外伝 曹袁対塁戦官渡 高順背後襲冀州 三段
許攸は袁紹の陣営を後にした時、一度だけ振り返った。広大な陣地には無数の篝火が揺らめき、十万の兵士たちの喧騒が風に乗って聞こえてくる。あの陣地の中に、自分の献策を退けた袁紹がいる。許攸は短く息を吐き、闇の中へと歩き出した。
袁紹を見限る決断に、長い時間は必要なかった。むしろ、なぜもっと早くそうしなかったのかと自問するほどだった。彼は若い頃、曹操や袁紹と共に洛陽で遊学した仲であり、二人の器量の違いは当時から明らかだった。袁紹は名門の出自を誇り、常に自分が中心でなければ気が済まない男だった。曹操は違った。身分の上下に関わらず、有能な者を素直に認める度量があった。その差が、今この戦場で決定的な形となって現れている。
曹操の陣営に近づくと、見張りの兵が鋭く声をかけた。許攸は名を名乗り、曹操への面会を求めた。しばらくして陣中から走り出てきたのは、なんと曹操自身だった。しかも裸足である。曹操は履物を履く暇も惜しみ、素足のまま土の上を駆けてきたのだ。
「子遠、よく来てくれた!」
曹操は許攸の手を両手で握りしめた。その手は温かく、そして微かに震えていた。許攸はこの時、自分の決断が間違っていなかったことを確信した。袁紹ならば、たとえ敵陣から寝返った者が来ても、決して自ら出迎えたりはしなかっただろう。
「孟徳、お前は相変わらずだな。裸足で出迎えるとは、昔と少しも変わらぬ」
許攸は苦笑しながら言った。曹操は笑って応じた。
「昔、お前と洛陽で酒を酌み交わした頃と、何も変わってはいないさ。さあ、中へ。今、酒を用意させる」
天幕の中に入ると、曹操は自ら酒を注ぎ、許攸に差し出した。許攸はその杯を受け取り、一口含んでから、ゆっくりと口を開いた。
「孟徳、今のお前の状況は最悪だろう。兵糧はあと何日持つ」
曹操は少しだけ沈黙し、それから静かに答えた。
「あと一月は持つ」
許攸は微かに笑った。
「嘘をつくな。お前の兵糧は、あと半月も持つまい。粥は湯のようになり、兵士たちの目は虚ろだ。それでもお前は退かぬのだな」
曹操は許攸の目をまっすぐに見つめた。嘘を見抜かれたことを恥じるでもなく、むしろその慧眼を喜ぶかのように、彼は小さく笑った。
「さすがは子遠だ。そうだ。あと半月も持たぬ。しかし私は退かぬ。退けばすべてが終わる」
「ならば、私が一つだけ教えてやる。お前を勝たせるための情報だ」
許攸は杯を置き、身を乗り出した。
「袁紹の莫大な兵糧は、すべて烏巣に集積されている。守備は淳于瓊。兵はわずか数千だ。しかも淳于瓊は酒に溺れ、夜は酔いつぶれているという。今、烏巣を襲えば、袁紹の軍は一日で崩壊する。孟徳、お前はこの機を逃すな」
曹操はしばらく沈黙した。烏巣は袁紹の陣営の奥深く、黄河北岸からさらに四十里も後方に位置する。襲撃に向かえば、途中で発見される危険が極めて高い。もし発見されれば、五千の兵は包囲され、全滅するだろう。しかし許攸の言葉が真実ならば、これこそが待ち望んだ「機」だった。
曹操の幕僚たちは、許攸の言葉に様々な反応を示した。程昱は慎重だった。
「丞相、罠の可能性があります。許攸が袁紹に命じられて、我々を誘い込もうとしているのかもしれませぬ」
曹洪も同調した。
「敵陣深くに入り込むのは危険すぎます。もし見つかれば、我々は包囲され、全滅します」
しかし荀攸だけは違った。彼は許攸の目をじっと見つめ、その言葉に嘘がないことを見抜いた。荀攸は曹操に向かって深く一礼し、静かに言った。
「丞相、これは機です。許攸殿の言葉に偽りはありません。烏巣を襲えば必ず勝てます。今、烏巣を襲わなければ、二度とこのような好機は訪れません」
曹操はしばらく考え込み、それから立ち上がった。彼は天幕の外に出て、夜空を見上げた。雲が月を隠し、あたりは深い闇に包まれている。風向きは北。これならば火を放てば、炎は一気に烏巣を包み込むだろう。曹操は天幕に戻り、全軍に烏巣への奇襲を命じた。
「私が自ら五千の精鋭を率いて烏巣を襲う。残りの兵は曹洪に預ける。決して陣を空にするな。私が戻るまで、必ず持ちこたえよ」
曹操は夜陰に乗じて出陣した。兵士たちは口に枚を含んで音を立てぬよう命じられ、馬の蹄には布が巻かれた。松明は厳禁。五千の兵士たちは、ただ星明りだけを頼りに闇の中を進んだ。曹操自身もまた、愛馬に跨がって先頭に立った。その手には松明もなく、ただ闇だけが彼の行く手を包んでいた。
