外伝 曹孟徳引狼入室 高孝父迎刃而上 三段
曹操は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。夜空には満天の星が輝いている。炉の火が静かに爆ぜ、室内に温かな空気を満たしていた。
「孝父。お前はなぜ、そこまで儂に構う。儂が死ねば、貴様にとっては好都合だろう。袁紹も俺もいなくなれば、天下はお前のものだ」
「一人では退屈だろう。曹操という敵がいなければ、この天下は余りに味気ない。それに、貴公が生きていれば、袁紹は常に我らを警戒しなければならない。俺にとっては、お前が生きている方が都合がいい」
「それだけか」
「それだけだ」
曹操は振り返り、高順の目をじっと見つめた。
「嘘をつけ。兄は、俺に友情のようなものを感じている。違うか?」
高順は答えなかった。ただ、ほんのわずかに口元が緩んだように見えた。曹操はそれを見て、満足げに笑った。高順のこういうところが、曹操には面白かった。何を考えているのかわからないようでいて、ふとした瞬間に人間らしい表情を見せる。打算と計算だけで動いているようでいて、その実、曹操との会話を純粋に楽しんでいる節もある。曹操はそれを感じ取っていたからこそ、高順に対してだけは本音を晒すことができた。
「よし。友情と打算が半々というところか。それでいい。俺たちはそういう関係だ。これからも、ずっとな」
「ああ。そうだろうな」
曹操は卓に戻り、再び椅子に腰を下ろした。
「ところで、伏完がお前のところに来たそうだな。何を話した」
「お前の耳は早いな。大した話じゃない。お前の専横が過ぎるとぼやいていただけだ。あの老人は漢室の将来を本気で案じている。お前を敵に回すかどうか、まだ迷っているようだった」
(曹操を言えば曹操来る、曹操を伐すれば曹操は逃げる……よく言ったものだ)
「伏完は小心者だが、忠義の念は本物だ。董承はもっと危険だな。奴は行動力がある。いずれ儂に牙を剥くだろう」
「だろうな。だが、今はまだその時じゃない。奴も貴公の隙を窺っている段階だ」
「兄には声をかけたか」
「董承がか? いや、まだだ。ただ、参内の時の目つきからして、俺が貴公の味方か敵かを見極めようとしている。あの目は、値踏みをする商人の目だ。俺の価値を測りかねている」
「そうか。まあ、いずれ董承の方から兄に接触してくるだろう。その時は好きにしろ。ただし深入りはするなよ。巻き込まれても知らんぞ」
「忠告、ありがたく受け取っておく。俺も面倒事はごめんだ。俺は天子の盾だが、お前の政敵の味方をするつもりはない。天子が安全なら、それでいい」
曹操は茶を啜り、少し砕けた調子で言った。
「しかしだな、孝父。お前が許昌にいるだけで、朝廷の空気は確実に変わった。俺一人の時は、皆この曹操に媚びるか恐れるかだった。そこに兄という別の力が加わったことで、連中はどちらにつくべきか計算を始めている。面白いだろう。朝廷というのは、結局は人間の集まりだ。力の均衡が少し変わるだけで、みな態度を変える」
「政治とはそういうものだ。だからこそ、貴公は俺を呼んだんだろう」
「ああ。兄という存在が、俺の独走を牽制する形になる。それで朝廷の均衡が保たれる。無論、俺にとって都合のいい均衡だがな」
「お前らしい正直さだ」
高順は茶を飲み干し、空になった茶碗を卓の上に置いた。
「して、宛城にはいつ発つ」
「明日だ。配下を連れて行く。張繍如き、儂に勝てるとは思えんが油断はできん」
「張繍か。確かに曲者だ。天下の諸侯の一人でもある故」
「兄がそこまで言うとはな。だが、曲者ならばこそ、討つか従えるかしなければならん。どちらにせよ、宛城は落とす」
