外伝 曹孟徳引狼入室 高孝父迎刃而上 五段
太師に任じられた蔡邕は、その日から献帝への講義を始めた。初日は経書の基本的な章句の読み解きから始まり、献帝は熱心に耳を傾けた。長く董卓の圧迫の中で満足な教育を受けられなかった少年皇帝にとって、蔡邕のような大儒から直接教えを受けることは、何にも代えがたい喜びだったのである。
講義を終えた蔡邕は、太師府に戻ると深く息を吐いた。年齢もあり、体力はそう長くは保たない。しかし彼の心は充実していた。長安で処刑されかけた老学者が、今や天子の師として朝廷の中枢に立っている。その運命の転変に、蔡邕は改めて高順への感謝を噛みしめていた。
夕刻、蔡邕は高順を太師府に招いた。明日には并州へ発つという女婿と、どうしても話しておきたいことがあったのである。太師府の一室、燭台の灯りだけが揺れる静かな空間で、翁と婿は向かい合って座った。
「高順よ。明日には発つそうだな」
「はい。長く滞在しすぎました。并州には私がいなければならぬことが山積しております」
「そうか。ならば旅立つ前に、一つだけ聞かせてほしい」
蔡邕は居住まいを正し、学者としての厳しい眼差しを高順に向けた。それは単なる義父の顔ではなく、当代随一の学者が真理を問う時の顔だった。
「そなたは皇帝とはどうあるべきだと考える。天子とは何だ。そして国家とは何だ」
高順はしばらく沈黙し、卓の上の茶器を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「皇帝とは、法を整え、民を安んじる者です。それ以外の何物でもない」
「法と民、か。簡潔だが重い言葉だ。そなたの考えをもっと詳しく聞かせてくれ」
高順は一つ息を吐き、考えを整理するように言葉を紡ぎ始めた。
「先生もよくご存じの通り、桓帝、霊帝以来、漢室は腐敗の一途を辿りました。宦官が政権を私物化し、清廉な士大夫は党錮の禁によって弾圧された。朝廷の綱紀は乱れ、地方の官僚は民を搾取し、黄巾の乱という大反乱を招いた。乱を鎮めるために各州に牧が置かれたが、それが逆に群雄割拠の種となった。董卓が洛陽を焼き、李傕と郭汜が長安を血の海に変え、今や天下は戦乱の坩堝と化している」
「その通りだ。私も洛陽でそのすべてを見てきた。董卓に仕えざるを得なかったあの日々を、私は生涯忘れることはできぬ」
「ならばこそ、同じことを繰り返してはなりません。天下が乱れた原因は何か。それは法の不在です。法がなければ権力は私物化され、私物化された権力は必ず腐敗し、腐敗は民を苦しめ、苦しんだ民は反乱を起こす。この連鎖を断ち切らねば、誰が皇帝になろうと同じことです」
蔡邕は深く頷いた。高順は続ける。
「礼記にこうあります。『身を修め、家を斉え、国を治め、天下を平らぐ』と。これは単なる修養の教えではありません。国家運営の本質を言い当てた言葉です。まず為政者一人ひとりが身を修め、私欲を抑え、公正であれ。その積み重ねがあって初めて家が斉い、国が治まり、天下が平らぐ。しかし桓帝や霊帝は身を修めるどころか私欲に溺れ、董卓や李傕は家を斉えるどころか一族で私腹を肥やした。これでは天下が乱れるのも当然です」
「そなたは今の献帝をどう見る」
「陛下は聡明であられます。まだお若いが、学問への意欲も高く、何より民の苦しみを理解しようとされておられる。董卓の暴政を身をもって経験されたことが、かえって陛下の眼を開かせたのでしょう。しかし、陛下がいかに聡明でも、それを支える仕組みがなければ何も変わりません」
高順はそこで一旦言葉を切り、居住まいを正した。燭台の灯りが揺れ、彼の顔に濃い陰影を落とす。
「先生。ここからが本題です。漢室がここまで腐敗した真の原因は何か。私はそれを、世家大族と豪族による官吏の独占にあると見ております」
