外伝 曹袁対塁戦官渡 高順背後襲冀州 四段
烏巣の空を焦がす黒煙は、夜が明けても消えることはなかった。
袁紹の本営には、凶報が次々と飛び込んでくる。淳于瓊は討たれ、莫大な兵糧は灰燼に帰した。蒋奇の救援隊は曹操の伏兵に阻まれ、烏巣にたどり着くことすらできなかった。呂威璜、韓莒子、眭元進といった烏巣の守将たちもまた、曹操の精鋭の前に次々と討ち取られ、烏巣は完全に制圧された。失われた兵糧は十万の軍勢を数ヶ月養えるだけの膨大な量であり、その喪失は袁紹軍の命運を決定的に断ち切るものだった。
沮授は最後の進言を試みた。彼は袁紹の幕僚の中でも最も冷静で、最も戦略眼に優れた男だったが、その献策が容れられたことはほとんどなかった。彼は陣中で孤立し、同僚の郭図や逢紀からは疎まれていた。しかしこの時ばかりは袁紹に直言せざるを得なかった。
「主公、もはや一刻の猶予もありませぬ。曹操は烏巣を焼き、勢いに乗じております。これ以上ここに留まれば、軍は飢え、やがて自壊するでしょう。全軍を挙げて黄河を渡り、鄴城に戻るべきです。高順が冀州の過半を制圧した今、我々の退路は限られております。しかし幸い、黄河の渡しはまだ我々の手中にあります。今ならば渡れます。今を逃せば、渡河点すら失うことになりましょう」
袁紹はこの言葉にしばらく沈黙し、それから重々しく頷いた。
「全軍に撤退を命じよ。鄴城に戻る」
しかしその決断は、すでに手遅れだった。撤退命令が十万の将兵に伝わるまでに、さらに混乱が広がった。袁紹の軍は烏巣炎上の報せによってすでに統率を失い、命令系統は麻痺していた。命令を受けた部隊は我先に逃げ出し、命令を受けていない部隊は取り残された。誰が指揮を執っているのかもわからない。将軍たちは自らの部隊をまとめることさえできず、兵士たちは武器や甲冑を捨てて逃げ惑った。官渡の大地には、無数の遺棄物が散乱し、敗走の跡を生々しく刻んでいた。公孫犢、耿苞、崔巨業、朱漢、張導といった将たちは、撤退命令が届かぬまま孤立し、曹操軍の追撃を受けて次々と討たれていった。
曹操はこの機を逃さなかった。彼は全軍に追撃を命じ、自らも騎兵を率いて敗走する袁紹軍の背後に迫った。曹操の騎兵隊は、飢えと疲労で動きの鈍くなった袁紹軍の殿部隊を蹴散らし、逃げ遅れた兵士たちを次々と捕虜にした。捕虜の数は数万に上り、曹操は彼らを手厚く遇した。
「袁紹に従っていたのは命令に過ぎぬ。罪は問わない。しかし、これ以上戦う意思があるならば、我が軍に加われ。戦う意思がないならば、故郷に帰って家族を養え」
曹操のこの布告は、捕虜たちの心を動かした。彼らは袁紹のもとでは使い捨ての駒に過ぎなかった。しかし曹操は違う。自分たちの命を尊重し、意思を問うてくれる。多くの捕虜が曹操への帰順を願い出た。中には涙を流して曹操の足元にひれ伏す者もいたという。
黄河の渡しは、まさに阿鼻叫喚の地獄と化した。
限られた船と筏を奪い合い、将兵たちは殺到した。袁紹は真っ先に船に乗り込むと、側近たちに「早く出せ」と命じた。彼の周囲には、まだ渡河できずにいる数千の兵士たちが取り残されていたが、袁紹は振り返りもしなかった。我先に船に乗り込もうとする兵士たちを、後ろから押し寄せる別の部隊が突き飛ばす。船が転覆すれば、多くの兵士が濁流に呑まれた。ある者は川の流れに抗しきれずに溺れ、ある者は船にしがみつくあまりに船を転覆させ、ある者は渡河を諦めて河岸で曹操軍に降伏した。李延、栗成、劉和といった将たちは、渡河の混乱の中で溺死した。彼らの遺体は黄河の濁流に呑まれ、ついに見つかることはなかった。黄河の水面は、数千とも数万ともいわれる溺死者の血で赤く染まり、その惨状は後世の史書にも「黄河、屍を以て堰く」と記されるほどのものだった。水面には無数の遺体が浮かび、その中には重い甲冑を着けたまま沈んでいった将軍の姿もあったという。
