五段
軍議の間を出た俺は、すぐさま行動を開始した。
夜空には無数の星が瞬き、冬の冷たい風が城内を吹き抜けている。松明の灯りが揺れ、兵士たちの長い影が地面に踊っていた。遠くでは、負傷した兵士たちの呻き声が聞こえる。敗戦の夜は、いつもこうだ。死と痛みと恐怖が、暗闇に溶けて広がっている。
城内の一角を接収し、俺はそこを「野戦病院」とした。空き家となっていた民家の土間を掃除させ、床に藁を敷き詰め、その上に煮沸した布を重ねる。
「いいか! 負傷兵を直接地面に寝かせるな! 床を上げて、煮沸した布を敷け!」
俺は怒鳴り散らしながら指示を飛ばした。本当は怒鳴りたくない。でも怒鳴らないと誰も聞いてくれない。怖いから大声出してるだけだ。前世の職場でもそうだった。声の大きい奴が正しい。理不尽だが、それが現実だ。
城内の酒蔵から度数の高い蒸留酒を徴発し、消毒液として使う。酒を没収されて不満げな兵士たちには、後で必ず償うと約束した。
「痛えええッ!」
蒸留酒を傷口に注がれた兵士が、獣のような悲鳴を上げる。その声に、周囲の負傷兵たちが怯えた表情を見せた。
「我慢しろ! これをしないと傷が腐って死ぬぞ!」
俺はその兵士の肩を押さえつけながら、手早く傷口を清め、清潔な布で巻いていく。傷は深いが、幸い主要な血管は無事だった。これなら助かる。
(ごめん! 痛いのわかる! 俺も痛いの嫌いだ! でも死ぬよりマシ!)
傷口を酒で洗い、清潔な布で巻く。ただそれだけのことだが、うめき声に満ちていた区画が、次第に静けさを取り戻していく。処置を終えた兵士たちが、安堵の表情で眠りに落ちていく。
「高将軍は、医術の心得もあるのか」
手伝っていた老医師が、驚嘆の目で俺を見た。彼はこの町で三十年も医者をしているというが、傷口を酒で洗うという方法は初めて見たらしい。
(いえ、ただの一般衛生知識です。この程度の応急処置なら現代人なら誰でも知ってるやつです)
「古い文献で読んだ」
俺はそう誤魔化した。顔は無表情。でも内心は「やばい、またハッタリかましたぜ!」だ。この時代の古い文献に、消毒の概念なんてあるはずがない。しかし、今はそう言って乗り切るしかなかった。
野戦病院の整備が一段落したところで、俺は次なる準備に取りかかった。張五が城内の革職人や鍛冶屋をかき集めてきてくれている。彼らは不安そうな顔で、地面に並べられた図面を見つめていた。
厩舎の一角に設けられた作業場には、鞣し革の匂いと鉄の錆びた臭いが混じり合い、独特の空気を作り出している。松明の灯りの下で、職人たちが神妙な面持ちで俺の指示を待っていた。
俺は彼らに図面を見せて指示を出した。地面に棒で図を描きながら、一つひとつ丁寧に説明していく。
「ここを輪にして、鞍の両側に吊るすんだ。長さは乗り手の足に合わせて調整できるようにしろ」
それは、革と縄で作っただけの粗末な「足掛け」だ。金属製の本格的な鐙には程遠い。しかし、あるとないとでは雲泥の差がある。落馬の恐怖が少し減る。少しだけ。でもゼロじゃない。
(これがあれば、落馬の恐怖が少し減る。少しだけ。でもゼロじゃない。怖いもんは怖い)
職人たちは半信半疑だった。無理もない。彼らはこの時代の常識の中で生きている。馬に乗るのに足を掛ける金具など、誰も見たことがないのだ。だが、俺が熱心に説明する姿に押され、彼らはやがて作業に取りかかった。
完成した試作品を、驍風に装着する。鞍の両側から革紐が垂れ下がり、その先端に木製の輪が括り付けられている。見た目は粗末だ。しかし、機能は確かだった。
俺はそれに足をかけ、ヒラリと跨った。鐙に体重を預けると、安定感が段違いだ。これなら長距離の行軍でも疲れにくいし、戦闘中に体勢を崩すことも少なくなる。
「よし」
(よし、じゃない。やっぱり怖い。でもさっきよりマシ)
俺は陷陣営の騎兵百名を選抜し、城内の中庭で極秘の訓練を開始した。中庭は広く、周囲を高い塀で囲まれているため、外から覗かれる心配はない。
「足を掛けろ! 腰を浮かせろ! その状態で剣を振れ!」
俺の号令に従い、兵士たちが恐る恐る鐙に足を掛ける。慣れない感覚に、何人かはバランスを崩して落馬した。そのたびに仲間たちから笑い声が上がるが、すぐに真剣な表情に戻る。
(俺もやりたくない! でもやらなきゃ死ぬ!)
