二段
孫堅軍の総攻撃が始まってから一刻が過ぎた。
攻城兵器の車輪は凍った泥濘に嵌まり続け、城壁に取りつくための雲梯も滑る地面に足を取られて思うように進まない。程普は苛立ちを隠せずにいた。歴戦の将である彼は、この攻城戦が常軌を逸していることを肌で感じ取っていた。
「まだか! 城門はまだ破れぬのか!」
程普の怒号が戦場に響く。彼の傍らでは、破城槌を引く牛が泥濘に脚を取られ、身動きできずにいた。兵士たちが牛を鞭打ち、押し、引こうとするが、滑る地面の上では何の力も入らない。
「程将軍! 城門は凍りついております! それに、地面がぬかるんで梯子が立ちませぬ!」
「ならば人の壁を作れ! 兵を重ねて城壁によじ登れ!」
程普の指示で、兵士たちが次々と城壁に取りつこうとする。しかし城壁の上からは、高順が事前に用意させていた熱湯と汚物の入った桶が浴びせられた。凍てつく冬の空気の中で、熱湯は一瞬で湯気を上げ、浴びせられた兵士の肌を灼く。
断末魔の叫びが城壁にこだました。
(これが攻城戦の現実だ。華々しさなどない。あるのは苦痛と悪臭と、無意味な死だけだ)
高順は城壁の上から、眼下の惨状を冷徹に見下ろしていた。彼の隣では張五が顔を青くしている。若い張五には、この光景はあまりにも残酷すぎた。
「大将、あれを……」
張五が指さす先では、味方の矢に射抜かれた敵兵が、まだ息をしながら泥濘の中でのたうっていた。矢は喉を貫いており、彼は声を上げることもできず、ただ口をパクパクと動かしている。
「見るな。見ても、何も変わらん」
高順は短く言った。
(俺だって見たくない。でも、これが戦争なんだ。そして俺は、こいつらを殺さなければ殺される立場にいる。だったら、殺すしかない)
しかし、高順は気づいていた。程普の攻めがあまりに拙速であることに。
本来、孫堅軍の四天王と称される程普は、もっと老練な指揮官のはずである。このような凍った地面での攻城戦を、無理に続けるような将ではない。だとしたら、なぜ彼は無理を押して攻め続けるのか。
(理由は一つしかない。後がないのだ。兵站が破綻しているから、時間をかけられない。短期決戦で決着をつけるしかない)
高順の推測は的中していた。
程普は焦っていた。孫堅軍の補給線が、後方で何者かに断たれ始めているという報告が、つい先ほど入ったばかりだったのだ。最初は小規模な襲撃かと思われた。盗賊か、あるいは董卓軍の小部隊による嫌がらせだろうと。しかし、その襲撃は次第に大胆になり、今では輸送隊がまるごと消息を絶つ事態にまで発展していた。
(呂布が動いた。あの騎兵隊だ)
程普は歯噛みした。つい先ほど、後方の丘から黒煙が上がるのが見えた。それは兵糧を積んだ荷車が燃やされている煙に違いない。あと二日分の兵糧しかない。それまでに城を落とせなければ、全軍が飢えてしまう。
「全軍、総攻撃! 退却は許さぬ!」
程普の命令が下され、第二陣として待機していた黄蓋の部隊が動き始めた。同時に、右翼の韓当も攻城に加わる。城門の一点に攻撃を集中させる従来の戦法を捨て、城壁全体に広く圧力をかける包囲攻撃に切り替えたのである。
(包囲攻撃か。兵力に物を言わせた、力押しの戦法だ。だが、あの凍った地面の上でそれをやるのは無理がある。隊列が間延びして、指揮が届かなくなる)
高順の読み通り、孫堅軍の攻勢は一時的に激しさを増したが、そのぶん混乱も大きかった。攻城兵器と梯子隊、弓隊と歩兵隊が凍った狭い地盤の上で折り重なり、あちこちで渋滞が発生した。
そこへ、城壁からの集中射撃が浴びせられる。
「放て! 矢を惜しむな!」
高順の号令で、弩の射撃がさらに激しさを増した。昨日のうちに高順が城内の矢をかき集めさせていたおかげで、弾薬だけは潤沢にあった。
敵兵が次々と倒れていく。凍った泥濘の上で、血と泥と氷が混ざり合い、異様な光景を作り出していた。羅貫中ならばこの戦場を「修羅の巷」と形容するだろう。しかし高順の目には、それはただの「屠殺場」にしか見えなかった。
その時だった。
城外から、鋭い銅鑼の音が響き渡った。それは孫堅軍の撤退信号だった。
「なに? なぜ撤退の合図を!」
程普が振り返る。後方の本隊から、伝令の騎兵が必死の形相で駆けてくるのが見えた。
「程将軍! 孫将軍からの命令です! 直ちに攻撃を中止し、本隊と合流せよと!」
「理由は?」
「呂布の騎兵隊が、我が本陣に奇襲をかけております! 孫将軍自ら迎撃に出られましたが、敵の騎馬は異様に速く、親衛隊が押されております!」
「馬鹿な! 本陣は後方五里の地点だぞ! 騎兵が迂回するには山を越えねばならぬ。それなのに、もう攻撃を開始したというのか?」
「はい! 呂布の騎兵隊は山越えの後に休むことなく、そのまま突撃してきたとのことです!」
