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第十回 高順幽州收遺將 呂奉先轅門射戟 二段

高順が徐栄を呼び、遼東半島に睨みを効かせるよう指示を出した。


「中原はこれから曹操と袁紹が争う地になる。我々は直接関与しないが、烏桓と鮮卑への警戒は怠るな。特に蹋頓は動きが読めない。油断するなよ」


「承知。遼東には信頼できる者を配置いたします」


「それと、袁紹が幽州を奪い返そうと動くかもしれぬ。その時は無理に戦うな。時間を稼ぎ、私の指示を待て」


徐栄は深く頷き、退出していった。高順はその後もしばらく地図を眺めていたが、やがて小さく息を吐いて卓を離れた。北の脅威はひとまず抑えた。問題は中原だ。曹操と袁紹、呂布と劉備、袁術と孫堅。群雄たちはそれぞれの思惑を胸に、今まさに動き出そうとしている。その奔流がいつ并州に及ぶかは、誰にもわからなかった。


同じ頃、許都では曹操が呂布と劉備の扱いに頭を悩ませていた。二人が徐州で手を結んでいることは、曹操にとって大きな脅威だった。呂布の武勇と劉備の仁徳が組み合わされば、徐州は容易に手が出せない地となる。曹操は荀彧を呼び、策を求めた。


「文若、何か策はあるか」


荀彧は静かに笑みを浮かべた。彼の頭脳にはすでに幾通りもの策が浮かんでいる。その中から最も確実なものを選び、淡々と語り始めた。


「まずは劉備を徐州牧に正式に任命し、同時に呂布を攻めるよう密命を下します。劉備が呂布を討てば、曹操様の望み通りになります。逆に呂布が劉備を討てば、呂布は主君を殺した逆臣として天下の信用を失う。どちらに転んでも、我々の得になります」


「なるほど。『二虎競食の計』か」


曹操はすぐさま使者を徐州に送った。表向きは劉備の徐州牧就任を祝う使者だが、その懐には曹操の密書が忍ばせてある。密書にはこう記されていた。「呂布は虎狼のごとき男である。徐州に留め置けば、いずれ必ずその牙を剥くであろう。早急に除くべし」と。


しかし劉備はこの計略を見抜いていた。彼は使者から密書を受け取ると、あえてその密書を呂布に見せたのである。徐州牧の邸宅で、劉備は関羽と張飛を従えて呂布を待った。張飛は最初こそ不満を漏らしたが、劉備が「これは策だ」と静かに言うと、渋々ながらも口を閉ざした。


その日のことだった。呂布が劉備の邸宅を訪ねてきた。彼は先日の戦いの礼を述べると共に、劉備が徐州牧に正式に任命されたことを祝おうとしていたのである。供も連れず、ただ一人で。かつての飛将軍は、今や一人の客人として劉備の門を叩いた。


「玄徳公!」


劉備、関羽、張飛は呂布を出迎えた。しかし呂布嫌いで有名な張飛は、呂布の姿を見るや否や剣を抜いた。その巨躯が一瞬で殺気を帯び、庭の空気が凍りつく。


「この裏切り者が! よくも兄貴の前にのこのこと顔を出せたな!」


張飛は今にも呂布に斬りかからんばかりの勢いで、剣を構えて呂布に迫った。彼は曹操からの密書の内容を知っていた。呂布が曹操の目から見て「不義の者」であること、兄がその呂布と手を結んでいることへの不満が、張飛の胸の中で激しく渦巻いていたのである。