最初は戸惑っていた兵士たちだったが、さすがは精鋭の陷陣営だ。すぐにその「魔法」の威力に気づき始めた。
「大将! こいつはすげぇ! 馬の上で走ってるみてえだ!」
若い騎兵が興奮した声を上げる。鐙に足を固定することで、馬上で立ち上がることさえ可能になっていた。
「踏ん張りが効く! これなら何人斬っても疲れねえぞ!」
章誼や呉資といった熟練者たちは、水を得た魚のようだった。彼らは鐙の真価を瞬時に理解し、馬上での動きが明らかに変わっていく。
(コイツらァよォ……、クソバーサーカーどもめ……怖い。でも今はその怖さを頼るしかねぇ)
その日の夕刻。城壁の見張りが叫んだ。
「て、敵襲ッ! 孫堅軍が動いたぞ!」
ついに来た。
(来ちゃった。心の準備できてない)
俺は城壁に駆け上がった。冷たい風が顔を打つ。夕闇の中、孫堅軍の前衛部隊が、攻城兵器を押して近づいてくるのが見えた。巨大な破城槌が牛に引かれて進み、その後ろには無数の松明を掲げた兵士たちが続いている。
指揮官は、赤い頭巾を巻いた武将。祖茂だ。孫堅四天王の一人。その名は史書にも残る勇将である。
「者ども! 胡軫は逃げた! 残っているのは腰抜けばかりだ! 一気に城門を破れ!」
祖茂の怒声が、城壁の上まで届いた。
(腰抜けです! その通りです! だからなんだ!)
城内の兵士たちが動揺する。城壁の上に並んだ弓兵たちの顔に、恐怖の色が広がっていく。無理もない。総大将は逃げ、指揮系統は混乱し、兵力は敵の三分の一以下。誰の目から見ても、絶望的な状況だった。
「高将軍、どうしますか? 矢を射かけますか?」
隣で華雄が弓を構える。彼はまだ傷が癒えていないにもかかわらず、戦う意志を漲らせていた。その手には、彼のトレードマークである大弓が握られている。
「いや、引きつけましょう」
俺は冷静に距離を測った。およそ三百メートル。二百メートル。百メートル。敵の攻城兵器が、城門に迫る。破城槌の鉄製の先端が、夕日を受けて不気味に光った。
(心臓バクバク。手汗すごい。でも顔は無表情。これが俺の唯一の特技)
「今。開門!」
俺は合図を送った。城門が、ギギギと重い音を立てて開く。分厚い木製の扉が左右に開き、城内の光が外に漏れ出した。祖茂が呆気にとられた顔をした。降伏の意思表示と受け取ったのか、彼の動きが一瞬止まる。
「なっ、降伏か?」
「突撃ッ!」
俺の号令と共に、暗闇の城門から、百騎の騎馬隊が弾丸のように飛び出した。
先頭は俺、高順。両足で鐙を踏み締め、重心を低くし、槍を構える。新しく装着した鐙が、俺の体をしっかりと支えている。
(うわっ! やっぱ怖い! 止まれない!)
「なっ、速いッ!?」
祖茂が叫ぶ。普通の騎兵突撃ではない。鐙によって安定した俺たちの突撃は、速度も破壊力も段違いだ。馬蹄が地面を蹴り、騎馬の塊が一直線に敵陣へと突き進む。
ドオオオン!!
俺たちは、攻城兵器を守る盾兵の列に、正面から激突した。ボウリングのピンのように、敵兵が弾け飛ぶ。盾が砕け、鎧が裂け、身体が宙を舞う。悲鳴と怒号が入り混じり、戦場の喧騒が一気に頂点に達した。
(乗るか反るか。半か丁か、一世一代の大博打に出てやらァ! どうにでもなりやがれってんだ!)
