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外伝 曹孟徳引狼入室 高孝父迎刃而上 四段

曹操が出陣して後、高順は許昌の皇居に参内した。


目的は、自らも宛城へ向かうことの許可を天子に願い出るためである。表向きは丞相の援護と戦況の確認、そして漢室の驃騎将軍として、反乱を起こした張繍に対する追討軍への合流という名目だった。


「高順、そなたまで宛城に向かうというのか。丞相はすでに出陣した。そなたは朕のそばにいてくれるのではないのか」


劉協の声には不安の色が滲んでいた。彼にとって高順は、この許昌で唯一、心から信頼できる存在だった。その高順までもがいなくなれば、自分はまた孤独になる。伏完も董承も、曹操の目を気にしてか、最近はめったに私的な会話もできなくなっていたのだ。


「陛下。丞相は陛下のために張繍を討とうとしておられます。しかし戦場とは、何が起こるかわからぬもの。万一、丞相の身に何かあれば、朝廷は乱れ、ひいては陛下の御身にも危険が及ぶでしょう。臣はそれを防ぐために、丞相の援護に向かいたい」


高順は跪いたまま、静かに言った。


「陛下の御前を離れることは、臣としても心苦しい限りです。ですが、丞相を失えば、朝廷の均衡は崩れます。それは陛下にとって、最も避けねばならぬこと。どうか、ご許可を」


劉協はしばらく黙って高順を見つめていた。その目には、幼い頃から自分を守り続けてくれたこの将軍への信頼と、失うことへの恐れが同時に浮かんでいる。しかし彼はもう、ただ守られるだけの子供ではなかった。


「……わかった。そなたがそう言うなら、朕は止めぬ。じゃが、必ず戻って来い。約束だぞ、高順」


「はっ。必ずや、陛下の御前へ戻ります。戻った暁には、また象棋をお相手いたしましょう。今度は臣が陛下に勝つ番です」


劉協は少しだけ笑顔を見せ、それから真剣な表情で頷いた。


「うむ。朕もあれから腕を上げたぞ。そなたが留守の間、丞相に教わった新しい手も覚えた。負けはせぬ」


「それは楽しみです。では、行って参ります」


高順は深く一礼し、玉座の間を辞した。その後ろ姿を見送る劉協の目には、かすかに涙が光っていた。


高順は仮館に戻ると、すぐに旅支度を整えた。佩く剣は百錬鋼の重剣。甲冑は軽装の革鎧を選んだ。重装備では長距離の移動に適さないからだ。傍らには張五が控えている。


「張五、今回の同行はお前だけだ。三千の兵はすでに公孫鍛が指揮して現地に潜伏している。呉資には留守中の警備を任せてある。俺とお前の二人だけで、これから宛城に向かう」


「二人だけで、ですか。護衛もつけずに」


「護衛はいらん。むしろ少人数の方が動きやすい。お前と二人で行く。文句はないな」


「とんでもない。河内で初めて会った時も、俺たちは二人だった。大将と二人きりの旅など、久しぶりです。むしろ光栄です」


張五は少しだけ口元を緩めた。河内の流民だった自分を拾い上げ、ここまで引き上げてくれた主君との二人旅。それは彼にとって、どんな褒美よりも価値のあるものだった。


「ならば行くぞ。馬は驍風と、お前には脚の速い驄馬を用意させた。道中は長い。覚悟しろ」


許昌の城門を出た二人は、一路、宛城を目指して西進した。


冬の平原は広大で、道行く人影もまばらだった。空は晴れ渡り、風は冷たいが、雪はまだ降っていない。驍風の蹄が凍った地面を刻み、驄馬がそれに続く。


高順は曹操の軍が出発してから数日後に許昌を発ったため、すでに曹操軍ははるか前方を進んでいるはずだった。高順はあえて距離を保ちつつ、独自の道を進んだ。張繍の反乱が起こる前に宛城に潜入し、事が動くのを待つ。それが彼の計画だった。


