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外伝 曹袁対塁戦官渡 高順背後襲冀州 一段

建安五年、春。


黄河の流れは雪解け水を集め、例年になく激しく渦巻いていた。白馬の渡しには曹操軍の旗が翻り、対する黎陽には袁紹の大軍が集結しつつある。その数、実に十万。対する曹操の兵力は、わずか一万。十倍という圧倒的な差を前に、曹操陣営には重苦しい空気が漂っていた。


袁紹の本営が置かれた黎陽は、黄河の北岸に位置する要衝である。ここから南へ渡河すれば、白馬、延津を経て官渡へと至る。官渡を抜ければ、その先は許昌まで遮るものはない。袁紹はこの地理的優位を最大限に活かし、じっくりと戦力を集結させていた。彼の幕僚である沮授は「持久戦に持ち込めば勝てる」と進言した。曹操の兵力は少なく、兵站も脆弱である。時間をかければかけるほど、曹操は追い詰められる。その理屈は正しかった。


しかし袁紹は、別の焦りを抱えていた。高順が冀州の過半を制圧し、鄴城を脅かしている。このまま持久戦に持ち込めば、曹操を倒す前に自分の本拠地が危うくなる。袁紹は早期決戦を望み、先鋒として顔良を白馬へ差し向けた。顔良は河北最強の猛将である。その武勇は天下に轟き、彼が率いる精鋭部隊は袁紹軍の中でも最も戦闘力が高かった。


白馬城を包囲された曹操軍の劉延は、ただちに許昌へ急報を送った。曹操はこの報せを聞くと、すぐさま軍議を開いた。集まったのは荀攸、郭嘉、程昱、夏侯惇、曹仁ら幕僚と将軍たちである。


「袁紹が動いた。先鋒は顔良。白馬が包囲されている。どうする」


荀攸が静かに口を開いた。


「我々の兵力は少ない。正面から顔良と戦えば、袁紹の本隊が援軍に来る。そうなれば挟み撃ちです。まずは敵の兵力を分散させるべきです」


「具体的には」


「延津へ向かうと見せかけます。袁紹は我々が本隊で黎陽を攻めると考え、顔良への援軍を遅らせるでしょう。その隙に、精鋭をもって白馬の顔良を叩く。陽動作戦です」


曹操は荀攸の策を即座に採用した。彼は全軍に延津への移動を命じ、あたかも黄河を渡って袁紹の本陣を攻めるかのような動きを見せた。袁紹はこの動きを察知すると、曹操の本隊が延津に向かったと判断し、顔良への援軍を遅らせて黎陽の防衛を固めた。


曹操はこの隙を逃さなかった。彼は夏侯淵と張遼に軽騎兵を預け、昼夜兼行で白馬へ急行させた。曹操自身もまた、少数の精鋭を率いて白馬へと向かった。顔良は曹操の接近を知ると、麾下の精鋭を率いて出陣した。彼の軍勢は数万。対する曹操の軍勢は数千に過ぎない。しかし曹操は動じなかった。


白馬の城壁の上から、劉延はその光景をじっと見つめていた。地平線の彼方から、砂塵を巻き上げて接近する曹操の軍勢。その数は明らかに少ない。しかしその旗の下には、曹操自身がいる。劉延は曹操という男の恐ろしさを知っていた。彼はかつて曹操の下で戦い、その決断力と用兵の妙を目の当たりにしていたのである。


曹操は顔良の陣を遠望しながら、関羽を呼んだ。


「雲長、見えるか。あの麾下の中央に立つ男が顔良だ。河北最強の猛将。しかし今、奴の軍勢は分散している。本陣だけが突出している。これを討てるのは、お前しかいない」


関羽は無言で頷き、愛用の大刀を手に取った。それは長年にわたって彼が鍛え上げてきた得物であり、その刃は陽光を受けて鈍く輝いている。彼は曹操に降って以来、その厚遇に感謝しながらも、心は常に劉備のもとにあった。しかし今は曹操の将として戦う。それが彼の義理だった。