「なんだこいつら! 馬上の動きじゃないぞ!」
孫堅軍の前衛がパニックに陥る。彼らは見たことがないのだ。馬上で立ち上がり、自由自在に武器を振り回す騎兵の姿を。鐙によって解放された上半身が、思うままに矛を繰り出す。その破壊力は、従来の騎兵の比ではなかった。
そこへ、左右から章誑と呉資が斬り込む。
「死ね!」
章誑の剣が弧を描き、呉資の斧が唸りを上げる。二人の熟練戦士が、鐙の恩恵を最大限に活かして敵陣を蹂躙していく。
俺は敵将に狙いを定めた。混戦の中でも、祖茂の赤い頭巾は目立つ。彼は必死に兵士たちを叱咤し、態勢を立て直そうとしている。
祖茂が刀を構えて応戦する。彼の目には、驚愕と怒りが渦巻いていた。
ガキンッ! 激しい金属音。刃と刃が交錯し、火花が散る。だが、今の俺の足は、ガッチリと馬腹をホールドしている。体勢が崩れない。鐙が俺の体重を支え、衝撃を吸収してくれる。即座に二撃目を繰り出せる。
「なっ!?」
祖茂が目を見開く。その一瞬の隙を突いて、俺の槍の石突きが祖茂の横腹を強打した。鈍い衝撃音が響き、祖茂の身体が馬上で大きく揺らぐ。
「ぐはっ!」
祖茂が落馬する。地面に叩きつけられた彼の身体が、苦しげにのたうつ。すかさず張五たちが殺到するが、敵の親衛隊が死に物狂いで割って入った。
「祖将軍を守れええッ!」
親衛隊が人間の壁を作り、祖茂を守りながら後退していく。彼らの目には、必死の覚悟が宿っていた。
「チッ、逃がしたか」
(よかった。殺さずに済んだ。殺すの怖いんだよ。と言いつつも、何人殺したか、わからんな)
だが、深追いは禁物だ。俺たちの目的は敵に「恐怖」を植え付けることだ。孫堅軍に「梁県には得体の知れない騎兵がいる」と思わせることができれば、彼らの進軍は慎重になる。時間を稼げる。そして時間は、俺たちにとって最も貴重な資源だ。
「引け! 全軍、撤退!」
俺の号令で、騎馬隊が素早く反転する。鐙のおかげで、方向転換も驚くほどスムーズだった。
城壁の上から、味方の歓声が上がる。
「高将軍! 高将軍! 高将軍!」
城内に戻ると、兵士たちが熱狂的に俺の名を叫んでいた。つい先ほどまで絶望に沈んでいた彼らの目に、今は明確な希望の光が宿っている。
(やめて! そんなに呼ばないで! 恥ずかしい! でもちょっと嬉しい)
俺は馬を降り、震える手を見つめた。勝ったわけではない。祖茂を退けただけだ。それでも、心臓がバクバク言っている。だが、不思議と心地よい高揚感もあった。恐怖と興奮は紙一重だと誰かが言ったが、本当にその通りだ。
(生きてる。俺、まだ生きてる)
その夜、城内の空気は一変した。絶望は消え、「俺たちは戦える」という熱狂が支配していた。あちこちで松明が焚かれ、兵士たちは酒こそ飲めないものの、賑やかに今日の戦いの武勇伝を語り合っている。
俺は野戦病院を見回った後、自室に戻った。体中が悲鳴を上げている。傷は痛むし、胃は相変わらずキリキリする。早く休みたかった。
そこに、招かれざる客が待っていた。
呂布だ。彼は俺の机に勝手に座り、俺が書き溜めていた「兵站管理ノート」を読んでいた。松明の灯りの下で、彼の整った横顔が浮かび上がっている。机の上には、俺が書いた竹簡が無造作に広げられていた。
「奉先将軍」
(えっ!? なんで!? しかもそれ俺の日記的なやつ! やめて! 恥ずかしい!)
