一段
陽人城の城壁の上から見渡す限り、冬の荒野は敵軍の旗指物で埋め尽くされていた。前衛に程普、左翼に黄蓋、右翼に韓当。そしていまだ姿を見せぬ本隊には、孫堅自身が控えている。その総数、優に一万五千。対する梁県の守備兵は、敗残兵をかき集めても五千に満たない。
高順は城壁の上で、敵の布陣を観察していた。冬の夜明けの空気は刃物のように冷たく、吐く息が白く凍る。手すりの石は霜で滑りやすくなり、足元には前夜に撒いた水がそのまま凍って、危うい光沢を放っていた。遠くに見える孫堅軍の陣営からは、炊事の煙が無数に立ち昇っている。あの煙の数だけ、敵兵がいるということだ。
(三倍か。まあ、想定の範囲内だ。こうでもしなきゃメンタルが持たねぇ……)
高順の頭の中では、すでに計算が終わっていた。兵数の差は三倍。しかし戦力の差は、単純な兵数では決まらない。士気、装備、地形、天候、そして何より補給。それらを総合的に判断すれば、勝機は十分にある。
孫堅軍の陣形は、古典的な三段構えである。第一陣が攻城兵器を押し立てて城門に迫り、第二陣が梯子と縄梯子で城壁をよじ登り、第三陣が予備兵力として勝負どころを窺う。教科書通りの正攻法だった。教科書通りであるがゆえに、読みやすい。高順はそう判断した。攻城戦の定石は四百年以上前に孫武が整理して以来、根本的には変わっていない。高順はその定石を、現代の知識で読み解くことができた。
「呉資、城門の守りは任せたぞ。決して開けるな。どれほど攻められても、どれほど罵倒されても、決してだ」
「はっ! ですが将軍、それでは籠城が長引けばいずれは」
呉資の声には不安が滲んでいた。無理もない。昨夜のうちに高順が説明した作戦は、常識からあまりにかけ離れていたからである。城門を敢えて凍らせて敵の侵攻を遅延させるという奇策、そして呂布の騎兵隊に全てを賭けるという博打。どちらも、並の将帥なら一笑に付すような作戦だった。しかし呉資は、昨日の祖茂撃退を目の当たりにしている。高順の言葉には、根拠のない自信ではない何かがあることを、肌で感じていた。
「長引かせない。それが今回の戦の要点だ」
高順は短く答えた。顔は無表情。だが心臓は早鐘を打っている。手のひらには冷や汗が滲み、鎧の下で胃がキリキリと痛んでいた。
(大丈夫だ。俺の読みが正しければ、孫堅の兵糧はあと三日もたない)
高順の頭脳は、歴史の知識と現代の論理を総動員して、一つの結論を導き出していた。
孫堅は猛将である。しかし、猛将であるがゆえの弱点があった。彼は袁術から兵糧の補給を受けているが、袁術という男は猜疑心が強く、他人に手柄を奪われることを何よりも恐れる。孫堅が連戦連勝で洛陽に迫れば迫るほど、袁術は補給を絞るだろう。なぜなら、孫堅が董卓を倒してしまえば、袁術自身の存在意義が薄れるからである。
これは歴史書に記された事実である。袁術は孫堅の進軍を妬み、故意に兵糧の輸送を遅らせた。高順はその知識を利用しようとしていた。歴史の知識とは、過去に何が起きたかを知ることではない。人間というものが、いつの時代も同じ過ちを繰り返すことを知ることだ。
(人の嫉妬は、時代を超えて変わらない。会社組織でもそうだった。有能な部下が出世しそうになると、無能な上司は必ず足を引っ張る。袁術も同じだ。自分の保身のために、孫堅の足を引っ張る。俺はそれを、ただ待てばいい)
冷徹な戦術眼で言うならば、これは「待ちの戦略」である。自ら動かず、敵の自滅を待つ。最小限の労力で最大限の効果を得る。臆病者にこそ相応しい、合理的な戦い方だった。
「それと、張五。用意はできているか?」
「へい! 大将の言う通り、城門の前にたっぷりと撒いておきました!」
