梟雄伝 時逢乱世梟雄起 涿郡市井興大義 四段
初平四年、曹操が徐州の陶謙を攻めた。
曹操はこの頃、兗州を平定し、天子を許昌に迎えて中原の覇者としての地位を固めつつあった。彼は陶謙に対して服属と貢納を求めていたが、陶謙はこれに応じなかった。徐州は豊かな土地であり、陶謙は独立を保とうとしたのである。曹操は陶謙の態度を「不臣」と見なし、軍を動かした。曹操の目的は徐州の制圧と併合であり、その大軍による包囲と猛攻は、徐州の民と陶謙の心身を確実に疲弊させていった。
この時、劉備は公孫瓚のもとで平原相を務めていた。陶謙は曹操の猛攻に耐えかね、公孫瓚の下にいた田楷と劉備に救援を求めた。陶謙の使者が平原に駆け込んだのは、ある冬の夕暮れだった。使者は泥と雪にまみれ、馬も疲れ果てていた。
「劉使君、どうか徐州をお救いください。曹操の軍勢は容赦なく領内を荒らし、このままでは徐州の民が——」
使者はそこまで言って言葉を詰まらせた。劉備はその肩を抱き、静かに言った。
「わかった。すぐに行く」
劉備は自らの子分ども千余人と、幽州の烏桓族や雑胡の騎兵、さらに道中で集めた数千人の飢えた民衆を引き連れて、徐州へと向かった。
その軍勢は決して精鋭とは言えなかった。装備も粗末で、訓練も行き届いていない。幽州から連れてきた烏桓の騎兵たちは言葉も通じず、指示を出すのも一苦労だった。道中で拾った難民たちは武器すら持っておらず、棍棒や鍬を手にしただけの者も多かった。しかし、劉備という親分に率いられたその集団には、不思議な結束力があった。彼らは劉備の侠気に惹かれ、彼のためなら命を捨てても構わないと思っていた。
陶謙は劉備の器量を見抜き、丹陽の精鋭兵四千人を彼に加えた。丹陽兵は天下に名高い精兵であり、この厚遇は劉備に対する陶謙の期待の大きさを示していた。劉備は田楷の下を離れ、陶謙に帰属することにした。陶謙は彼を豫州刺史に上表し、朝廷に認められた。劉備は小沛に駐屯することとなった。
劉備にとって、これが初めての「自分の縄張り」であった。小沛は小さな城だったが、彼はここで本格的に侠客の親分から「一国の主」への転換を図ることになる。
豫州刺史としての劉備のもとには、徐々に人材が集まり始めた。陳紀という名士がおり、劉備は彼と交流を持った。陳紀は潁川の名族の出で、その子の陳羣はまだ若かったが、すでに並外れた見識を持っていた。陳羣が初めて劉備の前に現れた時、彼は弱冠二十歳そこそこだったが、その立ち居振る舞いはすでに老練の官僚のようだった。
「劉使君、私はあなたのお噂を聞いて参りました。侠客の親分として義理を通し、弱きを助ける——その生き方に感服しております」
劉備は陳羣の真摯な眼差しを見て、この若者をただの名門の子弟ではないと直感した。彼は陳羣を別駕従事に抜擢した。陳羣は後に魏の名臣として九品官人法を創始することになるが、この時は劉備の下でその才覚を磨いていた。
また、北海郡の人である孫乾も、この時期に劉備のもとに加わった。孫乾は当代の大儒・鄭玄の推薦を受けて劉備に仕官したのである。鄭玄は天下にその名を知られた学者であり、その鄭玄が推薦したという事実が、劉備の名声をさらに高めた。孫乾は劉備の幕僚として外交や内政に手腕を発揮し、後に蜀漢の創立を支えることになる。
