四段
程普が驚愕の声を上げる。その視線が、こちらに向けられた。歴戦の猛将である程普が、一瞬だが明らかに虚を突かれた顔をしている。
(今だ!)
「華将軍! 乗れ!」
俺は華雄に向かって叫んだ。華雄が信じられないものを見る顔をして、俺を見上げる。その顔は血と泥と汗にまみれ、どちらが目か鼻かもわからないほどだった。
「だ、だが……」
「早くしろ! 死にたいのか!」
俺は手を伸ばし、華雄の腕を掴んで無理やり引き上げた。巨漢の華雄を馬上に引き上げるのは至難の業だったが、この身体は驚くべき膂力を秘めている。驍風が重みに耐えて踏ん張り、一瞬のうちに華雄を鞍の後ろに乗せた。
「撤退だ! 死に急ぐな!」
「だが、胡将軍の命令が……」
「命令と命、どっちが大事だ!」
(両方大事だけど、死んだら命令もクソもないんだよ!)
俺たちは反転した。驍風が嘶き、後足で地面を蹴る。同時に、陷陣営の兵たちが素早く動き、俺たちの退路を確保するために盾の壁を作った。鍛え抜かれた動きだった。号令一つで、七百の兵が一つの生き物のように動く。
「追え! 逃がすな!」
程普が体勢を立て直し、追撃を命じる。しかし、陷陣営の盾の壁は厚く、重装備の兵士たちは地面に盾を突き立て、槍を前面に並べて、まるで動く要塞のように後退していく。程普軍の騎兵が数度にわたって突撃をかけてくるが、そのたびに槍衾が彼らを迎え撃った。
「撤け! 撤け! 撤け!」
俺は声が枯れるまで叫び続けた。心臓は破裂しそうだ。内股は擦り切れて血が出ている。太腿の内側が鞍にこすれて皮が剥け、生々しい痛みが走る。でもどうでもいい。生きるんだ。俺も、華雄も、皆生きるんだ。
乱戦を抜け出し、安全圏まで撤退した時には、日が傾いていた。西の空が血のように赤く染まり、戦場に長い影が落ちている。
俺は泥と血にまみれ、肩で息をしていた。肺が焼けるように熱い。冷たい空気を吸い込むたびに、気管がヒリヒリと痛んだ。胡軫の本隊は壊滅したらしい。遠くで董卓軍の敗残兵が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、孫堅軍の追撃を受けているのが見えた。総大将が敗走した以上、この戦いは負けた。
だが、最悪の「全滅」は免れた。
馬を降りると、膝がガクンと折れた。地面が不意に近づき、視界が揺れる。
「大将! 大丈夫ですか!?」
張五が慌てて俺の身体を支えてくれる。その声は半泣きだった。
「……ああ。ただの、足の痺れだ」
嘘だ。腰が抜けてるんだ。怖くて立てないんだ。膝ががくがくと震え、歯の根が合わない。今にも嘔吐しそうな恐怖が、まだ腹の底に残っている。でも言えない。
(俺、生きてる。まだ生きてるぞ!)
自分の手を見る。血まみれだ。敵の血か、自分の血か、もはや区別もつかない。指が微かに震えている。これは寒さのせいか、恐怖のせいか。
そこへ、華雄が歩いてきた。彼は満身創痍だった。全身を血と泥にまみれさせ、あちこちに矢傷がある。兜は失われ、髪は乱れ、顔には深い切り傷が刻まれている。だが、その足取りはしっかりとしていた。
彼は俺の前で立ち止まると、その巨体を折って、深々と頭を下げた。二メートル近い巨漢が、まるで子供のように深く頭を垂れる。
「高将軍。貴殿がいなければ、俺は野晒しの骨になっていただろう。この命、貴殿に救われた」
その声は、深い感謝と敬意に満ちていた。歴戦の猛将である華雄が、心からの謝意を表している。周囲にいた陷陣営の兵士たちが、誇らしげに背筋を伸ばした。
「……よしてくれ。友軍を助けるのは当然だ」
俺は淡々と答えた。顔は無表情。声は平静を保っている。でも内心は。
(やったぞ! 貸しを作ったぜ! これで華雄は俺の味方! 生存確率アップ! 嬉しい! でも顔には出さない!)
