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社畜が目覚めたら将軍!? 史実(未来予知)で成り上がり、乱世を生き抜く  作者: 八月河
第十二回 青梅煮酒論英雄 献策改革推憲制
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第十二回 青梅煮酒論英雄 献策改革推憲制 一段

建安三年、春。


中原の空は、異様に重たく垂れ込めていた。


冀州の鄴城では、河北の覇者・袁紹がついに動いた。公孫瓚はすでに高順によって滅ぼされた。袁紹はその隙に乗じて并州と幽州の境界に圧力をかけ、河北全土を覆い尽くさんばかりの勢いを見せている。その支配地域は冀州、青州に加え、并州と幽州の一部にも及び、動員できる兵力は実に数十万。天下の誰もが認める最強最大の諸侯が、その巨体をゆっくりと南に向け始めたのである。


鄴城の政庁には、袁紹麾下の名だたる謀臣たちが顔を揃えていた。田豊、沮授、逢紀、郭図、許攸、審配、辛毗、辛評、荀諶、崔琰。いずれも当代随一の知恵者である。彼らは連日、広間に広げられた巨大な地図を前に、次の戦略を練り続けていた。地図には、冀州、青州、并州、幽州、兗州、豫州、徐州、司隷、荊州、揚州、益州、涼州。天下のすべてが描かれている。その地図の上で、袁紹の版図は他のどの勢力よりも大きく、そして分厚かった。


「曹操と高順。この二つを同時に相手取ることはできぬ。必ず順序を誤るな」


袁紹が口を開いた。その声には、四世三公の名門に生まれ、河北の覇者として君臨してきた男の自負と、そして焦りが同居していた。彼はすでに五十を過ぎ、その顔には年齢相応の皺が刻まれている。しかしその目は、まだ衰えを知らぬ野心に燃えていた。曹操は天子を奉戴し、中原の心臓部を押さえている。高順は并州と幽州を掌握し、北方の異民族を平らげて静かに牙を研いでいる。どちらも決して侮れぬ相手だった。


「先に高順を滅ぼすべきです」


田豊が地図の并州を指さしながら言った。彼の声は静かだが、その目は鋭く光っている。田豊は袁紹の幕僚の中でも最も剛直な男であり、主君に対しても遠慮なく直言することで知られていた。


「高順は今、呂布の残党と袁術の遺臣を吸収したばかり。内政に手を取られ、軍を動かす余裕はありませぬ。今のうちに叩いておかねば、いずれ曹操と結びつき、我々の背後を脅かす存在となりましょう。高順は公孫瓚を滅ぼし、鮮卑と烏桓と匈奴を同時に退け、十五万匹の軍馬を手に入れました。今や彼の騎兵戦力は我が軍に匹敵します。しかも彼は法と秩序を整え、民を富ませ、兵器を改良し続けている。時間が経てば経つほど、高順は手強くなる。今こそ叩くべきです」


「異議あり」


沮授が静かに反論した。彼は田豊とは対照的に、常に慎重で冷静な男だった。


「高順は確かに手強い。しかし今、最も危険なのは曹操です。曹操は天子を擁し、大義名分を持っている。高順を攻めている間に曹操が背後を突けば、我々は挟み撃ちになります。先に曹操を叩き、天下の大義を奪うべきです。曹操さえ倒せば、高順は孤立し、いずれ自壊するでしょう」


田豊は沮授の言葉に深く頷きながらも、自説を曲げなかった。


「沮授の言うことももっともだ。しかし高順という男は、放っておけばどこまでも強くなる。彼の法と秩序は、単なる軍備の増強ではない。民を富ませ、人材を育て、国力を根底から底上げしている。今はまだその途上だが、完成すれば河北すら凌ぐ大国になるだろう。だからこそ、今のうちに叩くべきなのだ」


逢紀が袁紹の顔色を窺いながら言った。


「しかし高順の軍は精強です。正面から戦えば、かなりの犠牲を覚悟せねばなりますまい。まずはその実力を推して測るべきかと。小規模な兵力で攻め、高順がどう動くかを見極める。その上で本格的な侵攻の時期と規模を決めるのが得策でしょう」