この頃、同姓のため賓客として遇された劉琰や、後に劉備の精鋭部隊「白毦兵」の長を務めることになる陳到もまた、劉備のもとに身を寄せてきた。彼らは劉備の侠気に惹かれ、あるいは漢室復興という大義に共鳴し、この草鞋売りから身を起こした男のもとに集まったのである。
興平元年、陶謙が病に倒れた。
彼はすでに六十を過ぎ、曹操の侵攻による心労も重なって、床に伏すことが多くなっていた。陶謙は死の床で、別駕の糜竺に言い残した。
「この州を安んじられるのは、劉備をおいて他にない」
糜竺はその言葉を胸に刻み、涙をぬぐった。彼は陶謙の遺言を携えて、劉備のもとへと向かった。
しかし劉備は敢えて受けようとしなかった。彼は近くの寿春にいた袁術を指して、その家柄を持ち出し、州を譲るべきだと言った。
「袁公路は四世三公の名門の出だ。天下の人が頼りにしている。お前らは州を彼に渡すべきだ」
その言葉に、糜竺は驚いた顔を見せた。しかしすぐに、劉備の本心を見抜いたように静かに笑った。
「劉使君、あなたは本当にそうお考えですか。あなたはいつも、自分の器量を過小評価なさる。しかし私は知っております。あなたが平原で民のために尽くされたこと、侠客として弱きを助けてきたこと。徐州の民が必要としているのは、名門の看板ではなく、あなたのようなお方です」
陳登もまた、劉備を説得した。
「袁公路は驕り高ぶって贅沢三昧、乱れきった世の中を治めるような器じゃありません。今、使君のために歩兵と騎兵を合わせて十万を集め、上は主君を助け民を救い、下は地を割き境を守り、手柄を歴史に刻むことができます。もし使君がお聞き入れにならなければ、私も使君に従うことはできません」
当代随一の名士である孔融もまた、劉備を説得した。孔融は孔子の子孫を自称する名門の出であり、その言葉には重みがあった。
「袁公路なんて、国を憂え家を忘れるような人間でしょうか。墓の中の枯れ骨に過ぎません。今日の事態は、民衆が有能な者を求め、天が与えているのに取らなければ、後悔しても取り返しがつきません」
劉備は、ついに徐州を領した。彼にとって初めての「州」であった。喜びは大きかったが、同時に重責も大きかった。陳珪、陳登父子、糜竺、糜芳兄弟、孫乾、劉琰、陳到、陳羣といった有能な連中が彼の周りに集まった。陳珪は徐州の名士であり、その息子の陳登は若くして知謀に優れた逸材だった。
そして、この時、劉備は自らを「中山靖王の末裔」と称した。それは侠客の親分が、一国の主となるための、最後の「看板」だった。市井で培った義理と人情に、漢室の血脈という大義名分を加える。これで、自分は天下を志す者として、誰にも引けを取らなくなった。
建安元年、袁術が大軍を率いて徐州に侵攻した。劉備は関羽に下邳を守らせ、自らは盱眙と淮陰で袁術軍と対峙した。
戦いは一進一退の攻防が続いた。一月余り。その間、徐州の都・下邳で事件が起きた。下邳の守将だった曹豹が、張飛と揉め事を起こしたのである。曹豹は陶謙の旧臣で、張飛の粗暴な振る舞いに日頃から不満を募らせていた。ある日、酒の席で張飛が曹豹に無理矢理酒を勧め、断った曹豹を鞭で打ち据えた。これが決定的な亀裂となった。
曹豹は密かに呂布に内応した。呂布はこの頃、曹操に兗州を追われて流浪の身となり、徐州の劉備を頼って身を寄せていた。劉備は彼を小沛に駐屯させていたが、呂布は内心では徐州の支配権を狙っていた。
袁術はこの機を逃さず、呂布に莫大な賄賂を送り、劉備を背後から襲うよう唆した。呂布は下邳を奪う好機と見て、迷わず動いた。小沛にいた劉備の留守を突いて、下邳を急襲したのである。曹豹が城門を開き、呂布の軍勢はあっけなく下邳を占拠した。劉備の妻子もまた、呂布の手中に落ちた。