袁紹自身は、八百の騎兵とともに九死に一生を得て黄河を渡り、鄴城へと逃げ帰った。十万の大軍は完全に壊滅し、名だたる将軍たちの多くは戦死するか、あるいは敗走の混乱の中で消息を絶った。
この官渡の戦いと、それに先立つ高順の冀州進攻によって、袁紹陣営の人材は三つに引き裂かれることになった。
まず、戦場で命を落とした者たちである。顔良は白馬で関羽に討たれ、文醜は延津で同じく関羽に討たれた。麴義は河内郡の戦いで張楊に敗れて戦死した。公孫犢、耿苞、崔巨業、朱漢、張導は官渡の戦いの中で討ち死にし、李延、栗成、劉和は黄河の渡河の混乱の中で溺死した。呂威璜、韓莒子、淳于瓊、蒋奇は烏巣で曹操に討たれ、眭元進と陶昇もまた曹操の追撃戦の中で命を落とした。河北を支えてきた将軍たちの多くが、この戦いで命を失ったのである。
高順が冀州の各郡県に進軍する過程で降伏し、その配下に加わった者たちがいる。文官では郭図、牽招、崔琰、荀諶、審配、辛毗、辛評、逢紀、沮授である。彼らは袁紹の幕僚として河北を支えてきた知恵者たちだったが、袁紹の優柔不断と猜疑心に愛想を尽かし、あるいは主君を見限って高順のもとに身を寄せた。高順は彼らを董昭のもとで冀州の統治に当たらせ、并州で培った法と秩序の仕組みを河北にも広げようとしていた。
武官では王摩、郭祖、何茂、韓猛、高覧、蔣義渠、張郃、孟岱、劉献、劉詢が高順の麾下に入った。張郃は高順が冀州に進攻した際、鄴城の手前で高順軍と対峙したが、袁紹の優柔不断と郭図の讒言に失望し、高順の説得に応じて降伏した将である。高覧もまた張郃と共に高順に降り、その後は冀州の防衛に尽力した。張郃は後に高順の騎兵指揮官として数々の戦場で功績を挙げ、高覧もまた堅実な指揮官として活躍した。王摩、郭祖、何茂、韓猛、蔣義渠、孟岱、劉献、劉詢といった将たちは、それぞれが一軍を率いる力を持つ者たちであり、高順の軍はこれによってさらに強化された。
賈詡はこの人材の充実ぶりを見て、高順に言った。
「将軍、これだけの人材が揃えば、冀州の統治も滞りなく進みましょう。特に審配と郭図は、袁紹の陣営の中枢を知り尽くした者たちです。彼らの知識は、今後の河北平定において計り知れない価値を持つでしょう。張郃と高覧の両名を得たことも大きい。この二人は河北でも屈指の将才です」
高順は名簿に目を通しながら静かに頷いた。
「ああ。しかし彼らはまだ袁紹の旧臣としての意識を捨てきれていない。無理に并州式の法と秩序を押し付けるのではなく、まずは彼らの意見を聞き、少しずつ改革を進めていく。董昭にそう伝えよ」
曹操の配下に加わった者としては許攸と朱霊がいる。朱霊はもともと袁紹の部将だったが、曹操が徐州の陶謙を攻めた際に援軍として派遣され、曹操の人物に惚れ込んでそのまま配下に加わった男である。官渡の戦いでは曹操軍の一将として参戦し、袁紹軍と戦った。