蔡邕の眉がピクリと動いた。高順の言葉は、彼が長年学者として感じながらも明確に言語化できなかった問題の核心を突いていたのである。
「どういうことか、詳しく聞かせてくれ」
「光武帝以来、官吏登用には孝廉や茂才といった制度がありました。地方の長官が有能で德行のある者を推挙する仕組みです。これは当初、確かに機能しておりました。しかし時が経つにつれ、推挙する側もされる側も、同じ世家大族の子弟で占められるようになった。推薦とは名ばかりで、実態は名門同士の縁故採用です」
「それは……否定できぬ。確かに近年の孝廉は、ほとんどが有力者の子弟ばかりだ」
「そうです。地方の豪族は自分たちの子弟を互いに推挙し合い、官僚の地位を独占してきた。彼らは朝廷の俸禄よりも、自分の家や地域の利益を優先する。税を課そうとすればそれを妨害し、戸籍を調べようとすれば隠蔽する。彼らにとって朝廷の法とは、自分たちの既得権益を守るための道具であって、民を守るための盾ではありません。これこそが、漢室の腐敗を根深くしている真の病巣です」
高順の声は静かだが、その言葉には熱があった。これは現代人としての彼が、歴史の長いスパンで見通した上での分析だった。中国の歴代王朝が直面してきた最大の課題は、常に中央集権と地方豪族の綱引きだった。そして後漢は、まさにこの豪族の力に飲み込まれて滅びつつある。そのことを高順は誰よりも明確に理解していた。
「官吏が一つの階層に固定化されれば、朝廷は彼らの顔色を窺わねばならなくなる。董卓があれほど簡単に洛陽を掌握できたのも、豪族たちが董卓に取り入ることで自分たちの利益を守ろうとしたからです。李傕や郭汜が暴虐の限りを尽くせたのも、彼らを止めるべき官吏がすでに腐敗しきっていたからです。つまり、漢室の衰退は董卓や宦官のせいだけではない。それを生み出した仕組みそのものが病んでいたのです」
蔡邕はしばらく言葉を失った。彼は学者として多くの歴史書を読んできたが、ここまで明確に「官吏独占の弊害」を指摘した者を知らなかった。かつて王莽が改革を試みた時も、豪族の抵抗によって挫折した。光武帝が後漢を立て直した時も、結局は豪族の協力を得るために妥協を重ねた。高順の言う通り、後漢という国家は最初から豪族という病巣を抱えたまま四百年を過ごしてきたのである。
「そなたの言うことはよくわかる。しかし、それをどうやって正すというのだ。豪族は土地を持ち、民を抱え、私兵すら持っている。無理に抑えつければ、新たな反乱を招くだけではないか」
「もちろん、急にはできません。しかし少しずつ変えていくことはできます。その第一歩が、官吏登用試験の導入です。身分や出身地を問わず、読み書き算術ができ、法を理解し、民のために働く意志がある者なら誰でも受けられる。答案は無記名とし、採点は複数の者が独立して行う。これならば、少なくとも露骨な縁故採用は防げます」
「身分を問わず、か。それは名族の反発を招くのではないか」
「招いています。すでに太原の郭氏や王氏からは不満の声が上がっています。しかし私は引くつもりはありません。有能な者が有能な地位に就く。これこそが国家のあるべき姿です。最初は反発されても、実績を積み重ねれば必ず理解者は増えます。并州ではすでに、寒門出身の若者たちが試験に合格して実務に就き始めています。彼らは自分たちの才覚だけで這い上がってきた者たちですから、従来の豪族出身の官吏とは比べものにならないほど勤勉です」
蔡邕は深く感嘆した。高順は続けて、具体的な制度論へと話を進めた。
「それから、もう一つ重要なのが戸籍の整備と税制の見直しです。どれだけの民がいて、どれだけの土地があり、どれだけの収穫があるのか。それを正確に把握しなければ、適切な税を課すことも、適切な徴兵を行うこともできません。并州では董昭に命じて戸籍の再調査を行わせました。その結果、太原郡だけでも実態と帳簿の間に三十万もの民の差がありました。豪族たちが自分の土地と民を隠し、税を逃れていたのです」
