外伝 曹孟徳引狼入室 高孝父迎刃而上 一段
建安二年、初夏。
曹操は南陽から許都への帰還を果たした。張繍の奇襲によって多くの将兵を失い、何より長子の曹昂、護衛の典韋、甥の曹定の行方がわからぬままとなったこの遠征は、曹操の心に深い傷を刻んだ。しかし天下に覇を唱えようとする者は、その傷を表に出すわけにはいかない。曹操は平然とした顔で凱旋の列を整え、丞相府への帰還を果たしたのである。
丞相府は許都の中心部に位置する広大な邸宅だった。かつては后漢の名臣が住んだと伝えられるこの屋敷は、曹操が董卓を討ち、天子を奉戴して以来、実質的な政権の中枢として機能している。門前には甲冑を身に着けた衛兵が立ち並び、その顔には南陽からの凱旋を祝う喜色が浮かんでいた。曹操は供回りを労い、みなを下がらせると、一人で奥へと歩を進めた。
曹操の頭の中には、宛城での戦いの光景がまだ生々しく残っていた。燃え盛る陣営。鬨の声。逃げ惑う将兵たち。そして、自分の馬を差し出して「父上、この馬でお逃げください」と言った曹昂の顔。あの時、曹操は一瞬ためらった。長子を置き去りにすることに、父としての呵責がなかったわけではない。しかし戦場では一瞬のためらいが死を招く。曹操は馬に跨がり、振り返らずに駆けた。それが為政者としての正しい判断だったと、今でも信じている。だが、その判断の重みは、丞相府の門をくぐった今、のしかかってきた。
丞相府の門をくぐると、待っていたのは妻の丁氏だった。
丁氏は曹操の正妻である。彼女は曹操との間に実子こそいなかったが、早世した劉夫人が遺した曹昂、曹鑠、そして後に清河公主と呼ばれることになる一人の娘を、我が子同然に養育してきた。劉夫人は曹操の最初の妻であり、曹昂を産んで間もなく病に倒れ、幼い子供たちを遺して世を去った。その時、曹操が後妻として迎えたのが丁氏である。彼女は劉夫人の忘れ形見を引き受けることを自ら望み、以来十数年にわたって三人の子を愛情深く育ててきた。中でも長子の曹昂は、幼い頃から丁氏が手ずから育て上げた子であった。
曹昂がまだ乳飲み子の頃、夜泣きがひどく、丁氏は毎晩ほとんど眠らずに子守をしたという。熱を出せば自ら氷を取ってきて額を冷やし、学問の師を探すために自ら洛陽の書肆を巡った。曹昂が十歳の時、初めて弓を引いた日のことを丁氏は今でも鮮明に覚えている。小さな手で懸命に弦を引き絞り、放った矢が的の端に刺さった時、曹昂は嬉しそうに振り返って「母上、見てください」と叫んだ。丁氏はその姿を見て、涙が止まらなかった。劉夫人が生きていれば、この子の成長を共に喜べたはずなのに。その思いが、丁氏をより一層、曹昂に深く関わらせた。彼女はこの子を絶対に守り抜くと、心に誓ったのである。
その曹昂が宛城で消息を絶ったという報は、すでに許都にも届いていた。曹操が帰還する数日前、南陽からの早馬がもたらした戦報には、曹操軍が張繍の奇襲を受け、多くの将兵が討たれたこと、特に典韋と曹昂の行方がわからないことが記されていた。この報せを受けた丁氏は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく言葉を発することができなかったという。
「お帰りなさいませ」
丁氏の声は震えていた。彼女は曹操の顔を見るなり、その胸にすがりついた。
曹操は丁氏の肩を抱きしめた。彼女の体は細かく震え、その両手は曹操の衣をぎゅっと握りしめている。曹操は一瞬、何を言うべきか迷った。嘘をつくこともできた。しかし彼はそれをしなかった。丁氏には真実を伝える資格があると思ったからだ。そして何より、今ここで嘘をつけば、後により大きな傷を彼女に与えることになる。それは丁氏に対して、そして死線に消えた曹昂に対しても、あまりに不誠実だった。
「子脩は……子脩はどこにおります。なぜ連れて帰ってくださらなかったのです」
「落ち着け。子脩は……まだ見つからぬ。だが死んだとは決まっておらぬ」
「まだ見つからぬとは、それではまるで……!」
「兵を出して捜索させている。必ず見つけ出す」
しかし丁氏は曹操の言葉を信じなかった。いや、信じたくなかったのかもしれない。彼女は曹操の胸から離れると、涙で濡れた顔を上げ、節度もなく叫んだ。その声は広い邸内に響き渡り、廊下を歩いていた使用人たちが驚いて足を止めるほどだった。