許攸は烏巣の情報をもたらして曹操の勝利を決定づけたが、その後は傲慢になり、曹操の前でも「孟徳」と呼び捨てにし、酒宴の席で「お前が今ここにいるのは、すべて私のおかげだ」と言い放つようになった。曹操は表向き笑って許したが、内心では不快感を募らせていた。ある日、許攸が鄴城の城門を通りかかった時、門番に向かって「この許子遠がいなければ、曹操はこの城に入れなかったのだぞ」と豪語した。この言葉が曹操の耳に入ると、曹操はついに許攸を処刑した。官渡の勝利に最も貢献した男は、その傲慢さによって自らを滅ぼしたのである。同じ寝返り組でありながら、朱霊が曹操に重用され続けたのに対し、許攸が破滅したのは、二人の人物の器量の差でもあった。
曹操は官渡の砦に戻ると、まず全軍を集めて戦勝を祝った。しかしその祝宴は質素なものだった。兵糧はまだ十分ではなく、酒もわずかしか残っていなかったからだ。それでも将兵たちの顔には笑みが溢れていた。十倍の敵を相手に、よくぞ生き延びた。よくぞ勝った。その安堵と喜びが、砦の中に満ちていた。
曹操は杯を掲げ、将兵たちに言った。
「諸君、よくぞ耐え抜いてくれた。この勝利は、私一人のものではない。ここにいる全員のものだ。荀彧が許昌で私を励まし、荀攸が策を授け、夏侯惇と曹洪が陣を守り、そして諸君らが命を懸けて戦った。この曹操、生涯この恩を忘れぬ」
曹操は荀彧への返書も認めた。
「文若、あなたの言葉がなければ、私は官渡で負けていた。耐え抜けば必ず機が来ると、そう信じさせてくれたのはあなたです。この勝利は、あなたの勝利でもある」
戦後処理は迅速に行われた。まず袁紹軍の捕虜たちに対する処遇が決められた。数万に及ぶ捕虜の中には、袁紹に仕えることを望まず、曹操に帰順したいと願う者も多かった。曹操は彼らの意志を尊重し、軍に編入するか、あるいは故郷に帰すかを選ばせた。
次に、袁紹の遺した莫大な文書類が接収された。その中には、曹操の陣営から袁紹に送られた内通の手紙が多数含まれていた。官渡の戦いが長期化する中で、曹操の敗北を予想して袁紹に取り入ろうとした者たちの手紙である。幕僚たちはこれを見て激怒し、「ただちに全員を処刑すべし」と進言した。
しかし曹操は首を振った。
「焼き捨てよ。一枚残らず、すべて焼き捨てるのだ。袁紹が強かった時、私とて自らの身を案じなかったわけではない。ましてや彼らはなおさらだ。今さら過去を追及して何になる。それよりも大事なのは、これからどうするかだ。過去を許す寛容さがなければ、未来の臣下は得られぬ」
曹操はそう言って、自ら火の中に手紙の束を投げ込んだ。内通者たちはこの報せを聞き、安堵と感謝の涙を流したという。曹操の寛大さは、彼らをかえって曹操への忠誠に目覚めさせた。
官渡の戦いが終わった時、曹操の陣営には奇妙な静けさが訪れた。十倍の敵を破ったという現実が、まだ信じられない者も多かった。将兵たちは呆然と戦場を見渡し、散乱する敵の旗や武器を眺めた。あれほどまでに恐ろしかった十万の大軍は、もはやどこにもいない。
曹操は戦場の後始末を命じた後、自らも馬に跨がり、官渡の野を見渡した。彼の脳裏には、これまでの苦難の日々が走馬灯のように蘇る。兵糧が尽き、脱走兵が相次ぎ、荀彧に弱音の手紙を送った夜。許攸が裸足で迎えに出た自分を見て苦笑した夜。烏巣に向かう闇の中で、死を覚悟した夜。そのすべてが、今この瞬間のためにあったのだと曹操は思った。
「丞相、袁紹の本営に残されていた文書は、すべて焼き捨てました。沮授は捕虜となりましたが、降伏を拒み、処刑されました。田豊は鄴城の獄中で袁紹に見捨てられたままです。おそらく袁紹は、自分の敗北を予言した田豊を許せないでしょう」
荀攸の報告を聞きながら、曹操は静かに頷いた。
「田豊と沮授は、袁紹の幕僚の中でも最も優れた男たちだった。その二人を活かせなかったことが、袁紹の最大の敗因だ。私はこの過ちを繰り返してはならない。荀彧を敬い、荀攸を信じ、そしてお前たちの諫言に耳を傾けよう」