許昌を出てしばらくは、二人とも無言で馬を進めていた。官道はよく整備されており、曹操の治世が行き届いている証拠だった。しかし高順はあえて官道を外れ、より人目につきにくい脇道を選んだ。驃騎将軍が二人だけで移動していると知られれば、それを狙う不逞の輩もいるかもしれない。そうした危険を避けるためだった。


やがて許昌の城壁が見えなくなると、高順は不意に口を開いた。


「張五。お前、最近、妻とはうまくいっているのか」


張五は驚いて高順の顔を見た。主君が私的な話題を振ることは、これまでほとんどなかったからだ。并州では執務に追われ、いつも報告と命令だけだった。それが今、二人きりの旅の中で、高順はまるで長年の友人に話しかけるような口調で尋ねてきた。


「は、はい。おかげさまで。先月、二人目の子が生まれました。女の子です」


「そうか。名前は決まったか」


「まだです。大将、もしよろしければ、名付け親になっていただけませんか」


高順は少し考え、それから静かに言った。


「『安』はどうだ。并州の安らぎを願って」


「安……良い名です。ありがとうございます、大将。妻も喜びます」


「河内で初めて会った時、お前はただの痩せた流民だった。今では妻子を持ち、副将として軍を率いている。人は変わるものだな」


「大将のおかげです。あなたがいなければ、俺はとっくに飢え死にしていた」


「俺は何もしていない。お前が自分で掴んだものだ。故郷とは、与えられるものじゃない。自ら築くものだ。お前はそれを体現している」


張五は胸が熱くなるのを感じた。高順は普段、こういうことは決して言わない。今、こうして二人きりだからこそ、本音を口にしているのだろう。許昌では曹操と渡り合い、朝廷では伏完や董承の思惑をかわし、常に誰かに見られているという緊張感。そのすべてから解放されて、高順はようやく肩の力を抜いている。張五はそう感じた。


官道を外れてしばらく進むと、前方に人だかりが見えた。十数人の武装した男たちが、一台の荷馬車を取り囲んでいる。山賊だった。彼らは手に手に粗末な刀や棍棒を持ち、荷馬車の持ち主を脅している。積まれているのは穀物の袋や布の束。略奪目的であることは明らかだった。


「大将、どうしますか」


「蹴散らす。数は十人程度だ。俺とお前で十分だろう」


「御意」


高順が驍風の腹を蹴ると、黒馬は一陣の風のように加速した。張五も驄馬を駆り、それに続く。


「な、なんだあの二人は!」


山賊の一人が叫んだ。次の瞬間、高順の重槍が走り、日の光を受けて一閃した。剣が風を切り、一人目の山賊が武器を構える間もなく斬り伏せられる。続いて張五が馬から飛び降り、手にした剣で二人目を薙ぎ倒した。


「ひ、ひぃっ! 逃げろ!」


山賊たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。高順は深追いせず、槍を収めた。荷馬車の持ち主は、震えながら礼を言った。


「あ、ありがとうございます。助かりました」


「怪我はないか」


「はい、おかげさまで。旦那はたったお二人で、まさに神業のようなお手前。もしよろしければ、お名前を」


「ただの旅の者だ」


高順はそれだけ言うと、馬を進めた。張五も黙って後に続く。助けた商人は、しばらく呆然と二人の背中を見送っていた。


「大将、旅の者というのは、さすがに無理があるかと。あの商人、最後まで信じられない顔をしていました」


「なら、次からは『并州から参りました驃騎将軍です』とでも名乗るか」


高順が真顔で言うと、張五は思わず吹き出した。高順が冗談を言うなど、并州では決して見られない光景だった。


「大将、その名乗りは逆に怪しまれます。誰も信じませんよ」


「だろうな。驃騎将軍がたった二人で山賊退治をしているとは、誰も思うまい」


そう言って、高順はわずかに口元を緩めた。張五はその表情を見逃さなかった。主君は今、間違いなく楽しんでいる。曹操や朝廷の重圧から離れ、戦場に向かう道中でありながら、この時間を心の底から味わっているのだ。張五はそれを感じ取り、自分もまた、この旅をかけがえのないものに思った。