「劉夫人が遺した子を、私がどれほど大切に育ててきたか、あなたもご存じのはず。その子脩を戦場に連れて行き、たった一人で置き去りにされたのですか! 私の子を殺しておきながら、平気な顔をしているとは!」
「私は平気な顔などしていない。しかし戦は戦だ。子脩もそれを承知で従軍した」
「戦は戦? 子脩はまだ二十歳にもならぬ若者です。戦場の恐ろしさを、本当に理解していたとお思いですか。あなたが連れて行かなければ、あの子は今もここで無事に過ごしていたのです!」
曹操は黙ってそれを受け止めた。何を言っても無駄だと知っていたからだ。丁氏の悲しみは本物であり、その悲しみに理屈は通用しない。彼女にとって曹昂は、実の子以上に深い愛情を注いだ存在だった。劉夫人の忘れ形見を守ることこそが、彼女の人生そのものだったのである。丁氏はかつて曹操にこう言ったことがある。「劉夫人が遺した子を立派に育て上げることが、私の生きる意味です」と。その言葉通り、彼女は十数年にわたって曹昂を愛し、慈しみ、時に厳しく叱りながら育ててきた。そのすべてが、宛城の一夜で奪われたのである。
曹操は黙って彼女の背を抱きしめた。丁氏の体は熱を帯び、涙が曹操の胸元を濡らしていく。彼女は曹操の胸を拳で叩きながら、さらに激しく泣き叫んだ。
「あの子は私の全てでした。あなたがあの子を連れて行かなければ……なぜ、なぜ子脩だったのです。なぜ典将軍だけでは足りなかったのです。なぜもっと兵を付けてやらなかったのです。なぜ……なぜ……」
丁氏の声は次第に嗚咽に変わり、言葉にならなくなっていった。曹操はただ黙って彼女を抱きしめ続けることしかできなかった。その無力感が、彼の心を深く抉っていく。
やがて、母の泣き声を聞きつけて部屋の隅で震えていた。曹鑠はまだ十代半ばの少年であり、姉の曹微は数え年で十になったばかりである。二人にとって曹昂は、優しい長兄だった。幼い頃から遊び相手になり、学問の手ほどきをし、時には父の代わりに叱ってくれた。その兄が帰ってこないという事実が、二人の幼い心にも重くのしかかっていた。
「母上……」曹鑠がおずおずと声をかけた。
丁氏はハッと顔を上げ、涙に濡れた目で曹鑠と曹微を見た。彼女は一瞬息を呑み、それから二人の元に歩み寄ると、強く抱きしめた。
「鑠、微……お前たちは大丈夫だ。母が守る。絶対に守るから……」
丁氏はそう言って泣き続けた。曹鑠も清河公主も、母の背に手を回し、共に涙を流した。
曹操はその光景を、ただ黙って見つめていた。彼はこの時、自分が為政者である前に一人の父親であり、夫であることを思い知らされた。天下を取るという大望は、家族の涙を代償にして初めて成り立つものなのか。その問いに対する答えを、曹操はまだ見つけられずにいた。
それから数日、丁氏の悲嘆は収まることがなかった。事あるごとに曹操を呼び出しては「私の子を殺した」と罵り、節度もなく号泣する。朝餉の席でも、夜の寝所でも、丁氏の涙は枯れることがなかった。彼女は食事もろくに取らず、夜も眠らずに曹昂のことを語り続けた。曹昂が初めて字を書いた日のこと、馬に乗れるようになった日のこと、洛陽の太学に入学した日のこと。一つ一つの思い出が、丁氏の口から語られるたびに、その喪失の深さが際立っていった。
曹操はこの態度に内心では不快を募らせていた。彼とて、曹昂を失った悲しみは同じである。しかし彼はそれを表に出さず、政務に追われることで自らを慰めていた。丁氏の悲嘆は、そんな曹操にとって、自らの傷をえぐられるような行為だった。それでも曹操は丁氏を愛していた。彼女がこれほどまでに曹昂を愛していたことを、曹操は誰よりもよく知っていたからだ。
丁氏はもともと、喜怒哀楽の激しい女性ではなかった。むしろ、普段は静かで控えめな人柄であり、曹操が政務で疲れて帰宅すると、黙って茶を差し出し、余計なことは何も言わずにそばにいてくれるような妻だった。その丁氏がこれほどまでに取り乱していることが、曹操には何よりも辛かった。
結局、曹操は丁氏を一度里に帰し、彼女の気持ちが収まるのを待つことにした。これは曹操の側近である荀彧の進言によるものでもある。荀彧は「今は夫人を静かな場所で休ませるのが最善です。ここにいてはお互いに傷つけ合うだけです」と穏やかに諭した。曹操はその言葉に従った。
