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外伝 曹孟徳引狼入室 高孝父迎刃而上 四段

翌日になると、高順はますます許昌から出られなくなった。


というのも、高順の妻である蔡琰が、父の蔡邕に伴って許昌に来てしまったのである。蔡邕は董卓の死後、高順の庇護を受けて并州で学問に専念していたが、今回、朝廷から参内の要請があり、娘の蔡琰を伴って許昌へとやってきたのだった。高順はこの報せを聞いた時、思わず天を仰いだ。ただでさえ曹操に引き止められて帰還が遅れているのに、今度は妻と義父まで許昌に来るとは。これでは并州に戻れるのがいつになるかわからない。


そもそも高順と蔡琰の縁組は、かつて李儒の献策によるものだった。李儒は董卓に対し、高順という武人を董家に留めるだけでなく、蔡邕という当代随一の学者との繋がりも得るべきだと進言した。高順が蔡邕の娘を娶れば、武と学の両面から董卓政権の基盤を強化できるという計算である。董卓はこの献策を容れ、蔡琰を高順に嫁がせることを決めた。しかし董卓はそれだけでは足りないと思った。高順という男を完全に自分の陣営に取り込むには、もっと強力な縁が必要だ。そこで董卓は、自らの娘である董媛もまた高順に娶わせたのである。二重の縁組によって、高順は董卓の娘婿であると同時に蔡邕の娘婿ともなった。これは高順にとっては過分なほどの縁談だったが、董卓の強引さの前には辞退も許されなかった。


曹操は蔡邕の到着を聞きつけると、すぐさま丞相府に招いた。曹操と蔡邕の間には、単なる知己を超えた深い絆がある。曹操が若くして洛陽の太学で学んでいた頃、彼は蔡邕の邸宅に足繁く通い、その学識に触れて薫陶を受けた。蔡邕もまた、この才能溢れる若者を大いに引き立て、年齢差を超えた友人として遇した。曹丕が後に『蔡伯喈女賦序』の中で「家公と蔡伯喈には管鮑の交わりがあった」と明言しているように、二人は生死を共にするほどの知己だったのである。


「伯喈先生、ご無沙汰しております。洛陽で別れてから幾年になるか。先生が洛陽を去られてから、私の周りには詩を真に語り合える者がいなくなった」


「丞相、あなたがここまでになるとは、あの頃は思いもよりませんでした。洛陽の蔡府で書を借りては、夜遅くまで論じ合った日々が懐かしく思い出されます」


「私もだ。橋玄殿が『天下を安んずる者は必ずこの者であろう』と評した時、先生は黙って頷いておられた。あの時の先生の眼差しを、私は今も覚えている」


「橋公祖もまた、あなたを見出した一人でした。私はただ、その横で確かにそうだろうと思っただけです。あなたの才は、私の知る誰よりも際立っていた。ただ、その才が乱世に呑まれずに開花するかどうか、それだけが案じられました」


「今はどう見える」


「見事に咲いた。だがまだ蕾は閉じたままだ。あなたの花が満開になるのは、おそらくこれからです」


曹操と蔡邕の問答は、師弟でありながら互いに敬意を払い合う、独特の空気を帯びていた。曹操が蔡邕を「先生」と呼ぶのは、かつて太学で彼の講義を聴き、著作を貪り読んだ日々への感謝と尊敬の表れである。曹操は蔡邕の手を取りながら、昔を懐かしむように幾つもの思い出を語った。洛陽の蔡府で借りた書物のこと、共に論じた詩のこと、橋玄を交えて語り合った天下の行く末のこと。蔡邕は時に笑みを浮かべ、時に目を潤ませながら、曹操の言葉に耳を傾けた。二人の間には、権力者と学者という枠を超えた、紛れもない友情が息づいていた。


丞相府の広間には、曹操の幕僚たちも集まっている。荀彧、荀攸、程昱、郭嘉、孔融。いずれも当代随一の知者たちであり、彼らもまた蔡邕の名声を聞き及んでいた。


蔡邕はすでに六十を過ぎ、髪には白いものが混じっているが、その目は学者としての鋭さを失っていない。并州に移ってからは、高順の手厚い保護のもとで学問に専念し、多くの書物を執筆していた。彼が晋陽の学堂で講じた経書の講義録は、すでに数巻がまとめられ、弟子たちによって書き写されているという。


