外伝 曹孟徳引狼入室 高孝父迎刃而上 二段
曹操が丁氏との確執に心を痛めている頃、丞相府に一人の客人が訪れた。高順である。
高順は張五を伴い、簡素な旅装のまま丞相府の門をくぐった。彼が許都に留まっていたのは、南陽での戦いの後、曹操軍と共に舞陰まで退却し、その後も曹操の要請でしばらく許都に滞在していたからである。本来ならば、公孫瓚を退けた後、すぐにでも并州へ戻るつもりだった。しかし曹操が「もうしばらく許都に留まれ。話したいことがある」と引き止めたため、高順は予定を延長していた。張五はもちろん、高順がどこへ行くにも常に側に控えている。
丞相府の門前では、ちょうど丁氏が輿に乗って実家へと発つところだった。輿の周りには数人の侍女が付き添い、御者が静かに馬の手綱を引いている。高順はその光景を遠目に認めると、馬を下りて道の脇に控えた。
「これは……丁夫人とお見受けいたします。并州の高順にございます」
高順が深く一礼すると、輿の簾が少しだけ上げられた。中から現れた丁氏の顔は、涙で腫れ上がり、かつての凛とした正妻の面影はなかった。彼女の目は赤く充血し、唇は乾き、頬には涙の跡が幾筋も残っている。高順はその変わりように、一瞬息を呑んだ。かつて洛陽で見かけた丁夫人は、曹操の正妻として堂々たる風格を備えた女性だった。しかし今、目の前にいるのは、子を失った一人の母親に過ぎない。
「高将軍……南陽で戦われたと聞きました。子脩を、子脩をご存じありませんか。あの子はどこにいるのですか。何かご存じなら、どうか教えてください」
丁氏の声はかすれ、最後の方は涙にかき消されてほとんど聞こえなかった。高順は一瞬息を詰まらせた。彼は曹昂が生きていることを知っている。知っているどころか、今この瞬間も、曹昂は并州で典韋や曹定と共に手厚く保護されている。しかしそれを明かすわけにはいかなかった。高順はすぐに平静な表情に戻り、深く一礼した。
「申し訳ございません。私はあの戦場で敵軍の後背を突くことに専念しており、曹昂殿のお姿は直接確認できませんでした。私が戦場に到着した時には、すでに陣中は大混乱に陥っており……」
高順はそこで言葉を切り、丁氏の目をまっすぐに見つめた。その目には嘘はなかった。ただ真実の一部を語らなかっただけである。
「ですが夫人、死んだと決まったわけではございません。私は戦場で多くの遺体を確認しましたが、その中に公子の姿はありませんでした。典将軍も同様です。お二人とも、まだどこかで生きておられる可能性は十分にあります。どうかご自愛ください」
丁氏はしばらく高順の顔を見つめていた。彼女は何かを感じ取ったのかもしれない。しかし、それを言葉にすることはなく、かすかに頷いた。
「……ありがとうございます。高将軍、あなたはあの子のことを知っているような気がします。でも、今はそれ以上は聞きません。いつか、何かわかったら教えてください」
「御意に」
高順がもう一度深く頭を下げると、丁氏は簾を下ろした。輿はゆっくりと門を出て行く。高順はその背中を見送りながら、心中で小さく呟いた。死んでいない。生きている。だが今はまだ、それを伝える時ではない。
丞相府の中へ通されると、曹操が苦笑いを浮かべながら高順を迎えた。曹操は広い客間に高順を招き入れ、自ら酒壺を手に取った。その顔には疲労の色が濃く滲み、目の下には隈ができている。丁氏との諍いがよほど堪えたのだろう。
「孝父か。先ほどの丁氏とのやり取り、見られてしまったか。まったく、妻に頭が上がらぬところを見せるとは、為政者として失格だな」
「見苦しいところをお見せたな。しかし夫人のご心痛は察するに余りある。どうかお詫びなどなさらぬように」
曹操は自嘲気味に笑って酒壺の封を切った。
「まあ座れ。今日は客人だ。堅苦しい話は抜きにしよう」
高順が薦められた席に着くと、曹操は手ずから酒を注いだ。高順は本来、酒を好んで飲む男ではない。しかしこうした場では断れない。彼は黙って杯を受け取り、一口含んだ。