劉備は袁術との戦線を崩され、軍は瓦解した。彼は女房子供を置き去りにし、わずかな手勢を連れて海西へと逃げ延びた。この時、劉備は初めて自分の決断の甘さを呪った。呂布を信用したこと、留守を張飛に任せたこと、すべてが裏目に出た。侠客の親分としての「困っている者を見捨てない」という信条が、一国の主としては致命的な隙を生んだのである。
劉備は呂布に和睦を求めた。呂布は捕らえた劉備の妻子を返還し、彼を小沛に戻すことを許した。劉備は再び小沛に兵を集め、その数は瞬く間に一万余人にまで膨れ上がった。その勢いを危険視した呂布は、自ら出兵して劉備を攻撃した。劉備は大敗を喫し、妻子を再び失い、わずかな手勢を連れて、許昌の曹操の下へと逃げ込んだ。
曹操は劉備を厚遇した。豫州牧に任命し、兵糧を与え、兵を増やして、再び小沛に送り返した。それは呂布を討たせるための、曹操の巧妙な策略だった。しかし呂布は高順を派遣して、再び劉備を攻撃した。曹操は夏侯惇を救援に派遣したが、高順の前に敗れ、劉備は妻子を三度も失い、単身、曹操の下へと逃げ帰った。
曹操は自ら軍を率いて、呂布討伐に出陣した。劉備もこれに従った。下邳城は曹操軍に包囲され、水攻めにされた。城は陥落し、呂布は捕らえられた。
呂布が曹操に命乞いをした時、曹操が処刑をためらったという有名な逸話がある。曹操は呂布の勇猛さを惜しみ、帰順させるかどうか迷った。しかし劉備は「明公、呂布が丁建陽と董太師になしたことをお忘れですか」と一言。これで曹操の決断は固まり、呂布は絞首刑に処された。
呂布を滅ぼした劉備は、曹操に従って許昌へ帰還した。曹操は彼を左将軍に上表し、ますます礼遇を厚くした。外出する時は同じ車に乗り、座る時は同じ席に着く。
その夜、曹操の屋敷で酒宴が開かれた。庭の梅の実がまだ青く、青梅を塩で漬けたものが酒の肴として出された。小雨が降りしきる中、東屋には酒を煮る小さな炉が置かれ、青梅の香りが漂っている。曹操は杯を手に、劉備に言った。
「玄徳、お前はこの乱世で誰が英雄だと思う」
劉備は警戒した。曹操の目は笑っているが、その奥には試すような光があった。彼は慎重に言葉を選びながら、袁紹、袁術、劉表、孫堅らの名を挙げていった。曹操はそのすべてを一蹴した。
「袁紹は、色は厲しく胆は薄く、謀を好むも断に欠け、大事をなさんとするに身を惜しみ、小利を見ては命を忘れる。あれは英雄ではない」「袁術は墓中の枯骨に過ぎぬ」「劉表は虚名にして実なし」「孫堅は父の名を借るのみ」
劉備が困惑した顔をすると、曹操は自分の胸を指さし、それから劉備を指さした。
「天下の英雄とは、ただ君と操のみである」
その瞬間、劉備の手から箸が滑り落ちた。箸が床に当たる乾いた音が、静かな東屋に響く。ちょうどその時、空が一瞬光り、激しい雷鳴が轟いた。劉備は慌てて箸を拾い上げながら、苦笑いを浮かべた。
「聖人ですら雷鳴には顔色を変えると言います。ましてや私など、平然としてはいられませんよ」
曹操は笑った。しかしその目は笑っていなかった。劉備は内心で冷や汗をかいていた。曹操は自分を英雄と評した。それは最大級の賛辞でありながら、抹殺対象としての警告でもあったのだ。