張五が嬉しそうに報告する。彼が撒いたのは、水である。城門の前の地面に大量の水を撒き、冬の寒さで凍らせたのだ。張五は昨夜、数十人の兵士を率いて城内の井戸から何百桶もの水を運び、城門前の斜面に均等に撒いた。凍てつく夜気の中で、水は見る見るうちに凍り、表面は鏡のような氷の層を作り出していた。
高順は城壁から身を乗り出して、眼下の地面を観察した。表面は薄く凍り、朝日を受けて鏡のように光っている。しかしその下は、まだ凍りきっていない泥濘だ。騎馬の蹄が踏み込めば表面の氷が割れ、その下の泥に脚を取られる。攻城兵器の車輪も同じである。重い破城槌や雲梯を載せた車両は、ぬかるみに車輪を取られて身動きが取れなくなるだろう。
(鐙があっても、凍った泥濘の上では騎兵の機動力は半減する。攻城兵器も車輪が滑って思うように進めまい。時間を稼ぐにはもってこいだ)
これもまた、「戦術の否定」である。敵の強みを正面から打ち破るのではなく、敵がその強みを発揮できない状況を作り出す。騎兵の機動力という強みを、凍った泥濘という環境で無効化する。攻城兵器の破壊力という強みを、滑る地面という物理法則で減殺する。戦術とは、必ずしも敵を打ち負かすことではない。敵が自ら敗れる条件を整えることもまた、戦術なのである。
臆病者の戦い方とは、そういうことだ。強者と正面からぶつからない。ぶつからずに勝つ方法を、徹底的に考え抜く。それが高順の生存戦略だった。正面から戦えば勝てない相手でも、条件を変えれば勝てる。それは現代のビジネスの世界で、弱小企業が大企業に対抗するために使う戦略と同じだった。正面から価格競争を仕掛けるのではなく、大企業が手を出せない隙間市場を狙う。あるいは、大企業が気づかないうちに、ゲームのルールそのものを変えてしまう。
「高将軍、本当に呂布将軍は動いてくれるのでしょうか」
華雄が不安げに尋ねた。彼は昨日の戦いの傷がまだ癒えておらず、左腕を包帯で吊っている。大弓を引くことはできないが、大刀を片手で振るうだけの力は残っていた。その顔には、深い疲労の色が刻まれている。
「約束はした」
「しかし、呂布将軍はこれまでも軍議の決定を無視したことが何度も」
華雄の不安はもっともだった。呂布という男は、気分次第で約束を平然と破る。それが并州軍の将帥たちの共通認識だった。軍議で決まった作戦を無視して単独行動を取ることなど日常茶飯事であり、それによって味方が危機に陥ったことも一度や二度ではない。つい昨日も、胡軫との連携を一方的に放棄して、華雄を危うく死なせかけたばかりである。
「ああ。だから、信じるしかない」
高順はそう言って、薄く笑った。
(正直、俺も五分五分だと思っている。あの脳筋好色ゴキブリが約束を守る保証なんてどこにもない。だが、呂布は負けず嫌いだ。鐙という新兵器を与えられて、それを使わずに終わるような男ではない。それに、俺がわざわざ鐙の試作品を献上した意味を、あの男は理解しているはずだ)
呂布という男を動かすには、三つの方法がある。一つは恐怖。董卓がそうしているように、圧倒的な権力で縛ること。一つは利益。金や女や名誉を与えること。そしてもう一つは、彼の自尊心をくすぐることだ。呂布は自分が天下無双の武人であることを誰よりも知っており、その武をさらに高める道具に対しては、子供のように純粋な興味を示す。鐙はまさに、彼の武をさらに高める道具だった。
(これは試金石だ。俺の進言に従えば勝利できるということを、呂布に証明するための戦いでもある。もし今回、俺の策が当たれば、呂布は次からも俺の言葉に耳を貸すだろう。もし外れれば、俺はただの口先だけの男として見限られる。どちらに転んでも、結果ははっきりする)