「しばらく実家に戻っていろ。昂のことは必ず探し出す。鑠と微のことは私が預かる。それまで待ってくれ」
曹操の声は、いつものような覇気を失い、かすかに震えていた。丁氏は顔を上げ、涙で腫れた目で曹操を見つめた。その目には、怒りと悲しみと、そしてかすかな愛情が混ざっていた。
「……あなたはいつもそうです。いつも他人の気持ちなどお構う事なく、自分の決めた道を進む。子脩を戦場に連れて行ったのも、自分の判断が正しいと信じたからでしょう。でも、その判断が間違っていたとは思わないのですか!?」
曹操は言葉に詰まった。彼は自分の判断が間違っていたとは思っていない。曹昂を従軍させたのは、後継者としての経験を積ませるためだった。それは為政者として正しい判断だったはずだ。しかし、その正しさを今ここで主張すれば、丁氏をさらに傷つけるだけだ。
「……間違っていたかどうかは、まだわからぬ。子脩はまだ生きているかもしれない。だから俺は諦めない」
丁氏は小さく息を吐き、目を伏せた。
「わかりました。しばらく実家に戻ります。でも……もし子脩が見つかったら、すぐに知らせてください。たとえ……たとえ亡骸でも構いません。私にあの子に別れを言わせてください」
「ああ。約束する」
曹操は深く頷いた。丁氏はそれ以上何も言わず、涙を拭いながら立ち上がった。彼女は侍女に支えられながら部屋を出て行く。その背中は、かつての凛とした正妻の姿ではなく、一人の子を失った母親の姿だった。
曹操はしばらくその場に立ち尽くしていた。窓の外では、初夏の陽光が庭の樹々に降り注いでいる。その穏やかな光景と、自分の心の中の暗い空洞とがあまりにかけ離れていて、曹操は思わず目を閉じた。
彼は自分の執務室に戻り、机の上の文書に目を落とした。荀彧からの上奏文、程昱からの軍務報告、夏侯惇からの兵站に関する伺い。どれもこれも重要な案件ばかりだが、今の曹操の心には何一つ入ってこなかった。
彼は筆を執り、白い絹に一文字だけ書いた。「昂」という字である。曹操はその字をじっと見つめ、それから絹を丁寧に折り畳んで、机の奥にしまい込んだ。
その日の夕刻、丁氏は数人の侍女と共に丞相府を後にした。彼女は輿に乗り込み、簾を下ろしたまま、一言も発しなかった。曹鑠と清河公主は門の前で母の輿を見送りながら、泣きじゃくっていた。曹操は二人の肩に手を置き、静かに言った。
「母上は必ず戻ってくる。それまでお前たちは、父が守る」
曹鑠は涙をぬぐいながら頷いた。清河公主は曹操の衣の裾を握りしめ、小さな声で「兄上は帰ってくるの」と尋ねた。曹操は答えられなかった。
輿が街の角を曲がって見えなくなると、曹操は一人、丞相府の奥へと戻った。廊下にはまだ、丁氏の泣き声が残っているような気がした。彼は自室に戻り、誰もいないことを確認すると、机の上に両手をついて深くうなだれた。その肩が、かすかに震えていた。
その夜、曹操はほとんど眠ることができなかった。彼は何度も寝返りを打ち、宛城での戦いを夢に見た。夢の中では、曹昂が馬を差し出して笑っていた。「父上、私は大丈夫です。どうか先へ」と。曹操が手を伸ばすと、曹昂の姿は闇の中に消えていった。
曹操は飛び起きた。全身に冷や汗をかいている。窓の外はまだ暗く、夜明けまではまだ間があった。彼は寝台の上でしばらく坐禅を組み、乱れた呼吸を整えた。天下に覇を唱える者が、このような弱さを見せるわけにはいかない。曹操は自分にそう言い聞かせた。しかし、心の奥底に生まれた空洞は、決して埋まることはなかった。
翌朝、曹操は普段通りに執務を始めた。荀彧が朝の報告に訪れると、曹操はいつもと変わらぬ様子で政務を論じた。その姿に、荀彧はかえって痛ましさを感じたという。後に荀彧は側近にこう語った。「主公は鉄の心をお持ちだ。しかし鉄もまた、強く打てば砕けることがある。今はただ、その砕けた破片が主公の内側を傷つかぬよう、願うばかりだ」と。
こうして丁氏は実家へと去り、曹操は喪失を胸の奥に秘めたまま、丞相としての職務に没頭することとなった。この悲しみがいつか癒えるのか、それとも永遠に疼き続けるのかは、誰にもわからなかった。ただ一つ確かなことは、丁氏が丞相府を去ったことで、曹操は家族という最後の安らぎの場をも失ったということである。今や彼は、天下という孤独な戦場に、たった一人で立ち続けねばならなかった。