許昌での日々は、劉備にとって決して安穏なものではなかった。曹操の厚遇は表向きは最大限の敬意だったが、それは同時に油断のならない監視でもあった。劉備は董承らと密かに連絡を取り合い、脱出の機会を窺っていた。
董承は献帝の外戚であり、曹操の専横に強い危機感を抱いていた。彼は献帝から密かに授かった「衣帯の詔」を根拠に、同志を集めて曹操打倒の計画を進めていた。劉備はこの計画に加わることを決断した。
しかし、計画は露見した。幸い劉備は、その前に許昌を離れる機会を得た。袁術の残党が徐州方面で蠢動しているという報せを受け、曹操の許可を得て討伐に向かうことができたのである。劉備はこの機を逃さず、許昌を脱出した。関羽と張飛も同行した。彼らは一路徐州へと向かい、下邳に到着すると、曹操の任命した徐州刺史・車冑を討ち取った。劉備は再び徐州に旗を揚げ、下邳を関羽に守らせ、自らは小沛に拠った。東海の昌覇が反旗を翻し、多くの郡県が曹操に背いて劉備に味方した。
曹操は劉岱と王忠を派遣して劉備を攻撃させたが、劉備はこれを打ち破った。
「てめェらが百人束になろうと、この劉備の首は取れねえ。曹操の旦那ご自身がお越しになるなら、話は別だがな」
曹操はついに自ら大軍を率いて徐州に向かった。曹操自身の姿を認めた劉備は、戦わずして逃走した。曹操の指揮の旗を見ただけで、勝負にならぬと悟ったのである。
劉備は敗れた。彼の軍は瞬く間に瓦解し、妻子は再び捕らえられ、関羽も曹操の軍に捕らわれた。劉備はただ一人、青州へと逃げ延びた。青州刺史の袁譚は、かつて劉備が茂才に推挙した人物で、歩兵と騎兵を率いて劉備を出迎えた。袁紹は部将を派遣して道中で劉備を迎えさせ、自らは鄴から二百里のところまで出向いて劉備と面会した。
関羽は下邳に留まり、劉備の妻子を守ろうとした。しかし曹操の包囲網は狭まり、ついに関羽は曹操に降伏した。曹操は関羽を偏将軍に任じ、漢寿亭侯に封じて手厚く遇した。しかし関羽の心は常に劉備のもとにあった。彼は後に曹操のもとを去り、千里の道を単騎で駆けて劉備のもとに戻ることになる。
張飛は下邳の戦いで行方不明となり、徐州の芒碭山に逃げ込んで山賊に身をやつした。かつての豪勇は影を潜め、彼は荒くれ者たちに紛れて息を殺して生きていた。後に彼は古城で劉備と再会することになるが、その日までの数ヶ月間、張飛は山中で賊徒の頭目として過ごした。
劉備、関羽、張飛。桃園で義兄弟の契りを結んだ三人は、この時、完全に離散した。しかし劉備は決して諦めなかった。必ず再び三人で天下に挑む日が来ると信じて、彼は雌伏の時を耐え続けた。
草鞋を編んでいた少年が旗揚げし、黄巾の乱を戦い、官職を擲ち、流浪の末に徐州牧となった。陳登や孔融の説得を受け、鄭玄の推薦で孫乾を迎え、陳羣を別駕従事に抜擢し、陳到や劉琰といった有能な人材が彼のもとに集まった。しかしその栄光は長くは続かず、彼は本拠地を失い、義兄弟と離散し、流浪の身に戻った。それでも劉備は歩みを止めなかった。
彼は、生涯、「我は中山靖王劉勝の末裔、劉備玄徳なり」と名乗り続けた。侠客の親分として、筋を通し、義理を重んじ、人々に親しまれてきた。それだけでは、この乱世は生き抜けない。今必要なのは、「大義」という名の看板である。彼は、その看板を決して手放さなかった。どんなに追い詰められ、どんなに嘲笑われても。
草鞋を編んでいた少年が、侠客の親分となり、天下の三分の一を治める皇帝になる。その物語は、まだ始まったばかりだった。