高順は城壁の上から、はるか後方の丘を見やった。そこには呂布の騎兵隊が待機しているはずだ。まだ動く気配はない。冬の朝霧が丘を覆い、その中に騎兵たちの姿が隠されている。あの霧の中に、并州が誇る最強の騎兵隊が潜んでいる。
孫堅軍の陣営から、進軍の銅鑼が鳴り響いた。重く、低い音が、冬の空気を震わせて城壁まで届く。
攻城兵器の車輪が凍った地面に空回りする音が響き、孫堅軍の第一陣が前進を開始した。巨大な破城槌が牛に引かれて進み、その後ろには無数の雲梯を担いだ兵士たちが続いている。その数、およそ三千。先陣を切るのは程普である。彼の部隊は孫堅軍の中でも最も精鋭とされ、これまで幾多の城を陥としてきた。
「弓兵、構え!」
高順の号令で、城壁の上に並んだ弓兵たちが一斉に矢をつがえた。凍てつく空気の中で、弓弦が張り詰める音が微かに聞こえる。
「まだ射るな。引きつけろ。合図があるまで、一矢も放つな」
敵が二百歩の距離に迫る。百五十歩。百歩。城壁の上に立つ兵士たちの緊張が、手に取るように伝わってくる。若い兵士の中には、恐怖で手が震えている者もいた。無理もない。これから始まるのは、生きるか死ぬかの戦いなのだ。
(怖いよな。わかる。俺も怖い。でも、ここで引きつけることが、生き残るための唯一の方法なんだ)
五十歩。弩の有効射程距離である。攻城兵器の車輪が氷を砕き、泥濘にめり込む音が聞こえる。敵の陣形が、凍った地面のために乱れ始めていた。
「放て!」
高順の号令と共に、無数の矢が空を覆った。それはまるで、黒い雲が城壁から湧き上がるような光景だった。矢は放物線を描いて冬空を切り裂き、そして容赦なく敵兵の頭上に降り注いだ。
攻城兵器を押していた兵士たちが、次々と倒れる。凍った地面に倒れた兵士の血が、白い氷の上で赤く染みを広げていく。しかし孫堅軍は止まらない。倒れた兵士を乗り越えて、第二波、第三波が押し寄せてくる。江東の兵は死を恐れない。彼らは孫堅という将の下で、戦うことそのものに誇りを持っている。
「第二射、構え! 放て!」
再び矢の雨。敵の損害は増えていくが、それでも波は止まらない。孫堅軍の兵士たちは、死を恐れぬ猛者ばかりだった。
(江東の兵は強い。これは数ではない。練度と士気の差だ)
高順は冷徹に戦況を分析していた。城壁の防御は、今のところ問題なく機能している。凍った地面が敵の進軍を遅らせ、その隙に弓兵が敵を削る。しかし、これはあくまで時間稼ぎに過ぎない。本命は別にある。
その時だった。
高順の視界の端で、何かが動いた。遠くの丘を覆っていた朝霧が、ゆっくりと流れ始めたのである。いや、動いたのは霧そのものではない。霧の中から、一団の騎馬隊が姿を現しつつあった。霧の白い帳が裂け、その中から黒い影が次々と躍り出てくる。
先頭を行くのは、黒い甲冑に真紅の戦袍を翻した巨漢。方天画戟を片手に、馬を駆る姿は鬼神の如き威容を誇っている。
(来たか。あの脳筋腐れゴキブリが、ついに動いたぞ)
呂布である。彼は約束通り、孫堅軍の背後に回り込むために、陽人の丘を越えて大きく迂回していたのだ。その数、およそ八百。全員が鐙を装備した、世界初の鐙騎兵隊である。
高順は、自分の口元が微かに緩むのを感じた。心臓はまだ早鐘を打っている。胃も痛い。手のひらにも冷や汗をかいている。しかし、その顔には確かに、薄い笑みが浮かんでいた。
(これで、勝負は決まった。孫堅の兵站は、あと半日ももたない)
呂布の騎兵隊が、孫堅軍の後方に布陣する輸送隊に向かって、一直線に突撃を開始した。その速度は、従来の騎兵の常識をはるかに超えていた。鐙によって安定した騎兵たちは、馬上で自由に武器を振るいながら、輸送隊の護衛兵を次々と薙ぎ倒していく。
城壁の上から見ていた高順は、小さく息を吐いた。
(さて、これで第一段階は成功だ。あとは、孫堅がどう動くか)