「益徳、やめぬか!」


劉備が慌てて張飛を制した。関羽もまた、張飛の腕を掴んで剣を取り上げようと必死だった。二人がかりでなければ止められないほどの勢いで、張飛は呂布に詰め寄る。


「兄貴! 曹操が言ってたじゃねぇか! こいつは不義の者だって! 兄貴にこいつを殺せって書状を送りつけたんじゃねぇか!」


張飛の言葉に、呂布は一瞬で表情を変えた。彼はゆっくりと劉備に向き直り、その目に鋭い光を宿らせる。


「玄徳公……まさか本当にそうなのか?」


呂布の声は低く、しかしその奥には刃物のような鋭さが潜んでいた。もし劉備が頷けば、次の瞬間にはこの場が血の海になる。そんな緊張が、庭の空気を張り詰めさせていた。


劉備は深くため息をついた。


「将軍、共に中へ」


劉備は呂布を邸内に招き入れると、曹操からの密書を差し出した。呂布はそれを一気に読み終えると、顔色を変えた。


「玄徳……これは曹賊の離間ぞ……我らの不和を誘っておるのだ! 私はお前を信じている。お前がこれを私に見せたということは、お前も私を信じているということだ。違うか」


「将軍、この玄徳とてそれを承知しています。それゆえそのような事は致しませぬ。将軍は確かに武勇に優れ、時に乱暴な振る舞いをなさることもある。しかし、私は将軍の目を見てわかった。あなたはただ、信じられる者を探しているだけなのだと」


呂布はその言葉を聞くと、感動して涙を流した。彼はこれまでの人生で、何度も何度も裏切られてきた。丁原を殺して董卓に仕え、董卓を殺して王允に仕え、王允が死ねば袁紹を頼り、袁紹に追われれば張楊を頼った。誰もが呂布の武勇を利用し、用が済めば捨てようとした。信頼とは何か、友情とは何か。呂布はそれを知らずに育った男だった。


しかし、目の前の劉備は違った。劉備は曹操の密書を突きつけられても、それを隠さずに見せた。自分を信じているからだと。この乱世で、これほどまでに誠実な者に会ったのは初めてだった。


「玄徳公……そなたはなんと誠実な御仁か。我はこれまで多くの者に裏切られてきた。丁原も、董卓も、曹操も、袁紹も、みな我を利用し、用が済めば捨てようとした。しかしそなたは違う。そなたは我を信じてくれるのか」


「将軍、私はただ信じるに値する者を信じるだけです。将軍が私を信じてくれるなら、私も将軍を信じましょう」


呂布は劉備の手を固く握った。この瞬間、二人の間には奇妙な友情が芽生えた。それは利害を超えた、乱世には珍しい絆だった。傍らで見ていた関羽は黙って頷き、張飛はまだ不満げだったが、それでも剣を鞘に収めた。


許都にこの報せが届くと、曹操は荀彧をからかった。わざわざ荀彧を呼びつけ、酒を酌み交わしながら、その顔を見て楽しんでいるのである。


「文若、失敗したな! はははは!」


「ふふ、では次の手と行きましょうか」


荀彧は少しも動じていなかった。彼はもともと、この計略が成功するとは期待していなかったのである。二虎競食の計は、成功すれば儲けもの、失敗しても次につなげる布石。真の狙いは別にあった。


「『駆虎呑狼の計』です。劉備に袁術討伐の勅命を下す一方で、袁術にそのことを知らせます。劉備と袁術が戦えば、呂布のこと、必ず二心を抱き、劉備を裏切るでしょう」


「なるほど。劉備が出陣して徐州を留守にすれば、呂布がその後ろを襲うというわけか。しかし、劉備は簡単に動くか」


「勅命とあっては背けますまい。劉備は漢室の宗族。天子の詔に逆らえば、彼の最も大切にしている仁義が揺らぎます」


「よし、すぐに使者を送れ」


曹操はすぐさま袁術と劉備に使者を派遣した。袁術へは「劉備が貴公を討とうとしている」という密書を、劉備へは「袁術を討て」という詔書を。どちらも天子の名の下に出された、拒むことのできない命令だった。


使者が到着したと聞いた劉備は、城外に出迎えて詔書を開いてみた。そこには「袁術を討て」と記されていた。劉備は仰せを承り、まず使者を送り返した。しかし使者が帰った後、糜竺が劉備に進言した。


