第十二回 青梅煮酒論英雄 献策改革推憲制 二段
河内郡の前線で麹義を退けた張楊は、すぐさま并州全土の防衛を固めるべく軍を再編した。郝萌、宋憲、魏続、侯成、曹性の五将はそれぞれ持ち場に戻り、張燕は遊軍を率いて山岳地帯の警戒を続けた。高順が築き上げた防御網は、主将が不在であっても揺るがない。麹義はそのことを痛感し、李粛と共に軍を退くほかなかった。并州の戦線はひとまずの小康状態を迎えたのである。
しかし張楊は決して楽観していなかった。麹義は袁紹軍の中でも最も優れた指揮官の一人であり、今回の攻勢は本気の侵攻というよりは、こちらの戦力を測るための威力偵察だった。次に袁紹が動く時は、もっと大規模な軍勢で来るだろう。張楊はそのことに備え、河内郡の城壁を補強し、兵站を増強し、郝萌と曹性に命じて周辺の地形を徹底的に調べさせた。郝萌は騎兵を率いて偵察を行い、曹性は弓兵を配置して要所を固めた。宋憲と魏続は歩兵と弩兵の連携訓練を強化し、侯成は物資の備蓄に奔走した。張燕は山間部に遊軍の拠点を築き、いつでも敵の側面を突ける態勢を整えた。彼らは皆、高順が戻るまでこの地を守り抜くと心に誓っていた。
鄴城の政庁では、袁紹が麹義の退却報告を受けて、顔を真っ赤にして怒りを露わにしていた。彼は卓の上の杯を床に叩きつけ、その陶器の砕ける音が広間に響き渡った。
「麹義が、高順の代理ごときに押し返されただと。たかが張楊ごときに何をしておるのだ。我が軍の精鋭が、なぜ并州の一将に遅れを取る!」
しかし怒りをぶつけたところで、戦況が変わるわけではない。袁紹はしばらく荒い息を吐いていたが、やがて冷静さを取り戻すと、改めて幕僚たちを集めた。田豊、沮授、逢紀、郭図、許攸、審配。いずれも当代随一の知恵者たちが、重苦しい空気の中で顔を揃えている。
沮授が静かに進言した。彼は袁紹の幕僚の中でも最も冷静沈着な男であり、こうした膠着状態を打開する策を常に用意している。
「正面から并州を攻めるのは得策ではありませぬ。高順は北方の異民族を退け、軍馬十五万匹を手に入れました。しかしそれで鮮卑、匈奴、烏桓が完全に屈服したわけではございませぬ。むしろ、彼らは高順に軍馬を奪われたことを深く恨んでおります。この三家に使者を送り、北から并州を脅かすよう唆せば、高順は兵力を北に割かざるを得なくなります」
「異民族を利用するのか。それはいささか危険な賭けではないか。奴らは我々の言うことを素直に聞くとは思えぬ」
審配が眉をひそめて言った。しかし沮授は首を振った。
「危険は承知の上です。しかし鮮卑の扶羅韓、匈奴の呼廚泉、烏桓の蹋頓は、いずれも高順に軍馬の九割を奪われた屈辱を忘れてはおりません。彼らは機会があれば必ず高順に復讐しようと機会を窺っている。我々が後押しすれば、必ず動きます。完全に信用する必要はない。ただ北から脅かしてくれれば、それで十分です」
袁紹はこの策を即座に採用し、鮮卑の扶羅韓、匈奴の呼廚泉、烏桓の蹋頓に密使を送った。使者には金銀と絹織物を持たせ、「共に高順を討とう」という袁紹の親書を携えさせた。扶羅韓は袁紹の申し出に即座に飛びついた。呼廚泉もまた、軍馬を奪われた恨みを晴らす好機と見て参戦を決めた。蹋頓はしばらく逡巡したが、袁紹からの莫大な金品を見て、ついに首を縦に振った。こうして北の三方から、再び并州に圧力がかかることになった。
さらに沮授は、もう一つの策を袁紹に献じた。
「高順の主力が并州に貼り付けられている間に、幽州を叩きます。遼東の公孫度に使いを送り、徐栄を攻めさせよ。公孫度は遼東で半ば独立した勢力を築いております。袁家と手を組めば、幽州の一部を切り取れると持ちかければ、必ず乗ってまいります」
公孫度は遼東の太守でありながら、後漢末の混乱に乗じて半ば独立王国を築いていた男である。東方の異民族を討伐し、遼東半島一帯に強固な地盤を持っていた。彼は中央の争いには関与せず、ただ自分の領地を守ることに専念してきたが、領土拡大の好機とあれば話は別だった。袁紹の使者が公孫度のもとを訪れ、共に徐栄を攻めるよう持ちかけると、公孫度は即座に同意した。
