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快斗と青いガーネット〜ホームズへの切符〜  作者: 村松希美


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第2章 霧の馬車と見知らぬ街角




「……う、あ……」


強烈な眩暈(めまい)が頭を揺さぶっていた。

耳の奥で、キィキィと金属が擦(す)れ合う高い音と、石畳(いしだたみ)を硬いものが規則正しく打ち鳴らす音が響いている。


パカパカ、パカパカと、聞き覚えのないその音は、商店街の喧噪(けんそう)とは似ても似つかないものだった。


喉(のど)が猛烈に乾いている。鼻腔(びこう)を突くのは、排気ガスの匂いでも、コンビニの揚げ物の匂いでもない。


石炭が燃える焦げ臭い煙と、雨上がりの湿った土、それから……どことなく馬の糞尿(ふんにょう)が混ざり合ったような、酷く生々しい匂い。


「快斗(かいと)……っ! 起きて、快斗!」

肩を激しく揺すられ、僕はゆっくりと目を開けた。

視界に飛び込んできたのは、街灯のLEDの光ではなく、揺らめく橙色の仄暗(ほのぐら)い灯り。そして、僕を見下ろしている星来(せいら)の焦り切った顔だった。


「星来……? ここ、どこだよ……。ゲームの発売日、もう過ぎちゃったか……?」

ぼんやりした頭で寝ぼけたことを言う僕に、星来は普段の落ち着きを完全に投げ打って、僕の腕を引っ張り上げた。


「ゲームどころじゃないわよ! 周りをよく見てみなさいってば!」

身体を起こし、手で目を擦りながら周囲を見回した瞬間、僕の思考は完全にフリーズした。


アスファルトの道路がない。

目の前に広がっていたのは、黒く濡(ぬ)れた平たい石が延々と敷き詰められた「石畳(いしだたみ)」の道だった。


街並みもおかしい。見慣れた雑居ビルやコンビニは影も形もなく、重厚な赤レンガや黒ずんだ石造りの古い建物が、どこまでも整然と立ち並んでいる。


頭上を見上げると、ぽつり、ぽつりと点在するのは、ガラス容器の中でゆらゆらと小さな炎を揺らす「ガス灯」だ。冷たい霧が街全体を覆(おお)い尽くし、遠くの景色を白く煙らせている。


そして何より——目の前の道路を、大きな車輪をつけた黒い箱のような乗り物が横切っていった。それを引いているのは、白い息を吐き出す二頭の「馬」だった。


「……は?」

僕の口から、間抜けな声が漏(も)れた。

「馬車……? ドラマの撮影セット……か?」

「そんなわけないでしょ! スマホを見てみなさいよ!」


星来が震える手でスマートフォンを突き出してきた。

画面の右手上方、いつもなら「4G」や「5G」の電波マークが表示されている場所には、冷酷なまでに『圏外』の文字が浮かんでいた。時計の表示も、狂ったように数字が滅茶苦茶に点滅している。


「電波が途切れてるだけじゃなくて、時間すら計測できてないの。それに……聞いて、あの音」

星来が指さす方角から、風に乗って鐘の音が聞こえてきた。

重厚で、どこか寂しげな、街全体に響き渡る低い金属音。


「これ……ビッグベンの鐘の音よ」

星来は声を潜め、ゴクリと唾(つば)を飲み込んだ。

「ビッグベンって……イギリスの? ロンドンの!?」

「そう。そして、このガス灯、舗装(ほそう)されていない石畳、街を行き交う人たちの服装……。シルクハットにロングコート、女性たちのあの長いドレス。どう見ても21世紀の日本じゃないわ」


僕はようやく、街を行き交う人々へ視線を向けた。

誰もが厚手のコートに身を包み、深々と帽子をかぶって歩いている。肌の色も、目の色も、髪の色も僕たちとは違う。すれ違う男たちが、見慣れない東洋人の子供二人を「なんだあいつらは」と言いたげに不審そうな目で見下ろしていた。