郭図もこれに同意した。


「同感です。高順は并州に鉄壁の防御網を築いていると聞く。まずはその防御網の弱点を探り、戦力を測るべきです」


許攸は卓の上に広げられた地図をじっと見つめながら、別の角度から献策した。


「高順の弱みは、その支配地域の広さにあります。并州、幽州、河内、河東。これだけの版図を守るには、莫大な兵力が必要だ。我々が一斉に圧力をかければ、必ずどこかに綻びが生じる。その綻びを突くのです」


審配はさらに具体的な案を提示した。


「まずは并州の南端、河内郡を狙うべきです。河内郡には張楊が守備についておりますが、兵力は多くない。河内を攻めれば、高順は必ず援軍を送らざるを得ない。その隙に冀州から本隊を出し、并州の中心部を突く。これが最も確実な戦略です」


辛毗と辛評の兄弟も、それぞれに意見を述べた。辛毗は袁紹の子である袁譚の側近であり、袁譚の立場を強化するためにも、この戦いで功績を挙げる必要があると主張した。辛評はより慎重な姿勢を崩さず、まずは情報収集を徹底すべきだと進言した。


荀諶は曹操の陣営から袁紹のもとに移ってきた経歴を持つ。彼は曹操の戦術をよく知っており、「曹操は決して高順を見捨てません。高順を攻めれば、曹操は必ず援軍を送るでしょう。二正面作戦は危険です」と警告した。


崔琰は名門の出身であり、袁紹の政策全般に助言を与える立場から、この戦いが長引けば民が疲弊することを憂い、「短期決戦を心がけるべきです。戦が長引けば、民は苦しみ、兵站は逼迫する」と述べた。


袁紹は腕を組み、しばらく考え込んだ。彼の前には、天下の趨勢を左右する決断が迫っている。高順を先に叩くか、曹操を先に叩くか。その選択が、袁家の命運を決めることになる。


「よし。まずは高順の実力を測る。麹義を主将とし、小規模な兵力で河内郡を攻めさせよ。高順がどう動くかを見極める。その後、本格的な侵攻の時期と規模を決める」


「副将には誰を」


「李粛を使え」


袁紹はそう言って、微かに口元を歪めた。李粛はかつて呂布の同郷の騎都尉であり、董卓暗殺の際には囮役を務めた男である。その後、高順に追い返され、流浪の末に袁紹のもとに身を寄せていた。袁紹は李粛のことを「無能な毒」と見抜いていたが、それを承知で使うことにしたのである。毒は使いようによっては薬になる。李粛は高順を深く恨んでいたからだ。


李粛はこの報せを聞くと、内心で小躍りした。高順に追い返された屈辱は、彼の胸の奥でずっと燻り続けていた。今こそその恨みを晴らす時だと、彼は本気で信じていた。それどころか、高順さえ滅ぼせば、その後釜に座れるとさえ妄想していたのである。袁紹軍の副将として手柄を立て、いずれは并州の支配権を手に入れる。李粛の頭の中では、その甘美な妄想がどんどん膨らんでいった。


袁紹はさらに、顔良、文醜、高覧、張郃といった配下の猛将たちに対しても、速やかに軍を動かせるよう準備を命じた。顔良と文醜は袁紹軍の双璧であり、その武勇は天下に轟いている。高覧は堅実な指揮官であり、張郃は若くして騎兵の運用に長けた逸材だった。いずれも一騎当千の将たちであり、彼らが動くということは、袁紹が本気であることの証左だった。


そして袁紹は、当代随一の文筆家である陳琳に命じて、檄文を用意させた。いずれ高順を討つ時、天下に号令するための檄文である。陳琳は早速、その文才を振るって起草に取りかかった。彼の筆が走るたびに、高順を逆賊と断じ、袁紹の正義を天下に示す文章が紡がれていく。


こうして河北の巨人が、その巨体をゆっくりと動かし始めた。その震動は、やがて中原全土を揺るがすことになる。


同じ頃、許昌の高順の仮住まいでは、賈詡と董昭が山のような報告書と人事案を前に頭を悩ませていた。高順が袁術討伐と呂布降伏を経て新たに得た人材は、あまりに膨大だったのである。恵衢、秦翊、戚寄、祖郎、袁渙、閻象、韓胤、金尚、師宜官、舒邵、張範、陳瑀、陳紀、鄭泰、馬日磾、楊弘、李業、張炯、劉偕。さらに呂布の残党として許汎、許耽、侯諧、徐翕、魏种、王楷、陳宮、薛蘭、張超、張邈、畢谌、毛暉、李鄒、李封、劉何、蕭建。これだけの人材を一人ひとり適材適所に配置し、并州の官僚機構と軍制に組み込まねばならない。