「これもやはり曹操の計略でしょう。我々が袁術と戦っている隙に、呂布が徐州を奪うつもりかもしれません」


「これもやはり曹操の計であろうが、勅命とあっては背くわけにはいかぬ」


劉備は糜竺の忠告に頷きながらも、天子の詔には逆らえないと言った。そして勢揃いをして日取りを決め、出陣の準備を始めた。


軍議の席で、まず問題になったのは城の守備である。孫乾が「城を守備する者を決めるべきです」と提案すると、劉備は弟たちに目を向けた。


「雲長、お前はどうだ」


「私がこの城を守りましょう」


関羽が名乗り出たが、劉備は首を横に振った。


「雲長、私は毎日お前を相談相手にしようと思っているのに、別々になってしまっては困る。お前の冷静な判断力は、戦場でこそ必要だ」


関羽は黙って頷いた。劉備の言葉はもっともだった。戦場では劉備が全軍を指揮し、関羽は遊撃を担い、張飛が前線で暴れる。この三人の組み合わせこそが、劉備軍の最大の武器だったのである。


「それなら俺が守ることにしましょうぞ!」


張飛が進み出た。その巨躯を誇るかのように胸を張り、大きな声で宣言する。劉備はしばらく黙って張飛を見つめていたが、やがて静かに言った。


「益徳、お前には守れんよ。一つには酒癖が悪くて兵士を鞭打つ癖があるし、二つには軽はずみで人の忠告を聞こうとしないから、安心して任せることはできぬ」


「兄貴! それならば、今日から酒も飲まず、兵士を殴ることもせず、また人の忠告をよく聞くことにしましょう!」


張飛は声を張り上げて宣言した。その剣幕に、軍議の席にいた糜竺が冷静な声で釘を刺す。


「三将軍、口先だけでは済みませぬぞ」


この一言に、張飛は腹を立てた。彼は糜竺を睨みつけ、声を荒げる。


「俺は兄貴に仕えて久しいが、約束を違えたことは一度もないぞ! なぜ俺を見くびるのだっ!」


「益徳、そうは言っても、どうも安心できぬ。やはり陳元龍に補佐を頼むことにしよう」


劉備は陳登を呼び、改めて張飛に言い聞かせた。


「益徳、良いか? 絶対に酒を飲むなよ? 下の者には優しくしろ。何事もすぐに厳罰で処してはならんぞ?」


「わかった、わかった! 兄貴、俺を信じてくれ!」


張飛はそう言って胸を叩いたが、劉備の表情は晴れなかった。彼は陳登に向き直り、改めて頼み込んだ。


「元龍、益徳が酒を飲み過ごさぬよう監督し、間違いをしでかさないように頼む。お前の冷静な目が、あの暴れ馬には必要だ」


「承知しました。及ばずながら、私が目を光らせておきます」


こうして劉備は、歩騎三万を率いて徐州を出発し、南陽に向かって進軍を開始した。陳登が城の守備を補佐し、張飛が軍務を統括する。表向きはそういう段取りだった。しかし劉備の胸中には、拭いきれない不安が渦巻いていた。


袁術は、劉備が南陽郡に侵攻していると知ると大いに腹を立てた。彼は元々、劉備という存在を見下していた。草鞋売りから身を起こした成り上がり者が、徐州牧などという大任を担っていること自体が気に入らない。その劉備が、よりにもよって自分を討とうとしている。


「あの草鞋売りの下郎めが、大城を我がものにして諸侯の列に加わるだけでも過分だと言うものを弁えぬか。儂の方から征伐しようと思っていたところへ、手前の方から押し寄せて来るとはっ! 憎々しいやつめっ!」