高順は曹操の顔を見た。この男はまだ、典韋と曹昂を失う運命を知らない。知っていれば、ああも軽々しく「連れて行く」とは言わないだろう。
「気をつけろ。張繍は西涼の血を引く。誇り高く、裏切りを許さぬ。お前が何か失態を犯せば、必ず牙を剥く」
「失態だと? 俺がそんな間抜けをするとでも思っているのか」
「さあな。女には弱い、特に若い人妻に弱いと聞くが」
曹操は一瞬、むっとした顔をし、それから笑い飛ばした。
「言ってくれるな。まあいい、お前の言う通り、気をつけるさ。お前の三千も借り受けるしな」
「ああ。退路は確保しておく」
「あの三千、普通の兵ではないんだろう。お前の目がいつもと違う。何か企んでいるな」
高順は答えず、ただ茶に口をつけた。曹操はそれ以上は追及しなかった。それが二人の間の暗黙の了解だった。互いにすべてを明かさない。明かさないまま、利用し合う。それで十分だった。
「高順。兄は董卓の配下だった。天子を守るために動いたのは、董卓の罪を少しでも償おうとしたのか。あの時は聞けなかったが、今は聞いておきたい」
曹操が不意に、真顔で問いかけた。高順は茶碗を置き、少しの間を置いてから答えた。
「俺は董卓の威を借りて力を得た。洛陽が焼けた時、俺は董卓から兵をもらい王匡を討ち河内を取った。その罪は消えない。天子を守ったのも、罪滅ぼしじゃない。ただ、あの時点で天子が死ねば、天下はさらに乱れる。それは俺の生き残りにとって不利だと計算しただけだ」
曹操は沈黙した。彼もまた、多くの血を流してきた。呂伯奢の一家を殺めたこともある。「寧ろ我が人を負うとも、人が我を負うことなかれ」と言い放ったのは、他ならぬ自分だ。高順の言葉は、曹操の胸の奥に隠した罪悪感を、鋭く突いた。
「罪の意識など、俺にもある。呂伯奢一家の虐殺は、今でも夢に出る。それでも儂は進むしかない。立ち止まれば、すべてが崩れる」
「俺も同じだ。罪を抱えたまま、前に進む。立ち止まらないことだけが、俺の正しさだ」
「罪を抱えたまま、か」
曹操は茶を飲み干し、空になった茶碗を卓の上に置いた。
「お前と話していると、自分を見ているようだ。文若は理想を語り、仲謀は策略を語り、元譲は忠義を語る。だが兄は、ただ現実を語る。罪も、計算も、生き残ることも、すべて現実だ。それは、儂が誰よりもよく知っている現実だ」
「買いかぶりすぎだ。俺はただの将に過ぎん」
「いや、兄はただの武将じゃない。并州でやっていることを見ればわかる。お前は一個の国を築こうとしている。屯田制で民を養い、製鉄所で武器を量産し、塩の専売で財政を安定させ、学堂で人材を育てている。それは武将の仕事じゃない。王者の仕事だ」
「王者になど、なるつもりはない。俺はただ、死にたくないだけだ」
「それが一番、恐ろしい動機だ」
曹操は笑ったが、その目は笑っていなかった。彼はこの時、高順という男の本質が、洛陽の廃墟で感じた時とまったく変わっていないことを確信した。この男は権力や名声を求めているのではない。ただ生き残るために、必要なことをすべてやる。それが結果として国を築き、軍を強くし、民を豊かにする。動機があまりに純粋すぎるがゆえに、どこまでも恐ろしい男だった。
「高順。俺は明日、宛城に向けて出陣する。お前は許昌に残れ。天子を守り、朝廷を守れ。それが驃騎将軍としてのお前の任務だ」
「わかった。ただ、お前の身に何かあれば、困るのは俺も同じだ。三千の兵を、援護として同行させる」
曹操は目を丸くし、それから破顔した。
「三千だと? 曹陽では三万で李傕を粉砕したが、今度は三千か。まあいい、借り受ける。その三千がどう動くか、楽しみに見せてもらう」