関羽は馬を駆った。赤兎馬の蹄が大地を蹴り、その巨体が風のように戦場を駆け抜ける。顔良の陣は関羽の接近に気づいたが、そのあまりの速さに対応が遅れた。関羽は顔良の麾下に立ち並ぶ旗や矛をものともせず、一直線に顔良の本陣へと突き進んだ。


顔良が自ら矛を振るって迎え撃とうとした瞬間、関羽の大刀が一閃した。長大な刃が弧を描き、顔良の首は宙を舞った。河北最強と謳われた猛将は、関羽の一撃の前に呆気なく討たれたのである。主将を失った袁紹軍は総崩れとなり、関羽は顔良の首級を手に曹操の本営へと帰還した。


曹操は関羽の功績を称え、偏将軍に任じ、漢寿亭侯の爵位を授けた。この時、曹操は内心で関羽を手放したくないと思っていた。彼は関羽に黄金を与え、邸宅を賜り、数々の恩賞を惜しみなく与えた。しかし関羽の心は、すでに曹操のもとにはなかった。


袁紹は顔良の死に激怒し、さらなる追撃を命じた。文醜がその先鋒を務め、延津へと進軍する。文醜は顔良と並び称される河北の双璧であり、その武勇は顔良に勝るとも劣らない。彼は顔良の仇を討たんと勇み立ち、自ら軍の先頭に立って突撃した。


しかし曹操はこの動きも読んでいた。彼は延津の手前に伏兵を配置し、文醜が渡河する瞬間を狙った。文醜の軍勢が黄河を渡り始めた時、曹操の伏兵が一斉に矢を放った。さらに張遼が騎兵を率いて側面から突撃し、文醜の軍を分断した。文醜は必死に軍を立て直そうとしたが、混乱の中で関羽の大刀が再び閃き、文醜もまた討ち取られた。


緒戦で二将を失った袁紹は激怒した。しかし彼はまだ十万の大軍を擁している。数の上では圧倒的に有利であり、戦術で勝っても戦略で負ければ意味がないことを、袁紹はよく理解していた。彼は顔良と文醜の仇を討つべく、全軍を挙げて南下を開始した。


曹操は白馬と延津での勝利の後、すぐさま全軍を官渡へと撤退させた。これは戦術的な勝利に酔わず、戦略的な不利を認めた上での決断だった。兵力差は十倍。正面から戦えば勝ち目はない。ならば官渡の堅陣に籠もり、持久戦に持ち込む。それが曹操の選んだ道だった。


官渡は黄河の南岸に位置する要害の地である。北には官渡水が流れ、南には広大な平原が広がる。ここを抜ければ、その先は許昌まで遮るものはない。曹操はこの地を決戦の場と定め、全軍を集結させた。兵力はわずか一万。対する袁紹の軍勢は十万。十倍という絶望的な差を前に、曹操の将兵たちの顔には疲労と恐怖の色が濃く滲んでいた。


袁紹は官渡の北に大陣を敷き、東西数十キロに及ぶ陣地を構築した。その威容はまさに圧倒的であり、曹操軍の将兵たちはその光景を目の当たりにして、言葉を失った。袁紹は数に物を言わせ、土山を築いて曹操の陣地に矢を降り注がせた。無数の矢が空を覆い、曹操軍の兵士たちは盾を掲げて移動しなければならなかった。


曹操はこれに対抗するため、霹靂車と呼ばれる投石機を造らせた。これは巨大な梃子の原理を利用して石弾を放つ兵器であり、袁紹軍の土山を次々と破壊した。袁紹はさらに地下道を掘って曹操の陣地に侵入しようとしたが、曹操は塹壕を掘ってこれを防いだ。互いに一歩も譲らぬ攻防が続く中、兵糧の枯渇が曹操を追い詰めていった。


一月が過ぎ、二月が過ぎた。官渡の砦に籠もる曹操軍の兵糧は底をつき、脱走兵が相次いだ。夜陰に紛れて城壁を降り、袁紹軍に投降する者も少なくなかった。曹操は心身ともに追い詰められ、ついに荀彧への手紙を認めた。