背筋に、氷を突きつけられたような寒気が走った。


「嘘だろ……。だって僕たち、さっきまで駅前の古物市にいて……」

自分のポケットに手を突っ込む。


指先に触れたのは、先ほど購入したばかりの、あの冷たく硬い「青いガーネット」だった。手のひらに取り出すと、石は先ほどの眩い光を失い、静かに深海のような青を宿して黙り込んでいる。


『明日の進路指導から逃げるために、いっそ19世紀のロンドンにでも吹き飛んじゃえばいいのにね。真司叔父さんたちが大好きなホームズの世界へさ』

さっき星来が口にした冗談が、頭の中で大音量で再生された。


「……まさか」僕の目が見開かれる。「あの石……本当にタイムスリップさせたのかよ!?」

「信じられないけど……そうとしか考えられないわ」

星来は青い石をじっと見つめ、驚きと同時に、どこか好奇心に満ちた瞳を輝かせた。


「パワーストーンの都市伝説で、時空を歪(ゆが)める鉱物の噂(うわさ)は聞発したことがあるけど……本当に実在するなんて。しかもこれ、19世紀のヴィクトリア朝ロンドンよ! 教科書や骨董市(こっとういち)でしか見たことがない本物の歴史の世界……!」


「興奮してる場合かよ星来!」

僕は叫びそうになる口を手で覆(おお)った。心臓が早鐘(はやがね)のように打っている。


「タイムスリップって……マジで言ってるのか!? 俺、今日発売のゲーム攻略しなきゃいけないんだぞ!? 予約して、放課後ずっと楽しみにしてて、やっとダウンロードしてプレイできるはずだったのに! なんでネットも電気もない100年以上前の外国に放り出されてんだよ!」

パニックになりそうな頭を抱え、僕は石畳の上にしゃがみ込んだ。


嫌だ。こんなの絶対に嫌だ。

将来の夢がないとか、父さんの無言のプレッシャーが息苦しいとか、勉強がどうとか、そんな悩みはどうでも良くなるくらい、今の僕は猛烈(もうれつ)に現代へ帰りたかった。


温かい我が家。母さんの作ってくれる夕飯。僕の部屋にある最新のゲーム機。

便利で、安全で、ボタン一つで何でも揃う21世紀の日本。


「帰りタイ……。今すぐ帰りタイんだよ僕は……っ!」

「落ち着きなさいよ快斗。騒いでも何も変わらないわ」

星来が僕の隣にしゃがみ込み、背中をポンと強く叩いた。


「痛っ……」

「よし、正気に戻ったわね。私だって驚いてるわよ。でもね、泣いても喚(わめ)いても、この石がもう一度作動してくれない限り、現代には戻れないの。……それに、見て」

星来が指さした先には、風に揺れる木製の看板があった。


そこには、掠れたペンキで『Baker Street』——ベイカー街、と書かれていた。


「ベイカー街……?」

「そう。真司叔父さんが口を酸っぱくして語っていた、あの聖地よ」


ベイカー街。


父さんが自宅の書斎で、ことあるごとに熱弁を振るっていた名前だ。


『快斗、シャーロック・ホームズとワトスン博士が住んでいたのはね、ベイカー街221Bという場所なんだ。いつか一緒に行こうな』


「……ベーカー街って、実在する通りなのか?」

「ええ。でもね、もし私たちが本当に『ホームズの物語が存在する世界』に飛んできたのだとしたら……」

星来の言葉を遮るように、前方から激しい馬車の走る音が近づいてきた。


二人乗り用の小さな馬車——キャブが、僕たちのすぐ手前でキキィッと鋭い音を立てて停止する。

馬車の扉(とびら)が開き、中から一人の紳士が降りてきた。


ツイードのインバネス・コートを羽織り、鹿撃(しかうち)ち帽をかぶった背の高い男。その顔立ちは刃物のように鋭く、深く澄んだ灰色のアタッチメントのような瞳が、冷たい霧を切り裂(さ)いて僕たちを捉(とら)えた。


その後ろから、体格の良い髭(ひげ)の紳士が「おいおい、そんなに急がなくても事件は逃げやしないよ、ホームズ」と言いながら降りてくる。

僕の息が止まった。


(……え?)