「ふうん。面白いことを書いているな、孝父」
呂布は木簡を放り投げた。竹簡がカラカラと音を立てて机の上を転がる。
「『兵士の食事における塩分と活力の関係』? 『排泄物の処理と疫病の相関』? 貴様、いつから学者になった?」
試すような目だ。その瞳が、松明の灯りを反射してギラリと光る。
(やばい。怪しまれてる。どうしよう。でも正直に「未来から来ました」は言えない。斬られる)
「学者ではありません。勝つための準備です。今日の突撃、ご覧になりましたか?」
俺は話題を変えることにした。呂布は実戦の話に弱いはずだ。
「ああ。見たぞ。あの『足掛け』、悪くない」
呂布がニヤリと笑った。その笑みには、新しい玩具を見つけた子供のような無邪気さと、それをどう使うかを即座に計算する策士の冷酷さが同居していた。
「俺の赤兎にも付けろ。いますぐだ」
「はい?」
「聞こえなかったか? 俺にもよこせと言っている」
天下無双の呂布が、さらに鐙を装備したらどうなるか。
(鬼に金棒どころか、鬼に核ミサイルだ。でも断れない。だって怖いもん)
「承知いたしました。ですが、一つ条件がございます」
「条件? 俺に?」
呂布の目が細められる。その目の奥に、殺気とも好奇心ともつかない光が揺らめいた。
(ひぃっ!? 目が細くなった! 殺気! でも引けない!)
「はい。敵は必ず、明日の夜明けと共に総攻撃を仕掛けてきます。その時、奉先将軍には遊撃隊として、敵の側面ではなく、『背後』を突いていただきたい」
「背後だと?」
「孫堅軍の弱点は兵糧です。遠征で伸びきった補給線を叩けば、彼らは戦いたくても戦えなくなる」
俺は必死に説明した。正面から戦うのは怖いから、安全なところから敵の弱点を叩きたい。それだけの話だ。
「武勇を誇る奉先将軍には退屈な役回りかもしれませんが、これが最も敵に効く」
呂布はしばらく俺を睨みつけていた。無言の圧力が部屋を満たす。松明の火が風に揺れ、壁に映る影が歪んだ。
やがて彼はフンと鼻を鳴らした。
「兵糧か。腹が減っては戦ができぬ、というのは真理だな。よかろう。その『足掛け』の代金だ。一働きしてやる」
(やった! 説得成功! 胃に穴が開くかと思った!)
呂布が立ち上がり、俺の肩をバンと叩いた。骨が軋むほど痛い。この男は加減というものを知らない。いや、知っていてやっているのだろう。自分の力を誇示するために。
「高順。貴様、つまらん男だと思っていたが、少しは使えるようになったな」
そう言って、彼は部屋を出て行った。赤い戦袍が闇に消えるまで、俺は身動きできなかった。
俺はその場に崩れ落ちた。
「疲れた」
胃が痛い。本当に胃薬が欲しい。誰か現代の薬を転生させてくれ。いや、無理だ。自分で何とかするしかない。
だが、これで役者は揃った。守りの俺と華雄。攻めの呂布。そして、秘密兵器の鐙。
俺は窓の外、闇に沈む孫堅軍の陣営を睨みつけた。地平線の彼方に、無数の篝火が赤く点滅している。まるで、闇の中に潜む獣の目のようだった。
(さあ、明日が正念場だ。怖い。でもやるしかない。俺はビビリだ。だからこそ、絶対に安全なところから相手を叩き潰す。それが俺の生き残る道だ)
その時、遠くで雷鳴が轟いた。冬の雷。乱世の激動を告げるように、空が裂ける。稲光が闇を切り裂き、一瞬のうちに城内を白く照らし出す。
(雷も怖いんだけど!? よりによって冬の雷って縁起悪すぎるだろ)
嵐の前の静けさが、梁県城の夜を包んでいた。
俺は、主要な将校たちを城内の一室に招集した。軍議ではない。名目は「戦勝祝いの食事会」だ。だが、その真意は、崩壊寸前の指揮系統を繋ぎ止めるための、腹を割った根回しにある。
(飲みニケーションというやつだ。どこでもやることは変わらない)
部屋の中央には、羊の丸焼きが湯気を立てている。脂の滴る羊肉の香りが、部屋中に漂っていた。兵士たちは、久しぶりのまともな食事に、目を輝かせている。
「けッ。水臭え宴だ」
侯成が空の碗を卓に叩きつけた。彼は呂布配下の中でも特に酒好きで知られる猛将だ。
「おい高順。勝利の祝いだってのに、酒の一滴も出ねぇのか?」