袁術は大将の紀霊に六万の兵をつけ、徐州に攻め込ませた。紀霊は山東の出身で、一振りの大刀を使う猛将である。六万という数は、劉備の三倍にあたる大軍だった。


両軍は徐州・下邳国の盱眙で遭遇した。劉備軍は兵数が少ないため、山陰の川沿いを選んで陣取る。数の不利を地形で補おうという、関羽の献策だった。


紀霊は兵を率いて出陣すると、「この草鞋売りめ、よくも領分に入り込みおったなっ!」と大声に罵った。劉備はこれに「私は天子の詔を受けて不忠者を征伐するのじゃ。それを拒むとあっては、ますます罪が重いぞっ!」と言い返す。紀霊は怒り猛り、馬を蹴立てて大刀を振り回して、まっすぐに劉備に打ちかかった。


「下郎め、無礼を働くなっ!」


すかさず関羽が馬を乗り出し、紀霊と打ち合うこと三十合。関羽の大刀と紀霊の大刀が火花を散らし、両軍の兵たちは息を呑んで見守った。しかしなかなか勝負がつかない。紀霊が「しばらく待てっ!」と大声で叫んだので、関羽は陣に戻って様子を見た。


すると紀霊は副将の荀正という者を出してきた。関羽は「紀霊を出せっ! あいつと勝負をつけるのだっ!」と呼ばわったが、荀正は「貴様のような名もない男が、紀将軍の相手になれるかっ!」と言い返す。関羽は大いに腹を立て、馬を駆って荀正に挑みかかった。馬が馳せ違ったかと思うと、一刀のもとに荀正を斬って落とす。


これを合図に、劉備が兵に攻撃を命じたので紀霊は大敗し、退却して下邳国・淮陰県の河口を守った。紀霊はこの敗戦に懲りて出撃を控え、両軍は睨み合いのまま膠着状態に陥った。


一方、徐州に残った張飛は、事務仕事を陳登に任せ、軍事に関わる重要事項だけを自分で処理していた。最初の数日は張飛も劉備との約束を守り、酒を断って真面目に政務に励んでいた。陳登も「これなら大丈夫だろう」と安堵していたほどである。


しかし、それは長く続かなかった。


張飛は酒を二甕も卓に並べると、独り言をぶつぶつと言い始めた。


「うん、兄貴に酒は飲まねぇって言っちまったしな……でも酒が無けりゃ、ちっとも面白くねぇ! やっぱり俺が兄貴について行って暴れときゃ良かったぜ……うーん……そうだ! 今日だけ飲もう! 今日だけ!」


自分にそう言い訳をして、張飛は酒甕の封を切った。一度封を切ってしまえば、あとはもう止まらない。


「あーっ! スッキリしねぇ! 先に呂布を始末しろって言っておきながら今度は袁術を討てだと? 曹操の野郎め! 兄貴と言う州牧を好き勝手に使いやがって……これじゃまるで言いなりじゃねぇか!」


振り返ると、徐州の大小の官吏が居並んでいた。張飛が召集をかけたのである。陳登はこの状況に眉をひそめたが、張飛は意に介さなかった。


「各々方、今日は存分に飲んで、明日からは禁酒して、俺の守備を助けてもらいたい。だから今日はみんな、飲めるだけ飲んでくれっ!」


陳登はこの状況を見て、一言言ってやらねばと張飛に釘を刺した。


「三将軍、酒を飲んでも良いのですが……気に揉まれる事の無いように」


「うむっ! その通りだ! 呂布を殺せと言えば殺しに、袁術を滅ぼせと言われたら袁術を滅ぼす! 一番いいのはあの曹阿瞞諸共滅ぼしてやりゃいいんだ! そうすればこの俺だって気に揉むことなんぞない! そうすれば兄貴だって曹操の言いなりになる必要もないからな!」