こうして袁紹の包囲網は、正面だけでなく、北と東の三方から高順を締め上げる形で動き始めた。鮮卑、匈奴、烏桓が北から、公孫度が東から、そして袁紹自身は冀州からいつでも出撃できる態勢を整えた。この包囲網が同時に動けば、いかに高順の防御網が堅固であっても、すべてを防ぎ切ることは難しい。沮授の狙いはまさにそこにあった。
同じ頃、許昌に留まる高順のもとに、献帝からの召喚が届いた。高順はすぐに宮中へと向かった。参内すると、玉座の間には献帝が一人、心細げに座している。普段は必ず傍らに控えているはずの曹操の姿はなかった。高順はそのことに一抹の不安を覚えながら、深く平伏した。
「高順、よく来てくれた。そなたに聞きたいことがある」
献帝の声は震えていた。高順は顔を上げ、献帝の顔をまっすぐに見た。かつて長安で出会った頃は、まだ幼さの残る少年だった。しかし今、玉座に座る劉協は、十代後半の若者としての面影を見せ始めている。その目には、長年の抑圧の中で培われた諦念と、それでも消えぬ気概が同居していた。
「陛下、いかがなさいましたか」
「曹操のことだ。そなたはどう思う」
献帝はためらいながらも、ついに核心を口にした。曹操は袁術を滅ぼして以来、その権勢をますます強めていた。対外的には漢室の庇護者として振る舞いながら、内実は献帝の周辺から馴染みの者を次々と排除し、自らの息のかかった者を配している。かつて献帝に仕えていた老臣たちは、いつの間にか朝廷から姿を消し、代わりに曹操の幕僚たちが要職を占めるようになった。献帝が何かを決めようとしても、必ず曹操の承認が必要だった。それは董卓や李傕の時代と、何も変わらないように思えた。
このような状況に憂慮した献帝は、先日、曹操が謁見した時に思い切って言ったのだという。
「朕を大事に思うなら、よく補佐してほしい。そうでないなら、情けを掛けて朕を退位させよ」
献帝がその言葉を口にした時、曹操はどのような顔をしたか。献帝の言葉を借りれば、「顔色を失い、冷や汗を流し、一言も発せずに退出した」という。以来、曹操は宮中への参内を控えるようになった。自分の行動が天子から直に咎められたことで、さすがの曹操も動揺を隠せなかったのである。
高順はこの話を聞いて、内心で安堵した。献帝が自分の言葉で曹操を窘めたこと、そして曹操がそれを無視できなかったこと。それは天子が傀儡ではなく、確かに自分の意志を持ち始めている証拠だった。曹操とて、まだ漢室の臣であることを完全に捨てたわけではない。その良心が、彼の野心をかろうじて繋ぎ止めている。高順は深く平伏して言った。
「陛下、よくぞ仰せくださいました。どうかこれからも、ご自身のお考えを臣たちにお示しください。私は并州から、陛下をお守りいたします」
「高順、そなたはいつも朕を助けてくれる。しかし朕は、そなたに頼ってばかりではいられぬ。朕自身が、天子として立たねばならぬのだ」
献帝の声には、かつてないほどの決意が込められていた。高順はその言葉を胸に刻み、静かに退出した。
許昌の高順の仮住まいに戻ると、賈詡が待っていた。彼は各地から届いた報告書を手に、高順に目で合図を送る。
「将軍、洛陽再建の進捗が届いております。城壁の修復はすでに八割が完了し、宮殿の再建もあと半分で終わるとのこと。郝萌、魏続、宋憲、侯成、公孫鍛の五将が交代で指揮を執り、工事は順調に進んでおります」
高順は報告書を受け取り、目を通した。洛陽はかつて董卓によって焼き払われ、廃墟と化していた都である。しかし高順は洛陽の重要性を誰よりも理解していた。洛陽は并州と許昌を結ぶ要衝であり、ここを押さえる者は天下を押さえる。彼は洛陽の再建に、密かに力を注いできたのである。
「よし。洛陽が再建されれば、我々の選択肢は大きく広がる。張五を呼べ」