父さんの書斎に飾られていた絵画。何冊もの解説書で見た挿絵。


そして何より、父さんが「探偵」という仕事を目指すきっかけになった、あの伝説の男の姿が、目の前に「生身の人間」として立っていた。


「やあ、ワトスン。見ろごらん、こんな霧の深い夕暮れに、妙な服を着た東洋の子どもたちが迷い込んでいる」

鋭い男——ホームズが、煙管(キセル)をくわえたまま、僕たちを見下ろして低く笑った。


その声は、完璧な英語だった。

学校の授業で聞くような拙い英語ではなく、流れるような、けれど古風でハキハキとした19世紀の英国語。


(英語だ……! 何言ってるか全然分からない……!)

僕は青ざめた。当たり前だ。僕は英語の成績だって「中の上」……いや、「中の中」くらいなのだ。こんなネイティブの速い会話、聞き取れるわけがない。言語の壁という絶望が、タイムスリップの恐怖に追い打ちをかける。


その時だった。

僕のポケットの中で、青いガーネットがほんのりと温かさを取り戻した。

石から細い糸のような光の波動が立ち上り、僕と星来の耳元へと滑り込んでいく。


次の瞬間——

『……やあ、ワトスン。見ろごらん、こんな霧の深い夕暮れに、妙な服を着た東洋の子供たちが迷い込んでいる』

ホームズの口から出たはずの言葉が、僕の頭の中で、ハッキリとした日本語のニュアンスとして直接理解できた。


「え……?」

思わず声が出た。

「言葉が……わかる……?」

星来も目を見開いて、ポケットのあたりを押さえている。


「快斗、この石……ただのタイムスリップの鍵じゃないわ。私たちの言葉と、この時代の言葉をリアルタイムで『翻訳』してくれてる!」

「翻訳……!?」


『ふむ、実に興味深い』

ホームズが数歩踏み出し、僕たちの前で膝を折った。影が僕を覆(おお)い尽くす。


近くで見ると、彼の肌(はだ)にはうっすらとシワがあり、目元には疲労の影が差していた。完璧な物語のイラストではなく、確かに呼吸をし、生々しい体臭とタバコの匂いを漂わせている「人間」だ。


『君たちのその服の縫製(ほうせい)、見たことのない素材だな。それに、そこの少年……君のポケットから漏(も)れているその青い光は一体なんだい?』

ホームズの鋭い観察眼が、僕の右ポケットに固着した。

その視線は、まるで僕の心の中まで見透かしてくるようで、僕は思わず一歩後ずさった。


「く、現代に帰りタイ……」

僕は引きつった声で、絞り出すように呟いた。

「俺はただ……ゲームがしたかっただけなのに……なんでこんなことに……」


1888年のロンドン。霧が立ち込めるベーカー街の路上で。


僕と星来の、あまりにも理不尽で、あまりにも奇妙な冒険が、本格的に幕を開けた瞬間だった。







快斗と星来がホームズがいるロンドンにタイムスリップしましたね。


今回のタイムスリップは、ホームズ依頼人のタイム自転車ではなく、古物市で快斗が見つけた青いガーネットでした。真司たちよりも簡単にタイムスリップできました。


青いガーネットは、ホームズの正典(コナン・ドイルが書いたホームズ)の中のクリスマスの翌日12月26日の事件だったと思います。


その青いガーネットが時を超え国を越えて、日本にいる快斗の手に入りました。


まあ、フィクションですが。


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