袁紹の陣営の間を縫って進むのは、まさに針の穴を通すような難事だった。曹操は事前に許攸から聞いていた情報を頼りに、敵の見張りが手薄な場所を選んで進んだ。途中、何度か敵兵の気配が近づいたが、そのたびに全軍が息を潜め、闇に溶け込んだ。
烏巣に近づくにつれて、曹操の心臓は激しく鼓動した。もしこれが罠ならば、自分はここで死ぬ。しかし退くことはできなかった。退けばすべてが終わる。進むしかなかった。彼の背後では、五千の兵士たちが同じ思いで闇の中を進んでいた。
烏巣に到着した時、夜は最も深い刻限を迎えていた。曹操は烏巣の陣営を見渡した。篝火が揺らめき、見張りの兵たちが退屈そうに歩いている。淳于瓊の天幕は陣の中心にあり、その周囲には無数の糧倉が立ち並んでいた。莫大な兵糧が、無造作に積み上げられている。袁紹が数ヶ月かけて集めた十万の兵を養うための食料が、今ここにある。
「火を放て」
曹操の号令一下、五千の兵士たちが一斉に火を放った。松明が投げ込まれ、糧倉に火が燃え移る。炎は瞬く間に広がり、夜空を赤々と染め上げた。淳于瓊は酔いつぶれており、まともな指揮を執ることができなかった。守備兵たちは火の手に驚き、逃げ惑った。曹操は自ら剣を抜き、敵兵を斬り伏せながら陣中を駆け巡った。
烏巣の兵糧は完全に灰燼に帰した。莫大な量の粟、麦、干し肉、塩が、一晩のうちにすべて焼き尽くされたのである。曹操は烏巣を制圧すると、ただちに兵をまとめて官渡への帰還を開始した。彼の背後では、まだ炎が燃え続けていた。
烏巣炎上の報せは、夜明けと共に袁紹の本営にも届いた。最初に報せを聞いたのは沮授だった。彼は烏巣の方角から立ち昇る黒煙を見て、すべてを悟ったという。沮授はすぐさま袁紹の本営に駆けつけたが、袁紹はまだ寝台の上で側室とまどろんでいた。
「主公、烏巣が曹操に襲われました。兵糧はすべて焼かれました!」
袁紹は跳ね起きた。その顔からは血の気が引き、唇が震えている。
「なんということだ……淳于瓊は何をしていた!」
「淳于瓊は酒に溺れ、まともな防戦もできなかったとのことです。もはや一刻の猶予もありませぬ。全軍を退き、鄴城に戻って体勢を立て直すべきです」
しかし袁紹は沮授の進言を退けた。彼はすぐさま軍議を開き、今後の方針を協議した。集まったのは郭図、逢紀、辛評、そして張郃と高覧である。
郭図が口を開いた。
「烏巣はもう手遅れです。しかし曹操が烏巣に向かっている今、彼の本陣は手薄になっているはずです。この機に全軍で曹操の本陣を攻め落とせば、形勢は逆転します」
張郃が激しく反論した。
「なりませぬ! 烏巣の兵糧を失えば、軍は飢えて崩壊します。今すぐ全軍で烏巣に向かい、曹操を討つべきです。曹操を討てば、本陣など放っておいても勝手に降伏します」
郭図は冷笑した。
「張郃、お前は曹操が怖いのか。十倍の兵力を持ちながら、五千の敵を恐れるとは、名将の名が泣くぞ」
張郃は怒りに震えたが、必死に抑えた。彼は郭図の挑発に乗ることなく、淡々と自説を述べた。
「私は恐れているのではない。兵站を失った軍がどうなるかを知っているだけだ。郭図、お前は戦場で兵糧が尽きた経験があるか。兵士たちが草の根を食み、仲間の屍を漁り、それでも飢えに耐えきれずに逃げ出す光景を、お前は見たことがあるのか」
郭図は答えなかった。代わりに袁紹に向かって言った。
「主公、張郃は曹操に内通しているのかもしれませぬ。曹操の本陣を攻めることに反対するのは、曹操に恩を売るためではないか」
張郃は立ち上がったが、高覧がその腕を掴んで制した。袁紹は二人の論争を聞きながら、決断を下せずにいた。彼は張郃の言うことも正しいと思い、郭図の言うことももっともに聞こえた。結局、袁紹は最悪の折衷案を選択した。
「両方に兵を出す。張郃と高覧は本陣を攻めよ。蒋奇には烏巣の救援に向かわせる」
張郃は袁紹の決断を聞いて、深く嘆息した。兵力を分散させれば、どちらの作戦も失敗する。それはもはや戦術ではなく、自殺行為だった。しかし彼はもはや反論しなかった。袁紹の顔を見れば、何を言っても無駄だと悟ったからである。
結果は、張郃の恐れた通りになった。
張郃と高覧は曹操の本陣を攻めたが、曹洪が堅く守り抜いた。曹洪は曹操から「決して陣を空にするな」と厳命されていた。彼は全軍を陣地に籠もらせ、袁紹軍の攻撃を防ぎ続けた。張郃は幾度も突撃を仕掛けたが、曹洪の守りは堅く、ついに陣を抜くことはできなかった。