「文若、もはや限界だ。兵糧は尽き、兵たちの士気は地に堕ちた。このままでは全滅する。一旦、許昌に退いて体勢を立て直したい。どうか許してほしい」


許昌で留守を預かる荀彧は、この手紙を読むとすぐさま返書を認めた。その文面は、曹操への深い敬愛と、厳しい叱咤に満ちていた。


「丞相、今退けばすべてが終わります。公は十倍の敵を相手に、すでに数ヶ月も持ちこたえられた。それは奇跡に近い。しかし奇跡はまだ終わっていない。耐え抜けば必ず奇策を講じる機が訪れます。どうかもう一度だけ、私の言葉を信じてください。ここで退けば、我々は永遠に中原を失います」


曹操はこの手紙を読み終えると、深く息を吐いた。彼は荀彧の言葉を胸に刻み、徹底抗戦を誓った。全軍に「退く者は斬る」と布告し、自らも陣頭に立って兵士たちを鼓舞し続けた。


しかし状況は刻一刻と悪化していった。袁紹の包囲網はますます狭まり、曹操軍の補給線は完全に断たれた。兵士たちは一日に一食の粥を啜り、それすらも底をつきかけている。曹操自身もまた、連日の不眠と疲労で頬はこけ、その目は深く窪んでいた。それでも彼は決して弱音を吐かず、兵士たちと同じ粥を啜り、同じ天幕で眠った。


曹操の陣中には、奇妙な静けさが漂っていた。もはや誰もが死を覚悟し、それゆえにかえって平静だったのである。夏侯惇は毎夜、城壁の上に立って敵陣を見つめた。曹仁は兵士たちと共に壕を掘り続けた。荀攸は地図を前に、何か策はないかと考え続けた。郭嘉は病に臥せりながらも、曹操に「必ず機は来ます」と言い続けた。


その機は、誰もが予想しなかった形で訪れた。


袁紹の陣営では、亀裂が深まりつつあった。沮授は持久戦を主張し、郭図は速戦を主張した。田豊は袁紹に諫言したかどで投獄され、許攸は自分の献策が容れられないことに不満を募らせていた。袁紹は彼らの意見を聞くことはあっても、決断することができなかった。優柔不断という彼の最大の弱点が、ここにきて致命的な形で表面化しつつあった。


その夜、許攸は袁紹の本営を訪れた。彼は曹操の兵糧が尽きかけていることを察知し、今こそ許昌を奇襲すべきだと進言した。曹操の主力は官渡に釘付けになっており、許昌の守備は手薄である。軽騎兵をもって許昌を衝けば、曹操は退路を断たれ、官渡で孤立する。しかし袁紹はこの策を退けた。


「曹操は老獪だ。許昌には必ず伏兵がいる。軽挙は慎め」


許攸は袁紹の決断力のなさに失望し、陣営を後にした。その夜、彼の家族が罪を犯して逮捕されたという報せが届いた。許攸はこれに激怒し、ついに袁紹を見限る決意を固めた。彼は夜陰に乗じて陣営を抜け出し、曹操のもとへと向かった。


曹操は許攸の来訪を聞くと、裸足のまま飛び出して彼を迎えた。それは曹操の喜びの大きさを示す、芝居がかった仕草だったが、同時に本心でもあった。許攸は袁紹陣営の中枢を知る男であり、彼がもたらす情報は戦局を一変させる可能性を秘めている。


「子遠、よく来てくれた。袁紹はどうだ」


許攸は曹操の手を握り返し、静かに言った。


「孟徳、お前に一つだけ教えよう。袁紹の莫大な兵糧は、すべて烏巣に集積されている。守備は淳于瓊。兵は少ない。今、烏巣を襲えば、袁紹の軍は一日で崩壊する」


曹操はこの言葉を聞くと、しばし沈黙した。烏巣は袁紹の陣営の奥深くにある。襲撃に向かえば、途中で発見される危険が極めて高い。しかし許攸の言葉が真実ならば、これこそが待ち望んだ「機」だった。曹操はすぐさま軍議を開き、全軍に烏巣への奇襲を命じた。


