三段
両軍が距離を取る中、荒野に奇妙な静けさが訪れた。
つい先ほどまで殺戮の巷と化していた凍った大地に、風だけが吹き抜けていく。倒れた兵士たちの体温が、氷の表面をわずかに溶かし、血の混じった水たまりを作っていた。冬の弱い陽光がその血溜まりに反射して、荒野は無数の赤い鏡を散りばめたように見える。
高順は驍風の上で、未だに心臓の高鳴りを抑えられずにいた。手綱を握る手が微かに震えている。さっきまでは戦いに必死で気づかなかったが、今になって恐怖が全身を駆け巡っていた。胃はキリキリと痛み、喉は乾き、太腿の内側は擦り切れて血が滲んでいる。
(俺はまた、生き延びた。でも何人死んだ? 味方も、敵も、数えきれないほどの人間が、今はもう冷たい地面の上に転がっている)
「大将! やりやしたね! 孫堅を追い返しましたぜ!」
張五が嬉しそうに駆け寄ってくる。彼の頬には泥が跳ね、若い目は興奮で輝いていた。兜はどこかで落としたらしく、ざんばら髪が汗で額に張り付いている。彼はまだ十代の終わりか、二十歳になったばかりだろう。この時代、彼くらいの年齢の若者は、戦場で死ぬことが当たり前だった。しかし張五は違う。高順はこの若者を、絶対に死なせまいと誓っていた。
「ああ。だが、まだ終わっていない。負傷者の手当てと、防御の再構築を急げ。それと、城外に出て味方の遺体を収容しろ。凍った地面は硬いが、できるだけ手厚く葬ってやれ」
「へい!」
張五が走り去るのを見送りながら、高順は再び荒野に目を向けた。孫堅の本隊はゆっくりと後退を続けている。しかしその撤退は、敗走ではなかった。隊列は乱れず、負傷者は仲間に担がれ、殿軍の騎兵はいつでも反転攻勢に出られる態勢を保っていた。旗指物は風に翻り、その威容はまだ失われていない。
(さすがは孫堅だ。撤退ひとつ取っても、隙がない。この男が生き残れば、江東はいずれ奴の手に渡るだろうな)
その時だった。
孫堅の本隊から、一騎の騎馬がこちらに向かって近づいてくるのが見えた。手には白旗を持っている。軍使である。馬蹄が凍った地面を刻む音が、静かな荒野に響いた。
「董卓軍の高順将軍に、お伝えしたい儀がございます」
軍使は若い士官だった。年の頃は高順とそう変わらない。きちんと整えられた鎧と、落ち着いた物腰から、名家の出身であることが窺えた。
高順は驍風から降り、軍使と対面した。こういう場合、馬上のまま応対するのは無礼とされる。現代のビジネスマナーと、根本的な部分は変わらない。相手が格上であれ格下であれ、正式な使者に対しては敬意を払う。それが組織人としての基本だ。
「高順である。何用だ」
「我が将が、高将軍と単独で話をしたいと仰せです。場所は両軍の中間点。互いに護衛はつけず、武器も持たず、二人だけで話をしたいとのこと」
「単独で? 孫将軍自らがか?」
「はい。これ以上の戦いは無意味であると、孫将軍はお考えのようです。つきましては、将帥同士で話し合い、互いの兵をこれ以上死なせずに済む道を探りたい、と」
高順は考えた。これは罠かもしれない。孫堅がそんな提案をするのは変だ。史実の孫堅は猛将であり、敵将と和睦の話し合いなどする男ではない。彼は常に正面から敵を粉砕することを信条とし、策略や外交を嫌った。だが、史実では孫堅は陽人で勝っている。今は違う。兵站を断たれ、このままでは撤退するしかない状況で、孫堅はおそらく必死なのだ。
それに、これはチャンスでもあった。孫堅と直接話ができる機会など、めったにあるものではない。歴史に名を残す英傑と、言葉を交わすことができる。それは、現代人の俺にとって、何にも代えがたい経験になるかもしれない。
「わかった。孫将軍の申し出を受けよう。ただし条件がある。場所はあの柳の木の下。互いに丸腰であることを事前に確認する。護衛は互いに三百歩までしか近づけさせない。そして、会談の時間は一刻限り。それを過ぎれば、互いに陣営に戻る」
「承知いたしました。それでは、のちほど」
軍使が馬を返し、孫堅の本隊へと戻っていく。高順は振り返り、側に控えていた張遼に言った。
「聞いての通りだ。俺はこれから孫文台に会う。もし俺が殺されたら、お前が指揮を執れ」
「高将軍! 危険です! 罠かもしれませんぞ!」
張遼の声は切迫していた。彼は高順の袖を掴み、必死の形相で引き止めようとする。彼にとって高順は、すでに単なる上官以上の存在だった。昨日の軍議での詭弁、今日の戦場での采配、そして何より、自分の命を賭して華雄を救った勇気。それらを目の当たりにした張遼は、高順に全幅の信頼を寄せていた。
「罠なら罠で構わん。その時は、俺の死を糧にして全軍で孫堅を討て」
(ケケケッ……、きまったぜ!)
