずだ。口の動きが英語のそれとは全く違う。……だが、なぜか私の耳には、完璧な英国語として響いている。これは科学でも説明がつかない『現象』だ』
「翻訳機能……やっぱり、ホームズさんには見破られちゃうんだ」
星来は感心したように溜め息をついた。
「すごいわ、快斗。本物のシャーロック・ホームズよ! 歴史上の偉人であり、真司叔父さんや麻子叔母さんが死ぬほど愛している『推し』の原点! 本物が目の前にいて、私たちの話を聞いてるのよ!?」
「星来、大声出すなよ……!」
僕は冷や汗を拭った。
そうだ。家での父さんの姿が脳裏をよぎる。
父さん——仁川真司は、自室の書斎にホームズの大きなポスターを貼り、休日になれば『緋色の研究』や『四つの署名』の初版本を恭しく開き、「ホームズの観察眼こそ、人間が目指すべき最高の知性なんだ」と熱弁していた。
母さんの麻子だって、「真司さんが楽しそうに語るホームズのお話、私大好きなのよ」と嬉しそうに聞いていた。
二人にとって、シャーロック・ホームズは神様のような存在であり、人生のバイブルだ。
もし今、父さんと母さんがここにいたらどうなるだろう?
間違いなく失神するほど大興奮して、「本物のホームズ様だー!」とファン目線で握手を求め、サインをねだり、涙を流して感動するに違いない。
でも——
(俺は……全然感動できない)
僕はポケットの中の青いガーネットを強く握りしめた。
目の前にいるホームズは、父さんが崇めるような「神様」でも「完璧な英雄」でもない。ただの、癖の強い、偏屈そうで、人の私生活をズカズカと覗き込んでくる「嫌な感じの大人」だ。
「……あの、ホームズさん。僕たち、早く元の時代に帰りたいんです」
僕は振り絞るような声で言った。
「今日、どうしてもやりたいゲームがあるんです。予約して、今日のために嫌な勉強も耐えて、やっと遊べるはずだったんです! こんなネットも電気もない時代に閉じ込められたら困るんです!」
僕の切実な訴えに、ホームズは一瞬だけきょとんとした顔をした。
『ゲエム……? 子供の遊びのために、元の場所へ戻りたいと?』
「遊びじゃないです! 僕にとっては、今日を生きるための一番大事な理由なんです!」
思わず叫んでしまった僕を、ホームズは深く澄んだ灰色のアタッチメントのような瞳で見つめ返した。軽蔑するでもなく、笑うでもなく、ただじっと。
『……ふむ。理由はどうあれ、君たちが困窮しているのは事実のようだな』
ホームズはくるりと背を向け、インバネス・コートの裾を翻した。
『立ち話も何だ。外は霧が深くなってきた。ワトスン、二人を連れて上へ上がろう。温かい紅茶とハドスン夫人の焼いたスコーンくらいはある』
「え……いいんですか?」
星来が目を見開く。
『誤解するなよ、少年少女』
ホームズは階段を登りながら、振り返らずに言った。
『私は慈善事業で君たちを助けるわけではない。未来から来たという君たちの存在、そしてその青い石の謎……それが、私の知的好奇心を強烈に刺激しているからだ。言わば、私にとってもこれは極上の『パズル』なのだよ』
ギシギシと音を立てる木製の階段を登り、僕たちはベーカー街221Bの2階——あの有名な居間へと足を踏み入れた。
「うわぁ……!」
星来が思わず小さな歓声を上げた。
部屋の中は、歴史と骨董の宝庫だった。
壁際にずらりと並んだ古い革装の本、怪しげな薬品瓶が所狭しと置かれた化学実験用のテーブル、ペーパーナイフで暖炉の木枠に突き刺された大量の手紙、そして壁に弾丸で打ち抜かれた『VR(ヴィクトリア女王の頭文字)』の文字。
「すごい……! ガス灯の柔らかい光、本物の羊皮紙の匂い、手作りのアンティーク家具……! 現代のプラスチック製品にはない、圧倒的な『生の歴史』がここにあるわ!」
星来は目を輝かせ、部屋の調度品を一つひとつ愛おしそうに眺めている。現代の便利なスマホやネットがなくても、彼女はこの「古き良き骨董の世界」そのものを全身で楽しんでいるようだった。
一方、僕はといえば、部屋の乱雑さに引き気味だった。
「うわ……床に書類が散らかりっぱなしだ……」
足元には読み散らかされた新聞やメモ書きが散乱している。ソファーの上にはヴァイオリンが転がっており、テーブルの上には食べかけのパンくずと、薬品の実験で焦げた試験管がそのまま放置されていた。
(父さん……見せてあげたいよ、これが君の『神様』の部屋の実態だよ……)
父さんなら「これぞ名探偵の思考の跡だ!」と大興奮するのかもしれない。
でも、僕から見れば——ただの「片付けができない、だらしない大人の部屋」だった。
『さあ、そこに掛けたまえ』
ホームズはソファーの上のヴァイオリンを雑にどかすと、僕たちに座るよう促した。自分は暖炉の前のパイプ椅子に深く腰掛け、長い足を組む。
『さて、快斗と言ったな。君のその青いガーネットを見せてくれないか?』
「……はい」
僕はポケットから青い石を取り出し、テーブルの上に置いた。
ガス灯の光を受けて、石は深海のような深い濃紺の輝きを放っている。
ホームズは懐から虫眼鏡を取り出し、石に顔を近づけた。その表情は、先ほどまでの冷徹な雰囲気とは一変し、まるでクリスマスプレゼントを開ける子供のように無邪気で、爛々とした情熱に満ちあふれていた。
『素晴らしい……! 表面に微細なルーン文字のような刻印がある。だが、分子構造が通常のガーネットとは明らかに異なる。これは人工的に加工されたものか、あるいは……』
「ホームズさん」僕は思い切って尋ねた。「その石を使えば、僕たちは現代に帰れますか?」
ホームズは虫眼鏡を外し、僕をまっすぐに見つめた。
『引き金が解解れればな』
「引き金……?」
『ああ。この石は単なる置物ではない。何らかの条件——特定の『謎』が解明された時、あるいは所有者の強力な意志と同期した時に、時空の扉を開く構造になっているようだ。……そしてな、快斗』
ホームズは身を乗り出し、声を低くした。
『実にタイムリーなことに、今、このロンドンの街で……これと全く同じ形をした『青い宝石』を巡る事件が起きているのだよ』
「え……!?」
僕と星来は顔を見合わせた。
『伯爵夫人から盗まれた『青い紅玉』。警察はすでに容疑者を逮捕したと発表したが……私はあの事件の裏に、もっと奇妙な真実が隠されていると踏んでいる。そして、君たちが持ってきたその石は、間違いなくその事件と深く共鳴している』
ホームズはニヤリと唇の端を上げた。
『どうだね? 元の時代に帰りたいのだろう? ならば私につきあいたまえ。このロンドンの街を駆け巡り、盗まれた青い宝石の真実を暴くのだ。謎が解けた時……君たちの石も、再び帰り道を照らすはずだ』
「そんな……僕たちが事件の捜査に!?」
僕の叫び声が、ベーカー街221Bの部屋に虚しく響き渡った。
今日発売のゲームをやるために、早く家に帰りたかっただけなのに。
なぜ僕は、1888年のロンドンで、本物のシャーロック・ホームズと一緒に事件を追う羽目になっているんだろう?
暖炉の火がパチパチと音を立てて燃えていた。
僕たちの、あまりにも長くて奇妙な「19世紀の冒険」が、いよいよ本格的に動き出そうとしていた。