「陳宮は呂布と共に河内郡へ。薛蘭と李封は張遼の麾下に。袁渙と閻象は学堂へ。恵衢と舒邵は許昌に残し、朝廷との連絡役に。秦翊、戚寄、祖郎は徐栄将軍の軍に預ける。馬日磾は許昌に戻し、鄭泰と張範は学堂の教鞭を。陳瑀は徐州との連絡役、陳紀と師宜官は賈詡の部下として情報収集と文書作成を。金尚と張炯は董昭のもとで学ばせ、劉偕と李業は河内郡の防衛に」


高順は一人ひとりの顔を思い浮かべながら、次々と配置を決めていった。その作業は深夜まで続いた。


「将軍、そろそろお休みにならねば。明日も早朝から曹操様との会見がございます」


賈詡が静かに促したが、高順は首を振った。


「いや、もう少しだ。この人事が終わらねば、私は戦場に立てぬ。袁紹が麹義を河内に差し向けたという報せが届いている。張楊たちがよく持ちこたえているが、いつまでも持つものではない。私は早く并州に戻らねばならぬのだ」


高順の声には、普段は決して表に出さない焦りが滲んでいた。


河内郡の前線では、麹義が率いる袁紹軍と、張楊が率いる并州軍が対峙していた。


麹義は界橋の戦いで公孫瓚の白馬義従を打ち破った名将である。彼は巧みに陣形を組み替えながら、并州軍の弱点を探っていた。しかし張楊もまた、高順が築き上げた防御システムを完璧に運用し、決して隙を見せない。郝萌は騎兵を率いて敵の側面を突き、宋憲と魏続は歩兵と弩兵の連携で敵の攻勢を防いだ。侯成は兵站を完璧に整え、長期戦を可能にしていた。曹性は弓兵を率いて敵将を狙撃し、麹義自身も危うく矢を受けるところだった。さらに張燕が遊軍を率いて山岳地帯を駆け巡り、袁紹軍の補給線を脅かし続けた。


両軍は膠着状態に陥り、睨み合いが続いた。


副将の李粛は、この膠着に苛立っていた。彼は高順さえ滅ぼせば、その後釜に座れると本気で信じていたからだ。しかし現実は、高順の代理に過ぎない張楊すら突破できず、李粛の妄想は音を立てて崩れつつあった。


「なぜ攻め切れぬ! 高順がおらぬのだぞ!」


「焦るな、李粛。高順が来ていないのは確かだ。だが、それでもこの防御は容易に崩せぬ。高順がどれだけのものを并州に築き上げたか、今、身をもって思い知っているところだ」


麹義の言葉に、李粛は唇を噛みしめた。彼の心の中で、高順への憎悪がさらに燃え上がっていく。しかしその憎悪は、彼を冷静さから遠ざけるばかりだった。


許昌では、もう一つの静かなる戦いが始まろうとしていた。


曹操は袁術を滅ぼした後、劉備を許昌に連れ帰っていた。劉備は袁術討伐の功績により、朝廷から正式に左将軍に任じられ、都亭侯に封じられた。かつて草鞋を売っていた男が、今や天子から将軍位を授かる身分となったのである。


この人事には、曹操の深い計算が込められていた。劉備を許昌に留め置き、朝廷の監視下に置くこと。そして表向きは厚遇しながら、その実、徐州から引き離すこと。曹操は劉備という男の危険性を、誰よりもよく理解していたからだ。


しかし、この人事を喜んだ者たちがいた。董承と伏完である。彼らは曹操を排除するため、あらゆる手段を模索していた。その矢先に現れたのが、左将軍・劉備だった。劉備は曹操と敵対する可能性を持つ数少ない諸侯の一人であり、何より天子の宗族としての血筋を持つ。これ以上ない人材だった。


