第十二回 青梅煮酒論英雄 献策改革推憲制 四段
御前会議から数日後、董承の私邸に同志たちが密かに集められた。長水校尉の种輯、議郎の呉碩、昭信将軍の呉子蘭、そして左将軍の劉備。伏完は病を理由に欠席したが、その子である伏典を代理として寄越していた。彼らは董承が天子から密かに授かったという「衣帯の詔」を前に、血判を押して曹操打倒を誓い合った。
「この詔書こそ、天子が曹操を討てと命じられた証。我らはすでに同志である。劉備殿、あなたの力をお借りしたい」
董承の言葉に、劉備は内心で激しく動揺しながらも、表向きは協力を約束した。しかし彼は、この計画がどれほど危険な賭けであるかを誰よりも理解していた。だからこそ劉備は、目立たぬよう細心の注意を払い、毎日自宅の庭で黙々と青菜に水をやり続けた。あたかも世の中の争いから身を引いたかのように振る舞ったのである。
しかし劉備にもまた、密かな狙いがあった。このまま許昌に留まっていては、いずれ曹操に殺される。それならば、一刻も早くこの地を脱出せねばならない。
数日後、徐州から急報が届いた。賊が多く暴れているため、州牧の帰還を求めるという内容だった。劉備はこれを天与の好機と見て、すぐさま曹操に出陣の許しを請うた。曹操はまだ劉備を警戒していたが、朝廷の承認を得た正式な出陣要請を断る理由もなく、渋々ながら許可した。
「玄徳、徐州はお前の地だ。しっかり治めてこい」
「ありがとうございます、丞相。必ずや賊を討ち鎮め、徐州の民を安んじてまいります」
劉備は深く一礼し、即日許昌を発った。関羽、張飛、趙雲、公孫続、陳到ら諸将を率いての出立だった。彼らの隊列が許昌の城門を抜けると、劉備は馬上で深く息を吐いた。これでようやく曹操の監視から逃れられた。しかし喜びは一瞬だった。徐州に戻ったところで、そこはすでに曹操の息のかかった者たちが支配する地である。真の戦いはこれからだった。
許昌に残った董承たちは、劉備が外で曹操を牽制し、自分たちが朝廷内で曹操を抑えるという役割分担を確認し合った。彼らはそれぞれの持ち場で、曹操打倒の機会を窺い始めたのである。
徐州に到着した劉備は、状況の厳しさを改めて思い知った。陳珪、陳登親子は曹操に靡き、曹操の代理として車冑が徐州を統治していた。劉備が徐州牧として任命されたとはいえ、実質的な権限は曹操の手中にある。もはや曹操と戦う以外に、この地を取り戻す道はない。
劉備は下邳を根拠地と定め、ただちに行動を起こした。張飛が先陣を切って徐州刺史の車冑を討ち取り、下邳の守備を関羽に任せると、劉備は自ら小沛に移って曹操との決戦に備えた。劉備が曹操に叛旗を翻した報せは瞬く間に広がり、多数の郡県が曹操に背いて劉備に味方した。
曹操は劉備の裏切りに激怒したが、今は袁紹への備えで手が離せない。やむなく劉岱と王忠の二将を派遣したが、劉備はこれを難なく打ち破った。
「お前たちごときが百人来ようと、私をどうすることもできぬ。曹操殿がご自身で来られるなら、どうなるかわからぬがね」
劉備のこの言葉は、劉岱と王忠を震え上がらせた。敗将たちはほうほうの体で許昌に逃げ帰り、曹操に戦況を報告した。
「劉備がそこまで言ったのか。よかろう。俺が自ら行ってやる」
曹操はついに自ら軍を率いて徐州に向かった。曹操自身の姿を認めた劉備は、戦わずして逃走した。曹操の指揮の旗を見ただけで、勝負にならぬと悟ったのである。
劉備は袁紹のもとへ逃れた。かつて劉備が袁紹の長子・袁譚を茂才に推挙していた縁で、袁紹は劉備を大いに歓待した。袁紹にとって劉備は、曹操の背後を脅かす貴重な駒だった。
曹操の追撃によって劉備軍は散り散りとなり、関羽は劉備の妻子を守るために下邳に留まったが、多勢に無勢。曹操の軍門に降り、妻子と共に囚われの身となった。夏侯博もまた関羽と共に捕らえられた。
張飛だけは違った。彼は徐州の芒碭山に逃げ込み、山賊に身をやつして潜伏した。かつての豪勇は影を潜め、彼は荒くれ者たちに紛れて息を殺して生きていた。
これらの情報は、すべて高順のもとに集約されていた。高順だけが、張飛と関羽の正確な居場所を把握していた。劉備の妻子が曹操の手に落ちたことも、高順の諜報網は正確に掴んでいた。
「いよいよだな」
高順は賈詡と董昭を前に、静かに言った。
「袁紹が動き、劉備が動き、曹操も動いた。官渡の決戦は避けられぬ。私は并州に戻り、軍を率いて白馬港に向かう。曹操にはすでに密約を結んである。袁紹を挟み撃ちにするのだ」
高順は宮中に参内し、献帝に并州への帰還を申し出た。御前会議の後、献帝は太師である蔡邕から兵法や統治の学問を熱心に学んでいた。かつて高順が并州で実践し、曹操との書簡で論じた法と秩序の理念は、蔡邕の講義を通じて献帝の心にも深く根付きつつあった。献帝は高順の申し出を聞くと、静かに頷いた。
「高順、そなたが并州に戻るのは朕としても心細いが、そなたの戦が天下を救うことも朕にはわかる。どうか無事で戻ってくれ」
「陛下、臣は必ずや袁紹を退け、陛下の御前に再び参内いたします。それまでどうか、蔡邕先生の教えをよくお聞きになり、天子としてのご威光をお育てください」
高順は深く平伏し、宮中を辞した。
驃騎将軍府に戻ると、蔡琰と董媛が待っていた。蔡琰は父の蔡邕から宮中の様子を聞いており、高順が再び戦場に向かうことを察していた。
「行くのですね」
「ああ。官渡で決着をつける」
董媛は腕を組み、少し不満げに言った。
「また留守か。でもまあ、あんたが行くなら負ける気はしないよ。ただし、絶対に無事で帰ってこい。景と昭に父親がいなくなるのは、これで何度目だと思ってるんだ」
高順は微かに笑い、二人の妻の肩を軽く抱いた。
「約束する。私は死なない。死にたくないからこそ、徹底的に準備をして戦う」
翌朝、高順は一万の兵を率いて許昌を発った。彼の胸中には、これから始まる官渡の決戦と、その先にある天下の行く末が重く沈んでいた。曹操と袁紹、二人の巨人がぶつかり合う。その狭間で、自分は何を成すべきか。
驍風の手綱を握り、高順は北の空を見据えた。天下は再び、大きな動乱の渦に巻き込まれようとしている。