しばらく進むと、道端に小さな集落が見えた。しかし家屋は荒れ果て、煙は一本も上がっていない。どうやら放棄された村のようだった。村の入り口には、数人の男女がうずくまっている。服はぼろぼろで、頬はこけ、明らかに飢えている。流民だった。


高順は馬を止め、彼らの前に降り立った。流民たちは最初、怯えたように身をすくめたが、高順が武器を構えないのを見ると、少しだけ警戒を解いた。


「どこから来た」


「……宛城です。張繍様の徴兵から逃れてきました。息子は兵に取られ、田畑は荒れ果て、もう食べるものもなく」


老人が震える声で答えた。


「宛城は今、どうなっている」


「曹操様の軍勢が来て、一度は降伏したと聞きました。ですが、何やら城内は不穏で、また戦が始まるかもしれないと。だから私たちは逃げてきました」


高順は張五に目配せした。張五は黙って馬の荷袋から干し肉と練炭を取り出し、老人に手渡した。


「これは我々の携行食だ。多くはないが、しばらくはもつ。北に進めば、許昌がある。曹操の領地なら、流民の受け入れを行っている」


「あ、ありがとうございます。しかし許昌まで歩いて何日もかかります。道中で野垂れ死にするかもしれません」


「ならば、もう少し北に行け。そこに并州の商会が臨時の食料配給所を設けている。并州の旗を掲げた天幕があるはずだ。『高』の旗印が目印だ。そこに行けば、最低限の食料と練炭は手に入る。道中、山賊が出たら、并州の者だと名乗れ。大方は逃げていく」


「并州……あの、噂に聞く驃騎将軍様の」


「そうだ。并州では流民を保護している。お前たちのような者こそ、并州に来るといい」


高順はそれだけ言うと、再び馬に跨がった。流民たちは何度も頭を下げ、干し肉を抱えて北へと歩き出した。馬を進めながら、張五が静かに尋ねた。


「大将、并州の配給所の話は初耳ですが」


「今、俺が作った。公孫鍛の潜伏部隊から伝令を出させる。あの流民たちが并州に着くまでに、配給所を設置するよう董昭に知らせよ。どうせ商会は拡大中だ。一つくらい臨時の拠点があっても構わんだろう」


「なるほど。ないなら作ればいい、ですか。わかりました。公孫鍛の部隊に合図を送り、董昭殿へ早馬を飛ばさせます」


「ああ。俺の言葉は、嘘にしてはならない。それが統治者の務めだ」


宛城まであと一日というところで、高順と張五は小さな村の宿に泊まった。宿とは名ばかりの、農家の納屋を改造した粗末な小屋だったが、雨露をしのぐには十分だった。


囲炉裏の火を囲みながら、二人は持参した干し肉を炙り、粥を啜った。窓の外では風が吹き荒れ、木々がざわめいている。遠くで梟の鳴く声がした。


「大将、ここまで来れば曹操の軍には追いつきませんが、よろしいのですか」


「それでいい。俺たちは曹操に合流するのが目的じゃない。宛城で事が起きる前に、潜伏するのが目的だ」


「潜伏、ですか。驃騎将軍が自ら」


「ああ。戦場では、大将が本陣にどっしりと構えているより、自ら動いた方が情報が早い。それに、今回はどうしても俺自身が確かめたいことがある」


「賈詡、ですか」


「ああ。あの男がどこまで動くか。その腹の中にどんな陰険な謀略が有るのか、それとも別の選択をするのか。それを俺の目で確かめる」


張五は火に炙った干し肉を齧りながら、しばらく考え込んでいた。


「大将。俺は、大将がこうして自ら危険な場所に飛び込むたびに思うのですが、もっとご自身を大切になさってください。大将が倒れれば、并州は終わりです。董大人も徐将軍も、そして俺も、大将がいなければどうすればいいかわからない」


高順は粥を一口啜り、静かに答えた。


「お前は、俺が死にたくないと言っているのを知っているだろう」


「ええ。何度も聞きました」


「俺は本気で死にたくない。だからこそ、危険な場所には自分で行く。誰かに任せて、その報告を待つだけでは、見落としがある。見落としが命取りになる。俺は自分の目で見て、自分の頭で判断する。それが結局、一番安全なんだ」