ポーカーフェイスこそが俺の唯一無二の武器だ。どんなに嬉しくても顔に出さない。前世で上司の失敗を見た時も、同僚が出世した時も、いつもこの顔で乗り切ってきた。それが今、華雄という大きな味方を得ることに成功した。
ふと視線を感じて顔を上げると、丘の上に呂布がいた。赤兎馬に跨り、夕日を背にしている。その姿は、まるで戦の神が降臨したかのような威厳に満ちていた。彼は何も言わなかった。ただ、口元に微かな笑みを浮かべ、無言で顎をしゃくった。
(なに? 褒めてるの? 怒ってるの? どっち? わかんないよ! でも殺気はないからセーフ?あれに殺されんのは勘弁して)
「梁県へ退くぞ。休んでいる暇はない」
俺は痛む体を叱咤し、再び馬上の人となった。内腿の擦り傷が鞍に触れて激痛が走るが、歯を食いしばって耐える。
夜風が、血と汗の混じった臭いを運んでいった。遠くでは、まだ戦いが続いている。孫堅軍の勝鬨が、風に乗って微かに聞こえてきた。俺たちは確かに負けた。だが、完全な敗北ではない。まだ生きている。生きている限り、チャンスはある。
梁県の城門が見えてきた。松明の明かりが、城壁の上で揺れている。その炎は風に煽られ、不安定に揺らめいていた。まるで、これから起こることを暗示しているかのように。
生きて帰ってきた。だが、ここは安息の地ではない。第二の戦場だ。城内に入ると、殺気立った空気が待っていた。胡軫の親衛隊が、武器を構えて待ち構えている。彼らの顔には、敗戦の悔しさと、誰かにその責任を押し付けたいという怒りが渦巻いていた。
「高将軍! それに華将軍! 都督がお呼びだ。直ちに軍議の間へ来い!」
問答無用の連行だ。親衛隊長とおぼしき男が、唾を飛ばしながら怒鳴る。
(やばいやばいやばい。絶対怒られる。最悪処刑。物理的に首が飛ぶ。帰りたい。替え歌が出てきた。ブンブンブン首が飛ぶ。それどころじゃないわ!)
俺は張五ら部下たちに目配せをした。動くな、待機せよ。ここで騒ぎを起こせば反逆罪になる。ますます首が飛ぶ。張五が不安そうな顔で俺を見つめている。その視線に小さく頷きを返してから、俺は前に進み出た。
「わかった。行こう」
俺と華雄は馬を降り、武装解除を求められた。剣を預け、短刀も取り上げられる。丸腰だ。
(丸腰とか無理。心も丸裸にされた気分。胃が痛い)
俺は華雄と共に、重い足取りで軍議の間へと向かった。城内の廊下は薄暗く、壁に掛けられた松明が、不安定な影を揺らしている。足音がやけに大きく響いた。
軍議の間には、重苦しい沈黙が漂っていた。
上座には胡軫。顔をどす黒くし、血管が切れんばかりに興奮している。その握りしめた拳は震え、今にも誰かに殴りかかりそうな勢いだった。その周囲には、取り巻きの武将たちが、さも軽蔑したような目でこちらを見ていた。彼らはいずれも涼州出身の胡軫子飼いの将たちで、并州出身の俺や呂布を日頃から快く思っていない連中だ。
そして、呂布。彼は部屋の隅、胡軫から最も遠い柱に寄りかかり、懐から取り出した干し肉を齧っていた。我関せず。だが、その瞳だけは爬虫類のように冷たく光っている。干し肉を噛む音だけが、静まり返った広間に妙に大きく響いた。
(呂布さん干し肉食べてる。あの人いつも何か食べてる。胃腸強そうで羨ましい。俺なんて今すぐ胃薬欲しい)
「高順、それに華雄。よくもまあ、勝手な真似をしてくれたものだ!」
胡軫の怒声が天井に響く。その声はあまりに大きく、天幕の布地が微かに震えた。唾が机の上に飛び散る。周囲の武将たちが一斉に身をすくめた。
(ひぃっ!? やっぱり怒られた! 想定通り! でも怖い!)
「華雄! 貴様は先鋒としての命令を放棄し、勝手に撤退した。軍律違反もいいところだ! 即刻、斬首だ!」
斬首という言葉が、広間に重く響いた。
(斬首、やっぱり斬首! アレか? 俺のいた時代のクビって感覚で人殺してんのか? この時代の人たち首切り好きすぎだろ!)
華雄が硬直した。その顔に、諦めの色が広がっていく。武人である華雄は、軍律の意味をよく知っている。言い訳の余地はないと、自分でも理解しているのだ。
「お待ちください!」
俺は咄嗟に声を上げた。心臓バクバク。手汗すごい。指先が冷たくなっていく。でも顔は無表情。これが俺の唯一の特技。どんな修羅場でも、顔だけは平静を保つ。前世で何千回となく繰り返してきた、生き残るための技術だ。
「華将軍は、敵の罠に嵌まりながらも、多くの敵を討ち取り、味方の損害を最小限に食い止めました。それを『命令放棄』と断じるのは、あまりに一方的ではございませんか」
胡軫の目が、ぎらりと俺に向けられた。
「なんだ高順。貴様も同罪だぞ。華雄を止めもせず、あまつさえ命令もなく持ち場を離れ、勝手な戦闘を行った。貴様もまとめて処刑してくれるわ!」
(あァ? 殺してやろうか? 薄々こうなると思ったけどよ!)