蔡邕の到着を聞きつけて、許都にいる名士たちが続々と丞相府を訪れた。弟子の崔琰を始めとして、孔融、楊彪、董承、伏完。いずれも当時の漢を代表する名士たちであり、彼らはこぞって蔡邕との面会を求めたのである。中でも楊彪は、かつて洛陽で蔡邕と同じく経書の校訂に携わった同僚であり、再会を心から喜んだ。董承と伏完は、蔡邕が董卓の政権下で高順に救われた経緯を知っており、その後の消息を尋ねた。崔琰は蔡邕の著作について熱心に質問し、孔融は持ち前の闊達さで蔡邕との旧交を温めた。丞相府はさながら当代随一の知識人たちが集う雅宴の場と化した。


しかし高順は、その場に居合わせたくなかった。彼は名士たちの社交の輪に加わることを好まず、また加わる理由もなかった。曹操と蔡邕の旧交を温める場に、自分がいてはかえって邪魔になる。何より、董承や伏完と顔を合わせれば、また何か政治的な誘いを受けるかもしれない。それは御免だった。


高順は静かに丞相府を辞すと、許都の郊外にある軍営へと向かった。そこには許都に駐留する并州軍の兵士たちが屯している。高順は将兵たちと共に過ごすことを選んだ。軍営の空気は、丞相府のそれとはまったく異なる。質実剛健、無駄なものは一切ない。高順はこの空気が好きだった。


軍営に着くと、并州からの報告が届いていた。張繍が袁術との小競り合いで敗れ、宛城の南に撤退したという。また曹操が南陽から撤退した後、南陽郡の諸県は再び曹操に反逆し、張繍に味方する動きを見せている。しかし張繍自身の兵力は大きく損なわれており、すぐに大規模な行動を起こす力はないと分析された。


高順はこの報告を読み、すぐに手紙を認めた。并州にいる賈詡と董昭に、張繍への対応を一任するという内容である。賈詡は張繍の旧主であり、董昭はこうした政治工作に長けている。この二人に任せておけば、張繍を并州に引き入れることも不可能ではない。高順は手紙を封じると、早馬で并州へ送るよう命じた。


「よろしいので」


張五が控えめに尋ねた。高順は小さく頷く。


「ああ。張繍は今、四面楚鹿だ。袁術にも劉表にも頼れず、曹操にも追われている。こんな時に手を差し伸べれば、あの男は必ずこちらに来る。それでいい」


高順はその後も軍営に留まり、兵士たちと共に粗末な食事をとり、夜は兵士たちと同じ天幕で過ごした。驃騎将軍ともあろう者が兵士と同じものを食べ、同じ場所で眠る。これが高順のやり方だった。兵士たちはそんな高順を、畏敬の念を込めて見つめていた。


夕方になり、高順はようやく許都の自宅へと戻った。曹操が用意してくれた仮の住まいは、丞相府からほど近い場所にある小さな邸宅だった。門をくぐると、蔡琰が灯りの下で書物を読んでいた。


「ただいま」


高順が声をかけると、蔡琰は顔を上げて微笑んだ。しかしその顔には、明らかな疲労の色が滲んでいる。彼女は今日一日、名士たちとの応対に追われ、気を遣い続けたのだろう。


「お疲れのようだな」


「……はい。名士の皆様は、皆それぞれに思惑がおありで。私などよりも、もっとお役に立てる方がいるのではないかと」


「それは違う。お前はよくやっている。父上の支えとして、そして何より、お前自身の才で、あの場に立っている」


高順は蔡琰の手を取り、静かに言った。蔡琰は一瞬息を呑み、それから小さく頷いた。彼女の目には、かすかに涙が滲んでいた。


「今日はもう休め。お前が倒れたら、并州の学堂の若者たちが困る」


高順はそう言うと、蔡琰をひょいと抱き上げた。蔡琰は驚いて身を固くしたが、すぐに高順の胸に顔を埋めた。高順はそのまま寝所へと歩を進め、蔡琰を褥の上にそっと下ろすと、自らもその隣に横になった。