一方、蒋奇の救援隊は途中で曹操の伏兵に遭い、烏巣にたどり着くことすらできなかった。曹操は烏巣を襲撃する前に、あらかじめ伏兵を配置していたのである。蒋奇は伏兵の襲撃に遭い、軍は散り散りになった。烏巣の兵糧は完全に焼き尽くされ、袁紹軍の兵站は崩壊した。
袁紹の陣営は恐慌に陥った。兵糧がない。もはや明日の粥さえも保証されない。十万の兵士たちの間に、動揺が広がっていく。脱走兵が相次ぎ、部隊の統率は失われていった。
張郃と高覧は本陣に戻ると、郭図が自分たちの失敗を袁紹に讒言していることを知った。郭図は袁紹にこう言ったという。
「張郃と高覧は、曹操に内通しているからこそ、本陣を落とせなかったのです。烏巣が焼かれたのも、彼らが曹操に情報を流したからに違いありませぬ」
張郃と高覧はもはや耐えられなかった。自分たちは命を懸けて戦った。なのにその功績は讒言によって踏みにじられ、しかも自分たちを陥れた郭図こそが、烏巣救援を退けた張本人ではないか。二人は互いに顔を見合わせ、無言で頷いた。
その夜、張郃と高覧は軍を率いて曹操の陣営に向かった。城門の前で降伏を申し出ると、曹操は自ら門を開けて二人を迎え入れた。
「よく来てくれた。お前たちのような将を得られるとは、烏巣の兵糧を焼いた以上の収穫だ」
曹操は張郃を偏将軍に任じ、高覧にも厚く報いた。張郃は後に曹操の五将軍の一人に数えられる名将となり、数々の戦場で功績を挙げることになる。高覧もまた、曹操のもとで堅実な指揮官として活躍した。
烏巣炎上、張郃と高覧の投降。この二つの出来事は、袁紹軍の士気を完全に打ち砕いた。糧食を失った十万の兵は飢えに苦しみ、指揮官を失った部隊は統率を欠き、脱走兵が相次いだ。袁紹はもはや軍を維持することができず、全軍に撤退を命じた。しかし撤退はたちまち潰走に変わり、十万の大軍は無秩序に逃げ惑う烏合の衆と化した。
曹操はこの機を逃さず、全軍に追撃を命じた。袁紹軍は黄河を渡って敗走し、多くの将兵が溺れ死んだ。黄河の流れは、袁紹軍の将兵の血で赤く染まったという。十万の威容を誇った河北の巨人は、わずか八百の兵とともに鄴城へと逃げ帰るのが精一杯だった。袁紹は敗走の途上、沮授を伴うことができず、沮授は曹操の捕虜となった。田豊は獄中に残されたまま、袁紹に見捨てられた。袁紹は後に田豊を殺したという。自分の敗北を予言した男の顔を、二度と見たくなかったからだ。
官渡の決戦は、曹操の完勝に終わった。十倍という絶望的な兵力差を覆したのは、荀彧の励ましと、許攸の寝返りと、曹操の決断力だった。荀彧が許昌から送った「耐え抜けば必ず奇策を講じる機が訪れる」という言葉。許攸がもたらした烏巣の情報。そして曹操がその情報を信じ、自ら五千の精鋭を率いて敵陣深くに突入した決断。これら三つが揃わなければ、官渡の勝利はありえなかった。
戦後、曹操は許攸を手厚く遇した。しかし許攸は次第に傲慢になり、曹操の前でも「孟徳」と呼び捨てにし、酒宴の席で「お前が今ここにいるのは、すべて私のおかげだ」と言い放つようになった。曹操は表向き笑って許したが、内心では不快感を募らせていた。後に許攸は曹操の怒りを買って処刑されることになるのだが、それはまた別の話である。
曹操は張郃を重用し、荀彧に深く感謝した。しかし彼は決して勝利に酔わなかった。まだ袁紹は鄴城に健在であり、河北にはなおも広大な領地が残っている。袁紹の三人の息子たち——袁譚、袁煕、袁尚もまた、それぞれに勢力を保っていた。戦いはこれからも続くのである。
遠く并州でこの報せを聞いた高順は、賈詡と共に地図を前にしていた。官渡の決戦は終わった。曹操は十倍の敵を破り、中原の覇者としての地位を確固たるものにした。しかし高順にはわかっていた。これは終わりではなく、新たな始まりに過ぎない。曹操はこれから河北を平定し、やがて天下を統一しようとするだろう。その時、自分は曹操とどのように向き合うのか。
「曹操は勝った。十倍の敵を相手に、よくぞ持ちこたえたものだ」
賈詡は微かに笑った。
「将軍は曹操をどう思われますか」
「恐ろしい男だ。しかし同時に、この乱世で最も信頼できる男でもある。冀州の過半は我々が押さえた。曹操は官渡で袁紹を破った。袁紹はもはや長くは持つまい。次の一手を考えねばならぬ」
高順は窓の外を見た。夏の陽が、晋陽の街を照らしている。天下を巡る戦いは、まだ始まったばかりだった。