やがて張五が入ってきた。高順は彼に、各地で兵を募るよう命じた。
「洛陽の守備を固めるには、今の兵力では足りぬ。汝南、南陽、陳留、潁川。これらの地で募兵を行え。ただし、曹操の目に触れぬよう、細心の注意を払え。募兵の名目は洛陽再建のための労役募集とし、表向きは朝廷の事業として進めろ」
「承知しました。しかし将軍、洛陽に兵を置けば、曹操は必ず警戒します。よろしいのですか」
「構わん。曹操は今、袁紹の動きに神経を尖らせている。洛陽は袁紹に対する防衛線の要だ。曹操としても、洛陽が無防備であるよりは、我々が守っていた方が都合が良いと考えるだろう。それに、いざという時、洛陽は天子の避難場所としても使える。陛下は許昌に留まるよりも、洛陽に戻られることを望んでおられるかもしれん」
賈詡は高順の意図を正確に察した。高順は洛陽を単なる軍事拠点としてではなく、将来的な朝廷の移転先として考えているのである。曹操が許昌で専横を強めれば強めるほど、天子は洛陽を望むようになる。その時、洛陽を押さえている者が、天子の行く末を決めることができる。賈詡は微かに笑った。
「将軍は本当に先を見ておられますな。しかし、そうなれば曹操との決裂は避けられません。それでもよろしいのですか」
「避けられるなら避けたい。しかし、もし曹操が漢室を踏みにじるなら、その時は容赦しない。私は陛下と交わした約束を守るだけだ」
高順はそれ以上何も言わなかった。賈詡もまた、余計な追及はしなかった。彼は高順の決意がどれほどのものかを、すでに十分に理解していたからである。
驃騎将軍府では、高順の妻である蔡琰が、夫の帰りを待っていた。彼女は許昌に滞在する間、父の蔡邕と共に宮中での講義を手伝いながら、世の中の動きを注意深く見守っていた。曹操と劉備が庭園で酒を酌み交わし、天下の英雄を論じたという話も、すでに彼女の耳に入っていた。才女として名高い蔡琰は、そうした情報をただ聞き流すのではなく、その裏にある意味を読み取ろうとする女性だった。
「夫君、曹丞相と劉将軍が英雄を論じたそうです。天下の英雄は劉将軍と曹丞相だけだと。どう思いますか?」
高順が執務を終えて戻ると、蔡琰は茶を差し出しながら、静かに問いかけた。
「そうらしいな。袁紹、袁術、劉表、孫堅、劉璋、張繡、張魯、韓遂。あらゆる名を挙げて、そのすべてを彼は一蹴した。そして最後に、天下の英雄は劉備と自分だけだと言った」
「あなたは違うのですか」
「ふっ。昭姫…天下に誇る大才女が何を言うかと思えば…ふふふ」
蔡琰はしばらく沈黙した後、顔を上げて高順をまっすぐに見つめた。
「では、あなたにお聞きします。この乱世で、誰が真の英雄なのでしょうか」
高順は茶を受け取りながら、しばらく考え込んだ。彼はこの問いに、かつて曹操と向かい合って答えた時とは違う、もっと深い答えを求められている気がした。
「簡単だ。誰もいない」
高順の答えは短かった。蔡琰は驚いたように夫の顔を見つめる。彼女は彼が誰か一人の名を挙げると思っていたのだ。曹操か、劉備か、あるいは自分自身か。
「曹操は奸智に長けた奸雄だ。天下を取る才はあるが、その手段は時に苛烈に過ぎる。彼は目的のためには手段を選ばず、時には非情になりすぎる。辺譲を殺し、徐州で民を虐殺し、献帝を自らの掌中に置いて離さない。彼は漢室を守ると言いながら、その実、漢室を利用しているに過ぎない。だが彼には才がある。それを認めねば嘘になる。曹操は英雄ではないが、英雄に最も近い男ではある」
「劉備はどうですか」
「劉備は成り上がった梟雄だ。人を惹きつける徳は本物だが、まだその徳は天下を覆うほどの力を持っていない。彼は仁義を看板にしているが、その仁義が本心からなのか、それとも生き残るための計算なのか、私には判断がつかぬ。ただ一つ言えるのは、彼は決して凡庸ではない。曹操が彼を英雄と認めたのは、おそらく本心からだろう。劉備は英雄ではないが、英雄になり得る可能性を秘めている」