「酒は傷の消毒に使う。明日生き残れば、いくらでも飲ませてやる」
俺は淡々と答えた。侯成は不満げだったが、それ以上は文句を言わなかった。
宋憲が鼻を鳴らした。
「堅苦しいねえ、高将軍は」
「黙れ、宋憲。軍規は絶対だ」
すると上座から声が響いた。
「おい、高順。貴様、誰に向かって口を聞いている?」
魏続だ。呂布の縁者であることを鼻にかけた男。その顔には、特権意識が滲み出ている。彼は杯を手に、俺を睨みつけていた。
「俺は奉先の縁者だぞ。その俺が酒を持ってこいと言っているんだ」
場の空気が凍りつく。箸を動かす手が止まり、全員の視線が俺と魏続に集中した。
(面倒なのが来た。こういう手合いはどこにでもいる。権力者の親戚というだけで威張り散らす、始末に負えない連中が)
俺は中間管理職スキルを発動させた。前世で培った、面倒な人間を黙らせるための技術だ。
「魏続将軍。貴方だからこそ、お願いしているのです」
「ああん?」
「貴方は呂布将軍の血縁であり、軍の顔だ。貴方が率先して規律を守れば、兵たちの士気は上がる。逆に特権を使えば兵は白ける。明日の戦い、兵が貴方を守らなくなりますぞ」
「む」
魏続の顔に、迷いの色が浮かぶ。彼は愚か者だが、自分の命がかかっていることは理解できるらしい。
「ふん。まあいい。我慢してやる」
魏続が座り直す。緊張が解け、部屋のあちこちから安堵のため息が漏れた。
(一匹片付いた)
部屋の隅から冷ややかな目を向ける男がいる。郝萌だ。彼は羊の骨をしゃぶりながら、ずっと俺のことを観察している。
「ククッ。高将軍も随分と舌が回るようになられた。まるで別人だ」
(こいつは目が笑っていない。警戒が必要だ)
「だが、口先だけで明日が勝てるかな?」
「分かっている。だからお前たちを集めた」
俺は張五に合図を送った。
「持ってこい」
「へい! お待ちでさぁ!」
張五が抱えてきたのは「簡易鐙」だ。途中で足を机の脚に引っ掛け、「うわっと!」と転びそうになる。鐙が宙を舞い、成廉が慌てて受け止めた。
「す、すいやせん!」
趙庶が「相変わらずだな、張五」と毒舌を浴びせる。高雅が「張五兄ちゃん、大丈夫?」と声をかけた。その和やかな空気に、部屋の緊張が少しだけ緩んだ。
「なんだそれは?」
成廉と魏越が身を乗り出す。彼らは今日の戦いで、俺たち陷陣営の騎兵の動きが異常だったことに気づいていた。
「成廉、魏越。今日の俺の騎乗を見て、何か思わなかったか?」
「ああ、気になっていた! あんた、馬の上で立ち上がって槍を振るっていた。あんな芸当、奉先様でもやらねえ」
「種明かしは、これだ」
俺は鐙の使い方を実演した。足を掛け、立ち上がり、その場で剣を振る。
「なるほど! こいつで体を固定してるのか!」
魏越が目を輝かせた。
「これがありゃ、俺の突撃の威力は倍になるぞ! おい高順、俺たちの隊にもよこせ!」
「そのために用意した。ただし数は少ない。主要な将軍と精鋭にしか配れない」
場がざわめいた。独占すれば手柄になる技術を共有する。彼らは戸惑っていた。
「いいのかよ、高順」
侯成がバツが悪そうに言った。
「手柄など、生きていれば後からついてくる」
俺は真顔で言った。声に力を込める。
「明日の敵は孫堅だ。全力を出さなきゃ死ぬ。俺はお前たちに死んでほしくない。嫌味な魏続も、酒癖の悪い侯成も、腹黒い郝萌もな」
「は、腹黒いとは失礼な!」
郝萌が抗議したが、口元は緩んでいた。部屋のあちこちから、抑えきれない笑い声が漏れる。
「俺たちは呂布という旗の下に集まった者同士だ。喧嘩はあとだ。まずは生き残ろう」
爆発的な笑い声が上がった。兵士たちが手を叩き、互いの肩を抱き合う。その笑い声は、天幕を突き破って夜空にまで届くかと思われた。
「高順、お前そんなに熱かったのか!」
成廉が俺の背中を叩く。その衝撃で、胃がさらに痛くなった。
その喧騒の中、張遼が静かに近づいてきた。彼は宴の輪から少し外れた場所で、静かに俺を見つめている。
「高将軍。見事です。武具だけでなく、人心まで掌握されるとは」
「買い被りだ。俺はただ、必死なだけさ」
「いいえ。今の貴方になら、私も背中を預けられます」