董承は密かに劉備に接近し、曹操打倒の計画を打ち明けた。劉備は内心で激しく動揺しながらも、表向きは協力を約束した。しかし彼は、この計画がどれほど危険な賭けであるかを誰よりも理解していた。だからこそ劉備は、目立たぬよう細心の注意を払った。毎日、自宅の庭で黙々と青菜に水をやり、あたかも世の中の争いから身を引いたかのように振る舞ったのである。


曹操は、そんな劉備の動きをじっと見張っていた。高順という男だけでも十分に頭痛の種だというのに、今度は劉備という左将軍にして徐州牧、都亭侯が現れた。この二人が結びつけば、曹操の覇業にとって致命的な脅威となる。


ある雨の日、曹操は劉備を自宅の庭園に誘い出した。庭の梅の実はまだ青く、雨に濡れて瑞々しく輝いている。東屋には酒を煮る小さな炉が置かれ、青梅の塩漬けが肴として用意されていた。


劉備は曹操の屋敷を訪ねる時、密かに緊張に包まれていた。曹操は今、自分をどう見ているのか。董承の陰謀は露見しているのか。もし露見していれば、この酒宴は死の罠かもしれない。だが誘いを断れば、かえって疑念を招く。劉備は平静を装い、曹操の前に座った。


酒が煮え、青梅の香りが東屋に漂い始める。雨が庭の樹々を打つ音だけが、静かに響いていた。曹操は杯を傾けながら、ふと空を見上げた。遠くで雷鳴が微かに轟いている。曹操は杯を置き、劉備の目をまっすぐに見つめた。


「玄徳、お前に聞きたいことがある」


劉備は居住まいを正した。曹操の声には、普段の飄々とした調子とは違う、何か真剣な響きがあった。


「この乱世で、誰が英雄だと思う。お前の考えを聞かせてくれ」


劉備は曹操の問いに、しばらく考え込んだ。彼はもともと、こういう大言壮語を好む男ではない。しかし曹操の目は本気だった。ここで誤魔化せば、かえって疑念を招く。劉備はそのことをよく理解していた。彼は慎重に言葉を選びながら、最初の名を挙げた。


「河北の袁紹は、四世三公の名門。今や河北で最も強大な勢力を持つ男。英雄と言えるのではないでしょうか」


曹操は微かに笑い、首を振った。


「袁紹は、色は厲しく胆は薄く、謀を好むも断に欠け、大事をなさんとするに身を惜しみ、小利を見ては命を忘れる。四世三公の家柄で地は広く兵も多いが、とても英雄とは言えぬ。あれは英雄ではない。俺はそう見ている。他には」


曹操の言葉は鋭く、容赦がなかった。劉備は曹操の答えに少しだけ驚いた表情を見せたが、すぐに次の名を挙げた。


「淮南の袁術は、兵糧は豊富で、勢力も大きい。彼はどうでしょう」


「袁術はすでに滅んだ。墓中の枯骨に過ぎぬ。兵糧は豊富に備えていたが、既に生気はなく、滅ぶべくして滅んだ。語るに値せぬ」


曹操はぴしゃりと言い放った。劉備は苦笑し、さらに名を挙げる。


「荊州の劉表は、名声が高く、威厳もある。英雄と言えませんか」


「劉表は虚名にして実なし。八俊の声望はあるが、世を治める才には乏しい。英雄ではない」


「江東の孫堅は、勇猛果断、戦場では誰にも負けぬ。彼こそ英雄では」


「孫堅は惜しい男だが、彼は一箇所に留まることを知らぬ。常に前線に立ち、自ら槍を振るう。その生き方は将としては見事だが、天下を統べる者にはなれぬ。それに軽率で備えがなく、王覇の才にはあたらぬ。英雄と呼ぶにはまだ早い」


劉備は困ったように首を傾げ、さらに名を挙げた。


「益州の劉璋はどうでしょう」


「劉璋は守戸の犬に過ぎぬ。宗室ではあるが、守成の域を出ず、天下を争う志はない。英雄の器ではない」


「ならば張繡、張魯、韓遂といった者たちは」


曹操は手をひらりと振った。


「碌碌たる小人どもよ。雄略豪胆には欠け、取るに足らぬ。語るに足りぬ。玄徳、お前は遠くばかり見ている。英雄とは、必ずしも遠くにいるものではない。この身近な所にこそ、真の英雄はいるものだ」