「……あなたもお疲れなのでしょう」


蔡琰が小さな声で尋ねた。高順は答えず、ただ蔡琰の肩をそっと抱き寄せた。その温もりが、この数日間の緊張を少しずつ解きほぐしていく。やがて二人は、言葉もなく眠りに落ちていった。


翌日、蔡邕と蔡琰は揃って参内した。献帝への正式な謁見である。


前殿には、曹操をはじめとする重臣たちが居並んでいた。献帝は玉座の上で、緊張した面持ちで蔡邕を見つめている。彼はまだ十代半ばの少年だが、その目には学問への渇望がありありと浮かんでいた。


「臣、蔡邕、陛下に拝謁いたします」


蔡邕が深く平伏すると、献帝は身を乗り出して言った。


「蔡邕殿、朕はそなたの書かれた『独断』を読んだことがある。漢の礼制を詳らかに記したあの書は、朕にとって何よりの学びだった。どうか朕に、直接ご教示いただきたい」


「陛下、もったいなきお言葉。この老骨、陛下のお役に立てるかはわかりませぬが、精一杯お教えいたしましょう」


こうして蔡邕は正式に太師に任じられた。太師とは、皇帝の学問の師として最高の栄誉ある地位である。かつてこの地位に就いたのは董卓だった。暴君によって独占していたその席に、今や当代随一の大儒が座ることになったのである。


この報せは瞬く間に許都の街中に広がった。市井の民は口々に言い合った。「董卓の後に蔡邕が太師になるとは、これこそ漢室復興の兆しではないか」と。暴虐の限りを尽くした董卓に代わり、徳望高い学者が皇帝の師となったことは、人々に久方ぶりの希望を与えた。


しかし、曹操の幕下では別の見方も生まれていた。崔琰が言った。


「蔡邕殿が太師になられることは喜ばしい。だが、これは高順の権勢拡張ではないか。高順は蔡邕殿の娘婿であり、もし蔡邕殿が朝廷内で影響力を持てば、高順の発言力もまた増すことになる」


孔融もまた懸念を示した。


「高順は并州で独自の勢力を築きつつある。そこに朝廷内の影響力が加われば、彼は丞相に並ぶ存在になりかねぬ」


しかし曹操は、これらの懸念を笑って一蹴した。むしろ、この状況を心から喜んですらいた。


「お前たちは何を心配しているのか。蔡邕殿は私の旧友だ。彼が許都に留まるということは、私にとってこれ以上ない好機ではないか。高順の義父が私の旧友であり、朝廷の中枢にいる。これで高順の動きは常に私の知るところとなる。人質をとったも同然ではないか」


曹操はそう言って、くつくつと笑った。彼の計算は冷酷だが正確だった。蔡邕が許都に留まれば、高順との間に常に一本の線が通じていることになる。蔡邕は高順の義父であり、命の恩人でもある。その蔡邕が曹操の旧友であり、なおかつ朝廷の中枢にいる。これは曹操にとって、高順という制御しがたい男を間接的に掌握するための、絶好の布石だったのである。


「それに、蔡邕殿自身は学者だ。権力に興味はない。高順もまた、義父を政治的に利用するような男ではない。むしろ、我々はこの機会に蔡邕殿の学識を存分に活用すべきだ。許都の学堂を拡充し、天下の若者を教育する。それが長い目で見れば、最も確実な国力の増強につながる」