高順は淡々と言った。本音を言えば、怖くて仕方ない。孫堅に会うなど、自殺行為に等しいかもしれない。彼は江東の虎。一騎打ちで無数の敵将を討ち取ってきた猛者だ。その彼と丸腰で会うなど、正気の沙汰ではない。
だがあえて危険を冒すのも、臆病者の生き残る術の一つだった。なぜなら、ここで会談を拒否すれば、戦いはまだ続く。もっと多くの兵が死ぬ。もしかすると、自分も死ぬ。死にたくないからこそ、危険を冒してでも戦いを終わらせる。我ながら矛盾しているが、これが俺の生き方だ。
「文遠、お前に一つだけ言っておく。俺がもし戻らなかったら、陷陣営の指揮はお前に託す。吕将軍によく仕えろ。だが、決して彼の無謀に巻き込まれて死ぬな。いいな」
「将軍……」
「大丈夫だ。俺は死なない。死にたくないからな」
そう言って、高順は驍風に跨った。
両軍の中間点。凍った荒野に一本だけ立つ、古い柳の木の下。
柳は冬の寒さに葉を落とし、裸の枝が風に揺れていた。その幹は太く、幾年の歳月を生き延びてきたことが見て取れる。もしかすると、この木は戦国時代からこの地に立っているのかもしれない。数えきれないほどの戦いを見てきて、これからも見続けるのだろう。
(ふふふ、樹は静かなるを欲するが風は止まぬ、か。なら、見てろ。これから、俺を転生させたヤツに後悔をさせて歴史を変えて老衰で死んでやる!)
高順は約束通り、武器を持たずに驍風に跨り、指定の場所へと向かった。丸腰で馬に乗るのは、心許ない。鐙があっても、手に武器がないというだけで、これほど不安になるものか。身体が無意識に、腰に剣がないことを確かめている。
孫堅はすでに来ていた。彼もまた丸腰で、馬を柳の木に繋いで待っている。その姿は、戦場で見た時よりもずっと小さく見えた。いや、小さく見えるのは、武器を持っていないからか。あるいは、彼が今、一人の人間として、将軍ではなく私人としてここに立っているからか。
「来たか、高将軍」
孫堅の声は、戦場で聞いた時よりも落ち着いていた。怒りも、殺気もない。ただ、深い疲労を帯びた、一人の中年男の声だった。その顔には、昨日までの激戦と、兵站を断たれた焦燥と、そして部下を死なせてしまった自責の念が、くっきりと刻まれている。
「お呼びとあらば。孫将軍」
高順は馬を降り、孫堅と正対した。二人の間はわずか五歩。互いの顔が、はっきりと見える距離だった。接近戦ならば、一息で間合いを詰められる距離である。互いに丸腰とはいえ、素手でも殺し合える間合いだった。
孫堅はしばらくの間、無言で高順の顔を見つめていた。値踏みをするような、しかしどこか感慨深げな視線だった。彼の目は、戦場で見せた猛禽類のような鋭さを潜め、代わりに一人の為政者としての重みを帯びている。
「そなた、年はいくつだ」
「二十四、といったところでございます」
高順は曖昧に答えた。本当は前世の年齢を足せば六十を超えているが、この身体の年齢ならそのくらいだろう。
「若いな。その若さで、よくもまああれだけの策を弄したものだ。城門を凍らせ、騎兵に足掛けを作らせ、わざわざ呂布を背後に回らせた。全部、そなたの策だな」
「お見通しで」
「呂布に考えられるはずがない。あの男は戦場では無敵だが、戦略というものを理解していない。あれはそなたの知恵だ。そしてなにより、兵站を狙った戦術眼。あれは、並の武将には真似できぬ」
孫堅はそこで言葉を切り、少しだけ笑った。それは苦笑だった。自分の敗北を認める、苦い笑みだった。
「正直なところ、俺はそなたに負けた。戦場では引き分けだったが、戦略では完全に負けている。袁術が兵糧を送らぬことを、そなたは最初から読んでいたのだろう」