張飛は言い終わると、立ち上がって一人一人に酒を勧め始めた。その様子はまさに宴会そのもので、城の守備という本来の任務は完全に忘れ去られていた。


張飛が元陶謙配下の武将・曹豹の前まで来ると、曹豹は「将軍……私は酒が飲めません」と杯を断った。彼は下邳の豪族出身で、もともと陶謙に仕えていたが、劉備が徐州牧となってからはその配下に加わっていた。そして実は呂布の岳父でもあった。呂布が徐州に来てから、曹豹の娘を側室として迎えていたのである。


「あん? 酒が飲めねぇだと?」


「はい、私は一口たりとも飲めません」


「戦商売の男が、どうして酒を飲まぬということがあるっ! どうしてもお前に、一杯だけは飲んでもらうぞっ!」


「将軍、私は本当に飲めません!」


「一杯だけだ!」


張飛がどうしてもと言って聞かないので、曹豹は仕方なく一杯を飲み干そうとした。しかし体がそれを拒絶して吐き出してしまう。曹豹の顔は真っ青になり、咳き込みながら杯を卓に置いた。


だが張飛は酒を飲んでくれた事に機嫌を良くして、その時は怒らなかった。彼は豪快に笑い、曹豹の背中をバンバンと叩いた。


「はははは! これでいい、これでいいぞ!」


全員に酒を勧め終わった張飛は、自分は大杯に並々と酒を注いで、あれよあれよという間に数十杯を飲み干してしまった。もともと酒に強い張飛だが、数十杯も重ねればさすがに酔いが回る。その顔は真っ赤に染まり、目は据わり、呂布がふらつき始めていた。


すると張飛は、真っ先に曹豹のところに向かった。先ほどとは打って変わって、その目には怒りが宿っている。


「将軍、もう飲めませんっ!」


「嘘こけ! さっきは飲めたじゃねぇか! 今は飲めねぇだァ? もう一杯だけ飲め!」


今度は曹豹がどうしても飲まないので、張飛はついに酒癖の悪さが爆発した。彼の堪忍袋の緒は切れ、顔は怒りでさらに赤くなり、声は雷のように轟いた。


「俺の命令に背いたからには、百叩きだっ!」


張飛は兵に命じて曹豹を縛り上げさせた。これを見た陳登は、「州牧が出陣の際に、言い残していかれたお言葉をお忘れか?」と止めに入ったが、張飛は「うるせえ! お前は文官だから文官のことだけやっておれ、俺に構うな」と言って聞かない。酔いの回った張飛を止められる者など、徐州の城内には誰もいなかった。


曹豹は縛り上げられながらも、必死に哀願した。


「益徳公! 私の婿の顔に免じて許してくだされ……」


「婿だと? 誰だ、その婿とは」


「呂布でござる」


この瞬間、張飛の中で何かが切れた。彼の目は血走り、握りしめた拳は震えていた。もともと張飛は呂布を許せずにいた。兄が仁義で迎え入れた恩を仇で返し、徐州で好き放題に振る舞う呂布。その呂布の名を、よりによって今ここで出した。


「俺は本当にお前を打つつもりではなかった。なのに呂布の名前を出して脅そうとするとはっ! これはお前を打つのではない。呂布を打っておるのだっ!」


張飛は続けた。その声は怒りと悔しさに震えている。


「お前んとこの婿が居なけりゃ兄貴だってもっと苦労せずに済んだんだ……ちくしょう!」


そう言うと張飛は、ついに曹豹を打ち据えさせた。兵たちが戸惑いながらも鞭を振るう。曹豹の背中に鞭が当たるたびに、彼の悲鳴が邸内に響き渡った。陳登は目を背け、他の官吏たちも青ざめた顔で成り行きを見守るしかなかった。


三十回ほど打たせた時、皆が必死で止めるのを聞いて、張飛はやっと曹豹を許した。曹豹は血の滲む背中を押さえながら、よろよろと立ち上がる。その目には、張飛への怨みと、決して消えることのない屈辱が宿っていた。