「三十万もの差が……それほどの不正がまかり通っていたのか」
「ええ。そして税制も見直しました。人頭税を中心とした従来の税制は、貧しい民ほど負担が重くなる仕組みです。并州では土地の面積と収穫量に応じた税に切り替えつつあります。富める者からは多くを、貧しい者からは少なくを。これが本来の公平というものです。もちろん反発はありますが、負けるわけにはいきません。豪族に遠慮して税を公平にできなければ、結局は弱い者が苦しむ。それを正すのが為政者の役目です」
「そしてこれらすべてを支えるのが学堂です。法を整え、戸籍を正し、税を公平にし、官僚を矯正しても、それを担う人材がいなければ絵に描いた餅に過ぎません。学堂で若者を教育し、読み書きから算術、法律、歴史、医学まで、実用的な知識を体系的に教える。これこそが国づくりの根本です」
話がここまで進んだところで、蔡邕はふと現実的な問題に立ち返った。
「そなたの考えはよくわかった。壮大な構想だ。しかし、朝廷は今、曹操が牛耳っている。そなたの言う改革を、曹操が素直に受け入れるとは思えぬが」
「もちろん、曹操にすべてを任せるつもりはありません。しかし幸い、今は朝廷の要職がほぼ空席の状態です。董卓が死に、李傕と郭汜が長安を破壊し、王允も死んだ。三公も九卿も、まともに機能していません。曹操が丞相として政権を握っていますが、それ以外の要職はまだ決まっていない。これは逆に好機です」
「どういうことだ」
「まず、三公の人選です。御史大夫、丞相、大司馬。この三つの地位に誰を据えるかが、朝廷の方向性を決めます。丞相は曹操がすでに就いておりますから、これは動かせません。しかし御史大夫と大司馬はこれからです」
高順はそこで一旦言葉を切り、慎重に選ぶように続けた。
「御史大夫には、曹操に対しても臆することなく直言できる剛直な人物が望ましい。大司馬には、軍事を統括できる経験と漢室への忠誠を兼ね備えた重鎮が必要です。いずれも簡単に見つかる人材ではありませんが、幸い、漢室にはまだ人材の層が残っています。焦らず、しかし着実に人選を進めるべきでしょう」
「九卿はどうする」
「九卿の人選は、三公が決まった後に慎重に行うべきです。特に重要なのは大鴻臚、大司農、廷尉です。大鴻臚は外交と諸国との折衝を担いますから、曹操に近すぎず、かといって敵対もしない、調整型の人物が望ましい。大司農は国家財政を預かる要ですから、戸籍と税制の改革を実際に手がけた実務能力のある者が必要です。廷尉は司法の最高責任者ですから、法律に精通した公平な人物でなければなりません」
「司隷校尉はどうする。首都の治安を預かる要職だが、これは曹操が自分の息のかかった者を据えたがるだろう」
「その通りです。司隷校尉と城門校尉は首都の軍権を握る要ですから、曹操が簡単に手放すとは思えません。しかし、だからこそあえて、丞相である曹操が帰ってきてから話し合うべきです。今ここで勝手に決めれば、曹操の警戒心を煽るだけです。曹操もまた、朝廷の安定を望んでいる。三公と九卿の人選について、こちらの案を提示し、協議する余地は十分にあります」
蔡邕は深く息を吐いた。彼はこの若者が、単なる理想論者ではなく、極めて現実的な政治感覚を持っていることを改めて思い知らされた。
「高順よ。そなたは武将でありながら、ここまで国家のことを考えているのか。いや、考えているだけではない。すでに并州で実行に移し、その上で朝廷の人事構想まで練っているのだな」