「理屈はわかります。でも、せめてもう少し護衛を」


「護衛が多いとかえって目立つ。今回はお前一人で十分だ。お前は俺の目であり、耳だ。初めて会った時から、ずっとな」


張五は言葉を失い、ただ深く頭を下げた。囲炉裏の火が、彼の顔に揺れる影を落としている。


「ありがとうございます、大将。その言葉だけで、俺はもう一生、あなたに付いていきます」


「そうか。なら、明日も早い。さっさと寝ろ」


翌日、高順と張五は宛城の城門をくぐった。


宛城は曹操に降伏した後、表面上は平穏を取り戻していた。城門には曹操軍の旗が翻り、城内には曹操の兵士たちが闊歩している。市場にも活気があり、商人たちの声が飛び交っていた。見た目には、すべてが順調に進んでいるように見える。しかし高順は、その平穏の裏に張り詰めた緊張を感じ取っていた。兵士たちの目は笑っていない。商人たちは時折、不安げに城の方を振り返る。街の空気には、嵐の前の静けさのようなものが漂っていた。


二人は身分を隠すため、商人を装った。高順は革鎧の上から粗末な外套を羽織り、佩剣は荷物に紛れ込ませた。張五も同様に、一介の行商人の助手といった風情である。驃騎将軍とその近衛隊長とは、誰も思うまい。


「大将、まずは公孫鍛と合流しますか」


「いや、まだだ。まずは城内の様子を見る。どこに兵が配置され、どこに物資が集積されているか。街の者の表情はどうか。酒場や市場で情報を集めろ。公孫鍛には、事が起きる直前に合流すればいい」


「承知しました」


二人は市場の片隅にある小さな宿を借り、そこを拠点に数日間、城内の偵察を行った。高順は持ち前の観察眼で、曹操軍の配置と張繍軍の動きを細かく記録していった。張五は市場や酒場で商人たちと雑談を交わし、城内の噂話を集めた。


ある酒場で、張五は興味深い話を耳にした。曹操が張済の未亡人を自らの側室に迎えたこと。それを聞いた張繍が激怒し、賈詡と密談を重ねていること。城内の張繍軍の兵士たちの間には、曹操への反感が高まっていること。表向きの平穏とは裏腹に、宛城はまさに火薬庫のような状態だった。


そして、賈詡がすでに動いているという情報も掴んだ。彼は公孫鍛との接触を終え、并州への亡命に前向きな返事をしているという。張繍もまた、曹操への復讐と引き換えに、并州の庇護を受け入れる覚悟を固めつつある。


「賈詡は、すでにすべてを見抜いているようです。我々が宛城に潜伏していることも、おそらく」


張五の報告に、高順は小さく頷いた。


「だろうな。あの男は常に三手先を読む。公孫鍛が接触した時点で、俺がこの件の背後にいることは見抜いているはずだ」


「では、なぜ賈詡は動かないのでしょう。我々を曹操に密告することもできるはず」


「賈詡は、自分にとって最も利益になる選択を待っている。曹操に密告しても、賈詡に得はない。曹操は賈詡を信用しない。むしろ、反乱の企てを知りながら報告しなかったと咎めるだろう。だが并州に来れば、賈詡は厚遇される。俺は彼の知略を評価している。贾詡はそれを知っている。だから彼は并州を選ぶ……選ばなかったとしても選ばせるようにすればいいだけだ」


高順は窓の外を見た。宛城の街は、今日も平穏を装っている。しかしその皮一枚下では、反乱の火が静かに燃え上がろうとしていた。


「あとは、事が起きるのを待つだけだ」


高順は静かに呟いた。張繍の反乱、典韋の死闘、曹昂と曹安民の救出、賈詡と張繍の脱出。すべては、これから動き出す。その時、高順はこの戦場の裏で、歴史の流れを静かに変える役割を果たすことになる。