張遼が深い敬意を込めて拱手する。のちの魏の名将となる男が、今は一人の青年武将として、俺に忠誠を誓ってくれている。
(胃が痛くなるが、まあ悪い気はしない)
「頼むぞ、張遼。左翼の指揮は任せる」
「はっ!」
宴は終わった。男たちの顔には赤みが差している。酒こそ出なかったが、久しぶりの温かい食事と、明日への希望が、彼らを酔わせたのだ。彼らは三々五々、自分の持ち場へと戻っていく。その足取りは、この夕刻までとは比べものにならないほど、力強かった。
俺は一人残った部屋で、大きく息を吐いた。
「ふぅ」
(郝萌だけは最後まで目が笑っていなかった。要注意人物だ。それと、魏続も油断できない。呂布の親戚というだけで増長する人間は、足元を掬われた時に何をしでかすかわからない)
窓を開ける。夜風が冷たい。星々が、闇の中に無数の針穴のように輝いている。現代では決して見ることのできない、圧倒的な星空だった。
その時、入り口に人影があった。振り返ると、呂布が立っている。いつの間に戻ってきたのか。彼は手に酒瓶を持っていた。
「まだいたのか」
「忘れ物だ」
呂布が酒瓶を無造作に投げてよこした。
「飲め。貴様の分だ。退屈な戦だったが、少しは面白くなりそうだ」
(これは感謝の印と受け取っていいのか)
俺は瓶の口を拭い、一口だけ酒を飲んだ。喉が焼けるように熱い。この時代の酒は現代のものよりずっと濁っていて、酸味が強い。しかし、不思議と悪くない味だった。
「明日、必ず勝ちます」
「当然だ。俺は負けたことがない」
呂布はそう言い残し、再び闇の中に消えていった。その背中には、一片の迷いもない。彼は本当に、負けることを考えたことがないのだろう。それが強さなのか、それとも弱さなのか。今の俺には判断できなかった。
部屋の隅では、張五が床に座り込んで居眠りを始めていた。小さな寝息を立て、時折「大将、無理しちゃだめでさぁ」と寝言を呟いている。今日一日、彼は走り回り、俺の無理な命令に必死に応えてくれた。
(よくやってくれている。感謝してるよ)
俺は上着を脱ぎ、そっと張五の肩にかけた。若者の寝顔は、戦場の恐怖とは無縁のように、穏やかだった。
それから刀筆を手に取り、竹簡を広げた。墨を磨る音だけが、静かな部屋に響く。松明の灯りが、竹簡の上で揺れた。
(このままでは遅かれ早かれ死ぬ。この時代の戦を、根本から書き換える)
竹簡に未来の軍事理論を刻み始める。孫子の「兵は詭道なり」。クラウゼヴィッツの「摩擦」。リデル・ハートの「間接アプローチ戦略」。現代で培った知識のすべてを、この時代の言葉に翻訳していく。
特に重視したのは兵站だ。糧食の安定供給こそ軍の生命線。どんな名将も、腹が減っては戦えない。
(死ぬのは怖い。だから知識を詰め込む。安全圏から相手を叩き潰す。臆病者にできる唯一の戦い方だ)
その時、風向きが変わった。窓から吹き込む風が、それまでとは違う匂いを運んでくる。
遠く洛陽の方角から、微かに血の匂いが混じる。違う。これは戦場の血の匂いではない。もっと古く、もっと深い、歴史そのものが流血しているような異様な気配だった。
何かが動いている。まだ見えぬ、別の脅威が。洛陽で、あるいは洛陽のさらに向こうで、俺の知らない何かが蠢き始めている。
(嫌な感じだ。まるで、誰かに見られているような)
俺は首を振り、その考えを追い払った。今は目の前の戦いに集中しなければ。遠くの脅威を気にするより、明日を生き延びることだ。
冬の雷が、もう一度、遠くで轟いた。まるで、この時代そのものが、俺という異物の存在に反応しているかのように。
俺は竹簡を巻き、筆を置いた。疲れが一気に押し寄せてくる。身体が休息を求めている。
(さあ、生き残るぞ。胃薬はないが、まあなんとかなるだろう)
俺は眠りに落ちる前に、最後に窓の外を見た。遠くの丘の上に、微かな篝火が見える。呂布の陣だ。彼はあそこで、明日の戦いに備えている。そして、さらにその向こうには、孫堅の陣がある。宿敵は、すぐそこにいる。
陽人の夜が、ゆっくりと明けていく。
歴史が「高順」という異物を飲み込み始める、運命の夜明けだった。