「処刑? 結構です。ですがその前に、一つだけ確認させていただきたい儀がございます」
俺は顔を上げた。視線は胡軫の目を真っ直ぐに見据える。心臓が口から飛び出しそうだ。口の中が乾き、舌が張り付くような感覚がする。でも顔は涼しく。
「都督は、『華雄が命令を無視した』と仰いました。ではお聞きします。都督はなぜ、華雄将軍が包囲された際、救援を出さなかったのですか?」
「なっ! 命令違反をした愚か者を助ける義理などない!」
「義理の問題ではありません」
俺は声を張った。これもハッタリだ。大声出せば相手が怯むかもしれない。そんな浅はかな考えだ。だが、声が大きければ大きいほど、言葉に力が宿るというのもまた、真理だった。
「華雄将軍は、敵の主力・程普を引きつけました。その時、孫堅の本陣は手薄だった。もし、都督が本隊を率いて敵の側面を突いていれば、孫堅を討ち取れたはずです。都督は、その絶好の勝機を、私情で見逃されたのではございませんか?」
広間がざわついた。
李粛が眉をひそめ、趙岑が胡軫の顔色を窺う。彼らは今、計算を始めている。どちらにつくべきか、どちらが勝つのか。政治の世界では、正義よりも利が優先される。それはこの時代も同じだ。
(よし! 論点ずらし成功! 現代の会議で培った詭弁術! 役に立った!生き残れる!)
「き、貴様! 何を言うか! わしは軍律の話をしているのだ!」
「軍律を語るなら、勝機を逃し、味方を見殺しにして損害を拡大させた罪は、いかほどになりましょうか?」
「黙れエエッ!」
胡軫が発狂したように叫ぶ。机が再び揺れ、上に置かれていた木簡が床に落ちた。衛兵たちが剣を抜き、俺たちに詰め寄る。刃が松明の光を反射し、冷たく煌めいた。五人の衛兵が俺と華雄を囲み、剣の切っ先を向けている。
(あ、これ死んだわ。詭弁も通じない。暴力には勝てない。さよなら二度目の人生)
華雄が身構える。今にも素手で戦おうとしているのか、その拳に力がこもった。しかし丸腰の上に満身創痍の状態で、武装した衛兵に勝てるはずがない。
まさに、万事休す。その時だ。
ヒュンッ!
風切り音がしたかと思うと、先頭の衛兵の兜が、まるでボールのように宙を舞って吹き飛んだ。兜は天井まで高く舞い上がり、カランカランと虚しい音を立てて床に転がる。衛兵が驚愕の声を上げ、剣を取り落とした。
「ひっ!?」
全員の視線が、飛来物の発射元へと向く。柱の陰。呂布が、食べ終わった干し肉の骨を投げた体勢のまま、あくびを噛み殺していた。その仕草は、まるで今の出来事が退屈きわまりないというふうに。
(呂布!? 骨投げ。え? しかも兜吹き飛んだ。どんな腕力だよ。怖っ! でも助かったぜ! ありがとよ! 脳筋好色腐れゴキブリ!)