曹操は官渡の野を見渡しながら、さらに続けた。
「冀州の過半は高順が押さえた。我々はこの機に乗じて河北を平定する。高順がどう動くかはわからぬが、今は袁紹を完全に滅ぼすことが先決だ。高順は張郃や高覧といった河北の名将たちを麾下に収め、着実に地歩を固めている。我々も負けてはおれん」
夏侯惇が曹操に問うた。
「丞相、高順は味方ですか、それとも敵ですか」
曹操はしばらく沈黙し、それから微かに笑った。
「今は味方だ。冀州の過半を押さえ、袁紹の背後を脅かしてくれた。そのおかげで袁紹は持久戦を選べず、我々は勝利できた。しかし高順という男は、決して誰かの下につく男ではない。彼は彼自身の正義と秩序のために動く。いつか我々と道を違える日が来るかもしれぬ。しかし、その日が来るまでは、私は彼を友として信じる」
夏侯惇は曹操の言葉に深く頷いた。曹操は高順を信頼しているが、同時に警戒もしている。その微妙な均衡の上に、今の両者の関係は成り立っているのだった。
遠く并州の晋陽では、高順が官渡からの戦報を受け取っていた。傍らには賈詡が控え、地図を前に戦況を分析している。高順の手元には、荀彧が曹操に送った手紙の写し、許攸の寝返りの経緯、烏巣奇襲の詳細、そして袁紹軍の壊滅に至るまでの詳細な戦況報告が届いている。
「曹操は勝ちました。十倍の敵を相手に、よくぞ持ちこたえたものです。荀彧の励まし、許攸の寝返り、曹操の決断力。この三つが揃わなければ、官渡の勝利はありえなかったでしょう」
高順は戦報を読み終えると、静かに卓の上に置いた。
「曹操の勝利は見事だった。しかし我々もまた、この戦いで多くのものを得た。冀州の過半を制圧し、郭図、牽招、審配、荀諶、辛毗、辛評、逢紀、沮授といった袁紹の幕僚たちを我が陣営に迎え入れた。武官では王摩、郭祖、何茂、韓猛、高覧、蔣義渠、張郃、孟岱、劉献、劉詢らが加わった。顔良や文醜、麴義といった河北の名将たちを失った袁紹に、もはや昔日の力はない」
賈詡は名簿に目を通しながら微かに笑った。
「これだけの人材が揃えば、冀州の統治も滞りなく進みましょう。しかし将軍、曹操の勢力もまた大きく拡大しました。袁紹はもはや長くは持たぬでしょう。次の一手を考えねばなりません」
「ああ。曹操はこれから河北の平定に乗り出す。我々は并州と幽州、そして冀州の過半を固めつつ、曹操の動きを見極める。曹操が漢室を立て直すなら、私は彼の味方だ。しかし曹操が漢室を踏みにじるなら、その時は容赦しない。私は曹操と約束した。彼が道を誤った時は、私が止めると」
高順は窓の外を見た。夏の陽光が、晋陽の街を金色に染めている。官渡の戦いは終わった。袁紹は敗れ、その幕僚や将軍たちはそれぞれの道を選んだ。戦死した者、高順の配下に加わった者、曹操に従った者。天下の勢力図は、この戦いを境に大きく塗り変えられたのである。
袁紹の敗因は、決断力の欠如だった。顔良と文醜を失い、許攸を見限られ、烏巣の兵糧を焼かれ、そして最後の撤退戦でも優柔不断が災いして十万の大軍を失った。もし袁紹が沮授の進言を聞き、田豊を牢から出し、許攸の策を採用していれば、歴史は違っていたかもしれない。
しかし歴史に「もし」はない。曹操は決断力によって勝ち抜き、高順は着実に地歩を固めている。曹操は覇道を往き、高順は法と秩序の王道を往く。二人の道が交わる時、天下に何が起きるのか。それはまだ、誰にもわからなかった。