曹操の言葉に、幕僚たちは沈黙した。荀彧が静かに頷き、郭嘉が口元に笑みを浮かべる。結局のところ、曹操は高順の一歩先を読んでいた。


太師に任じられた蔡邕を、高順は心から祝った。彼は義父の前に進み出て、深く一礼した。


「岳父、このたびのご就任、誠におめでとうございます。太師として陛下を導かれることは、漢室にとって何よりの慶事です」


「孝父よ、そなたのおかげだ。そなたが王允の刃から私を救ってくれなければ、私は今ここに立つこともなかった」


「私は当然のことをしたまでです。先生の学識は、一私人のものとして埋もれさせるにはあまりに惜しい」


高順はそう言って微笑んだ。しかし彼の胸中は、決して穏やかではなかった。曹操が蔡邕の太師就任を喜んだという報せは、すでに高順の耳にも入っている。曹操は蔡邕を人質として利用するつもりだ。蔡邕が許都に留まれば、高順は容易に動けなくなる。曹操はそれを計算した上で、蔡邕の太師就任を後押ししたのである。


高順は自分が曹操に付け入る隙を与えてしまったことを、誰よりもよく理解していた。蔡邕を朝廷に送り込むことは、情報の窓口を確保するという点では有益だった。しかし同時に、自分の最も大切な家族の一人を、曹操の手中に預けることにもなった。これは痛手だった。だが、もう取り返しはつかない。


高順はすぐさま并州に使いを送った。精鋭一万を選び、ただちに許昌へ派遣せよという指示である。表向きは太師府と皇宮の警備のためと称した。しかし真の目的は、許昌における并州軍の駐留兵力を確保し、曹操に対する抑止力を維持することにあった。さらに高順は郝萌、魏続、宋憲、侯成、公孫鍛に密使を送り、洛陽城の再建計画を進めるよう指示を出した。洛陽は長安と許昌の中間に位置する要害の地であり、ここに并州軍の拠点を築けば、東西両方に睨みを利かせることができる。


ここまで手を打った上で、高順は静かに腹を括った。もはや後戻りはできない。曹操の懐に飛び込み、その中で生き残る道を探るしかない。高順は生き残るために、皇帝を奉り、曹操に協力してやれるだけのことは精一杯やろうと決めた。それは決して曹操への服従ではない。むしろ、曹操という巨大な奔流の中で、自らの立ち位置を確立するためのしたたかな選択だった。


荀彧が高順の動きを察知し、曹操に報告した。


「高順は許昌に一万の兵を呼び寄せるようです。表向きは太師府と皇宮の警備ですが、真の狙いは我々への抑止力でしょう。また洛陽にも将兵を派遣し、再建の準備を進めているとのことです」


曹操はこの報告を聞いて、むしろ満足そうに笑った。


「さすがは高順だ。隙あらばこちらの喉元に刃を突きつける準備を怠らん。そのしたたかさこそが、あの男の本質だ。だが、今はそれでいい。高順が許昌に兵を置くなら、それはそれで利用できる。いずれ討伐の軍を起こさねばならぬ。その時、高順の兵が許昌の守りを固めてくれれば、我々は安心して出陣できる」


「主公は高順をそこまで信用なさるのですか」


「信用はしていない。ただ利用しているだけだ。高順も同じだろう。我々は互いに利用し合っている。その関係が、今は最も都合がいい」


曹操は窓の外を見た。許都の街は夕日に染まり、一見すると平和そのものだった。しかしその裏では、二人の男の静かなる駆け引きが続いている。曹操と高順。互いに互いを利用し合い、隙あらば相手の喉元に刃を突きつける準備を怠らない。しかし同時に、互いの才を認め合い、奇妙な友情とも呼べるものを育みつつある。この二人の関係は、やがて来るべき天下の激変の中で、決定的な意味を持つことになる。


「面白い時代になったものだ。董卓が死に、天下は割れ、私は天子を奉戴し、高順は并州で牙を研ぐ。そしていつか、この均衡は破れる。その時、私と高順は敵となるのか、それとも味方となるのか。荀彧、お前はどう見る」


「私にはわかりませぬ。ただ、高順殿が敵に回った時は、董卓や呂布よりも遥かに手強い相手になるでしょう。そして味方になった時は、これ以上なく頼もしい盟友となる。どちらに転ぶかは、主公の采配次第かと」


「そうか。ならば私は、高順が敵に回らぬように采配を振るうとしよう」


曹操はそう言って、静かに笑った。

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