「退屈だな」


高順は不意にそう言った。張五は驚いて主君の顔を見た。


「退屈、ですか。これから大きな戦が始まろうとしているのに」


「戦が始まるまでは退屈だ。何もすることがない。せいぜい、もう少し街を見て回るか。張五、お前も付き合え。腹が減った。何か食いに行こう」


「大将、我々は潜伏しているのですよ。堂々と街を歩いて」


「潜伏しているからこそ、堂々と振る舞え。怪しまれるのは、隠れようとする者だ。それに、宛城の名物くらい味わっておかなければ損だろう。驃騎将軍が隠密行動中に名物料理を食っていたなど、誰も信じまい」


高順はそう言うと、外套を羽織り、さっさと宿を出て行った。張五は慌てて後を追いながら、心の中で思った。この方は、やはりどこかずれている。しかしそのずれこそが、并州の蛟龍を并州の蛟龍たらしめている所以なのかもしれない。


同じ頃、許昌では驃騎将軍の仮館を巡って、静かな攻防が繰り広げられていた。


高順が張五だけを連れて出立した後、残された十万の陥陣営は呉資の指揮下で厳重な警戒を続けていた。曹操も高順も不在の許昌で、この十万の軍勢は誰の干渉も受けない独立した戦力だった。当然、その武力に目をつけた者が現れる。


まず動いたのは董承だった。彼は高順の留守中に陥陣営の将校たちに接触し、金銭や官位を餌に自派への取り込みを図ったのである。もし陥陣営の一部でも味方にできれば、曹操に対する切り札となると考えたのだ。


董承の使者として派遣されたのは、彼の腹心である種輯だった。種輯は高順が宛城へ発ってから三日後、陥陣営の副将の一人である章誑のもとを訪れた。手土産として金銀の品々と、董承の親書を携えている。


「章将軍、これは車騎将軍・董承様からのほんの気持ちでございます。つきましては、驃騎将軍がご不在の間、我々と懇意にしていただきたく」


章誑は董承の親書を一瞥しただけで、封も切らずに突き返した。


「我ら陥陣営は驃騎将軍直属の兵である。将軍の命なくして、他者と通じることはできぬ。金銀も親書も不要だ。どうぞお持ち帰りいただきたい」


「しかし、これはあくまで友好の証。何も難しいことをお願いするわけでは」


「将軍が戻られるまで、我らはこの仮館を守るのが任務。それ以外のことは一切お受けできぬ。お引き取り願おう」


章誑の声は平静だったが、その目には一切の妥協の余地がなかった。種輯はなおも食い下がろうとしたが、章誑が佩剣に手をかけたのを見て、慌てて退散した。


同じような動きは伏完からもあった。伏完は董承よりは穏健な方法で、陥陣営の将校たちに酒宴の招待を送った。しかし返ってきたのは、全員から寸分違わぬ辞退の返事だった。


「驃騎将軍不在の折、酒宴に侍るべきにあらず」


これには伏完も舌を巻いた。十万の軍勢が、主君の不在中も一切の動揺を見せず、外部からの誘いに一人として応じない。これほど統率の取れた軍勢は、かつて見たことがない。


「陥陣営とは、まさに鉄の軍団だな」


伏完は董承にそう伝え、しばらくは静観することを互いに確認し合った。高順が戻るまで、陥陣営をどうにかすることは不可能だと悟ったのである。


この報告は、宛城に潜伏する高順のもとにも届けられた。呉資からの早馬が、董承と伏完の動きを詳細に伝えてきたのである。


高順は報告書を読み終えると、微かに口元を緩めた。


「どうやら陥陣営は、俺がいなくてもちゃんと動くようだ。日頃の訓練と禁令の賜物だな。酒宴の誘いを全員が断るとは、我が兵ながら見事なものだ」


「さすがは大将が鍛え上げた兵です。金にも酒にもなびかぬとは、董承や伏完もさぞかし驚いたことでしょう」


張五が誇らしげに言った。


「これで董承も伏完も、しばらくは手を出せまい。もっとも、奴らのことだ、次の手を考えているだろうがな。だが、それはまた別の話だ。今は目の前の戦に集中しよう。公孫鍛から連絡は来ているか」


「はい。作戦の準備、すべて整ったとのことです。賈詡と張繍は、いつでも動ける状態にあります」


翌日、張繍の反乱が勃発する。

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