「お前が敗れた時、退路を確保する。備えがあれば、思い切って戦える。典韋だけでは心許ないだろう」
「典韋を過小評価するなよ。あの男は俺の盾であり、矛だ。だが、そうだな……お前の言う通り、備えは必要だ。洛陽の時、お前は俺に『備えがあるから思い切って戦える』と言った。今は儂が同じ言葉を返す番だな」
「あの言葉を、よく覚えていたな」
曹操は一瞬、言葉を失い、それから深く頷いた。
「ああ。兄の言葉は、不思議と心に残る。洛陽で酒を飲んだ夜のことは、今でもよく覚えている。廃墟の官舎で、粗末な卓を挟んで、天下を語り合った。あの夜、俺は確信した。兄は敵だが、同時に俺の理解者でもあると。あれから年も変わったが、その思いは変わらん」
高順は曹操の目をじっと見つめた。曹操は本気でそう言っている。この男は、権謀術数の限りを尽くしながら、その実、心のどこかで誰かと腹を割って話すことを渇望している。高順はそのことに、洛陽の夜に気づいていた。そして今も、それは変わっていなかった。
「貴公という男は、不思議だな。天下を取ろうとしながら、孤独を恐れている。矛盾しているとは思わんのか」
「矛盾しているさ。儂は矛盾だらけの人間だ。善人を気取りながら悪事を働き、天下を狙いながら家庭を愛し、人を殺しながら詩を詠む。そんな自分を、時折、自分でも理解できなくなる。だが、兄の前ではその矛盾を隠さずに済む。兄は俺を善人とも悪人とも決めつけない。ただ、そこにいる俺を見ているだけだ。それがどれほど楽か、兄にはわかるまい?」
「わからんでもない。俺も似たようなものだ」
高順は静かに言った。
「俺は、自分が正しいことをしているとは思っていない。俺はただ、生き残るために必要なことを積み重ねているだけだ。民を養うのも、軍を整えるのも、法を定めるのも、すべては自分と自分の周りを守るためだ。大義や理想など、俺にはない。お前はそれを知っている。そして責めない。だから俺も、お前の前では素直でいられる」
「そうか。兄もまた、俺の前で鎧を脱いでいるというわけか」
「ああ。だが、すべての鎧を脱ぐわけじゃない。それはお前も同じだろう」
「当然だ。全部脱いだら、互いに殺し合うしかなくなるからな」
二人は顔を見合わせ、同時に口元を緩めた。炉の火が爆ぜ、静かな部屋に温かな音が響く。天下の二人の英雄は、奇妙な友情と冷徹な計算の狭間で、確かな絆を育みつつあった。
やがて曹操は立ち上がり、佩剣を手に取った。
「名残惜しいが、夜も更けた。明日は早い。そろそろお開きにしよう」
「ああ。俺もそろそろ失礼する。明日の出陣、見送りには行く」
「そりゃありがたい。驃騎将軍直々の見送りとあれば、兵たちも士気が上がるというものだ」
二人は出口に向かいながら、さらに言葉を交わした。話題はとりとめのないものだった。許昌の冬の寒さ、并州と中原の食文化の違い、お互いの子供たちの話。高順に子供はいないが、学堂で学ぶ若者たちのことを語ると、曹操は目を細めて聞いていた。
「子供か。俺には子脩、子桓、子文、子建がいる。どの子も可愛いが、いずれは後継者を一人に絞らねばならぬ。それが親の務めであり、辛いところだ」
「後継者争いは、国を割る。早めに決めることだな」
「お前に言われるまでもない。だが、決めるのは簡単なことじゃない。能力か、血筋か、はたまた母親の寵愛か。どの基準を取っても、必ず誰かが傷つく」
曹操は珍しく愚痴めいたことを言った。高順は短く「そうだな」とだけ返した。それ以上は言わなかった。曹昂が生き延びた時、その選択はさらに複雑になる。そのことを知っているのは、今は高順だけだった。
丞相府の門を出ると、冬の冷たい風が二人の頬を刺した。空には満天の星が輝いている。