(この人は、自分の敗因を完全に理解している。袁術という名の、自分の同盟者が、自分の足を引っ張っていることを知っている。そしてそれでも、袁術と手を切ることができない。なぜなら、袁術の支援がなければ、彼の軍は存続できないからだ。それもまた、政治というものだ)
高陽的な視点で言うならば、これは悲劇である。有能な将帥が、無能な政治家に足を引っ張られて敗れる。それはいつの時代も繰り返される、政治の構造的な欠陥だった。会社組織でも同じだ。優秀な現場責任者が、無能な本部長のせいでプロジェクトを潰される。孫堅は今、まさにその憂き目に遭っている。
「しかしだ、将軍。俺はそなたに言っておきたいことがある」
孫堅の目が、急に真剣なものに変わった。その瞳には、先ほどまでの疲労とは別の、強い意志の光が宿っている。
「董卓は駄目だ。あの男は天下を取れぬ。一時は権勢を誇ろうとも、やがて自らの暴虐に滅ぼされるだろう。あの男に仕える限り、そなたもまた破滅の道連れになるぞ」
高順は答えなかった。だが、その沈黙が孫堅には雄弁に語りかけたらしい。彼は小さく頷いた。
「図星か。ならばいい。俺はそなたに一つ、借りを作りたい」
「借り、でございますか」
「うむ。俺はこれから袁術の下に戻る。負け戦の報告をせねばならぬ。そこでだ。俺が負けたことをそなたの策のせいにしたい。つまり、高順という武将が並々ならぬ知恵者であると、大々的に吹聴したいのだ。そうすれば袁術も、俺の敗北を納得せざるを得まい。俺はただの無能な指揮官ではなく、類稀なる智将に敗れた犠牲者ということになる」
(なるほど。孫堅は自分が負けた理由を、俺の優秀さに求めることで、袁術からの追及を逃れようとしている。そして同時に、俺に恩を売ろうとしているのだ。つまり、俺の名を天下に知らしめることが、借りになるというわけか)
「お好きになさればよろしい。私は別に、名を売りたいとは思っておりませんが」
「だが、名は売れるぞ。呂布の陰に隠れた名将、高順、高孝父。その名は、天下に轟くことになる」
孫堅はそう言って、手を差し出した。握手を求めているのだ。この時代に握手の習慣はないが、どうやら孫堅なりの誠意の表現らしい。彼はきっと、誰かと手を握ることでしか、自分の気持ちを伝えられない不器用な男なのだろう。
高順はその手を取った。孫堅の手は、武将の手だった。分厚く、硬く、そして温かかった。無数の戦場で大刀を振るい、無数の敵を屠ってきた手。しかしその手は同時に、息子たちの頭を撫で、妻の肩を抱き、友と杯を交わしてきた手でもある。互いに人を殺してきた手同士が、今は固く結ばれている。
「さらばだ、高順。次に会う時は、敵としてではなく、友として会いたいものだ」
「それは難しゅうございましょう。天下は乱れ、我々はそれぞれの主君に仕える身。ですが、その言葉、しかと心に刻みました」
孫堅は馬に跨った。その背中に向かって、高順は言った。
「孫将軍。幾つか、お伝えしておきたいことがございます」
「なんだ」
「お子のことでございます。孫策どのと、孫権どの。お二方とも、将来必ずや大器となられるでしょう。どうか、お命を大切になさる様……」
孫堅の目が、驚きに見開かれた。彼の子供たちはまだ幼く、孫策は数え年で十四、孫権に至ってはまだ四歳である。その幼い子供たちの将来を、敵将である高順が予言するとは、思いもよらなかったのだろう。
「そなた、易者か何かか」
「いいえ。ただの勘でございます」
(勘じゃない。歴史の知識だ。孫堅はもうすぐ死ぬ。荊州の劉表との戦いで、矢に当たって戦死する。あと五年も先の話だ。だが、その死がなければ孫策は立たず、孫権もまた呉の主君にはなれなかった。歴史とは、皮肉なものだ)
「それと、袁術は将軍を滅ぼすことになるでしょうが、荊州に行く事を考えずに江東を抑える様に……」