やがて奥からは、複数の足音が聞こえてきた。最初に姿を現したのは、曹操の弟たちである。曹律、曹疾、曹彬、曹玉、曹徳。いずれも三十代から四十代の若さで、曹操と同じく背は高くないが、それぞれに精悍な面構えをしている。彼らはこの南陽遠征で初めて本格的な戦場を経験し、それぞれに傷と勲章を持ち帰ってきた。五人が無事に戦場を駆け抜けられたのは、ひとえに張五率いる陥陣営の援護があってこそだった。中でも曹疾は、息子の曹定が行方知れずとなったことをまだ知らされておらず、表情には悲壮な色が漂っている。しかし彼はその悲しみを押し殺し、兄の前に立った。
さらに奥からは、杖をついた老臣が現れた。曹操の父である曹嵩である。元太尉であり、徐州で陶謙の部下に襲われかけた過去を持つこの老人は、息子たちの無事な姿を見て目を細めた。曹嵩はすでに七十を超え、髪は真っ白に染まっているが、その背筋は矍鑠としている。
曹嵩は高順の背後に控える張五を見るなり、驚いたように声を上げた。その老いた目が大きく見開かれ、杖を握る手が震えている。
「かつて徐州でわしを殺そうとした張闓の手から、わしと一族を救い出してくれた壮士ではないか!」
曹嵩の声は広い客間に響き渡った。曹操の弟たちも一斉に張五を見る。高順は静かに杯を置き、曹操は黙って成り行きを見守った。
「父上、この張五という男は先の戦で実に見事な采配でした。我らが敵中に孤立した時、この男が現れなければ今頃は……」
曹律が声を詰まらせながら言った。彼の左腕にはまだ包帯が巻かれている。宛城の戦いで受けた傷だった。
「そうです。我ら五兄弟たちが無事でいられたのは、この張五殿のおかげです。徐州での父上の救出に続き、南陽でも我らを救ってくれた。これで二度目です。典韋殿や昂のことは残念でしたが、少なくとも我らは生きて帰れました」
曹彬も深く頷きながら続けた。彼は五兄弟の中で最も寡黙だが、その言葉には確かな重みがあった。
曹疾はしばらく黙っていた。彼は息子の曹定を失った悲しみの中にあっても、張五への感謝を忘れてはいなかった。彼はゆっくりと張五の前に進み出て、深く頭を下げた。
「張将軍、本当にありがとうございます。あの子は……曹定は見つかりませんでしたが、少なくとも私自身が生きて帰れたのは、あなたのおかげです。あなたが徐州で父上を救ってくれなければ、そもそも我々はこの場に立つことすらできなかった。あなたは我が曹家にとって、二度の命の恩人です」
張五は黙って一礼した。彼は高順から口止めされていた。曹昂、典韋、曹定の三名が生きていることは、いかなる状況でも漏らしてはならない。曹疾の悲しみを前にしても、張五はただ無言で耐えるしかなかった。その心中は決して穏やかではなかっただろう。彼の前で頭を下げる曹疾の姿を見て、張五のこめかみがかすかに引き攣ったが、それでも彼は何も言わなかった。
曹嵩がさらに一歩前に進み出た。老臣は杖を脇に置き、なんとその場に深く平伏しようとしたのである。高順がさすがに立ち上がり、それを制した。
「曹太公、おやめください。張五は私の部下に過ぎません。そのようなことをされては、かえって彼が恐縮いたします」
「いや、高将軍。わしはこの場を借りて、どうしても礼を申し上げねばならぬ」
曹嵩は高順の制止を振り切って深く頭を下げた。その白髪が床に触れるほどだった。
「張将軍、あなたは二度も我が曹家を救ってくれた。徐州では張闓の凶刃からわしと一族を守り、南陽では息子たちを戦場で支えてくれた。この恩は決して忘れません。わしはすでに老い先短い身だが、あなたの武勇と忠義を子々孫々に語り継ぐことを誓おう」
張五はしばし言葉を失い、それから深く頭を下げた。彼は武人である。これまで幾度も死線を潜り抜けてきた剛の者だが、老臣のこの真摯な感謝を前にしては、さすがに胸に迫るものがあった。そして同時に、その感謝に値するだけの真実を語れぬ自分が、少しだけ情けなくもあった。
「……恐れ入ります。私はただ、将軍の命に従ったまでにございます」
張五はそれだけ言うと、口を引き結んだ。曹嵩は顔を上げ、今度は高順に向き直った。
「高将軍、あなたはわしの知らぬところで、わしの命を、息子たちの命を救ってくださった。あなたのような若者がこの乱世にいることが、何よりの救いです」
「恐縮です。私は自分にできることをしたまで。曹家の方々が無事で何よりでした」
「できることをしただけ……か。その言葉をさらりと言えるのが、あなたという御仁なのでしょうな」