曹豹は骨の髄まで張飛を怨んだ。彼はその夜のうちに、小沛にいる呂布に手紙を届けさせた。手紙には張飛の無礼を詳しく述べた上で、「劉備は淮南に出掛けているから、今夜、張飛が酔っ払っているうちに兵を出して徐州を取られたし。この機を外したら、後悔先に立たず」と記されていた。


「環眼賊! 舐め腐りやがって! 公台、どう思う!?」


手紙を見た呂布は、早速陳宮を呼んで相談した。陳宮は手紙を一読すると、静かに言った。


「小沛は長く留まるべき処ではありません。徐州に隙がある今を逃しては、二度と好機は巡ってこないでしょう」


「そうか、ならば善は急げだ! 環眼賊め……劉備にあった時にどんな顔するのか楽しみだな!」


呂布は直ちに甲冑に身を固め、赤兎馬に跨がって、戟を手に五百騎を率いて出陣した。その後から陳宮と鄭旭が大軍を率いて続く。赤兎馬の蹄が夜の闇を切り裂き、五百の騎兵がそれに続いた。


呂布の軍勢が徐州に着いたのは夜の四更、月の光は澄み渡り、城内は静まりかえっていた。呂布が城門の前まで進み出て、「劉使君より内密の使者じゃ。城に登って来られい」と呼ばわると、知らせを聞いた曹豹が城壁に登って顔を出し、すぐに城門を開いた。


この時張飛は屋敷で酔いつぶれていたが、側の者が慌てて揺り起こし、「呂布が城門を開けさせて、攻め込んで参りました」と告げた。張飛は大いに怒り、慌てて鎧を身につけると、丈八の矛を引っさげ、やっと屋敷の門まで出て馬に跨がった。


しかし時すでに遅く、呂布の軍勢が殺到していた。張飛はこれを迎え撃つが、まだ酔いが冷めておらず、まともに戦える状態ではない。彼は配下の強者十八騎に守られて、東門から逃げ出した。屋敷には劉備の妻子がいたが、彼女らを助け出す余裕など当然あるはずもなかった。呂布は城内で住民たちを安堵させ、百人の兵に劉備の屋敷の門を守らせて、勝手に人が入れないようにした。


この時曹豹は、張飛が僅か十数人しか連れておらず、まだ酔いが冷めていないことを侮って、百人余りを率いて追って来た。しかし張飛は追っ手の中に曹豹を見つけると、馬を蹴立てて曹豹に襲いかかった。


「あぁん?曹豹のやろう!突き殺してやらァ!大人しく殺されやがれ!」


「フン!いくら肉売りが強かろうと、酔っていてはまともに戦えまい?死ぬのは貴様だ!」


「肉売りだァ?死ねぇ!」


三合ばかり打ち合って、曹豹はやはり敵かなわないと逃げ出す。張飛がこれを追って川岸で追いつくと背中を一突き、曹豹は馬もろとも川に落ちて死んだ。


張飛は城を脱出した兵二千を集めると、劉備たちのいる淮南に向かった。彼の胸中には、兄に顔向けできないという思いと、曹豹への怒りと、そして自分の失態への深い後悔が渦巻いていた。