呂布が、のそりと歩み出てくる。その一歩一歩が、重く、威圧的で、広間の空気を一変させた。彼が動くたびに、衛兵たちが一歩、二歩と後退する。先ほどまで俺たちを斬り殺そうとしていた猛者たちが、まるで蛇に睨まれた蛙のように縮み上がっている。
「高順は、俺の配下だ。殺すなら先ず俺の許可があってからだ」
その声は低く、しかし広間の隅々まで響き渡った。まるで地の底から響いてくるような、重々しい声だった。
「り、呂奉先! 貴様、総大将の決定に逆らう気か!」
胡軫の声は震えている。先ほどまでの威勢はどこへやら、その顔からは明らかに血の気が引いていた。
「総大将? フン」
呂布の口元が歪んだ。それは笑みだったが、目は笑っていない。獲物をいたぶる捕食者の目だ。人間が虫を見る時の、あの冷たい目だ。
「貴様、自分の首がいつまでその肩にくっついていると思っている?」
胡軫の顔が、サッと青ざめた。文字通り、土気色になった。言葉の意味を理解したのだ。呂布はこの男を、本気で殺せる。拳一つで。いや、指一本で。そして、この男はそれが怖いのだ。自分の命が、呂布の気分一つで消えることを知っている。
(わかる。その恐怖わかる。呂布にあんなん言われたらマジで怖いもん。前世でヤクザに絡まれた時より怖い。つかヤクザよりも呂布の方がヤバい)
「興が削がれた。行くぞ、高順、華雄」
呂布は踵を返した。赤い戦袍が翻り、黒い甲冑が松明の光を浴びて鈍く光る。衛兵たちが慌てて道を開ける。その顔には、安堵の色がありありと浮かんでいた。呂布と戦わずに済んだという、心からの安堵だ。
俺たちは慌てて立ち上がり、呂布の後を追った。華雄はまだ状況が呑み込めていない様子で、きょろきょろと周囲を見回している。無理もない。ついさっきまで死の瀬戸際にいたのだ。
廊下に出ると、冷たい夜気が火照った頬を冷やした。城内の薄暗い通路を歩きながら、俺は深く息を吐いた。生きた心地がしなかった。心臓がまだバクバクと早鐘を打ち、手のひらにはべったりと汗が滲んでいる。
「助かりました、奉先将軍」
華雄が涙目で呂布に礼を言う。歴戦の猛将である華雄が、感激のあまり声を詰まらせている。呂布は立ち止まり、肩越しに俺たちを睨んだ。
「勘違いするな。あの豚が気に食わんだけだ」
その言葉はぶっきらぼうで、愛想も何もなかった。しかし、その声には胡軫に対する純粋な嫌悪感が込められている。そして、俺の方へ視線を移した。その目が、試すように細められる。
「孝父。貴様、いつの間にあんなに口が回るようになった? 以前は石のように黙っているだけの男だったが?」
(やばい。バレたの? いやバレてない。バレてないはず。この頭が悪すぎて身を滅ぼした脳筋好色腐れゴキブリに悟られてたまるかってんだ!)
俺は一瞬、心臓が止まるかと思った。しかし、ここで動揺を見せれば全てが終わる。
「死線をくぐり、悟りました。黙っていては守れぬものもある、と」
(うわー、決まった! 呂布相手に決めたぜ! でも本音は「怖いから必死に口回してるだけ」って言う現実)
「ふん。まあよい」
呂布はニヤリと笑った。その笑みには、これまでの冷たさとは違う、どこか面白がるような色があった。それから彼は、手に持っていた干し肉の最後の一片を口に放り込み、そのまま歩き去った。
(セーフ!? セーフだよね!? よかった)
俺は大きく息を吐き出した。足の力が抜け、壁に手をつく。胃が痛い。本当に痛い。前世から持ってきたストレス性胃炎が、古代中国でも遺憾なく発揮されている。
「高将軍」
華雄が改めて俺に向き直った。その目には、先ほどよりもさらに深い敬意が宿っている。単なる命の恩人ではない。軍議の場であれだけの弁舌を振るい、胡軫を論破しかけた男として、彼は俺を見ているのだ。
「この恩は決して忘れぬ。何かあれば、この華雄、必ず駆けつける」
「ああ、頼りにしている」
俺は短く答え、華雄の肩を軽く叩いた。本当はもっと長く話したかったが、胃痛が限界だった。今すぐ横になりたい。誰か胃薬をくれ。
軍議の間を後にし、俺は自陣へと戻った。空はすっかり暗くなり、城内のあちこちに松明が灯されている。その炎が風に揺れるたびに、壁に映る影が踊った。
俺は一人、自室の天幕の中で深く息を吐いた。体中が痛む。内腿の擦り傷は血が固まって布とこびりついている。肩は槍を投げた時の衝撃で痺れが残っている。そして何より、胃が痛い。
(生き残った。なんとか、生き残ったぞ)
その安堵と共に、新たな重圧がのしかかる。これはまだ始まりに過ぎない。明日には、あるいは今夜にも、孫堅軍が攻めてくるかもしれない。しかも、総大将は俺を殺そうとした男だ。味方の中にも敵がいる。
(でも、死ぬわけにはいかない。せっかく二度目の人生をもらったんだ。無駄にするもんか)
俺は痛む体に鞭打って、立ち上がった。やるべきことは山ほどある。負傷兵の手当て、防御の強化、そして何より、あの「鐙」の量産だ。やらなければ死ぬ。やれば生き残れるかもしれない。
張五が心配そうに天幕の入り口から覗いている。
「大将、湯薬ができました。少し休んでくだせぇ」
「ああ、ありがとう。でも、まだ寝られない。これから忙しくなるぞ」
「へい!」
張五が嬉しそうに頷く。その無邪気な笑顔が、この殺伐とした戦場で、唯一の救いだった。