曹嵩は深く感じ入った様子で何度も頷いた。老臣が一介の将に対してここまで深く感謝を示すことは異例だったが、命の恩人に対する感謝に、身分の上下はなかった。曹操の弟たちも、改めて高順と張五に向かって頭を下げた。
「張五、下がっていいぞ」
高順が短く命じると、張五は安堵したように退出していった。客間には高順と曹操、そして曹嵩と弟たちが残った。曹嵩はしばらく高順と言葉を交わした後、年齢を理由に退出し、弟たちもそれぞれの任地へと戻っていった。
曹操はその様子をじっと見ていた。彼はすでに気づいていたのである。張五が動いたのはすべて高順の指示によるものだということを。徐州での父の救出も、南陽での弟たちの援護も、すべて高順という男の差配によるものだった。高順は曹操が危機に陥るたびに、まるで未来を見通しているかのように先回りして手を打っていた。
曹操は高順に対して複雑な感情を抱いていた。なぜこの男は、ここまでして曹家を助けるのか。単なる義侠心ではあるまい。かといって、見返りを求めている様子もない。ならば何が目的なのか。曹操はその意図を測りかねていた。
しかし、この場でそのことを追及するのは無粋というものだ。少なくとも今は、父と弟たちが無事にこの場にいることを素直に喜ぶべきである。曹操は高順に対する警戒を解いたように、穏やかな笑みを浮かべた。その笑みは、作り物ではない、久しぶりに見せる自然な表情だった。
「孝父。お前のおかげで父は生き延び、弟たちは無事だった。二度も我が曹家を救ってくれたことになる。正直に言えば、お前の真意はわからん。なぜそこまでして我が曹家を助けるのか。だが、今はそれを詮索するのはよそう。ただ、礼を言う」
曹操は自ら杯を掲げた。その言葉には、権力者としての計算ではなく、一人の人間としての率直な感謝が込められていた。
「当然のことをしたまでだ」
高順はあくまで淡々と答え、杯を合わせた。二人はしばし無言で酒を酌み交わした。客間の窓からは初夏の陽光が差し込み、庭の樹々が風に揺れている。先ほどまでの悲嘆と緊張が嘘のように、穏やかな空気が流れていた。
しかし高順の胸中は決して穏やかではなかった。彼は知っている。曹昂は生きている。典韋も曹定も生きている。この場にいる曹疾が、息子を失った悲しみに暮れているその同じ瞬間に、曹定は并州の空の下で息をしているのだ。その真実を今ここで明かすことは、高順にとって造作もないことだった。しかし彼はそれをしなかった。これは冷酷な計算である。曹昂と典韋と曹定の生存は、将来、曹操との交渉において決定的な切り札となる。その札は、ここで切るべきではない。もっと重要な局面で切るべきだ。
曹操はふと杯を置き、窓の外に目をやった。庭には曹鑠と娘の曹微の姿が見える。曹微はまだ数え年で十になったばかりの少女だが、その面差しには曹操の面影があり、利発そうな目をしていた。二人は兄の帰りを待ちわびているのだろう。曹操はその姿を見つめながら、ポツリと言った。
「高順、お前には子がいるか」
高順は少しだけ間を置いてから答えた。
「二人の息子がおります。高景と高昭と申します。景は四歳、昭はまだ二歳です」
「そうか。子ができると、人は変わるぞ。子を守るためなら、どんなことでもできるようになる。同時に、子を失うことがどれほど恐ろしいかも知ることになる」
曹操の声には、これまで見せたことのない弱さが滲んでいた。高順は静かに杯を置き、窓の外で遊ぶ曹鑠と曹微の姿を見つめた。
「孟徳。私はまだ、子を失う恐怖を知らぬ。だからお前の苦しみを真に理解することはできぬだろう。だが、お前が曹昂殿を愛していたことは、誰の目にも明らかだ。その愛は必ず、曹昂殿にも届いていたはずだ」
曹操はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「珍しくお前が慰めの言葉を口にするとはな。よほど俺が弱っているように見えたか」
「そう見えるか」
「見えるさ。ありがとう、孝父」
曹操は杯を掲げ、高順もそれに応じた。二人は再び酒を酌み交わし、しばし無言の時が流れた。窓の外では、曹鑠と曹微が庭を駆け回っている。その笑い声が、静かな客間に微かに届いていた。