孫堅はしばらく考え込んでいたが、やがて深く頷いた。
「わかった。覚えておこう」
それが、高順と孫堅の、最初で最後の会話となった。
孫堅を見送った後、高順は自分の陣営に戻った。その胸の中には、奇妙な感情が渦巻いていた。
(俺は今、歴史に介入した。孫堅に、もしかすると死を避けさせるかもしれない言葉をかけた。それが何をもたらすか、俺にはわからない。でも、もし孫堅が生き延びれば、歴史は変わる。もしかすると、孫策も孫権も、歴史に登場しなくなるかもしれない。それは良いことなのか、悪いことなのか)
歴史とは英雄たちの活躍によって作られる壮大な叙事詩である。劉備、関羽、張飛、諸葛亮。彼らが織り成す物語こそが三国志だ。しかし歴史とは無数の偶然と必然が折り重なった結果に過ぎない。そして、その結果の裏には、語られることのない無数の死体が積み重なっている。英雄たちの華々しい活躍の裏で、名もなき兵士たちが冷たい地面の上で息絶えていく。
(俺は死にたくない。それだけだ。歴史を変えるつもりも、英雄になるつもりもない。ただ生き延びて、安全な場所で、静かに暮らしたい。でも、それはもう無理なのかもしれない。なぜなら、俺はすでに歴史に介入してしまったからだ)
高順は驍風の手綱を握り直した。手のひらには、まだ孫堅の手を握った感触が残っている。それは不思議と、不快な感触ではなかった。
その時、遠く洛陽の方角から、早馬が数騎、こちらに向かって疾走してくるのが見えた。馬蹄が凍った大地を砕き、騎手たちは必死の形相で手綱を鞭打っている。董卓の使者である。いや、ただの使者ではない。その数と速度からして、ただならぬ用件であることは明らかだった。通常の使者ならば、ここまで急ぐ必要はない。
先頭を走るのは、董卓の女婿、牛輔だった。彼は董卓の親族であり、涼州閥の中でも特に権勢を振るう人物である。その彼が自ら使者として来るということは、董卓の命令がよほどの重要事である証拠だった。
「高将軍! 華将軍! 相国からの急使にございます! お二方とも、直ちに洛陽へ参られよとの仰せ!」
高順は華雄と顔を見合わせた。華雄の顔には、疲労の色が濃く刻まれている。彼は昨日の傷がまだ癒えておらず、左腕を包帯で吊ったままだ。
(来たか。この呼び出しが、吉報か凶報か、それは洛陽に行ってみなければわからない。でも、行くしかない。拒否すれば反逆とみなされる。行けば何かが起こる。行かなくても何かが起こる。だったら行って、起こることを見極めるしかない)
「承知した。準備が整い次第、出立する」
高順は平静を装って答えた。胃が痛むのは、もはや平常運転だった。むしろ胃が痛まない日の方が珍しい。我ながら、よくこのストレスで胃に穴が開かないものだ。
牛輔は高順の顔をじろじろと眺め、それから何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わずに馬を返した。彼は高順という男を、まだどう扱うべきか判断しかねているようだった。胡軫の報告では命令違反の反逆者。しかし戦場の結果を見れば、董卓軍を勝利に導いた立役者。そのギャップが、牛輔の中でまだ整理できていないのだろう。
(洛陽か。董卓に会うのか。あの暴君に、俺はどう映るだろうな)
高順は驍風の手綱を引いて、梁県城へと馬を返した。城内では、張五が負傷者の手当てに追われている。その後ろ姿を見ながら、高順は小さく息を吐いた。
(せめて、こいつらだけは守らなければ。董卓に何を言われようと、俺は俺のやり方で生き延びる)
冬の風が、古い柳の木の枝を揺らしていた。その音はまるで、遠くから聞こえる誰かのすすり泣きのようにも、あるいはこれから始まる新たな戦いの予兆のようにも、聞こえた。