淮陰で紀霊と対峙していた劉備と関羽は、紀霊の持久戦に対して話し合っていた。


「兄者、紀霊めが軍営に籠り我らとの決戦に応じませぬ!」


劉備が返事をしようと顔を上げると、其処には居ないはずの張飛が見えた。張飛は甲冑も兜も外し、泥と汗と酒にまみれた姿で、ふらふらと軍営の中へ入ってきた。


「三弟? 三弟、三弟ではないか!」


この時劉備と関羽は徐州で何かあったと悟った。張飛がここにいるということは、徐州を離れたということだ。そしてそれが何を意味するかは、二人にとっては明らかだった。


張飛はずぶ濡れになりながらフラフラと軍営の中へ入って泣きながら跪いた。


「兄貴……!」


「徐州で留守を頼んだはずだぞ? ここに来たのは何故だ?」


「兄貴、徐州は……!」


「徐州がどうしたのだ?」


「徐州を無くしちまった……」


「何だと? おまっ! お前……!」


「兄貴が嫌々ながらに出征していくのを見て面白くなくて……いつもの酒癖で呂布の岳父曹豹を打ち据えたんだ。したらあの野郎……呂布と内通しやがったんだ!」


張飛は子供のように泣きじゃくった。その巨体を丸め、肩を震わせ、声を上げて泣いた。これまでどんな戦場でも涙を見せなかった張飛が、今はただの過ちを犯した弟として、兄の前にひれ伏している。


「兄貴……! 徐州を無くしたのは俺だ! 軍法にしたがって罰してくれ!」


劉備は流石に怒った。彼は張飛の襟を掴み、その顔を自分の方に向けさせた。


「起きやがれ!」


関羽が「義姉上方はどこにおられる?」と尋ね、張飛が「皆、城内に生け捕りになった」と答えると、劉備は黙って何も言わなかった。関羽は地団駄踏んで口惜しがり、張飛に怒りを向けた。


「おいっ、お前が城の守備と決まった時、お前は何と言った? 兄上はお前に何を言いつけられたっ!? 今、城は取られ、姉上は生け捕られ、それでどの面下げてここへやって来たのだっ!」


関羽の声は震えていた。それは怒りの震えであり、同時に悲しみの震えでもあった。彼は張飛を愛している。弟として、戦友として、誰よりも深く信頼している。だからこそ、その裏切りにも等しい失態が許せなかった。


張飛は穴があったら入りたい心地で聞いていたが、突然剣を抜いたかと思うと、自分の首に当てて自害しようとした。彼は本気だった。兄に顔向けできない。城を失い、義姉を敵の手に落とし、全てを台無しにした。自分の命で償う以外に、この失態を償う方法はない。そう信じたのである。


しかし劉備も関羽も武人である。更に寝食を共にする義兄弟の張飛がやろうとしてる事は分かりきっている。劉備はいきなり張飛を抱きとめて、その剣を奪い取った。そして張飛を睨みつけると、奪い取った剣を遠くに投げ捨てた。剣が地面に突き刺さり、鍔が虚しく震える。


「古人云く『兄弟は手足の如く、妻子は衣服の如し』とある。衣服は破れても縫い付けることができるが、手足がちぎれてしまえばつなぎ直すことはできない。我ら三人は桃園で義兄弟の契りを結んだ時から、『同じ日に生まれずとも、願わくば同じ日に死のう』と誓った仲ではないか」


劉備の声は静かだったが、その一言一言には張飛への深い愛情が込められていた。彼は張飛の肩を掴み、その目をまっすぐに見つめながら続けた。


「城も家族もなくしはしたが、兄弟が命を縮めるのを見殺しにはできぬ。元々あの城も我らのものだったわけではない。陶謙様からお借りしていただけだ。家族は捕らえられたが、おそらく呂布は害を加えることはないだろう。あの男は劉備の妻子を殺して天下の非難を浴びるような愚か者ではない。また救い出すこともできるだろう。弟よ、一度の失敗くらいで命を粗末にするとは何としたことだ」


劉備はそう言って大声で泣き出した。その涙は、失った城や妻子への悲しみではなく、張飛が自害しようとしたことへの深い悲しみだった。劉備にとって、妻子は確かに大切だが、それは張飛という兄弟に比べれば「衣服」に過ぎない。破れても縫い直せる。しかし手足は違う。一度失えば、二度と戻らない。


関羽と張飛の二人も一緒になってむせび泣いた。関羽は張飛を叱りながらも、その肩を抱きしめた。張飛は兄二人の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。三人の義兄弟は、戦陣のただ中で、互いの体温を確かめ合うように抱き合って泣いた。その涙が、彼らの絆をさらに強く結びつけたのである。

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