蔡琰は黙って聞いていた。高順はさらに続けた。
「董卓は手段を選ばない暴雄だった。彼は乱世を力で抑え込もうとしたが、力だけでは人は従わぬことを証明して死んだ。孫堅は単純な剛雄だ。彼は戦場では誰にも負けぬ勇将だが、天下を治める才はない。常に前線に立ち、自ら槍を振るう。その生き方は将としては見事だが、英雄ではない。呂布は戦場では項羽の如く強いが、去就が軽率すぎる。彼は誰にも飼いならせぬ虎であり、それは強みであると同時に致命的な弱点でもあった。今は河内郡で変わりつつあるが、それでも英雄ではない」
「では、袁紹は」
「袁紹はすでに曹操に論じられた通りだ。色は厲しく胆は薄く、謀を好むも断に欠け、大事をなさんとするに身を惜しみ、小利を見ては命を忘れる。彼は最も強大な諸侯でありながら、自らの猜疑心と優柔不断によって、その強さを活かしきれない。英雄ではない」
高順はそこで言葉を切り、茶を一口啜った。蔡琰は、夫がまだ最も重要なことを言っていないことに気づいた。
「では、あなたは」
「私は臆病者だ。臆病者ゆえに、皇帝に忠誠を誓い、封地に籠って生き延びることしか考えていない。天下を取ろうなどと思ったこともない。私はただ、死にたくないだけだ。自分の命を守り、家族を守り、民を守る。それだけで精一杯だ。だから私は英雄ではない」
蔡琰はその言葉を聞いて、少しだけ寂しそうに微笑んだ。彼女は夫が自分を過小評価していることをよく知っていた。しかし、それを指摘しても夫は決して認めないことも、彼女は知っていた。
「あなたはいつもそうですね。自分を過小評価する」
「過小評価ではない。事実だ。私は自分の限界を知っている。だからこそ、法と秩序を作った。私一人では守れないものを、仕組みで守るために」
蔡琰はしばらく沈黙した後、ふと顔を上げて問いかけた。彼女の目は、どこか試すような光を宿していた。
「旦那様、あなたが戦場で懼れるものはありますか」
高順はこの問いに、少しだけ笑った。それは珍しく、どこか茶目っ気を含んだ笑みだった。普段は決して見せない、素の表情だった。
「天下、高順をして懼れしむる者なし」
蔡琰は一瞬、言葉の意味を測りかねた。それは漢の高祖劉邦が天下を取った時に詠んだとされる「大風歌」の一節、「天下をして我に敵する者なからしむ」を彷彿とさせる、あまりにも大きな言葉だった。しかし高順の顔には、誇張も虚勢もなかった。ただ、穏やかな笑みがあるだけだった。
「それはつまり、強がりを言って格好をつけたかっただけなのでは」
「そうだ。男というものは、時に格好をつけたくなるものだ」
高順は真顔でそう言い、茶を一口啜った。蔡琰は笑いを堪えきれずに、しばらく肩を震わせていた。
「でも、本当に懼れるものはないのですか」
「ある」
高順は茶器を置き、少しだけ真剣な顔になった。
「私は死にたくない。だから懼れるとすれば、それは死そのものだ。しかし死を懼れても、戦場では何の役にも立たない。だから私は、死を懼れる代わりに、生きるための準備を徹底する。法を作り、兵を鍛え、民を養い、情報を集める。それらすべては、死にたくないという一心から来ている。だから私は、戦場で怖いと思ったことはない。怖がる暇があるなら、次の一手を考える」
「あなたは本当に、どこまでも合理主義者ですね」
蔡琰は微笑みながら言った。彼女は夫のそんなところを、誰よりも愛していた。
驃騎将軍府の夜は、こうして静かに更けていった。窓の外では、春の月が雲間から顔を出し始めている。天下は再び動乱の兆しを見せているが、少なくとも今この瞬間だけは、穏やかな時間が流れていた。しかし高順は知っていた。この静けさは長くは続かない。袁紹が動き、曹操が動き、劉備が動こうとしている。そして自分もまた、動かねばならない時が来る。その時に備えて、彼は今日もまた、やるべきことを一つひとつ片付けていくだけだった。