程普は耳を疑った。騎兵というものは、消耗の激しい兵種である。長距離の迂回行軍の後は、馬を休ませ、鞍を調整し、体勢を整えるのが常識だった。しかし呂布はそれをしなかった。なぜか。馬の消耗を無視できるだけの余裕があるのか。
(違う。鐙だ。高順が作らせたあの足掛けが、騎兵の疲労を軽減しているのだ)
程普は初めて、高順という男の真の恐ろしさを理解した。あの男は単なる一武将ではない。戦争そのものの仕組みを変えようとしている。
「全軍、反転! 本隊の救援に向かう!」
程普は苦渋の決断を下した。攻城を中止し、全軍を率いて本隊の救援に向かう。それはつまり、梁県攻略の失敗を意味していた。
孫堅軍の兵士たちが、蜘蛛の子を散らすように撤退を始める。城壁の上からは、董卓軍の兵士たちの歓声が上がった。
「勝ったぞ!」
「孫堅が逃げていく!」
「高将軍の作戦通りだ!」
しかし高順だけは、歓声に加わらなかった。彼は城壁の上から、撤退していく孫堅軍の動きを双眼鏡も持たぬ裸眼で追い続けていた。
(まだだ。まだ勝負は終わっていない。孫堅の本隊は健在だ。それに、呂布がどこまで踏み込むかわからない)
高順の懸念は的中していた。
本隊に合流した程普は、孫堅軍の本陣が想像以上の混乱に陥っていることを知った。呂布の騎兵隊は、孫堅の親衛隊を蹂躙し、目前まで迫っていたのである。
方天画戟を振るう呂布の姿は、まさに鬼神そのものだった。一振りで三人の兵士が同時に斬り伏せられ、馬を飛ばしての連続突きで槍兵が次々と貫かれていく。しかも鐙によって安定した馬上から繰り出されるその一撃は、これまで以上の破壊力を備えていた。
「孫堅! 出てこい! 臆したか、江東の虎よ!」
呂布の声が、戦場に木霊した。
「黙れ、三姓の奴隷めが!」
孫堅は古錠刀を手に、自ら呂布に打ちかかっていった。江東の虎と飛将軍。二人の豪傑が、荒野の真っ只中で激突した。
古錠刀と戟が交錯し、火花が散る。馬が嘶き、蹄が凍った地面を砕く。互いに一歩も譲らぬ打ち合いが続いた。
(ああ、なんて見事な一騎打ちだ。羅貫中ならば、この場面をどれほど華麗に描くだろうか)
遠くからその光景を眺めながら、高順は冷静に考えていた。
(だが、ここで孫堅を討つのは得策じゃない。孫堅が死ねば、江東の兵は統制を失って暴走するだろう。そうなれば梁県は戦火に包まれ、結局は俺たちも無事では済まない。生き残るためには、ここで孫堅に退いてもらうのが一番いい)
政治的な視点で言うならば、戦争とは戦場だけの出来事ではない。外交、兵站、人事、そして何より「誰が生き残り、誰が死ぬか」という政治的な判断の積み重ねである。
董卓に完全に忠誠を誓う気のない高順にとって、孫堅は将来的に利用できる可能性のある駒だった。ならば、ここで殺すのは惜しい。むしろ、貸しを作っておくべきだ。
「文遠! 伯業! 出撃するぞ! 目的は孫堅軍の救援ではない。呂布将軍の引き際を作る!」
「はっ!」
高順は城門を開け放ち、自ら驍風に跨って出撃した。凍った地面の上でも、鐙を装備した驍風は安定した走りを見せる。その後ろに、陷陣営の精鋭騎兵百騎が続いた。
荒野を疾走しながら、高順は戦況を見極めていた。呂布は孫堅との一騎打ちに夢中になっている。その隙に、黄蓋と韓当の部隊が側面から呂布隊を包囲しつつあった。
(あのままでは、さしもの呂布も数的劣勢で押し切られる。今だ)
「呂布将軍! 董相国からの伝令です! 直ちに撤退せよとのこと!」
高順は必死の大声で叫んだ。無論、そんな伝令は来ていない。これはハッタリだった。しかしこの場では、もっとも有効なハッタリである。
「なに? 相国が?」
呂布は一瞬だけ動きを止めた。その隙を、孫堅は逃さなかった。
「呂布、勝負は預けたぞ。お互い、退くがよかろう」
孫堅もまた、これ以上の戦いが無意味であることを悟っていた。兵站は断たれ、兵は疲弊し、城は落ちない。ならば、将同士の意地の張り合いで兵を死なせるわけにはいかない。
「ふん。面白くない」
呂布は戟を収め、馬首を返した。孫堅も古錠刀を収め、自軍に撤退を命じる。
両軍が、ゆっくりと距離を取っていく。陽人の戦いは、終わったのである。
「高順、貴様、今の伝令は嘘だな」
呂布が高順の傍らに馬を寄せて、低い声で言った。
「はい。ですが、嘘も方便でございます」
「ふん。貴様のそういうところ、嫌いではないぞ」
呂布はそう言って、高順の肩をバンと叩いた。その衝撃で、高順の胃がさらに痛んだ。
(頼むから肩を叩くな。胃に響く)
戦いの終わった荒野には、数え切れないほどの死体が転がっていた。冬の風が、血と臓物の臭いを運んでいく。それを吸い込みながら、高順は思った。
(これで第二ラウンドは終わった。だが、まだだ。本当の戦いは、これから始まる)
遠く洛陽の方角から、使者を乗せた馬が数騎、こちらに向かって疾走してくるのが見えた。董卓の使者である。高順は直感的に悟った。この勝利が、新たな面倒事を引き寄せていることを。