「私が自ら五千の精鋭を率いて烏巣を襲う。残りの兵は曹洪に預ける。決して陣を空にするな。私が戻るまで、必ず持ちこたえよ」


曹操は夜陰に乗じて出陣した。その手には松明もなく、兵士たちは口に枚を含んで音を立てぬよう命じられた。五千の精鋭は闇の中を進み、袁紹の陣営の隙間を縫って烏巣へと向かった。


烏巣に到着した曹操は、ただちに火を放った。莫大な兵糧が炎に包まれ、夜空を赤々と染め上げる。淳于瓊は必死に防戦したが、曹操の精鋭の前には為す術もなかった。烏巣の兵糧は灰燼に帰し、袁紹軍の命綱は断たれたのである。


烏巣炎上の報せは、瞬く間に袁紹の本営にも届いた。袁紹はこの報せを聞くと、すぐさま軍議を開いた。郭図は「烏巣を見捨てて曹操の本陣を落とせば勝ちだ」と主張した。張郃は「兵糧を失えば軍は崩壊する。烏巣救援が先決」と猛反発した。袁紹は迷った末に、あろうことか「両方に兵を出す」という最悪の折衷案を選択した。張郃と高覧に曹操の本陣を攻めさせ、蒋奇に烏巣の救援に向かわせたのである。


結果は惨憺たるものだった。張郃と高覧は曹操の本陣を攻めたが、曹洪が堅く守り抜き、ついに陥落させることができなかった。蒋奇の救援隊は途中で曹操の伏兵に遭い、烏巣にたどり着くことすらできなかった。烏巣の兵糧は完全に焼き尽くされ、袁紹軍の兵站は崩壊した。


張郃と高覧は本陣に戻ると、郭図が自分たちの失敗を袁紹に讒言していることを知った。怒りと絶望に駆られた二人は、ついに曹操への投降を決意する。彼らは軍を率いて曹操の陣営に向かい、城門の前で降伏を申し出た。


曹操は張郃と高覧を快く迎え入れた。張郃は後に曹操の五将軍の一人に数えられる名将であり、高覧もまた堅実な指揮官だった。この二人を得たことは、曹操にとって烏巣奇襲に匹敵するほどの戦略的収穫だった。


烏巣炎上、張郃と高覧の投降。この二つの出来事は、袁紹軍の士気を完全に打ち砕いた。糧食を失った十万の兵は飢えに苦しみ、指揮官を失った部隊は統率を欠き、脱走兵が相次いだ。袁紹はもはや軍を維持することができず、全軍に撤退を命じた。しかし撤退はたちまち潰走に変わり、十万の大軍は無秩序に逃げ惑う烏合の衆と化した。


曹操はこの機を逃さず、全軍に追撃を命じた。袁紹軍は黄河を渡って敗走し、多くの将兵が溺れ死んだ。十万の威容を誇った河北の巨人は、わずか数百の兵とともに鄴城へと逃げ帰るのが精一杯だった。


官渡の決戦は、曹操の完勝に終わった。十倍という絶望的な兵力差を覆したのは、荀彧の励ましと、許攸の寝返りと、曹操の決断力だった。曹操は戦後、許攸を厚く遇し、張郃を重用し、荀彧に深く感謝した。しかし彼は決して勝利に酔わなかった。まだ袁紹は鄴城に健在であり、河北にはなおも広大な領地が残っている。戦いはこれからも続くのである。


遠く并州でこの報せを聞いた高順は、賈詡と共に地図を前にしていた。


「曹操は勝った。十倍の敵を相手に、よくぞ持ちこたえたものだ」


賈詡は微かに笑った。


「将軍は曹操をどう思われますか」


「恐ろしい男だ。しかし同時に、この乱世で最も信頼できる男でもある。冀州の過半は我々が押さえた。曹操は官渡で袁紹を破った。袁紹はもはや長くは持つまい。次の一手を考えねばならぬ」


高順は窓の外を見た。夏の陽が、晋陽の街を照らしている。官渡の決戦は終わった。しかし天下を巡る戦いは、まだ始まったばかりだった。

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