「私はただ、生き残るために必要なことをしてきただけです。董卓の専横を見て、王允の正義を見て、李傕と郭汜の暴虐を見て、私は思いました。法と秩序がなければ、善人も悪人も等しく滅びる、と。だから私は法を作り、秩序を築き、民を守ることを選んだのです」
「そなたは皇帝になるつもりはないのか」
蔡邕の問いは唐突だった。高順は少しだけ目を伏せ、それから静かに首を振った。
「ありません。私は皇帝にはなれません。皇帝とは、すべての民の上に立つ者です。私はそれができるほど公正ではない。自分の家族を守るためなら、おそらく他人の家族を犠牲にすることも厭わないでしょう。董媛を守るために董卓を裏切り、あなたを守るために王允と対立した。あれは正義ではなく、私情です。そんな私が皇帝になっては、結局は同じことの繰り返しです」
「正直だな」
「私に言えることは、法を整え、民を安んじること。それだけです。そしてそれを実現するために、私はこれからも并州で牙を研ぎ続けます。曹操には曹操のやり方があり、劉備には劉備のやり方があり、袁紹には袁紹のやり方がある。私には私のやり方がある。いずれこの乱世が終わる時、どのやり方が正しかったのか、答えが出るでしょう」
蔡邕は立ち上がり、高順の肩に手を置いた。
「そなたのような若者がこの乱世にいることが、何よりの希望だ。私は年寄りだが、まだ学問を教えることならできる。この太師府で、そなたの説く『法と民のための国』を支える人材を育てよう。それが私にできる恩返しだ」
「先生、それは私にとって何よりの助けになります」
高順は深く頭を下げた。燭台の灯りが揺れ、二人の顔を優しく照らしている。この夜の対話は、後に「太師府問答」として并州の学堂で語り継がれることになるのだが、それはまだ誰も知らないことだった。
翌朝、高順の隊列は許昌の城門を出た。蔡琰を乗せた馬車を中心に、少数の近衛騎兵が周囲を固めている。許昌には一万の并州兵を残し、太師府と皇宮の警備に当たらせた。洛陽には郝萌、魏続、宋憲、侯成、公孫鍛らがすでに派遣されており、洛陽城再建の準備が進められている。かつて呂布の配下だった彼らも、今は高順の麾下として并州軍の中核を担う将たちである。
「行くぞ。目指すは晋陽」
高順の号令と共に、隊列は北へと動き出した。驍風の蹄が土煙を上げ、初夏の陽光が高順の背中に降り注いでいる。
馬車の中では、蔡琰が静かに書物を読んでいた。彼女は昨夜、父と夫が何を語り合ったのかを知らない。しかし今朝、蔡邕が見せた晴れやかな表情を見て、何か大切な話が交わされたのだろうと察していた。
高順は馬上から、遠くに見える許昌の城壁を振り返った。あの城壁の上では、今頃曹操が自分を見送っているかもしれない。曹操とは奇妙な友情で結ばれた。しかしその友情がいつまでも続くとは限らない。曹操が漢室を立て直すなら、高順は味方となる。しかし曹操が漢室を踏みにじるなら、その時は容赦しない。
「将軍、并州に戻ったらまず何をなさいますか」
張五が並走しながら尋ねた。高順は少し考えてから答えた。
「子供たちに会う。景と昭の顔を見ないと、父親としての勘が鈍る」
張五は思わず笑みを浮かべた。驃騎将軍として天下に名を轟かせるこの男が、何よりもまず子供たちの顔を見たいと言う。その飾らなさこそが、高順という男の本質だった。
「それから、賈詡と董昭に張繍の件を確認する。典韋と曹昂と曹定の様子も見ておかねばならん。学堂の拡大計画も進んでいるはずだ。やることは山積みだ」
「休む暇もありませんね!」
「それでいい。休んでいる暇があれば、その分、并州を強くする」
高順は手綱を握り直し、北の空を見据えた。彼の胸中には、昨夜蔡邕と語り合った理想が、静かに燃え続けている。法を整え、民を安んじる。ただそれだけのことを、しかし誰にも真似できない徹底さでやり遂げる。それが高順の生き方だった。