「高順。次に会う時は、互いにもう少し白髪が増えているだろうな」
「そうだな。だが、頭の中身はまだまだ老け込んではいられない。やるべきことは山積みだ」
「ああ。俺もだ。袁紹を倒し、天下を統一する。お前はどうする」
「俺は并州を守る。それだけだ」
「嘘をつけ。兄はもっと大きなことを考えている。だが、今はそれを聞くまい。また会う時まで、その答えは預けておく」
曹操はそう言って、高順の手を握った。がっしりとした、武将の手だった。
「さらばだ、孝父。お互い、生き延びよう」
「ああ。さらばだ。明日、城門でな」
高順は曹操の手を握り返し、それから黒馬に跨がった。夜の街を、驍風の蹄が静かに刻んでいく。曹操はしばらくその背中を見送り、それから自らも館の中へと戻っていった。
翌朝、許昌の城門には冬の冷たい風が吹き抜けていた。
曹操率いる五万の軍勢が整然と並び、出陣の時を待っている。先頭には夏侯惇、于禁、典韋ら精鋭が騎馬で控え、中軍には曹操自身が跨がる白馬が嘶いていた。典韋はいつものように曹操の三歩後ろに位置し、両手に鉄戟を携えている。曹昂と曹安民は若い武者として、今回が初陣となる。
城門の上では、高順が曹操の出陣を見守っていた。傍らには呉資と張五が控えている。高順の視線の先には、曹操に同行する三千の陥陣営の姿があった。彼らはすでに張繍との戦いが起こることを想定し、戦場での退路確保と、緊急時の対応を叩き込まれている。指揮を任されたのは公孫鍛である。彼は工匠でありながら、この任務のために自ら志願した。
曹操が馬を城門に向け、高順を見上げた。
「孝父よ。見送り、感謝する。驃騎将軍が城門で手を振っているとあれば、兵たちも心強いだろう」
「無事で戻れ。戻ったら、また茶を飲もう。今度は俺が茶を点てる番だ。并州の茶は、中原のとは一味違うぞ」
「それは楽しみだ。楽しみついでに言っておくが、留守の間、天子を頼むぞ。伏完や董承が何かちょっかいを出してきても、相手にするな」
「心得ている。俺は天子の盾だ。それ以上のことはしない」
「それでいい」
曹操は手綱を引き、馬の首を軍勢の先頭に向けた。五万の兵が一斉に行軍を開始する。黒鉄の甲冑が陽光を反射し、冬の平原を黒い川のように流れていく。
高順は城門の上から、その光景をじっと見つめていた。彼は知っている。これから宛城で何が起こるかを。張繍の反乱、典韋の壮絶な戦い、曹昂と曹安民の死、曹操の敗走。しかし、史実通りにはならない。高順はすでに、その運命を変えるための布石を打っている。三千の陥陣営が、典韋と曹昂と曹安民を救い出す。そして張繍と賈詡は、并州へと迎え入れられる。
「大将、曹操の背中が見えなくなりました」
張五が静かに言った。
「ああ。これで許昌は、しばらく俺一人だ。天子を守りつつ、伏完や董承の動きも見張れ。くれぐれも軽挙はするなよ」
「承知しております。して、大将はこれからどちらへ」
「まずは皇居に参内する。天子に、丞相が出陣したことを報告せねばならん。その後は仮館に戻って、并州からの報告書に目を通す。董昭がうまくやっているか、確認せねばな」
高順は城門を降り、驍風に跨がった。許昌の街は、今日も活気に満ちている。曹操が出陣したというのに、市場には商人たちの声が溢れ、道行く民の顔には笑みがあった。この街には、曹操が築いた秩序が確かに息づいている。その秩序を守ることもまた、高順の役割の一つだった。
彼は手綱を引き、皇居への道を進んだ。傍らには張五が従い、後方では呉資が陥陣営の兵たちに警戒を呼びかけている。張五が選んだ三千はすでに宛城への途上にある。彼らは戦場で、歴史の流れを変える役割を担うことになる。
高順は今、天下の真ん中で、静かに時を待っていた。