劉備は曹操の言葉を聞き、ますます困った顔をした。彼はしばらく迷った末に、一つの名を口にした。


「高順はどうでしょう。并州と幽州を治め、法と秩序を築き、民を富ませている。彼こそ英雄なのでは」


曹操はこの問いに、しばらく沈黙した。雨が激しさを増し、庭の青梅を打つ音が東屋に響く。曹操は杯を手に取り、酒を一口含んでから、ゆっくりと口を開いた。


「高順は、自らを英雄とは呼ばぬ。あの男は『私はただ死にたくないだけだ』と言う。そしてその言葉に偽りはない。しかしな、玄徳。死にたくないだけの男が、これほどの国を築けるはずがない。高順には、何か別のものがある。彼がそれを自覚していないだけで」


曹操はそこで言葉を切り、庭の青梅を見つめた。


「俺は高順を最も警戒している。天下を取ると宣言する者より、何も望まないと言う者の方が、時に恐ろしい。なぜならあの男は、自分のために動かないからだ。法と秩序のために動く。それはつまり、あの男の行動が誰にも予測できないということだ。俺にはできぬ生き方だ。だからこそ、あの男は英雄ではない。英雄を超えた、別の何かだ」


曹操はそれ以上、高順について語らなかった。代わりに、自分の胸を指さした。


「天下の英雄とは、ただ君と操のみである」


その瞬間、劉備の手から箸が滑り落ちた。箸が床に当たる乾いた音が、静かな東屋に響く。ちょうどその時、空が一瞬光り、激しい雷鳴が轟いた。劉備は慌てて箸を拾い上げながら、苦笑いを浮かべた。


「いやはや、申し訳ありませぬ。この雷には、さすがの私も驚いてしまいました」


曹操は劉備の顔を見つめ、それから空を見上げた。


「玄徳、お前ほどの男が雷を怖がるとはな」


「聖人ですら雷鳴には顔色を変えると言います。ましてや私など、平然としてはいられませんよ」


曹操は笑った。しかしその目は笑っていなかった。彼は劉備という男の本質を測りかねていた。本当に雷に驚いたのか。それとも、自分の言葉に動揺したのを雷のせいにしたのか。いずれにせよ、劉備はただの男ではない。自分の言葉に箸を落とすほどに動揺する何かが、劉備の中にはあるのだ。


劉備は内心で冷や汗をかいていた。曹操は自分を英雄と評した。それは一見、最大級の賛辞のようでいて、実際には「お前は俺にとって最も危険な敵になり得る男だ」という警告に他ならない。曹操の目は、本気だった。自分がここで英雄として認められれば、それは同時に、曹操の抹殺対象として認識されることを意味する。劉備は雷に感謝した。あの一瞬の轟きが、自分の動揺を隠してくれた。


二人はそれから当たり障りのない話をいくつか交わし、やがて劉備は辞去した。


東屋に一人残った曹操は、劉備が去っていった庭の小道をじっと見つめていた。雨は次第に激しさを増し、庭の青梅を激しく打っている。曹操の心の中には、高順、劉備、袁紹。三人の顔が交錯していた。


「天下の英雄は、君と操のみ、か」


曹操は自分の言葉を反芻し、小さく笑った。本当の英雄とは何か。それはまだ、自分にもわかっていない。ただ、高順は英雄ではないと言った。しかし曹操には、そうは思えなかった。高順は英雄を超えた何かだ。そして劉備もまた、ただの男ではない。


劉備は自宅に戻ると、深く息を吐いた。彼は決断した。このまま許昌に留まっていては、いずれ曹操に殺される。董承の陰謀に加担するにせよ、しないにせよ、まずは曹操の監視から逃れねばならぬ。彼は密かに脱出の機会を窺い始めた。


曹操は東屋を出ると、執務室へと歩き出した。空は再び曇り始めていた。まだ嵐は来ない。しかし風は確かに変わり始めている。冀州の袁紹が動き、高順が并州で人事を固め、劉備が密かに動こうとしている。天下は再び、大きなうねりの中にあった。

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